23. 望みの叶うとき
無数の光が深海の姫に寄り添い、導くように透明な水の中を舞った。暗い海の底よりも、もっと深い場所のはずなのに、洞窟の中は光で溢れていた。
深海の姫は彼らの導くまま、来たのとは別の通路を通った。つるりとした黒い岩壁は、光に照らされると細かい雲母がきらきらと輝いた。地の底へ来るときには、無限の中を通り抜けてきたように感じられたのに、光の奔流に押し流されるように、上へ上へと向かう速度はどんどん上がり、瞬く間に海へと飛び出した。深海の姫も、深い海で静かに暮らす生き物たちも、これほど明るい海溝の底を見たことはなかった。
死んだ人間の魂たちは海面まで浮かび上がって消えていくのかと思われたが、そうではなかった。そのまま深海の姫を後押しするように付き従い、深海の姫一人で進むには想像もできないような速度で、珊瑚礁の海へとたどり着いた。
深海の姫が地底へ向かってから、どれほどの時が経っていたのだろう。少なくとも季節は巡っていた。王が夏の玉座から、遥かにこちらを見渡して、輝く魂たちの群れを、彼らに囲まれた深海の姫を見つめているのが、彼女にはわかった。
心の準備をする時間は、ほとんどなかった。光が彼女を急き立てるように流れたからである。とはいえ、全く不快ではなかった。細かく砕け、何もかも忘れた彼らは、今や生命になる前の衝動、喜びと祝福そのものだったから。
海の宮廷は、かつて死んだ人間の魂たちであった、輝かしい光の群れを、驚きと敬意をもって迎えた。海の王の御前は光で満たされ、聳えるような王の姿を照らしていた。
群れの中心から深海の姫が進み出て、王の御前へ現れると、王は微笑んでこう言った。
―お前の望みは、見つかったかい。
深海の姫は頷き、父を見上げた。
―彼と生きる永遠を、そのための彼の器を、私にください。
―良いだろう。
海の王は頷き返すと、数多の手のうちの二つで光を掬い上げ、口元へと掲げると、ふう、と海の命を吹き込んだ。
―真新しい光に、海の永遠の命を与えよう。
王は手の中の光を、深海の姫の前に差し出した。
―おいで。一度ならず二度までも、海の王との約束を反故にできるのだから、覚悟はできているのだろう。
王は笑った。
少しだけ間があったが、深海の姫のうちから淡い光が流れ出し、王の手の中の光へと吸い込まれていった。王が幾つもの手で光を包み、転がすようにしてから開くと、それは淡く光る大きな卵へと変わっていた。
柔らかな白い皮膜をもつそれは、皆が見守る目の前で大きく成長し、まもなく蠢きはじめ、とうとう指先が皮膜を破った。
深海の姫はその場から動けずに、彼がその中から生まれ出ようとするのを見守った。彼の大きな手が、破った皮膜の端を掴み、引き裂くように抜け出して、白い砂の上に降り立った。
濃い色の髪も、日に焼けた肌の色も、襟元を大きく開け、袖を捲った白いシャツと紺のトラウザーズ、無防備な裸足まで、深海の姫が難破船で見つけた時のままだった。柔らかな茶色の眼が、今は金色の輝きを纏って、姫を見つめていた。
深海の姫が震える手を伸ばして、彼の頬に触れると、彼はようやく、ほっとしたように微笑んだ。
―あなたは、あなたのままなの?
―うん、僕は僕のままだ。
彼は王の御前であることも忘れたように、深海の姫の体を抱きしめた。海の宮廷の貴婦人たちが歓声を上げ、光たちが祝福するように海中を踊り回った。
―君は君のままであるべきだ、深海の、海より深い世界の底の王よ。君は生と死の狭間で、有と無、人と海、相対するものを繋ぐ王に相応しい。
王の言葉に、彼は彼女を抱きしめた腕を解くと、彼女の手をとり、もう片方の手を胸に当て、王の前に跪いた。
―ありがとうございます。偉大なる海の王よ。
彼はひとつだけ訂正を、と言って微笑み、顔を上げた。
―訂正。何の訂正だい。
王が首を傾げ、聞き返した。
―私に覚悟はありません。覚悟など要らないのです。海に間違いはない、と聞きましたから。
王は驚いたようだった。長い、翠の睫毛がぱちぱちと瞬きをして、刻々と色を変える海そのものを映した王の目が、満足そうに細められた。
―気に入ったよ。
その時、宮廷の後方で群れになっていた貴婦人たちが、ざわめいた。王はそちらへ目をやって、驚きに目を輝かせた。
―今日は珍しい、嬉しい来客の多い日のようだ。
貴婦人たちの群れが二つに割れて、そこから蛸の姫が、王の御前へと現れた。
―戻ってきてくれたんだね。お前は何も受け取らずに出て行ったから、気に掛かっていた。
蛸の姫は王の御前で身を屈めて一礼すると、顔を上げたが、口を開くことができずにいた。
王は慈愛に満ちた眼差しで蛸の姫を見下ろしていたが、ふと玉座を立ち、蛸の姫の前へと降りた。玉座にあるときには聳え立つような姿だったが、今は蛸の姫よりは大きく、シャチの王子よりは少し小さいほどだろう、虹色の艶のある無数の脚が白い砂を巻き上げ、滑るように蛸の姫の前へと降り立った。
―私の持つ魔法の全てを既に持っているお前は、私に何を望む?
蛸の姫は、目の前の、海の王を見上げた。その金の眼には畏れがある。王は、蛸の姫の言葉を待った。
―あなたの全てを。私はもう、あなたをお父様とはお呼びしたくないのです。
海の王の眼が、驚きに見開かれた。王の唇から、それは、という言葉が、王には似つかわしくないほど、思わず、といった調子でこぼれ落ちた。小さな波が幾つも王の周りで宮廷の水を揺らし、小さな渦を作った。今度は蛸の姫が、王の動揺が落ち着くのを待つ番だった。
―それは、
王はもう一度呟くと、無数の腕を動かして、それぞれに嵌めた腕輪を眺め、時間をかけて、細かな細工で陸の植物が象られた金の腕輪を選び出した。王の指先がそれを自らの腕から外して、くるくると弄ぶうちに、金の輪は面白いように大きさを変えた。
―美しいお前の美しい額に、この金の輪を贈らせてくれるということだろうか。
王の声は、不安げに響いた。
―もし、お前がそうだと言ってくれるなら、この金の輪と、人間たちの心臓を流れる血よりも赤い紅珊瑚に、お前の髪を飾らせよう。
蛸の姫が頷くと、海の王は彼女の足元へ跪き、ああ、と声を詰まらせた。
―かつての、我が最愛の娘。お前が、私の愛を受けてくれるというのかい。
蛸の姫が頷いて手を差し伸べ、王がその手を取ると、蛸の姫は王の手を引いて、立ち上がらせた。
―幼い身には怖かったのです。あなたへ向ける自分自身の想いの強さが。可愛い妹を、破滅へ導くほどの嫉妬が。
蛸の姫はそう言って、王を見つめた。その目には怯えがあった。王の拒絶を、彼女は何よりも恐れていた。
その時、深海の姫の手を引き、二人の前へ彼が進み出た。
―お話を遮る無礼を、お許し下さい。お二人の前で、僕の最初の仕事を、させていただきたいのです。
彼はそう言って、二人の前へ跪いた。王が頷くのを見ると、彼は立ち上がり、深海の姫の細い首に掛けられた細い金の鎖の先の、小さな鳥籠に触れた。
―見て。
彼の指差した小さな金の鳥籠の中で、宝玉が輝いていた。深海の姫は鳥籠を手のひらに乗せて目の前へ掲げ、微笑んだ。
―歌っている。
―望みが叶おうとしているのを、喜んでいるんだ。
―望み?
蛸の姫が聞くと、彼は頷いた。
―彼女の、今の一番の望みは、王の幸せです。
そして彼は、王を見上げた。
―彼女のために、王が首に掛けていらっしゃる、水面を海の中から見上げたような石の首飾りを、貸していただけませんか。
王はどの首飾りのことであるのかをすぐに察して、金の鎖の金具を外し、彼に手渡した。
王の眼差しが傷付いたような光を帯びたのを、彼は見逃さなかった。海の王は涙を流せない。それは人間だった彼の目には、とても痛ましいことのように映った。
―お借りしますね。
彼は青い石へ、囁くように歌いかけた。彼は言葉を歌わなかった。死んだ人間の魂たちは、相応しい言葉を、それぞれに抱いているものだから。
彼の歌に応えて、青い石が淡い光を帯びた。彼の指先は難なく蛸の姫の掛けた魔法を解いて、深海の姫の手のひらの上の、小さな金の鳥籠を開けた。
虹色を帯びた光が、鳥籠からふわりと自由になった。青い石が強く放った光が石から解放されて、それに続く。
―僕が授かった、特別な魔法を。僕に見えるものを、深海の姫に聞こえるものを、皆が見聞きできるように。
彼の歌が宮廷の水を震わせると、飛び交う人間の魂たちの光で明るい海が、さらに明るくなり、最早、水の中ではなく光の中にいるようだった。
二つの光が、うっすらと透けながら像を結んだ。
深海の姫の会ったことのない、人に恋した姉は、王も兄姉たちも見たことのない、美しく成長した人人間の女の姿で、豊かな長い黒髪を翻す、鮮やかな赤を纏った人間の男と手を取り合い、海の王へ、宮廷の皆へ手を振った。
かつて人だった世界の底の王の歌に、人に恋した海の姫と、彼女の恋人の歌が加わった。旋律は伸びやかに上昇し、螺旋を描いて下降し、遊ぶように絡み合った。恋人たちは歌いながら、人間の魂だった光たちと共に、大きな円を描いて宮廷の上を泳いだ。歌は喜びそのものとなり、光そのものとなり、やがて皆の目が眩むほどの輝きとなった。
皆がはっとした時には、何もかもが消えていた。眩い光も、輝かしい歌も、恋人たちの姿も。
―行ってしまったの?
蛸の姫が聞いた。海の王が頷き、微笑んだ。
―ありがとう。あの子にさよならを言えた。
海の王は、世界の底の王へそう言った。世界の底の王は首を横に振った。
―姫君の望んだことです。彼女は間違いばかりたくさん犯したけれど、間違いだけではなかったのだと、後に残した方々へ、彼女の死を後悔させてしまった方々へ、伝えたかったのです。
そう言って、彼は蛸の姫の方へ向き直った。
―あの姫君は、破滅へ向かったのではないのです。どうしようもなく落ちた恋は間違いだったけれど、その先で、間違いがなければ見つけられなかった、愛に出会ったから。成就しなかったその愛は、二人を次の命へと導くでしょう。
それから、世界の底の王は微笑んだ。
―海に間違いはない、のですから。
こうして、海の王は妃を迎え、深海の姫と世界の底の王は、深い海の底とそれより深い地の底、静かな暗い海に暮らす変わりものの生き物たちと、死んだ人間の魂たちを、統べることになった。
船乗りたちは夕暮れに、朝焼けに、凪いで澄んだ海の中に、共に並び立つ偉大な海の王と妃の姿を、目にすることがあるかもしれない。凍てつく海に強大なるシャチの王とその腹心たる王子を、星空のような海面を泳ぐ双子の海月の姫を、銀色の波のような鰯の群れに大漁を約束する王子と小舟を操る盲目の漁師の王の姿を、人懐こいイルカの群れを率いる真っ白な王と輝くような姫の姿を、目にするかもしれない。
或いは、海で死んだ者、そうでない者も、水に導かれて海の底へ辿り着き、深海の姫と世界の底の王の傍らで、暫しの休息を得ることになるかもしれない。深海の姫の語る誰かの物語に耳を傾け、深海の姫があなたの物語を紡ぐかもしれない。
そしていつかは、世界の底の王の旋律に、魂を委ねて還るのだ。
無へ、何にでもなれる無へと。




