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21. 鰯の王子と漁師の王の物語

 鰯の王子は、海の王の四番目の子だった。


 シャチの王子は既に今と同じようにほとんど宮廷へは戻らず、海の王の目として年中遠い海を監視していた。海月の姫は独り立ちしたばかりで、意地悪な海流に遠くまで流されなければ大抵は宮廷の近海にいたから、たびたび宮廷にやってきては、すぐ下の弟である鰯の王子と遊んだり、色んなことを教えてくれた。


 生まれたばかりの鰯の王子といちばん長い時間を共に過ごしたのは、宮廷の貴婦人たちだった。


 鰯の王子は王の子の中でも大人しく素直だったからか、宮廷の貴婦人たちは皆王子を気に入った。彼女たちはこぞって王子を連れ出したがり、皆で群れをなして宮廷の近海で歌い踊り、遊んだものだった。貴婦人たちの群れの、美しかったこと!鰯の王子は今でも時折、優しかった彼女たちの美しい裳裾と鰭が、碧の明るい海を輝かせていたのを思い出すくらいだ。だから、海の王とほとんど関わることがなくても、寂しいと思うことはなかった。


 海の王はもう随分長い間、二番目の子である蛸の姫に夢中だった。海月の姫が生まれ、独り立ちして、鰯の王子が生まれても、蛸の姫はずっと愛らしい幼体のまま、王の豊かな髪の中で眠り、王の耳元で歌い、王の肩に腰掛けて海の魔法を、海のすべてを教わり、なぜなぜどうして、を繰り返していた。その日々が、王との問答が、永遠に続くことを疑わないようだった。


 鰯の王子は永遠というものがないことに気が付いていた。


 貴婦人たちは夏の終わりから徐々にその数を減らし、ふと気づいた時には、誰もいなくなっていた。そして海底で蟹や他の小魚に食われている色の褪せた小さな魚の死骸が、ひと夏一緒に遊んでくれた貴婦人のひとりであったことに気付いたとき、鰯の王子は大人になることを選んだのだった。


 宮廷を離れるとき、王が鰯の王子に授けた魔法こそが、海で最も弱いものをも救うことができる、魔法に守られた海だった。鰯の王子は捕食者たちに食い散らかされてバラバラになった群れを集めてまとめ、必要があれば自分の海に連れていって、彼らが元気を取り戻せば元の海域へと返すのだ。王子は小魚の群れが散らされ捕食されることに心を痛めてはいたが、同時に小魚たちが多くの海の命を養っていることを誇りにも思っていた。


 小さな魚たちの群れを見守っていると、頻繁に遭遇するのが人間たちの漁船だった。


 鰯の王子には不思議で仕方なかった。海に落ちれば瞬く間に命を失ってしまう、鰓も鰭もないかよわい生き物なのに、吹けば飛ぶようなささやかな船で果敢に海へ挑むのだから。それほど陸には食べ物が乏しいのだろうか。だから命の溢れる海を頼ってくるのかもしれない。


 鰯の王子には海に沈んだ人間たちの亡骸が、あの夏の終わりに見た貴婦人の成れの果てと重なって見えた。だから、魚たちの群れを狙ってやって来る捕食者であるはずの漁船を、魚たちと同じように見守り、時にはその網に魚たちを入れてやりさえしたけれど、なんとなく兄姉たちにも、もちろん父にも、そのことを話せはしなかった。


 海月の姫は時折鰯の王子の海へ遊びにやってきたが、傷ついた小魚たちを見つめる王子の眼差しに驚き、心配してこう言った。


―海とはそういうもの。食べて食べられて続いていくもの。あなたはそう知っているはずなのに、どうしてそんなに痛そうなの。


 今度は鰯の王子が驚く方だった。


―知っていても、食べられる方の痛みはなくならないよ。


 そうね、そうかもしれない、と海月の姫は言った。


―姉様はどうして平気なの。


 鰯の王子が尋ねると、どうして、とおうむ返しに呟いてから海月の姫は考えこみ、それからこう言った。


―海月は痛くないのよ。


―でも、どんなに必要なことでも、食べられた方は終わりなんだよ。


 海月の姫は、華奢な弟を抱きしめて、歌うようにこう言った。


―そうね、食べられてしまうのは可哀そうだわ。でも、食べられなかったら食べる方は飢えてしまうの。それも可哀そうよ。だから私は、海を祝福する。


 海月の姫が王に授かった魔法は、海への祝福だった。


―海の王の代わりに、食べたものの喜びを讃えて、食べられたものへ感謝をするの。海は喜びに満たされて、より豊かになるわ。恨みや悲しみや後悔は、海を冷たくよそよそしくするものよ。


 鰯の王子は頷いた。海月の姫の言う通りだと思っているけれど、それと食べられてしまうを可哀そうだと思うことは別なのだった。


 それにね、と海月の姫は鰯の王子の柔らかな銀の髪を撫でながら言って、少しだけ躊躇った。


―あなたになら、わかってもらえるかもしれない。今はわからなくても、いつかは。


 鰯の王子が聞かせて、と促すと、ようやく海月の姫は再び口を開いた。


―私たちは海の王の子と呼ばれるけれど、子供というよりは、分身のようなもの、という話はしたことがあるでしょう。


 鰯の王子は頷いた。大人になる前のことだ。海月の姫は幼かった頃に、シャチの王子から聞いたという。


―私はね、同じように、食べるものも食べられるものも、お父様の分身なのだと思うの。海に生きているもの全て、プランクトンも海月も珊瑚もウミウシも桜貝も、お魚たちも鯨もシャチも。それから海の水も、意地悪な海流も、冷たい北の海も、底知れない海溝も、みんなお父様なのだと思う。


 鰯の王子の大きな蒼い丸い目は、驚きに見開かれていた。海月の姫は、鰯の王子が考え込んだのに気付いて、彼がその壮大な考えをすっかり飲み込んで、おなかの底で理解するまでじっと待った。


 僕はあまりお父様とお話したこともないし、と鰯の王子は苦笑して前置きした。


―直接お話して聞いたわけではないけれど、お父様は食べられるもの、命を落としてしまうものの代わりに、悲しんでいらっしゃるような気がした。だから、僕は小さな魚たちを守ることにしたんだけれど。


 代わり、じゃなかったんだ。鰯の王子は頷くと、海月の姫の手を引いて、守られた海の岩場に腰かけ、二人でぼんやり飽きもせずに海面の方を眺めた。柔らかな太陽の光を浴びて、小さな魚たちの白い腹が逆光で暗くなり白く光り、彼らの群れ自身が波のようだった。魚たちの群れを目で追う鰯の王子の横顔を見つめていた海月の姫は、ふ、と小さく笑った。


―どうして笑うの。


―そうしていると、お父様に似ているわ。やっぱり、悲しいあなたも、悲しくない私も、お父様の一部なのね。


 鰯の王子はそれを嬉しく思った。父のことをよく知らなくても、自分自身が父の分身なら、それを憂う必要はどこにもないのだから。


 ある日小魚の群れを探していた鰯の王子の上で、漁船が難破した。


 荒れた海で漁などできるはずもないのに人間たちは少しでも波が凪いだとみるや船を出すので、毎年波の荒い季節には少なくない船が沈んだ。粗末な船だった残骸や漁具が海の底へ向かって降ってくるのは、鰯の王子にとって珍しい光景ではなかった。


 王子はやがてその中に、若い漁師の姿を見つけた。それまで溺れ死ぬ人間を見かけても、シャチに食われる鰯の群れが可哀そうだと思うのと同じで、何かしてやろうと思ったことなどなかったのに、きっと人間たちも生きるために必死で、漁に出なければ飢えてしまうに違いないと思うと急に哀れになって、沈んできた漁師の体を捕まえると、初めて人間を自分の海へと連れ帰った。


 鰯の王子の海の小さな島で目を覚ました漁師は、はじめのうち鰯の王子を警戒したが、王子の手渡す食べ物で命を繋ぐうち、王子の海の言葉は通じないながらもやがて怯えなくなり、命の恩人を敬う態度に親しさがにじむようになった。


 やがて男は島の木々で小さな船を造った。鰯の王子には、引き止めるつもりなどなかった。だから、船に乗った男を連れて自分の海を出て、男を見つけた海域に導いた。男は島のつる草の繊維で編んだ網を投げ、鰯の王子は餞別のつもりで、魚たちの群れを入れてやった。網を上げた時に初めて聞いた男の明るい笑い声は、今でも王子の耳に残っているほどだ。そうして、男は去っていった。


 鰯の王子はその若い男の粗末な漁船を見かけると、海面まで様子を見に行った。偶然だったけれど偶然ではなかった。鰯の王子は鰯たちを気にかけるように、その漁師のことを気にかけていた。だから、王子を見つけて漁師が嬉しそうに手を振ってくれると、王子も嬉しくなって手を振り返し、そのたびに網の中にささやかな贈り物をした。


 そうして会った幾度目かに、若い漁師は手を振る王子へ光る何かを投げて寄越した。それは金色の美しい腕輪で、王子がいつも漁師の網へ贈る魚たちへの返礼なのだった。鰯の王子は彼から受け取った宝飾品を全て海の王へ贈った。海への贈り物は全て、王への贈り物だからだ。


 けれどある時、漁師の船の傍へ顔を出した王子は、漁師の様子がいつもと違うことに気が付いた。


 彼が船べりに足を掛け、網ではなく自身の体を海へ投げ出すと、王子は考えるより先に彼の体を捕まえて、自分の海へと連れ帰った。


 鰯の王子は、以前ほんのしばらく漁師を匿った小さな島へと彼を連れてきたけれど、自分の行動に王子自身が戸惑っていた。小さな島の白い砂浜に横たえた漁師の体は、嵐で船から投げ出されたあの時のようにぐったりしていて、死んでしまったのだろうかと不安になった。


 漁師は死んでいなかった。けれど澄んだ青い目は鰯の王子の姿を反射するばかりで、王子の姿を見てはいない。漁師が探るように伸ばした手を、鰯の王子は取ることができなかった。


―海の王様。


 漁師の唇から海の言葉が零れたとき、鰯の王子は耳を疑った。ゆっくりと起き上がった漁師の手はまだ宙を彷徨って、王子を探している。


―僕は海の王じゃないよ。王の四番目の子。


 鰯の王子はそう答え、自分を手探りで求める漁師の手を握った。漁師は王子の手を両手で押し戴くように額の前へ掲げて頭を垂れた。


―偉大なる海の子よ。


―どうして海の言葉を。


―村の祈祷師が、この目と引き換えに。私は自分の意志で、村のため、お願いに参りました。


―お願い?


 漁師は頷いた。


―あなたはこの命を救ってくださったばかりか、いつもたくさんの魚を授けて下さった。荒れる海で皆思うように成果を上げられぬ中、私だけはいつも大漁で帰ったのです。


 間近で漁師の目が柔らかく微笑み、日に焼け潮風に晒された目元にくしゃりと皺ができる。海の生き物にはない動きなのに愛おしく感じたのは、鰯の王子にとって彼が守るべき小さな命のひとつだから、だったのだろうか。


―私は何もない男です。老いた母を一昨年亡くして身寄りもありませんから、あなたのくれた魚を売った金は村の皆で分けました。おかげで丸一年、誰も飢えたり凍えたりさせずにすんだのです。だからお礼に装身具を贈ったけれど、あなたはお気に召さなかったのでしょう。


―王に贈ったんだ。海への贈り物は全て王への贈り物だから。


 ごめん、気に入らなかったんじゃないんだよ、と王子が言うと、漁師はほっとした顔をしたあと、申し訳なさそうに顔を顰めた。


―そうですか。では、この提案の方がお気に召さないかもしれません。


―提案?


 漁師は顔を上げて、見えないはずの目で鰯の王子を見つめた。焦点の合わない、遠くを見るような眼差しは間違いなく、王子の目を見ていた。


―この身を、この命を代償に、村の皆が飢えぬようあなたの祝福をいただきたいのです。


―代償なんて、


 鰯の王子は言いかけて、口を噤んだ。男は既に、目を犠牲にしたのだ。王子と言葉を交わすためだけに。


―けれど、代償なしに漁の守護と祝福をいただくことはできないでしょう。


―そんなことない。海は代償を求めないよ。海と海の王へ、感謝と畏敬を忘れないでさえいてくれたら。


―では、この身を感謝と畏敬の証として。


 お許しください、と目を伏せて漁師は続けた。


―この身のほか、捧げられるものなど何もないのです。


 鰯の王子は言葉を失って、ぎゅっと漁師の手を握った。漁師は王子の言葉を待った。波が寄せ、波が引いて白い砂を洗う音、潮風が島の木々やカモメたちと歌いながら波と遊ぶ音だけが、二人の沈黙を埋めた。


―ごめん。僕はただ、君の姿を見るのが嬉しかったんだ。本当は海の恵みを受け取るのに対価なんて要らないのに、僕は君の目も、君の言葉も返してあげられない。


 漁師が小さく笑ったので、鰯の王子は目を上げた。


―私もあなたに会いたくて、毎日船を出していたのです。本当は、網にひとつも魚がかからなくても構わなかった。美しいあなたを波間に一目見られれば、それで十分だったはずでした。


 鰯の王子は俯いたままの漁師を見つめた。


―けれど私は自分で思っているよりずっと、強欲な人間でした。私一人が大漁で帰る日々を送るうち、村人たちの視線は感謝から妬みへと変わっていきました。表向きの態度は変わりませんでしたが、なぜ私だけがと漁師は皆思っているのを感じて、村にいても肩身狭い思いをすることもありました。だから村長が祈祷師を連れて、村のために海の王と交渉し、この身を捧げてくるようにと言った時には、渡りに船だとすら思ったのです。


 漁師が微笑むのを、鰯の王子は途方に暮れた気持ちで見つめた。その身を捧げられても自分は海の王ではないし、そもそも海の王は人間に必要以上の恩恵を与えるようなことをしないだろう。人間は陸の生き物で、王は陸の生き物に興味がないからだ。


―命の恩人、心優しい海の神よ。あなたの美しい蒼い瞳、銀の髪、輝かしい鱗の一つ一つまでもが私の瞼裏には焼き付いているのだから、二度とあなたの姿を見ることが叶わなくても、たった一度きりでもあなたと言葉を交わし、あなたにこの命を捧げるならそれでいいと思ったのです。


 漁師はもう一度目を上げた。その青い目に再び自分が映るのを見た時、鰯の王子は胸のうちに押し寄せたものを理解できなかった。


―待って。


 漁師は首を傾げ、待ってくれた。


 鰯の王子は懸命に言葉を探したけれど、自分の中に湧きあがった衝動が感情であることにも気づけずに、ぐっと詰まった胸の感覚が苦しくて、溺れてしまうような気がした。今までだって海の上へ顔を出したり、引き潮に取り残されそうになった稚魚たちを助けに浅い岩場へ行ったりしていたはずなのに、息をするのさえ難しくて混乱して、空気を呼吸するやり方が急にわからなくなった。


 鰯の王子の息が浅く荒く、苦しそうになったのに気付いた漁師が、握っていた手を滑らせて王子の鰭の下へ片腕を滑り込ませた。


―失礼します。


 気付かぬ間に漁師のもう片方の腕は鰯の王子の背中を支えていて、陸ではずっしり重くて座っているだけでも精一杯の王子の身体が、ふわりと抱き上げられた。


 漁師は爪先に触れる水の感触で、ここが波打ち際だと気付いていたのだろう。見えないはずなのに、まっすぐ海の中へ急ぎ足で歩みを進めた。海の水が漁師の腰のあたりを過ぎたところで、ざぶん、と寄せた波が、引く波で海の中へと王子を誘い込む。


 あ、と思った時には、海中に投げ出されていた。鰯の王子が授かった魔法の海は暖かな遠浅だけれど、場所によっては急に切り立った崖になっていて、容易に深い海と浅い海を行き来できるようになっている。


 太陽で温められていた肌が冷やされ、全身を包む海の水が身体を軽くしてくれたことに安心した鰯の王子は、息が苦しくなるはずがないことを思い出した。


 馬鹿みたいだ。僕は海の王の子で、有限の命の生き物たちとは違う。身体は彼らを模しているけれど、本当は肺呼吸も鰓呼吸も必要なわけじゃない。


 慌てて見回すと、波に引き離された漁師の身体は、ゆっくりと沈んで行こうとしていた。鰯の王子は急いで彼の方へと泳いだ。人間の身体は簡単に浮き上がるはずなのに、どうして。


 水が動くのに気付いたのか、漁師は鰯の王子の方へと顔を向けて、閉じていた目を開いた。やはり焦点が合うことはなく王子を見たわけではないようだったが、その目が柔らかく細められた。


 嬉しそうに弧を描いた唇から、すっと通った鼻梁の先から、丸い真珠のように空気の粒がぽこぽこ音を立てながら溢れていく。人間は水の中では生きられないのに。空気がなければ生きられないのに。鰯の王子は漁師の頭を両手で捕まえ唇を重ねて、彼の肺へ思いきり海の息を吹き込んだ。


 そのとき、鰯の王子の身の内で渦巻いていた衝動が形を持った。


 たった一人で泳ぐには、この海は広すぎるから。たった一人で守るには、海の与える使命が重すぎるから。たった一人で生きるには、永遠の命は長すぎるから。たとえお別れの時が来るとしても、君の短い命を僕にくれるというのなら。


―僕と一緒に生きて。


 見開かれた漁師の目は、戸惑ったように瞬いた。王の子に海の命を分け与えられたから、海はもう、彼を溺れさせたりしない。


―君から目と言葉と、陸の生活を奪った贖いを、僕にさせて。漁の守護と祝福のため、君がその命を捧げてくれるなら。


 漁師は頷いた。それこそ、彼の一番の望みだったから。




 鰯の王子は漁師の待つ自分の魔法の海と父の海を行き来して、巡る季節を過ごした。


 漁師はあの小さな島の洞窟を居心地よく整えた。満潮でも水没せず、干潮でも洞窟の半ばまで海の水が入り込むところで、波が洗って柔らかく丸く磨いた岩でできているから、鰯の王子の白く小さな鱗に覆われた柔らかな腹を傷つけることもない。


 漁師はすぐに盲目であることにも慣れてしまった。かつてから優れていた波や風を読む力はより鋭くなり触覚や勘は磨かれて、視覚でない感覚で視るようになり、船を操るのにさえ不都合はないのだった。


 彼は鰯の王子の海から自分の食べる分だけを獲ったが、年に一度は故郷の海で網を投げ、王子の贈り物を引き揚げて村の港へ向かった。鰯の王子の贈り物の中には立派な魚たちだけでなく、珊瑚や真珠貝さえあった。村人たちは年に一度戻ってくる彼に衣類や装身具を捧げた。


 魔除けの刺繍の施された帯で目隠しをして船を操る彼を、いつからか村人たちは『漁師の王』と呼ぶようになった。


 海の王の子から海の息、海の命を分け与えられた彼は、二百年以上の時を鰯の王子と共にした。その命の尽きた漁師の王の身体は、鰯の王子の手によって、王子の海のいちばん深いところへ葬られ、海へと還された。


 いちばん初めの漁師の王は、鰯の王子へとこう言った。


―あなたを一人にしたくない。


 その言葉通り、死期の近いことを悟った漁師の王は、代替わりの前に村に現れて後継者を選び、とうに途絶えてしまった村の祈祷師の代わりに海の言葉を与えるようになった。それから何代も続く漁師の王にはいつも、心根が優しくまっすぐで漁の腕のよい、身寄りのない一人者が選ばれたが、それは男であることも女であることもあった。彼らは生贄のように海へ捧げられてやってくるが、皆偽りなく心から、鰯の王子を愛していた。




 鰯の王子がそうして漁師の王と暮らすようになって宮廷から足が遠のいていた頃、妹が生まれ、ずっと幼生のままだった蛸の姫が成人して宮廷を去り、やがて妹が死んだ。


 海の中は冷たく暗くよそよそしくなり、海の上の波は荒く嵐が吹き荒れた。


 海の異変に驚いた鰯の王子が、妹の誕生のお祝いに来てから初めて訪れた夏の宮廷は、貴婦人の姿も疎らでがらんとしていた。王は悲しみに沈んで石のように頑なで、シャチの王子の進言すら、耳に入らぬようだった。


 冷たく静まり返った夏の宮廷で、小魚たちよりもっと小さな生き物たちを守る海月の姫に会った時、妹が死んだのは人間に恋して陸へ行ったからだと聞いた鰯の王子は、兄姉の中でも一番親しく思っていたこの姉にさえ、自分の伴侶のことを打ち明けられないのだと悟った。人間のせいで愛する娘を失った父には、なおさら。


 海は王の深い悲しみに耐えねばならなかった。


 冷たい海で多くの生き物たちが命を失い、荒れた海に多くの船が沈んだ。鰯の王子は漁師の王の手を借りて、常よりも多くの小さな魚たちを自らの海に匿い、大きな生き物たちが飢えぬよう気を配った。


 やがて時の流れが王の悲しみを薄めてくれるうちに、新たな王の子、陽気なイルカの姫が生まれるまで。


 そうしてこれまで、兄姉たちに打ち明け、深海の姫に語るまで、鰯の王子は彼の秘密の海に、愛する秘密を隠してきたのだ。

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