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14. 海月の姫

 深海の姫は図書室の片隅に蹲ったまま、しばらく顔を上げようともしなかった。


 彼はそっとその傍に座り、姫が落ち着くのを待った。


 図書室に選ばれた洞窟には、いくつか光の入る孔があって、太陽の眩しい光から本を守り、活字を読むに適した光が得られるようになっていた。光と生命に満ち溢れた暖かい夏の海の中では唯一と言っていいほど静かな場所で、ここが王の書庫でなくとも、深海の姫が隠れるにふさわしい場所だった。


―ねえ、妹がここにいるって聞いたのだけど。


 図書室の洞窟の入り口から声がして、彼は顔を上げた。覗いていたのは海月の姫だった。青い柔らかな髪と、下半身の半透明の海月の傘は、図書室へ差し込む光に虹色に輝いている。


―あなたは妹ではなさそう。


 やってきた彼を見て、海月の姫は首を傾げた。


 彼は胸に手を当てて礼をし、書棚の隙間で蹲っている深海の姫を指差した。


 ふわふわと図書室の中へ漂ってきた海月の姫は、彼の指した一番奥の、一番下の書棚の岩の隙間に、朱い髪を見つけて表情を輝かせ、書棚の端に手を掛けて、少し苦労しながら深海の姫が蹲っているところまで降りた。海月の傘では、浮かび上がるのは比較的容易だが、狙った場所へ潜るのは難しいようだった。


 海月の姫はかがみ込んで、深海の姫の朱い髪を、白く柔らかな手でそっと撫でた。


―初めまして、かわいい妹。


 ようやく深海の姫が顔を起こすと、まあ、と海月の姫が感嘆の声を上げる。


―聞いてはいたけれど、不思議な真珠色の眼をしているのね。


 なんて可愛い、と海月の姫は、陽の光が波を揺らすように笑った。


―姉様は、気味悪く思わないの。


―ああ、そんなことを言うのは、お魚ちゃんたちね。宮廷の貴婦人たちでしょう。


 深海の姫は頷いた。


―あの子たちは夏の間中、お父様の取り合いっこをしているから。あなたがお父様のお気に入りなのが気に入らないの。だから気にしちゃダメ。


 海月の姫は妹の両手を取って、ふわりと浮かんだ。


―あの子たちはね、お父様の魔法であの姿になっているだけで、本当は普通のお魚なの。もちろん寿命が来たら死んでしまうし、お父様の魔法が解けたらただのお魚に戻ってしまって、恋の駆け引きも理性も嫉妬も、みんな忘れてしまう。だからみんな必死なの。今の間にたくさん愛してもらって、たくさん卵を産まなきゃいけないから。


 くるり、くるりと、海月の姫は話しながら、妹と手を繋いだまま、楽しげに回りはじめた。


―私たちは王の子と呼ばれているけれど、お魚の子供じゃないの。お父様の子供でもないかも。お魚の卵は借りるけれど、生まれてくるのはお父様の分身のようなものよ。


―お父様を助けるために使命を持って生まれる、って鰯のお兄様から聞いたわ。


 海月の姫が、そうよ、と頷いた。


―世界はどんどん広くなるし、複雑になるから。お父様の手に負えなくなったところを助けてあげられるように、それに適した姿で、私たちが生まれる。あなたには深い海の底に、やらなきゃいけないことがあるのでしょう。


 深海の姫が頷くと、海月の姫は深く頷き返した。

―それが大事。私たちも、どんな生き物たちも、生きる場所に適した姿に生まれるのだから、みんな美しくて可愛くて、愛おしいもの。


 そう言って、海月の姫は深海の姫の手を引いて、乗っていた水の渦から降りた。回転が止まっても、まだ回っているような気がした。


―今夜は満月だから、夜の宮廷で舞踏会があるの。あなたもいらっしゃい。あなたのかわいいあの子も連れてね。


 海月の姫は、図書室の隅にいた彼に手を振った。彼は一瞬戸惑ったようにぱちぱちと瞬きした後、組んでいた腕から小さく手を振りかえして、ほっとしたように微笑んだ。


―聞かないの?


―聞いて欲しい?


 深海の姫は黙ってしまった。海月の姫は、当ててみましょう、と言って、悪戯っぽく笑った。


―あの子は人間の形をしているけれど、人間たちは海では生きられないから、人間のはずがない。あなたは深海に役割がある。


 首を傾げて考え込んだ海月の姫は、思い出したようにこう言った。


―夜の海でね、海面近くをみんなで、みんなっていうのは、海月たちや、もっと小さな子たちなんだけど。


 少し明るいけれど見えるかしら、こうやって、と海月の姫は、丸く広がった海月の傘と長く伸びる触手を、淡く光らせた。


―みんなでこうやって、海の中に夜空を作るの。ああ、あなたは海の上に出たことがないのだっけ。


 夜空、と深海の姫が呟いた。本の中では読んだことがあった。


―海の上には空があって、夜の空の上には星がある。夜空はとってもきれいよ。暗くて深くて、海の中とよく似ているわ。でも、空には底がないの。底のない空いっぱいに、海の生き物たちの数に負けないくらい沢山の星が光っている。


―そんなにたくさん光っても、暗いの。


―海月やプランクトンたちが海を明るく照らせないのと、少し似ているわ。


 深海の姫は頷いた。


―私たちが光ると、海の中が夜空になる。そうしたらね、


 海月の姫は、深海の姫を見つめた。


―海の底から、小さな光がたくさん昇って来るの。私たちの光を目印にして。そうしたら、海の中も、海面も、夜空も、境目が分からなくなるのよ。私たちは波に乗ってふわふわ浮かんで、私たちに良く似た星たちに会いに行く。海月たちも、プランクトンたちも、海の底から来た小さな光たちも。


―それって。


 海月の姫は頷いた。


―昔々、死んだ人間たちから離れた魂たち。魂たちはなぜか、水に呼ばれて海にたどり着いて、深いところへ沈むのね。だんだん崩れて小さくなって、軽くなったら空へ行くみたい。


 深海の姫は、少し離れたところにいる彼の方をちらりと伺った。彼は姉妹をそっとしておいてくれようとしているのだろう、書棚に積まれた本の、背表紙を眺めている。


―あの子は、死んだ人間の魂なのね。人間の形をしているのは、初めて見たわ。


 目を丸くしている深海の姫へ、海月の姫は首を傾げた。


―そんなに驚いた?でも、私は光が見えるだけよ。


 あなたはそうじゃないのでしょう、と海月の姫が聞いた。


―だけ、ではないわ。お姉様は、光でたくさんの魂を導いてあげられるのだから。


 深海の姫がそう言うと、海月の姫はぱっと顔を輝かせた。


―じゃあ私、彼らの役に立っているのね。


 深海の姫は呆気に取られた顔をした。


―知らなかったの。


―綺麗だなって思っていたけど、お父様はあれが、人間の魂が砕けて小さくなったもの、としか言わなかったのだもの。ふふ、きっと人間たちも細かく砕けると、私たちの仲間になるのね。


 合点がいったようで、海月の姫は満足そうに、何度も頷いた。


―私には、いつも彼らの声が聞こえているの。聞くのが役目なのだと思ってきたけれど、違ったみたい。


 深海の姫は、書棚の前で本を開いている男の背中を見た。


―彼も人間の魂のはずだけれど、なぜか他の魂たちを導くことができるの。


―だから、彼が必要?


 海月の姫が妹の顔を覗き込むと、深海の姫は首を横に振った。


―だから、じゃない。


 そうよね、と海月の姫は笑った。


―誰だって、誰かが必要なのよ。広い海で暮らすのにはね。シャチの兄様はシャチの王の腹心の友だし、イルカの妹とイルカの王は仲の良いペアであるように。


 話しながら、何を思い出したのか、海月の姫は笑いだした。


―私はね、独り立ちの時、お願い事を言いなさい、って言われた時、お父様の前で怒られちゃった。


 怒ったのはシャチの兄様なのだけど、と海月の姫はくすくす笑っている。


―クラゲってね、二つに割るとそれぞれ再生するの。だから、私が二人いたら寂しくないなあって思って、お願い事を叶えてあげよう、何でも言いなさい、って言われて、縦半分に切ってくださいって言ったのよ。


 深海の姫はぞっとした顔をしたが、海月の姫は楽しそうに笑い続けている。


―シャチの兄様ったら、なんて怒ってたのか、もうすっかり忘れちゃったけど、お父様が割り込めないくらいに怒っちゃって。半分に割るとそれぞれ再生して二人になれるなんて、信じられなかったのね。


―じゃあ、海月の姉様は二人なの。


―二人で一人。宮廷に来るのは交代よ。近くで待っているの。兄様にもお父様にも内緒だから。お父様はどうせ、知っているのだろうけど。


 海月の姫は、突然笑うのをやめた。


―お父様だってね、私たちと同じ。お寂しいのよ。


―同じこと、蛸の姉様も言っていたわ。


 深海の姫がそう言うと、海月の姫は表情を曇らせた。


―あの子は、独り立ちが随分遅かった。生まれたのは私よりも先だったけれど、幼体のままずっとお父様にべったりでね。短くてふくふくした脚の可愛かったこと!あんなに長くて器用な脚になってしまって、逃げようとしても吸盤でしっかり捕まえるものだから。


 逃げなきゃいけないようなことをしたの、と聞きかけて、深海の姫は質問を飲み込んだ。海月の姫の話はふわふわ漂っていってしまうようだから、できるだけ脱線させないように、気をつけねばならなかった。


―いなくなってしまった妹のこと、聞いたことがあるでしょう。あの子が生まれてすぐ、急に蛸の姫は大人になって、逃げるように宮廷を出て行ってしまったそうよ。


 私はその頃宮廷にいなかったのだけど、と海月の姫は言った。


―お守りの飾り環も、お父様の祝福も、願い事も、一つも貰わずに出て行って、一度も宮廷へは戻っていないの。


 深海の姫は、蛸の姫に出会った時のことを思い出していた。あの時蛸の姫は、お前もお父様を捨ててしまうんだね、と言った。深海の姫はもう二度と宮廷に戻るつもりはなかったし、そういう覚悟ではいたから肯定したけれど、姉からぶつけられた強い言葉に、驚きはした。それほど強い決心で父を捨てたのは、蛸の姫だったのだ。


―変な話になっちゃったわね。あの子には、私が話したって言わないで。また怒られちゃう。


 海月の姫はさして反省したようでもなく、肩をすくめて舌を出して見せた。


―もうすぐ日の入りかしら。月が明るくなったら舞踏会が始まるから、絶対来てね。


 深海の姫が頷けずにいると、海月の姫は、ねえ、と書棚の前で本を開いていた男へ声を掛けた。


―聞いてたでしょう。今夜の舞踏会、この子を連れて来てあげて。お魚ちゃんたちなんて、気にすることないんだから。


 彼は深海の姫と海月の姫の顔を交互に眺めて首を傾げたが、お願いよ、と海月の姫に念を押されると、微笑んで頷いてみせた。

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