20. 海の底より深いところへ
別れ際、鰯の王子は微笑んで、近いうちに遊びにおいでと言った。
深海の姫と、死んだ人間の魂であるはずの彼と一緒に、漁師の王にも会って欲しいと。これから深海の姫が彼を見つけて、伴侶としてずっと一緒にいるのだということを、疑いもしないように。
シャチの王子やイルカの姫の伴侶と同じように海の王の祝福を受ければ、漁師の王も永遠の命を得ることができるかもしれないが、鰯の王子はそれを望まないのだと言った。
限りある命を持つのが人間だから。死んでしまうのは悲しいし寂しいけれど、鰯の王子は今まで一緒に生きてくれた全ての漁師の王を心から愛していて、その悲しさも寂しささえ愛しているから。例えば今の漁師の王と永遠を共にすることは、これまで死んでいった漁師の王たちと過ごして別れた時間を裏切ることのような気がするから。
鰯の王子がそう言って悲しげに笑った時、深海の姫の耳元で誰かが、それは違う、と呟いた。
誰かがあなたと永遠を生きてくれるなら。あなたがもう別れの悲しみにくれずに済むのなら。
口々に深海の姫へと訴えるそれは、かつての漁師の王たちの声に違いなかった。
深海の姫がその言葉を伝えると、鰯の王子は悲しいとも嬉しいともつかぬ顔をして微笑んだ。漁師の王たちは、鰯の王子を一人置いて死んでいかねばならないことが気がかりで、全て忘れて次の命へ巡ることもしないで、海の底で鰯の王子の幸せを祈っていたのだった。
鰯の王子は深海の姫へこう言った。
君が彼を見つけてお父様に望みを伝えられたなら、僕もきっと、僕の望みをお父様に伝えるよ、と。もし、今の漁師の王が、僕と永遠を望んでくれるのなら。
深海の姫は、一番深い海の底の柔らかな堆積物の上に体を横たえて、この海で一番暗い場所に目が慣れるのを待ちながら、鰯の王子のこと、彼の語った物語のことを思った。
鰯の王子は漁師の王と永遠を望んでいるのに、それを恐れているように見えた。きっと、自分がそうだったように。鰯の王子が深海の姫の行く末を確信しているように、深海の姫も鰯の王子の幸せを信じている。それなのに自分のことになると、どうしてこんなにも難しいのだろう。
すっかり目が慣れてから体を起こして辺りを見回すと、微かに、海溝の端にあたる壁が、遠くにあるのがわかる。遥かに広く起伏のない、柔らかな堆積物の積もった海底が続いているようだが、このどこかに大きな亀裂が口を開けていて、それが海より深い場所へと続いていることを、深海の姫は予感していた。それは彼と一緒にいたとき、人間たちの船と、希望を探す魂たちを飲み込んでいた無限の暗闇に出会った場所よりも、おそらくもっと、深い場所であるはずだ。
深海の姫は、静かに泳ぎ始めた。
死んだ人間の魂たちの嘆きの声は、彼女の、唯一の友となるかもしれない。永遠に彼を見つけることが叶わなければ、きっとそうなる。それは絶望的に聞こえるかもしれないが、深海の姫にとっては確かに、心の支えになる事実だった。深海の姫は今まで、彼らの声を聞くことを、海が自分に課した使命だと思っていた。けれど今や、深海の姫の方が、彼らの嘆きの声を、必要としていた。
海より深い場所へ降りていく亀裂へは、簡単には辿り着けそうもなかった。深海の姫の尾では速く進むこともできないうえ、当てもなく泳ぎ続けても、同じ場所をぐるぐると回り続けているのではないかという恐れに囚われるほど、視界は変化しなかった。深海の姫は時折、進むのをやめて眠ったが、目を開けていても眠っていても、何も違わないような気がした。
暗闇を纏い啜り泣き、海の底を行く、亡霊たちに出会うこともあった。
深海の姫は亡霊たちに近寄ってみたが、やはり姫の手は彼らの姿をすり抜けてしまう。彼らの纏う闇を払ってやることはできなかった。
深い海の底では、どれほど時間が経ったのかを知るのは難しい。
幾晩もたったのかもしれないし、季節が一つ二つ、過ぎたかもしれない。もしかしたら、ほんの三日ほどだったかもしれない。疲れるまで進んでは、柔らかな海底で休み、また進んでは疲れきって眠り、進みながら気付かぬうちに、微睡みに落ちていることさえあった。
ある時、疲れ果てて眠り込んでいた深海の姫は、はっとして目を覚ました。
微かに聞こえてきたのは、間違いなく死んだ人間の魂の声だったが、それはなぜか他の声とは違っていて、ざわりざわりと姫の胸を騒がせた。
それははじめ、聞き取れないほどの小さな声であったが、辛抱強く耳を澄ませていると、やがてそれが、言葉でないことがわかった。それは鼻歌かハミングのようなもので、死んだ人間の魂たちの声としては、今までに聞いたことのない類の声だった。
その声に、これまでそこにあることすら忘れていた胸の奥に開いた穴が、新しい傷口のように、鼓動にあわせて痛みはじめた。
あれは、彼の声だ。
深海の姫はその声を頼りに、泳ぎはじめた。
海の王の玉座の下で、姉の魂の声を探した時とは比べ物にならない。姫の長い尾が体の向きを変えるたび、あちこちにぶつかるような小さな洞窟と、この世界で一番深くて広い海溝の底では。
けれど、深海の姫は諦めるつもりがなかった。
もしこれきりならば、彼は見つからない。姫は永遠に彼を探し続けるだろう。
けれどもし、運命が導くならば。
深海の姫には、もう、どちらでも構わなかった。彼の歌声は、喜びと悲しみを夜明けの海に溶いたようで、遠く小さくしか聞こえないのに、すぐ傍に彼がいるかのようだった。
聞きたいとあれほど願った彼の声が深海の姫の胸の奥の空洞へ流れ込んでも、それだけではけして満たされはしなかった。彼の声が流れ込むほどに、胸の奥は強欲に彼を求めて痛むばかりだったけれど、その苦しささえも嬉しく、愛おしく思われた。
深海の姫は時折進むのをやめて、柔らかな海底に体を預けて、目を閉じた。
そうしていると、明るい海も、宮廷も、人間たちの住む陸も、何もかもが消え去って、世界に存在するのは彼の歌声だけであるような気がした。眠るようにその歌声に溶けてしまいたいのに、目が覚めれば体があったし、海底の堆積物の感触と体を包む水があり、目を開ければ暗い水の中に広がる海溝の底が続き、相変わらず遥か上には明るい水と、さまざまな生き物たちと、その向こうには陸と人間たちが存在しているのだった。
彼女はそうして進むうちに、とうとう海底の裂け目を見つけた。
それは口を開けている、という表現しか、しようのない場所だった。海底の奇妙な地形の多くは地殻変動で持ち上がったり、ひび割れたり、かつて陸だった場所が水没して侵食されたりしてできるものだが、それは成り立ちの想像すらできない地形だった。
それはまるで、大きな鯨が海面から顔を出して、口を開けているようだった。つやつやとした大きな黒い岩山が、半ばまで白い堆積物に埋もれていて、ぱっくりと真二つに割れている。その亀裂を覗き込むと、緩やかに地底に向かって下る、暗く狭いトンネルが続いているのがわかった。
彼の声は確かに、その中から聞こえていた。岩壁に共鳴するからだろう、今までよりもはっきりと、聞こえていた。
深海の姫はそのトンネルへ、細い体を滑り込ませた。
奥へ向かうにつれ、トンネルは広くなった。トンネルの内部には凹凸があるが、表面は滑らかで、入り口付近には白い堆積物が舞い込んでいたが、少し進むと、それすらなくなった。
手を上げてみたが、発光できるプランクトンすらいないのだろう、光を呼ぶことは出来なかった。深海の姫の、海の底に適した眼にも漆黒の暗闇しか映らず、ただ、つるりとした壁面に手をついて、トンネルの導く先へと進むしかなかった。
他に知覚できるものがないからだろうか、死んだ人間の魂たちの声は、いつもより大きく感じられた。
少し進むごとに、誰かがその生涯を語り始めた。深海の姫はその度に進むのをやめて、その声にじっくりと耳を傾け、自分でも知らぬうちに、暗闇の中でただ一人、その物語を語った。人間の魂たちは、順番に深海の姫に話を聞いて貰い、自分の物語を語って貰うのを待っているようにさえ思われたから、深海の姫は、先を急ぎはしなかった。
急ぎたい気持ちはあったけれど、彼と自分を繋ぐのは、きっと海が与えたこの使命なのだろう、と思われたから。
時には、これまでに聞いた誰かの話を語ることもあった。
大きな船と一緒に沈んだ二人の女の物語や、戦場の泥の中で死んだ兵士の物語や、か弱い命を救おうとした魔女の物語を。それから、人間に恋して間違いを悔いた海の姫君の物語を。
そうして無数の物語を聞き、語るうち、ふと暗闇に降りた静寂の中で、深海の姫は人間の魂たちにこう言った。
―あなたたちにもう一つ、海の王の子の物語を聞いてほしい。心優しい王の子の、秘密の物語を。




