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19. ほどけはじめる王の子たちの秘密

 深海の姫は口を閉ざし、ほんのしばらく黙り込んだあと、こう言った。


―これで、人間に恋したお姉様の物語は終わり。


―父ならば、あの魔法を解けるのだと思っていた。だから新月の夜もまだ、おれは父を説得しようとしていて、あいつのところへは戻らなかった。


 シャチの王子が呟いた。


―お姉様は、あの魔法が誰にも解けないことに気付いていた。そしてそれが、お姉様を固い宝玉に閉じ込めるほどの心残りへ導いた。海が蛸のお姉様に与えた使命は、海の魔法の管理なんかじゃないのでは、って。


 蛸の姫は腕を組んだまま、深海の姫を見つめていた。


―じゃあ何だって言うんだい。


―お姉様にわからないはずがないわ。それがわかったから、お姉様は成人して、お父様の傍から去ったんだから。


 深海の姫は蛸の姫を見つめ返した。


―これ以上は、私が言うべきことじゃない。


 深海の姫はそう言って、手のひらの上の宝玉をきゅっと握って、顔を上げた。


―ねえ。


 今まで黙っていた鰯の王子が口を開いたので、皆が彼の方を振り返った。


―君はあの子の話を、聞いてあげられるだけなんだよね。


 深海の姫が頷くと、鰯の王子は少しだけ躊躇ったあと、こう言った。


―君にはわからないことかもしれないけど、あの子のことで、確かめたいことがあったんだ。


 深海の姫はもう一度頷いた。何て聞いていいかもわからないんだけど、と鰯の王子は口ごもり、こう言った。


―あの子の使命が、人間たちの守護であったはずがないんだ。


 皆が理解するのに、間があった。


―どういうことだ。


 シャチの王子が、沈黙を破った。


―僕の使命は小さな魚たちの群れの守護、人間たちの漁の守護、それから往来する船の守護だ。


―それは、私とあなたの使命の差みたいなものではなくて?ほら、海の小さな命の群れのうち、魚たちはあなたが守護するけれど、もっと小さくて単純な生き物たちは、私の守護の対象でしょう。それか、人間たちの守護までは使命でないとか。


 海月の姫がそう言うと鰯の王子は首を横に振り、思い詰めたような表情で皆を見回して、こう言った。


―僕の配偶者は、人間の漁師なんだ。僕の夫になった人間は、少しだけ普通の人間よりも長生きするけれど、彼らは年老いて死んでいく。そうしたら、村の若者の中から新しい海の花婿、漁師の王が選ばれて、僕の海へ送られてくる。最初の一人は、嵐の中から助けた男だったんだけど。


―父は知っているのか。


 シャチの王子が聞くと、鰯の王子は首を横に振った。


―父様の知らないことがあるとも思えないけれど、こればかりはわからない。知らないのかもしれない、と思ったこともあるよ。だから、父の祝福は受けてない。言い出せなかった。


 鰯の王子は苦笑した。


―ごめんね。やっと皆に言えて、ちょっと楽になった。皆、あの子の使命が人間たちの守護だって、疑わなかったから。


 だって、と鰯の王子は呟いた。


―あの子、幼体だったはずなんだよ。


 そんなこと、と声を漏らしたのは海月の姫だった。


―あの子は何か、特別だったんだ。父様だってあの子が孵化してすぐに、祝福も魔法も与えたくらいに。


 鰯の王子が言うと、そういえばそうだったかもしれない、と海月の姫が呟き、呻いた。


―なんてこと。


 シャチの王子が口を開いた。


―我々は父の魔法で、自身の望みに沿うた姿で孵化するが、それが海の意志にそぐわぬことはない。だから、結果的に海の与えた使命に応じた姿を、得ることになるだろう。


 皆が互いの顔を見て、頷いた。


―配偶者もそうだ。おれはシャチの尾を持って孵化し、シャチの王と共に生きることを選んだ。海の意志によって決まっていたのかもしれないが、おれは自ら、愛を選んだ。


 シャチの王子がしかし、と続ける。


―あの子の、虹色に輝く青と緑の煌びやかな尾を、おれは今でも忘れることができない。あれは、海のどんな生き物とも違った。あの子は唯一無二だった。


 シャチの王子は黙り込んだ。


―そう、あの子は特別だったね。


 蛸の姫が、ぽつりと言った。


―特別美しい子だったから、父様の配偶者になる使命を与えられて、生まれたんだと思ったんだ。だから私は、宮廷を去った。


―でも、そうではなかったのね。


 海月の姫が、海は間違わないから、と呟いた。


―つまり、どういうこと?


 イルカの姫は一人、首を傾げていた。


―海は間違わないのだから、私たちの間違いだって、全て正しいのでしょう。


 ああ、とシャチの王子が頷いた。彼が微笑んでいるのに気付いて、弟妹たちは意外に思ったが、口に出しはしなかった。


―そうだ。それでも、あの子を失ったことが海の意志に沿った正しいことだと認めるのは難しかったが、今やっと、認められる気がする。あの子より若い妹たち、お前たちがいてくれるおかげだ。おれ達はずっと、あの子のことを後悔してきたから。


 イルカの姫は嬉しそうに笑って、深海の姫を横目で見た。深海の姫は首を横に振り、皆を見回した。


―みんな、聞いて下さってありがとう。これでお姉様の魂を送ってあげられるかと思ったけれど、まだ心残りがあるのね、まだ宝玉のまま。


―待ってなさい。


 蛸の姫がそれだけ言って、住処の洞窟の中へ消えた。戻ってきた時、その手には細い金の鎖の首飾りがあった。トップにはごく小さな金の鳥籠がついていて、鳥籠の中にはサファイアが入っている。


―近くの難破船で拾ったんだ。ここに入れておけばいい。


 蛸の姫が鳥籠を開けてサファイアを出し、深海の姫がそこへ宝玉を納めた。


―お姉様に預けてもいい?


―お前が持っておくべきだと思うね。お前の仕事だろう、これは。


 蛸の姫は指先で鳥籠の蓋に鍵の魔法をかけ、深海の姫の細い首へ、ごく細い金の鎖を掛けた。


―蓋の留め具がうっかり開かないように魔法をかけたから、これで落としはしないだろう。


 ありがとう、と深海の姫が言うと、蛸の姫は憮然とした顔をした。


―では、行くか。


 シャチの王子が、深海の姫へ言った。


―これから、どこへ行くの。


 鰯の王子が聞いた。


―世界で一番深い海より深い場所だ。我々では行けない場所だろう、王の近衛隊でもない、深海の蛸たちが呼ばれていた。


―探す当てはあるのかい。海溝の底に洞窟の入り口はたくさんあるけれど、私にも、ほとんど詳しいことはわからないんだ。


 蛸の姫は眉を(しか)めた。


―ないけれど、私には永遠があるから。


 深海の姫は、そう言った。


―必然なら、探し出せるわ。海は間違わないのでしょう。


 シャチの王子が頷いて見せた。


―海は間違わない。その意思に逆らおうとすれば、それがたとえ王であれ、困難に見舞われるだろう。




 シャチの王子と彼の群れが、深海の姫を、海溝の一番深い場所まで連れて行った。彼らと別れ、一人海の底へと沈んで行きながら、深海の姫は懐かしいような気持ちになった。


 徐々に視界は暗くなり、何もかもが消えていく。


 暗い水と体の境目がわからなくなり、ぼんやりと響く、死んだ人間の魂たちの嘆く声を聞くうちに、自分と彼らの境目さえ失われてゆく。暗い水に溶けて、その水の全てが自分であるようにさえ感じた。


 いつもなら、たった一人で暗い方へと沈んでゆく感触に深い安堵を感じるのに、今彼女を包んでいるのはぼんやりとした不安だった。ほんのしばらくの間だったのに、二人でいることに慣れてしまったのだ。以前よりも自分が弱くなったような気がした。


 あの兄のことを思い出したのは、深くて暗くて広大な海に飲み込まれるような感覚が、鰯の王子が守護する小魚みたいに、自分がちっぽけで無力な存在になったみたいに感じさせたからかもしれない。兄姉たちとは別れたばかりだし、孤独には慣れ親しんできたし、彼と出会うまではいつだって、ずっと一人でやってきたのに。


 鰯の王子は初めて宮廷の図書室で会ったとき、会いたくなったらいつでもおいで、と深海の姫に言った。


―僕はシャチの王子のように強くも、蛸の姫のように賢くもないけれど、途方に暮れて誰かを必要としたときには、その誰かになってあげられる。小さくて無力なものはみんな僕の守るべきものだし、たとえシャチの王子みたいに大きくて強く見える存在でも、この広大な海の中で途方に暮れるときは、やっぱり小さくて無力なんだ。


 深海の姫の鰭では鰯の王子を探せない、と言うと、鰯の王子は笑ってこう言った。


―来たいと思うだけでいいんだよ。弱いものが助けを願えば、そこが僕の海になる。


 納得はできないものの、兄がそう言うのならそれはそうなのだろう、と深海の姫は曖昧に頷いたのを思い出しながら、海面のほうを見上げた。その視界の煙る暗闇の向こうに、銀色のお腹を波のようにきらめかせる小魚の群れがいるような気がした。もう随分深いところまで沈んでいたけれど、深海の姫は柄にもなく、明るいほうへ昇っていきたい、とさえ思った。


 本当に銀色にきらめく小さな光が見えた、あるいは水がざわめいたように感じるや否や、銀色の光に包まれていた。深海の姫の体を掠めながら泳ぐ無数の小さな魚たちが作る水の流れは渦になって、深い方へと沈んでいこうとしていた深海の姫の体を上へと連れ出した。


―本当に、兄様が来てくれたの。


 深海の姫がそう呟いたとき、小魚の群れが途切れ、頭上の銀色の中から、うん、と優しい声が降ってきた。


―君が僕に会いたいと思ってくれたから。


 鰯の王子は蒼い大きな目を伏せて、ううん、と苦笑した。


―僕が君に会いたかったんだ。でも君が僕に会いたいって思ってくれなきゃ、ここまで来られなかったよ。


 ありがとう、と深海の姫が言うと、鰯の王子は首を横に振った。


―急ぎたい君を引き留めようとしているんだから、お礼は言わないで。……やっぱりどうしても、君に話を聞いてほしくなったんだ。


 ごめん、と鰯の王子が表情を翳らせたので、深海の姫は兄の手を握った。


―海が私に与えた使命が、あの人と私を結んでいるような気がするの。


 わかるでしょう、と深海の姫が微笑み、鰯の王子はほんの少し驚いた顔をして頷いた。


―聞かせて。端折(はしょ)ったりしないで、全部。


 鰯の王子は躊躇っていたが、やがてあきらめたように薄い唇を開いた。


―これは僕が、ずっと誰にも話せないでいたことだ。

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