15. 月夜の舞踏会
海月の姫が行ってしまったあと、書棚にもたれて浮かない顔をしている深海の姫の傍へ、彼は腰を下ろした。
―大したことじゃないわ。舞踏会に行くのが嫌だなあって思ってるのよ。
彼が驚いたように瞬きをして、それから声も立てずに、おかしそうに笑った。
―姉様たちと違って、私は歌も踊りもダメなの。
あなたは得意なのかしら、と深海の姫が聞くと、彼は姫の両手を取った。
―ねえ、私本当に苦手なのよ。
慌てる深海の姫へ、彼はいつものように微笑んだ。
男の二本の脚が砂を巻き上げながら奇妙なステップを刻みながら回りはじめ、諦めた姫は引っ張られるままに任せた。音のない明るい笑い声を上げた彼は、深海の姫の腰を片手で支え、くるりと回りながら砂地を蹴る。小さな渦に乗ると、二人の体は螺旋を描いて舞い上がった。天井近くで渦から降りて、緩く斜め下へ沈みながら片手を離し、姫の体をくるりくるりと器用に回す。
人間だったときはどうだか知らないが、海の中のダンスなんてやったことはないだろうに、彼は楽しげに姫をリードして見せた。
砂地へ背中で着地しながら、深海の姫の体を抱きとめて、彼は首を傾げて深海の姫へと笑いかけた。
―あなたのダンスが上手なのはわかったわ。
深海の姫は、彼の胸へ頭を預けた。なんだかとても疲れたような、無力でどうしようもない気持ちだったのに、彼は彼女を励まし、楽しませようとしてくれている。応える気力があまり残ってはいなくて、ただそのまま体を委ねた。
―自分のことだって、どうしていいかわからないのに、ひとのことまで悩むなんて、馬鹿よね。
深海の姫は呟いた。彼は彼女の髪を撫でて、聞いているようだった。
―私のことなんて、どうでもよかったのに。
彼は深海の姫の顔を引き寄せて、額を合わせた。その目が悲しげに見えたのが、思い込みなのか見間違いなのか、姫にはわからなかった。
―お父様を助けてあげたかったの。それができないってわかったから、何もかも、どうだってよかったのよ。あなたに会うまでは、
深海の姫は言い淀んで、そのまま黙り込んでしまった。彼は姫の頭を自分の肩へもたれさせて髪を撫でながら、あやすようにゆらゆらと体を揺らした。
―あなたの声が聞きたい。どうしてそれが望みではいけないのかしら。
彼は何も、反応を返さなかった。
久しぶりの宮廷で、疲れていたのかもしれない。眠り込んでいた深海の姫が目を開けると、彼はほっとしたように微笑んで、図書室の明かりとりの穴を指差した。
月はすっかり昇ったようだった。真上から差し込む淡い光が、床を照らしている。
深海の姫は気の向かない顔をしていたが、彼は姫の手を引いて図書室を出た。海月の姫との約束を、果たすつもりであるらしい。
月夜の海底は白い砂が光を弾くので、深海の暗闇に慣れた二人には随分明るく感じた。
離れたところから、宮廷の音楽が聴こえた。波のリズムに合わせて、魚たちが大きな泡でぽこぽこ拍子をとり、小型のクジラやイルカたちの楽団が歌っているのだろう。
音の方へと、彼は深海の姫の手を引いて行った。
やがて、遠目にも青い光が回転しているのが見えた。淡く輝くふんわりとした大きな傘の光と、触手の先の少し強い光が、くるくると螺旋を描いている。海月の姫は、もうダンスに夢中らしい。
彼は臆することなく、舞踏会の群れの方へと近付いていく。背中だけでもわくわくしているらしいことがわかった。
声がないのにあれだけ明るく笑う男だから、賑やかな催しも華やかな場所も、きっと好きなのだろう。生きている時は、さぞ明るい太陽が似合っただろう。たまたま船が深い海に沈んだから、あんなに暗い場所にいただけで、たまたま深海の姫と出会ったから、今まで静かで暗い海の底にいただけなのだ。
時折、群れから離れて談笑していたような貴婦人たちが、二人を指差してこそこそと何かを話しているのが目に入った。深海の姫の気持ちは沈んでいった。
ダンスの群れのすぐ近くまでやってきて、深海の姫は後ろ向きに彼の手を引いた。立ち止まった彼は振り返り、いつものように微笑んだ。姫の手を引いて腕の中へ引き寄せ、大きな両手で姫の頬を包んで、額を合わせる。
―大丈夫じゃない。
深海の姫が呟くと、彼はしばらく考え込み、不意に彼女の手をとった。その場でくるりと回してから、もう一度引き寄せて姫の目を指差し、自分の目を指差した。右腕で腰を抱いて額を合わせたまま、左手で姫の右手を取ると、図書室でしてみせたように、二本の脚で緩やかなステップを踏み、ゆっくりと回り始めた。
深海の姫はもう一度、嫌だと言うつもりで首を横に振ったが、彼は微笑んだだけだった。
ステップの回転が小さな渦を作ると、彼は爪先で海底を蹴り、その渦に乗った。遠心力で渦を勢いに乗せながらふわりと上昇し、ダンスの群れへ入ってゆく。
深海の姫は、回転に合わせて、彼の睫毛に落ちる月の光が、明るい茶色の虹彩に影を落とし、きらりきらりと輝かせるのだけを見つめていたから、その時起きたことを、見てはいなかった。
最初こそ貴婦人たちは、眉を顰めて二人に場所を譲ったが、その態度は長続きしなかった。
海月の姫は二人に気付いて楽しげな笑い声をあげると、両手を広げてくるくると回りながら、ダンスの群れの中心を二人に譲った。
貴婦人たちはひとり、またひとりと群れの外側へ、あるいは海底の方へと離れた。皆、二人を避けたのではなかった。貴婦人たちは海の底の柔らかな砂に腰を下ろして、感嘆の眼差しを二人へ向けていた。あの王の子は、あんなに美しい娘だっただろうか。
深海の姫の長く白い尾は、どんな魚よりも美しい螺旋を描き、白い肌と真珠色の目が月の光に煌めいていた。
蒼い海と白い砂に、姫の鮮やかな朱い髪と、透けるような朱い鰭がよく映えた。
異形の男は海に生まれた者のように自在に水に乗り、深海の姫をリードした。
姫にひたと視線を据えた男の整った顔立ちは、たびたび笑みに綻んで、貴婦人たちのどよめきを誘った。
彼はダンスを続けながら、深海の姫を導いた。月の光に長く伸びる玉座の影が、彼の行く道を示した。
王の御前に降り立つと、彼は深海の姫の腰を支えていた右腕をほどき、繋いだ左手を軽く掲げ、右手を胸に当てて、跪いた。
―この子が踊るのは初めて見た。美しいダンスだったよ、見事だった。
顔を上げた彼の唇が、音にならぬ言葉を紡いで微笑んだ。王の顔は見上げる深海の姫からは逆光で、その表情は読み取れなかった。
―君は、約束を違えたね。
王がそう言うと、彼は頷き、頭を垂れた。
―二人を捕らえなさい。
―どうして!
深海の姫が悲痛な叫びを上げて呆気にとられている間に、王の近衛兵をつとめる蟹や海老たちが二人を引き離すと、蛸の近衛隊長が彼を拘束し、貴婦人たちが深海の姫を手に手に取り押さえた。彼は抵抗しなかった。ただ深海の姫の目を見つめたまま、最後に微笑んで、音のない言葉を姫に贈った。
無数の貴婦人たちが壁のように深海の姫の視界から彼を奪い、そのまま姫を囲んで、どこかへと連れて行こうとする。
―待って、お父様、どうして、
深海の姫の声は、貴婦人たちの鰭の作る水音にかき消され、王に届くことはなかった。




