22. やっと見つけた
死んだ人間の魂たちは、深海の姫の語る物語を聞くたび、あるいは深海の姫に自らについて語るたび、その数を減らしていくのだと思っていたけれど、姫にその増減を知ることはできなかった。
深海の姫はこうして語ること、聞くことで彼らを次の命へ巡らせるのが使命だと思っているのに、その使命が果たせているのかどうかは、わからないのだった。
それでも彼の声が、人間の魂たちの声に耳を傾け、彼らのために物語を語る深海の姫に、そっと寄り添うようにいてくれた。あるいは、語り淀む人間の魂たちの声を、励ますようにも響いた。その声を、ただ深海の姫は信じてついて行った。彼はきっと、姫が彼の声を聞いていることを知っている。だから、姫は不安を感じなかった。いつものように、大丈夫、と深海の姫に聞こえない声でたびたび言ったあの言葉を、彼は今も言ってくれているようにさえ、感じていた。
彼の声が随分近くなったように感じられた時、トンネルの壁面が終わりを迎えた。壁に触れるはずだった深海の姫の手のひらは、水にしか触れなかった。慌てて引いた手がトンネルの終わりの縁を掴み、出口の存在を知った。
深海の姫は望み薄ながら、光を求めて手を上げた。
船を飲み込む暗闇のいた場所にはプランクトンたちがいたが、ここにはどんな生物もいない、静かな水であることはわかっていた。それでも、海の王に授けられた魔法に、誰かが応えてくれることを祈った。
その時、光が弾けて深海の姫の目を眩ませた。目の前に開けた広い洞窟を満たす水全てが光に満たされて、艶のある洞窟の壁が虹色に輝いていた。光を放っているのは、無数の死んだ人間の魂たちだった。耳に届く彼らの声が、静かにざわつくのを感じた。誰もが深海の姫に聞いて欲しがっているように感じられた。しかしそれも波のように引いて、彼の声だけが、変わらずに響いていた。
深海の姫は、広い洞窟の中へ降りた。こんな空間が海の底よりもっと深い場所にあるなんて、誰も思いはしないだろう。ドーム状の洞窟の底面は平らで、白く光を反射する、細かな砂地だった。輝く魂たちのいくらかは降りてきた深海の姫に寄り添い、あるものは姫の姿から逃れるように遠ざかった。
彼の声はいよいよ近くなり、深海の姫は目を閉じて、彼の歌声を探した。ドーム状の天井に響く歌声は、どこから聞こえるのかがわかりにくく、どの光もその発生源であるように感じられたからだ。
時間をかけて、ようやくその声のすぐ傍に辿り着くと、深海の姫は目を開けた。白い砂の上には、丸い水晶が無数に落ちている。姫は目の前の強い光の中へ、震える両手を差し伸べた。
最初に触れたのが何だったかはわからない。姫の手が、彼に形を与えるようだった。
捕まえた大きな手が、深海の姫を光の中へと引き寄せる。抱きしめた体は大きく、深海の姫の細い体を包んだ。柔らかな唇が触れては離れ、姫の頬の上を、小さな水晶がこぼれ落ちていった。強い光が内側へ引き込まれてゆくように弱まると、ようやく姫にも彼の姿が見えた。彼は笑いながら、水晶を零して泣き続けていた。
その歌は、もう旋律にはならず、押し殺した嗚咽とも笑い声ともつかぬまま、続いていた。
深海の姫は彼の広い背中を撫でて、彼が落ち着くのを待った。
―やっと見つけた。
深海の姫は、呟いた。
彼がすっかり落ち着くには、時間がかかった。やがて彼の嗚咽が止まると、他の人間の魂たちも静かになった。ほんの少しだけ、完全な静寂が降りてきた。
それを破ったのは、深海の姫だった。
―私と、永遠を生きて。
深海の姫は、彼の声が欲しいと願った。姫の望みを彼に押し付けることになるのではないかと恐れたからだったが、それは彼女が、望むことを恐れたからでもあった。
父は、お前の本当の望みはなんだ、と言った。それは、彼の望みを知ることではいけなかったのだ。その向こうにある、深海の姫自身の、望みでなければ。
あの時すでに、それが答えだと知っていた。けれど、あの場では言えなかった。父を恐れたのでも、彼に拒絶されるのが怖かったのでもない。何かが変わるのを望みながら、何かを変えるのを恐れたからだった。
彼は顔を上げて、小さな水晶を零しながら笑い、頷いた。そして、とうとう口を開いた。
『聞いて』
彼は深海の姫を真っ直ぐに見つめた。他の魂たちの明るい光が、彼の柔らかな茶色の眼を輝かせていた。
『僕は、人間として生きた僕を、終わらせなければいけない』
彼は士官学校を出たばかりの、海軍士官候補生だった。大した家柄ではないが、祖父も父も、海軍の船乗りだった。家計に余裕があるわけではなかったが、両親は当然のように彼を寄宿学校へ入れ、士官学校へ進学させた。
それは彼にとって、軍人としての初めての航海だった。期待したような敵艦との遭遇もなく、嵐にも海賊にも遭わなかった。船長は老獪で賢明な男で、航海士の腕も良い、士官候補生が乗るにはうってつけの船だった。
後に聞かされたところでは、彼らの船は囮だったという。知っていたのは船長以下数名だけだったのだろう。
荒天の深夜、突如として後方に敵艦が姿を現した。叩き起こされた士官候補生たちは慌てふためいたが、船長は落ち着き払って回避を指示した。ここまでは作戦通りだったのだ。視界が悪ければ、後方の敵艦も、前方で待機している味方の艦に気付かない可能性が高くなる。
作戦外だったのは、敵艦が予測の数倍速かったことだ。全力前進で待ち伏せする味方艦のいる島陰まで逃げ切れるはずが、あれよあれよといううちに大砲の射程距離に入った。天候が彼らを裏切り、風向きまでもが不利だった。
船長は彼を呼んで上着を替えさせ、万が一、捕虜になった場合には名前しか知らない貴族の子弟の名を名乗るよう告げた。重い勲章のついた上着は、随分上の階級のものだった。この上着を着た彼が甲板にいるのを見れば、敵艦は撃沈ではなく拿捕を狙うだろう。致命傷になる砲撃さえさせなければ、味方艦が気付く場所までたどり着けるという算段だった。
運は彼らに味方しなかった。味方艦が規定の場所に、待機していなかったのである。
瞬く間に敵艦が横付けされ、甲板上で乱戦になった。逃げ切ることを前提として士官候補生の多く乗り組んでいる船で、水夫たちも実戦経験が浅いか、手練れであっても老齢の者が多かった。船長と航海士は死亡し、士官候補生もほとんどが命を落としたが、彼は上着のお陰で命拾いをすることになった。
本来なら、この上着のお陰で、皆が死なずに済むはずだったのだ。
敵艦の艦長室のクローゼットには急拵えのベッドが据えられており、捕虜となった彼はその部屋に入れられ、鎖で柱に繋がれた。待遇は悪くなかったが、本当に彼を名士の子弟だと思っているのかは、怪しかった。
思えば、海は彼を呑み込む時を、今か今かと、舌なめずりして待っていたのかもしれない。
その夜、彼を捕らえた敵艦は、急な嵐に襲われた。
星空の広がる美しい夜で、直前に風という風が止み、海の様子がおかしいと艦長へ報告が来たところで、クローゼットの中の彼も、目を覚ました。
その直後、嵐が始まった。
波はどうにか船を引き倒してやろうと暴れ回り、大粒の雨が視界を奪った。マストを外したところで、海風が目的を果たすには、大した妨げにはならなかった。暴風は大きな船体を的にして、やがて、海底から聳える岩山に、思い切り横腹をぶつけさせるのに成功した。
捕虜のことなど皆忘れていたのか、助けるほどの価値がないと見抜かれていたのか、それともここで殺しておくことにされたのか、あるいは皆なすすべなく沈んだのか、彼にはわからなかった。だから、そこで死ぬしかなかった。
子供の頃、彼は聖歌隊にいたことがあった。信心深くもなく、礼拝の間に静かにしているのも苦手だったが、歌だけは得意だった。やがて寄宿学校に入り、聖歌からは遠ざかったが、海軍の士官学校では、船乗りの歌をたくさん覚えた。
この初めての航海の愉快だったのは、歌が絶えなかったことだった。水夫長は歌の好きな男で、ロープを引かせるにも独特の節回しで歌いながらタイミングをはからせた。夜になれば楽器を持ち出す者があり、見張り台での不寝番の時には、士官候補生たちは眠気覚ましと称して小声で下品な歌を歌っては笑いだし、終いに起き出した艦長に叱られる始末だった。
溺れ死ぬ瞬間に彼が思いだしていたのは、そういう、些細なことだった。
彼は死んだが、鎖が彼を、海に繋ぎ留めていた。心残りがあるわけでもないのに、肉体と離れた彼はそこに在り続けた。もう、特に何も、考えてはいなかった。彼は人生を、野望もなく、不満もなく、ただ幸せに、過ごしただけだった。だから、死んだ後にも、恨むことも悲しむことも、何度も思い返し考え直すことも、なかったのだ。
深海の姫が、彼を見つけたその時まで。
『僕は大した人間じゃない』
彼は苦笑して言った。
『君が今までに聴いてきた、魂たちの語る物語の中じゃ、全然ぱっとしないだろう。それでも、これが僕という人間の物語だ』
聞いてくれてありがとう、と彼は言った。
『ああ、でも聞いて欲しかったんだ。僕なんて、海の王の娘である君には釣り合わない、取るに足りない存在なんだって』
―そんなこと、
深海の姫の声を、彼の手のひらが遮った。
『だから、僕を君の運命に巻き込むことを、怖れる必要なんてないんだ』
彼は輪郭を、形を失い始めた。
―待って、行かないで。
『大丈夫』
光が、深海の姫を包んだ。
『僕の身体は、もう、とうに朽ちて消えたから、始めからなかったんだ。でも、君が望んでくれるから、僕は行かない』
光は、深海の姫の中へ染み込むように消えてゆく。
『望んで。君の願いは叶うから』




