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2. 使命

 孵化した末の姫を連れて王は宮廷へ戻ったが、貴婦人たちが姫の姿を見ることはほとんどなかった。


 末の姫は王が図書室と呼んでいる広大な洞窟の中で、王の魔法で保存された本をめくって時間を過ごした。水の中ではインクは滲み、糊は剥がれて紙が崩れ、すぐに形を失ってしまう本を、王は魔法で保護し、保管しているのだった。


 王の子が孵化したという(しら)せを受けて、世界中の海から兄姉たちが彼女に会いにやってきた。最初に末の姫のいる図書室へ王に伴われてやってきたのは、長兄のシャチの王子だった。


 岩壁に設けられた書棚の陰に隠れた末の姫は、長兄の長い黒髪の裾だけをちらりと見た。


 長兄は真っ直ぐに末の姫の隠れている書棚の前へやってきて、彼女を見下ろした。艶やかな長い黒髪をきっちりと頭の後ろで結っていて、二つの尾がある生き物のようだった。色の白い、筋肉質のすらりとした体躯と、黒と白に塗り分けられた大きな尾は力強く、黒い眼は射抜くようだった。


 長兄は何も言わずに、彼女の方へ手を出した。彼女が恐る恐るその手を握ると、長兄はただ、彼女へ頷いて見せた。そして用は済んだとばかりに背を向け、図書室から出て行ってしまった。王は彼の背中を見送り、末の姫へこう言った。


―あの子が呼ばれもせずに私の宮廷へ来たのは、お前の姉さんが孵化した時以来だよ。


 海月の姫は新しい妹に会いに来たことも忘れて、宮廷の舞踏会で三日三晩踊り続け、満足して暖流に乗って行ってしまった。


 海月の姫は末の姫を見なかったが、末の姫は姉の姿を書棚の陰から眺めることができた。ふくよかな上半身は腰に向かって半透明になり、その先には透ける海月の傘が広がっている。夜の海で、海月の姫が光る長い触手を煌めかせ、月の光の中をゆったり回ると、癖のある青く長い髪が、うっとりと目を閉じた白い顔のまわりにふわりと巻き付いた。


 兄も姉も皆美しい。


 あと何人の兄姉がいるのかすら、末の姫は知らなかったが、宮廷の貴婦人たちが目を伏せて避ける自分の容貌が、王の子たちの中でも異質であることは、理解しはじめていた。


 イルカの姫は頻繁に宮廷へ顔を出すようになり、遠い海で拾った本や新聞、写真など、陸のことがわかるようなものを持ってきては、王と末の姫に贈った。


―姉様は、陸には興味がないのでしょう。


 なのに、どうして本を持ってきて下さるの、と末の姫は聞いた。


―お父様とあなたに必要だからよ。


 末の姫が黙ったので、イルカの姫は彼女と書棚の間に、するりと泳いで入り込んだ。


―それだけでは、変かしら。


 イルカの姫は首を傾げて微笑んだ。末の姫は困惑して目を伏せた。


―お父様は、あなたが生まれてから変わられたわ。


 末の姫は、宮廷の貴婦人たちに疎まれているのを感じていた。自分が生まれてから、王は宮廷で過ごす時間が短くなったのだという。それはきっと、その通りなのだろう。王は熱心に末の姫に人間の言葉を教え、文字を教えた。末の姫が、自分に時間を費やして貰うのはもったいないと言うと、お前といられるのも卵の中の幼生、それから幼体のうち、今の間だけだから、と王は言った。


 その優しい寂しげな顔を、末の姫は忘れられないでいる。


 確かに兄姉たちは、一人も宮廷や王の傍に残ってはいない。末の姫自身も、王の許可が出ればすぐ、彼の傍から離れるつもりでいた。それは末の姫の存在が乱した王の生活を取り戻してもらうためのつもりだが、本当に王は、かつての生活を望むのだろうか。


―賑やかな宮廷にいらっしゃる時も、お父様は寂しそうだった。それが、あなたが生まれてから、


 イルカの姫は言葉を探した。そして思いついた言葉にぱっと表情を輝かせて、短く歌うようにこう言った。


―なんだかとっても、楽しそう。


 今度は末の姫が首を傾げる番だった。


 私といて楽しいはずがない。イルカの姫と歌うときや、宮廷の貴婦人たちと踊るときの方が、よほど楽しいだろうに。


 その時、図書室の中に小魚たちの群れが入り込み、視界が銀色に染まった。


 イルカの姫の笑う声だけが聞こえて、何がおかしいのだろうと思いながら、末の姫は書棚の陰に蹲って、銀色の嵐をやりすごそうとした。


―ご、ごめん!


―兄様!


 狼狽(うろた)えた声がこちらへ謝り、イルカの姫が嬉しそうにその声を呼ぶのが聞こえた。


―お前たち、ここはだめだよ。あっちで待っていてほしいんだ。ね、お願いだから。


 ぐるぐると書棚の間を回遊していた銀色の小魚たちが出てゆき、図書室の中には水の渦だけが残った。ごく小さな銀色の鱗が散らばっていて、ゆらゆらと水流に乗って流れている。


―やあ、お前もいたんだね。


 そっと書棚の陰から覗くと、イルカの姫を、知らない王子が抱きしめていた。


 末の姫に見えたのは、柔らかそうな濃い青の髪と、白く華奢な背中だった。魚体の尾は背中側では青く、水を掻いて動くたびに、腹側の銀色が眩しいほどだった。


―ということは、そっちにいるのが新しい妹かな。


 振り返った兄は豊かな海の蒼色をした大きな目を細めて微笑み、書棚の陰の末の姫を見た。そうよ、と、イルカの姫がなぜか、得意そうに言った。


―驚かせてごめんね。ここへ来るまでに、随分たくさんの鰯たちを保護しなけりゃいけなかったから。


 鰯の王子は書棚の陰までやってきて、うずくまっていた末の姫に手を差し伸べた。末の姫が仕方なくその手を取ると、ふわりと引き寄せられて頭を撫でられた。


―きっとすぐ、僕よりずっと大きくなるね。かわいい妹が大きくなれるように、これをあげよう。


 食べてごらん、と促されて口を開けると、細かくて小さな何かが流し込まれた。ぷちぷちと口の中で弾けるそれに、末の姫は首を傾げる。


―鰯たちの卵だよ。


 青ざめた末の姫に、吐き出さなくていいよ、美味しいでしょう、と鰯の王子は微笑んで、唇の前に掌をかざした。優しい子だね、と彼はまた、末の姫の頭を撫でた。


―お前のイルカの姉さんなんて、初めて会った僕の顔も見ないで、これが何かも聞かないで、もっと、って言ったんだよ。


 もう、言わないで、とイルカの姫が頬を膨らませた。


―鰯たちはね、たくさんの海の命を生かしているんだ。


 鰯の王子はもう一度、指先に乗せた卵を、末の姫の口に入れてやった。


―鰯たちはものすごく大きな群れで移動して、想像できないくらいたくさんの卵を産むんだ。その卵が他の魚の稚魚たちや、小さな生き物たちに食べられて、その生き物たちを育ててくれる。運の良かった卵は孵化するけど、稚魚たちもやっぱり、小さな魚たちに食べられる。なんとか大きく育った鰯たちも、大きな魚や動物たちや、鳥たちに食べられる。生き残った鰯たちがまた、卵を産む。そうやって、鰯たちは他の生き物たちの命を養っているんだよ。


 で、僕はその鰯たちがその役割を果たせるように守るのが使命、と誇らしげに、鰯の王子は言った。


―僕らにはそれぞれ、使命がある。


 使命、と末の姫は繰り返した。そう、と鰯の王子は、優しい目を細めて頷いた。


―お父様はお一人で、海の何もかもを司っていらっしゃる。だから僕らは、役割分担をしてお父様を支えられるように、使命を持って生まれてくるんだ。


 末の姫は俯いた。鰯の王子は彼女の髪を撫でながら、続けた。


―シャチの兄様は、海の秩序を守る警護の役。僕や海月の姉様は、小さな生き物たちが海を豊かに養えるように守護する役。僕は小さな魚たちの群れを、海月の姉様はもっと小さな生き物たちを。


―私はイルカの王と世界中の海を巡って、異変がないか見て回るのよ。


 イルカの姫が、鰯の王子の話に割り込んだ。鰯の王子はそうだね、とイルカの姫へ頷いて笑った。


―きっとまだ会っていないと思うし、きっと宮廷へは来ないだろうけど、蛸の姫はどこか君によく似ている。引っ込み思案なのを怖い顔をして隠してしまう癖があるけど、もしどこかで会えたなら怖がらないで。本当はとても優しくてね。暗い海の洞窟で、ずっと一人で暮らしている。僕らの誰よりも賢くて、海の魔法を管理しているんだ。もし何か困ったことがあったら、きっと助けてくれるよ。


 私、と末の姫が呟いたので、鰯の王子は彼女の声を聞こうと、身を屈めた。


―私、何もできない。


 鰯の王子は細い指で、そっと末の姫の顎を持ち上げ、目を合わせた。末の姫の真珠のような眼はおどおどと(まばた)きを繰り返したが、鰯の王子は彼女の頬を両手で包み、額をすり寄せ、深いところから見上げる水面のような、光の煌めく蒼い眼で、末の姫を見つめた。


―大丈夫。僕らだって、最初からわかってたわけじゃない。それが見つけられたら、もう一人前のしるし。海が何を使命として与えたかは、お父様にも知り得ない。それに気付けるのは、君自身だけなんだ。


 そう言って、鰯の王子は末の姫の額に、祝福のキスを贈った。


―君にしかできない、君だけがお父様を助けてあげられる、そんな使命が、絶対にあるから。




 末の姫は暗い図書室に、たった一人でいた。


 今夜は月も差さない。新月なのか、海の上は嵐なのか、それとも静かに凪いで曇っているだけなのか、末の姫にはわからなかったし、興味もなかった。彼女の真珠のような眼は、本を読むにもほとんど光を必要としなかったし、むしろ、明るい浅い海は、眩しくて苦手だった。


 遠いどこかの洞窟で、一人で暮らしているという姉、蛸の姫のことを考えた。きっと彼女は鰯の王子が言ったように、わざわざ新しい妹の顔を見に、宮廷に姿を現したりはしないだろう。けれど、だからこそ、末の姫には蛸の姫がとても近しく感じられた。


 それから末の姫は、王の子の持つ使命のことを考えた。


 王を補助するための、その子にしかできないという、使命のこと。


 そんなもの自分にあるはずがない、と初めは思ったが、静かな図書室で一人になって、気付いたことがあった。


 深い海の底よりもっと深く、地の底から響くような嘆きの声が聞こえるのは、父の他には末の姫だけなのだという。ならば彼女の使命は、あの声を聞くことと関わりがあるのだろう。けれど、彼女にできるのは聞くことだけなのだ。


 それの一体、どこが父の助けになるというのだろう。


 末の姫は目を閉じて、今聞こえている嘆きに耳を傾けた。


 かつては嘆きの内容を知ることはできなかったが、王から世界中の人間たちの言葉を教わった今なら、彼らが嘆く、失われた人生の断片を、聞くことができた。


 病に爛れた顔を嘆く女の慟哭。息子に裏切られ、その胸に短刀を突き刺され殺された父の後悔。産まれてすぐに海へ捨てられた赤子の叫び。


 末の姫が生まれるまで、王は一人で、この声たちを聞いていた。


 王にあの声は似つかわしくない、と末の姫は思った。もしもできることなら、自分にしか聞こえないようになればいい。そうすれば、陰鬱なあの声から、王を救ってあげられる。


 末の姫には、その声を聞くという役目が、とても自分に似つかわしいもののように感じられた。明るい場所も賑やかな場所も苦手で、美しい歌や踊りで王を楽しませてあげることもできない。


 もしも、自分にできることがあるとすれば、あの声を自分一人で引き受けて、深い海へ、誰も来ることができないほど深い海の底へ沈んで、あの声ごと、誰からも忘れ去られることではないのか。

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