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18. 人魚姫の物語

 彼女は喜びと共に生まれた。卵の中の幼生であった頃から、卵を揺らして踊り、薄い殻越しに歌い、笑った。光を愛し、光に愛された。


 孵化した彼女は人懐こい海獣たちと、たびたび海辺の街を眺めに出かけた。人間たちが上げる花火が、夜の海に映る極彩色の光が、海にはない音で奏でられる音楽が、海にはない音で歌われる歌が、彼女は大好きだった。


 海が彼女に与えた使命は、人間たちの守護だった。


 人間たちは、海の中では生きられない。人間というのは、海に落ちたらあっという間に死んでしまう生き物だから、波に異変があるときや、嵐の前には遠回しに警告をしてやる必要があった。父に貰った魔法でできる限り波を弱め、荒波に翻弄される船を助けてやることもあった。


 ある嵐の夜、彼女は難破した船から一人の男を助け出した。たった一人のために、他の船員たちが乗った小さな救命ボートがどこへ行ったかを、彼女は見失ってしまった。海へ沈んだ人間たちはたくさんいたのに、たった一人しか、彼女は救うことができなかった。


 彼女は男を、陸へと運んだ。街の近くの砂浜へ、満潮の前に上がった。男は気を失っていたが、まだ息をしていた。男はとても美しい顔立ちをしていて、彼女は男が笑うところを見たいと思った。


 男が目覚めるのを期待しながら、恐れながら、彼女は男の顔を見つめていた。やがて引き潮が始まった。これ以上ここにいては、海へ戻れなくなってしまう。男を置いて、彼女は波打ち際へと去って行った。彼女の柔らかな尾と鰭は砂に擦れて傷ついたが、海の水に柔らかく撫でられれば、すぐに傷は癒えるのだった。


 海の宮廷へ帰っても、彼女は男のことを忘れられなかった。いつか陸で聞いた愛の歌が、ずっと頭の中で鳴り響いていた。彼女は男に恋をしていた。


 しばらくは海月の姉へ、美しい男を救った話をするだけで満足していたが、やがて欲が出てきてしまった。彼女は父へ恋の悩みを打ち明けた。陸へ行きたい、幼生の頃のような、人間たちのような二本の脚を手に入れて、陸を駆けて彼を探したいと。


 父は一言、駄目だと言った。


 ひどく傷付いた顔で、私を置いて陸へ行きたいのかい、と問うた。彼女には、どうして父がそんな顔をするのか、どうして駄目なのか、どちらもわからなかった。


 父に拒絶されたのは、それが初めてだった。彼女はそのまま、宮廷を飛び出した。


 貴婦人たちから聞いたことがあった。鬱蒼と茂る海藻の森の奥に、どんな魔法でも使える姉、蛸の魔女が住んでいる、と。態度はつっけんどんで顔は怖いかもしれないけれど、優しい姉だからきっと助けてくれる。困ったことがあったら、彼女を頼りなさい、と。


 仲の良い海獣たちと、海の生き物たちに聞いて回り、ようやく蛸の魔女の住むという、海藻の森へとたどり着いたのは、夕暮れ時だった。海獣たちを先に海岸へと帰し、彼女はひとり、薄暗い海藻の森を彷徨(さまよ)った。


 どちらを見ても丈の高い海藻が生い茂るばかりで、蛸の魔女の住むという洞窟へは辿り着けなかった。疲れ切った彼女は、柔らかな海藻を(たわ)めてその上に横たわり、眠ることにした。


 月明かりの中、うとうとと眠りに落ちかけた時、何かが彼女の尾を掴んだ。ずるりと引き寄せられた先に、呆れた顔の蛸の魔女はいた。


 蛸の魔女は優しかった。


 とりとめのない彼女の話を辛抱強く聞き、初めて会った妹が、顔しか知らない男に落ちた恋の話に、一晩中付き合ってくれた。


 朝焼けの光の差し込む中、彼女が蛸の魔女へ、陸へ行くための脚が欲しい、と言ったとき、初めて蛸の魔女は、きゅっとその美しい眉を(ひそ)めた。


 お前の尾を二本の脚にする魔法はあるにはあるが、お前はその代わりに、お前の声を代償としなければならない。顔しか知らない、どんなろくでなしかもわからない男のところへ行くために、そんな代償は払うべきでない、と蛸の魔女は言った。


 それでも行きたい、と言い募る彼女へ、蛸の魔女は言った。


 お前の尾を脚にするには、お前の海の命を、人間の魂の形に変える必要がある。形を変えても完全な人間の魂ではないから、月が満ちて欠けるまでの間に、男と生涯を共にし、二人の魂を互いのものとして分かち合う誓いを立てねばならない。誓いが立てられなければ、月が欠けて魔法が解け、お前の海の命は元の形に戻れず、お前は海の泡になって消えてしまう。


 それでもいい、と彼女は言った。蛸の魔女は最後まで思いとどまらせようとしたが、彼女の決心は強固だった。


 次の新月、海の力が一番弱くなる、その夜に来なさい、と蛸の魔女は言った。


 その夜は満月の少し前で、すっかり月が欠けてしまうまでには時間があった。蛸の魔女は彼女が諦めるのを、飽きるのを、思い直すのを期待したのだろう。


 けれど約束の夜、彼女は蛸の魔女の森に現れた。


 諦めた顔で、蛸の魔女は彼女へ、難破船から拾ってきた小瓶を渡した。


 ここで魔法をかけたら、お前はたちどころに溺れ死んでしまう。この瓶の中の海の水に魔法を閉じ込めておいたから、陸の上で、この水を飲み干しなさい。お前はその美しい声の代わりに、美しい脚を手に入れるだろう。その脚で男を探し、二人で永遠を誓いなさい。それができなければ、次の新月の夜が明けて太陽の最初の光がお前を射抜いたとき、お前は海の泡になって消えてしまう。それが怖ければ、今すぐにでも、砂浜でその水を飲もうとする瞬間にでも、その水を海に流してしまいなさい。お前がそれを口にするまでは、まだ引き返せる。


 彼女は頷いて海藻の森を去り、あの日恋しい男を置き去りにした浜辺で、魔女の魔法を飲み干した。


 肌に馴染んだはずの潮が彼女の喉を焼き、息を奪って、彼女は気を失った。


 浜辺で意識のない彼女を見つけた人間は、彼女を連れ帰って世話をしてくれた。彼女が目を覚ますと熱いスープを飲ませてくれ、声が出せないこと、うまく歩けないことを、彼女自身より悲しんだ。


 娼館のステージで歌を歌っているというこの男は変わり者で、好んで女の服を纏い、女よりも女のようにふるまった。この歌い手は、彼女を部屋から出したがらなかった。娼館の屋根裏に住んでいたからだ。


 数日、彼女は大人しく部屋で過ごした。地道に歩く練習を重ね、壁に手をついて歩き、手を離して歩き、やがて階下から響く歌に合わせて、踊れるようになった。


 陸で踊るのは不思議だった。空気は海の水のように彼女を舞わせてくれない。だから、二本の脚で回るしかない。彼女は海から、人間たちが踊るのを見たことがあった。それを真似てリズムに乗り、歌に乗り、やがて歓喜が押し寄せれば、もう自在なのだった。


 ドアを開けた歌い手は、踊る彼女に目を丸くした。


「あんた、もうそんなに歩けるの?」


 ちょっと待ってなさい、と歌い手は階下へ降りていき、ほどなく戻ってきた。


「館主に話をつけてきたわ。話せなくて身元も歳もわからないから、売り物にしないって条件よ。あんた、歌うあたしの傍で踊らない?」


 彼女は顔を輝かせて頷いた。賑やかな場所に行けば、あの日彼女が救った男の手がかりが見つかるかもしれない。よし、と言った歌い手は、彼女に薄青い布を着せた。彼女が回るとふわりと広がる服で、柔らかで長い装飾は、彼女がなくした鰭のようだった。


 こうして彼女は、踊り手になった。


 娼館がどんな場所であるのかを、彼女が悟るのに、そう時間はかからなかった。


 彼女は客たちや女たちの言葉から、何もかもを知った。あんなに憧れていた陸は、海から見た時のように美しくはなかった。夜遅くになると誰かが泣き、叫び、誰かが殴られていた。いつも朝が近づく頃の店の中では、アルコールと吐瀉物と、交わされた形だけの愛の臭いが、開け放った窓から入る生臭い海風と混ざり合っていた。


 そしてある日、とうとう、彼女は探していたあの男を見つけた。


 見つけられなければよかったのに、と彼女は思った。蛸の魔女は正しかったのだ。


 踊る彼女の目に映ったのは、広いホールの一番奥、一番たくさんお金を払った男たちが陣取る大きなテーブル席で、擦り切れた赤いソファにふんぞりかえり、酒に酔った赤い顔をして、据わった目で彼女を見つめる、あの男だった。美しい顔を下卑た笑いに歪め、両腕に女を抱え、開いた足の間にも、女を一人座らせている。女たちに何をさせているかなんて、考えたくもなかった。


 明け方近く、客も皆帰り、女たちも部屋へ引き上げて行った後、ひっそりと泣く彼女に、歌い手はどうしたのか聞いた。彼女は説明するための声を持たなかったし、声があったとて、何と言って良いのかわからなかっただろう。


 歌い手は泣いて震える彼女の背中を、抱いて眠ってくれた。彼女は海獣たちとも違う、乾いた体の暖かさを知った。


 ある夜、歌い手は館主と言い争っていた。大金を積んで、彼女を買いたいと言った客がいたという。


 歌い手は、彼女を売らなかった。


 トラブルを避けるため、その夜は二人ともステージに上げてもらえず、屋根裏に引きこもることになった。


「あんたを買いたいって言ったのはね。最近、一番大きなテーブル席にいる男、あんたもわかるでしょ、あいつだったのよ」


 所在なくベッドに座った彼女に、歌い手はドレッサーの前に腰掛け、手慰みに縫い針の先で絡んだ首飾りの鎖をほどきながら、そう言った。


「あの男、よその国でのあくどい商売がバレて、母国へ船で護送される途中に嵐に遭ったのに、たった一人、すぐそこの砂浜へ流れ着いて助かったんだって、武勇伝にしてるの。一番助からなくていい奴だけが助かるのね、そういう時って。ああいうのを、悪運が強いって言うんだわ」


 彼女が青ざめたのを、歌い手は見ていなかった。


「それがね、あんたのこと、オレの幸運の女神、なんて言うんですって。嵐で溺れた海の中であんたを見たって言うのよ。そんなはずないでしょ」


 さあ、ほどけたわ、と手元から顔を上げた歌い手は、首飾りの細い鎖を彼女の首に回して、金具を留めた。小さな青い石は、海の中から見上げた水面に似ている。


「母の形見なのよ」


 似合うわ、あんたにあげる、と歌い手は言った。


「心配しなくていいのよ、あんたを売ったりなんて絶対しないから。あんたの母さんにはなれないけど、そんな気分になるときもあるわね」


 嬉しそうに笑った歌い手は、ドレッサーの鏡越しに、不思議そうな顔をしている彼女と目が合うと、妙な勘が働いたらしい。


「あらやだ、もしかしてあんた、お母さん、ピンとこないの?孤児だったのかしら。卵から生まれたわけでもあるまいし」


 歌い手ははっとして、彼女を見た。


「あんた、もしかして」


 彼女は首を横に振った。歌い手はそうよね、と言って笑い、彼女の傍に座った。


「あんな奴を助けてしまったなんて、善意には罪が重すぎるわね。墓まで持っていきなさい、あたしならそうするわ」


 歌い手はドレッサーからブラシを取ると、彼女の髪を梳きはじめた。


「あんたはいいわよ、きれいな髪もかわいいお顔も、細くて長い手足も、ダンスの実力も持ってるんだもの。あんな奴のために泣いちゃダメ、涙がもったいないわ。忘れちゃいなさい」


 あたしみたいになっちゃダメよ、もうなぁんにもないんだもの、と自嘲するように付け足した歌い手へ、彼女は梳かれている髪が引き攣れるのもお構いなしに振り返り、驚く歌い手の喉に、人差し指で触れた。それから両手を胸に当てて、伝わるといい、と願った。


 歌い手は、彼女の見たことのない顔で笑った。


「あたしの歌、好きって言ってくれるの?」


 彼女は力強く頷いた。


「ありがと、嬉しいわ」


 彼女は右手の人差し指で自分の喉を指して首を横に振り、それから歌い手の胸を左手の人差し指で、自分の胸を右手の人差し指で指してから、両手の人差し指を顔の前でくっつけた。


「いいわね、二人で一人前?」


 彼女は何度も、頷いた。


「あんたにもっと早くに出会えてたら、あたしの人生も変わったかもしれないわね」


 その夜、歌い手はまた、彼女を抱きしめて眠った。歌い手の腕の中は暖かく、彼女は幸せだった。探していた彼とではないけれど、二人で生きていきたい、と思ったから。


 次の日、彼女は窓から差し込む朝日に起こされた。いつもきちんと閉められていたカーテンが、開いていた。歌い手の姿はなかった。階下が騒がしいので降りていくと、階段で館主に止められた。お前は見なくていい、と。


 歌い手はステージで首を吊っていたという。


 ポケットに遺書があり、館主が出してくれることになっている葬儀費用を期限の迫った借金の返済に当て、残った分と未払いの給与を彼女に渡して、あの男に悟られぬよう娼館から出すように、自分の体は海に捨てるようにと書かれていたらしい。


 歌い手はかつての恋人に裏切られ、その多額の借金を肩代わりしていたのだ。


 彼女は娼館主の制止を振り切り、歌い手の体を海へと運ぶ担架を追った。追いついた時には海へと投げ込まれた瞬間で、彼女は驚く男衆を尻目に、海へと飛び込んだ。


 彼女の人間の体に、海は冷たかった。


 引き潮に流されていく、シーツに包まれた体を彼女は追いかけて、ゆらゆらと沈んでゆく白い包みを捕まえた。


 彼女は歌い手の顔を覆っていた布をかき分けた。もう息が続かなかったけれど、必死で歌い手の冷たい唇にキスをした。潮に視界は滲んで、歌い手の顔はよく見えなかった。


 彼女は歌い手の体を手放して、海面へと浮かび上がった。このまま海へ溶けてしまいたいのに、海は冷たくよそよそしいままで、陸へ、戻るほかなかった。


 彼女は海岸沿いを歩き続けた。砂浜を、港を、素足を傷つける岩場を。そうして、歌い手の歌を、歌えない声で歌い続けた。


 目を閉じれば、その声が聞こえるようだった。


 流し目で彼女を見て微笑む歌い手が、見えるようだった。


 ステージに当てられる強い照明を反射して、黒目がちな歌い手の目がぎらりぎらりと強く煌めくのも、歌い手が自慢にしていた、長い豊かな黒髪が夜の海のようだったのも、赤いルージュを塗った唇が弧を描くのも、驚くほど大きく開いて伸びやかな声を響かせるのも。


 彼女は歌い手を愛していたことを、(うしな)ってから知ったのだった。


 意識のない男の美しい顔に惹かれたのとは、全く違った。


 海の中で触れた冷たい頬の、いつも綺麗に剃られていた髭の感触が、まだ手のひらに残っていた。色を無くした土気色の唇の、そっけない柔らかさも、まだ彼女の唇の上にあった。昨夜抱きしめて眠ってくれた腕の暖かささえ、まだ彼女を包んでいた。


 軽やかに、困難なその人生から飛び降りてしまった魂が、まだあの体を生かしている間に触れていれば、何もかも、違っていただろうか。


『この歌詞、あたしが書いたのよ』


 何度もそう言った、得意げな声が、今にも聞こえそうだった。


 ステージで歌うのは、ほとんど下品な流行歌だったが、いくつかは古い恋の歌、いくつかは歌い手自身が手がけた歌だった。


 無い声で歌いながら思い出す、ステージライトの下へと出て行く前の、豪奢な赤いドレスを纏った広い背中も、夜の終わりに化粧を落としながらあくびする大きな口も、当然のように彼女にベッドを譲ってソファで眠る無防備な顔も、その時には何も感じなかったのに、今は愛しくて悲しくて苦しかった。


 歌い手なら、互いの魂を二人のものとして、一緒に生きてくれたかもしれない。


 最後の夜、もっと早くに出会えていたら、と歌い手は言った。彼女はまた、救うべき人を救えなかったのだ。


 新月まで、まだ幾晩かあった。


 まだしばらく、歌い手の歌った歌と、記憶と過ごせる。彼女は見る間にやせ細る月と降るような星の下、波打ち際で歌い、踊り続けた。水も食事も、終わりを待つ体はもう、必要としなかった。


 人間の形をしているけれど、彼女は人間にはなれなかった。


 太陽が沈んだあと、彼女は宵の明星を眺めながら、崖の下の岩場に腰掛けて、傷だらけの疲れた足を休めていた。岩場は目の前で深く落ち込んでいるのが見てとれ、今すぐそこへ飛び込んで沈んで行けば、終わりにできるのだろうかと考えながら、それでもまだ、耳に残る歌声と過ごしたいような気持ちでいたとき、ちょうどその深みのあたりから、懐かしい顔が現れた。


 器用に岩場へ上がってきたのは、彼女の一番上の兄だった。


―間に合った。


 久しぶりに見たシャチの兄は、陸で見たどんな男たちよりも大きく力強く、美しかった。


―愛した男と、魂を分け合う約束はできたのか。


 彼女は首を横に振った。そうだろうな、と兄は忌々しげに呟き、難破船から拾って海底の岩で研いだのだろう、鋭く美しいナイフを差し出した。


―このナイフで男の胸を貫け。その血がお前の足を濡らせば、お前の足は美しい尾鰭に戻って、海へ帰れる。


 彼女は首を、横に振った。


―なぜだ。お前を傷つけた男だ、傷つけてやればいい。


 彼女はもう一度、首を横に振って辺りを見回し、岩陰に咲いていた小さな花を摘んだ。可憐な花を抱きしめ、口付けてから、兄を見つめながら、ぶちりと花びらを萼からむしり取って、ぱらぱらと手のひらから落とした。


―死んだのか。その男は。


 彼女が頷くと、兄は崩れ落ちるように、岩へと体を預けた。


―お前が帰る方法が、なくなってしまったというのか。


 彼女は頷いて、胸に手を当てて微笑んだ。


―お前が構わなくても、王もおれも、他の弟妹たちも、耐えられない。


 彼女は首を傾げた。兄はぐいと尾で岩を蹴るようにして体を押し上げ、彼女の傍へ来ると、小柄な彼女を抱きしめた。


―お前に魔法を授けた蛸の姫は、自分を許せないだろう。もっと早くにお前を止めなかったおれも、面白がってお前の話を聞いた海月の姫も。それから誰より、お前に人間たちを見守る役目を授けた海そのものである父は、海を許せないだろう。


 彼女は兄を、ぎゅっと抱きしめ返した。


 誰かを本当に愛することを知ったから、もう充分なのだと、どうしたら伝えられるだろう。


 彼女は首に掛けていた歌い手の母の首飾りを外し、兄の首へ回した。そして小さな石に左の手のひらで別れを告げながら、右手で海を指した。


―ああ。父に渡そう。

 彼女は頷いた。


 兄は一晩、彼女が声のない歌を歌い、それに合わせて二本の脚で踊るのを眺めて過ごした。


―新月まで、まだ時間がある。お前が戻れる方法を探すから、諦めないでくれ。


 彼女は首を横に振りかけたが、兄の顔を見て、頷いた。


―すまない。諦めさせないでくれ。


 兄はそう言って、夜明けの海へと消えた。


 彼女は海へ帰る手段が、なければいいと思った。間違いばかり犯したから、もう終わりにしたかった。祈るように朝を迎え、夜を迎え、細い月を見送った。


 そしてとうとう、日暮れの海に、見えない最後の新月が沈んだ。次の朝日が、彼女を海に還すのだ。


 夜明けを待つ彼女のところへ現れたのは、海月の姫だった。


―やっと会えた。狙ったところへ行くのが苦手だから、近くまでは来ていたけど、なかなか辿り着けなかったの。


 息を切らせて砂浜に上がってきた海月の姫は、妹を抱きしめた。


―もう朝までしか、時間がないなんて。


 海月の姫は宮廷での話を、彼女に聞かせた。


 王は何にも興味を示さず、黙して動くことさえせず、貴婦人たちの姿も疎で、喜びそのものであるはずの夏の海は、冷たい悲しみになってしまったようだと言った。


 海のあらゆる魔法を使いこなす蛸の魔女にも、魔法を解く方法を作り出せなかったのだとも。


 そこで彼女は初めて、ずっと幼体だった蛸の姫が自分の誕生を境に成人し、父に別れも告げずに出て行ったことを知った。自分が知らぬ間に、優しい蛸の姫を傷つけていたかもしれない、という推測は、もう残り数時間しかない彼女には、荷が重かった。


 海月の姫と彼女は波打ち際に並んで座り、二人とももうできることが思いつかなくて、ぼんやりと黙ったまま時間を過ごした。彼女の耳の中では、歌い手が機嫌よく化粧をしながら歌っていた鼻歌が聞こえていた。


 空の端が明るくなり始めた時、雷に打たれたように、彼女の脳裏に推測がよぎった。


 海の王にも解けない魔法をかけられる蛸の姫に、海が授けた使命とはなんだったのか。


 彼女の短い生は過ちに満ちていた。最後に正しいことをしたいと思ったけれど、声を無くした彼女に出来そうなことは、もうなかった。


 彼女は立ち上がり、海月の姫の手を引いて、海の中へ入って行った。やがて海は深くなり、腰まで、肩まで水に浸かり、海月の姫が彼女を支えてくれた。


 そうして、朝日の最初の矢が彼女の目を金色に輝かせた時、彼女の身体は水に溶けた。


 少しでも引き留めようとするかのように、海月の姫の手が、彼女の体のあったあたりを探ったが、もうそこには、彼女の体は跡形もなかった。海月の姫は絶望的な気持ちで海中へ潜り、ゆらゆらと海底へと落ちてゆく虹色の宝玉に気付いて追いかけ、拾い上げた。


―お父様の傍へ、帰りましょうね。


 海月の姫はそう言った。

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