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12. 深海の姫の望むこと

 夢を見ていた。


 闇に溶けた深海の姫を、大きな大きな手が掬い上げた。


 その手は形を無くしていた姫を、優しく指先でなぞって姿を与え、そっと柔らかな砂の上へと寝かせてくれた。


 低く、優しい歌が聞こえる。


 ああ、お父様の歌だ、と気付いたところで、意識が身体に引き戻された。




 夢の通り、柔らかな砂の上で眠っていたらしい。


 引き裂かれたはずの体は痛みもなく、傷ひとつなかった。目を開けると、すぐ傍に横たわっている彼の横顔が目に入った。そっと手を伸ばして頬に触れると、睫毛が揺れた。瞼がゆっくりと持ち上げられる。茶色の眼が現れ、彼が深海の姫の方へと、その頭を傾けた。瞬きをひとつして、ぼんやりしていた眼の焦点が合い、姫を見つめる。彼は微笑んで左腕を伸ばし、指先で深海の姫の頬を撫でた。


 あの暗闇に食われて失われたはずの彼の左腕も、両脚も、元通りに戻っていた。深海の姫は、頬を撫でる彼の左手を捕まえた。指を絡め、手の甲を撫で、手首から肘へ、肩へ。彼は頷いて、彼女を抱きしめた。彼の大きな手は鮮やかな朱色の髪を梳いて撫で、細い背中の浮いた背骨が足りているかを数えるようになぞった。


 それから彼は体を起こすと、上を指差した。


―上へ?


 深海の姫が聞くと、彼は頷いて、彼女の手を取った。彼のつま先が海底を蹴り、ふわりと二人の体が浮き上がる。彼の腕が、深海の姫の体を支えて引き寄せた。


 やがて、姫の鮮やかな朱色の髪が仄かに差した光に照らされると、彼は髪の房を捕まえて口付け、目だけを上げて微笑むと、両手で深海の姫の頬を包み、唇を重ねた。一度、二度、三度、触れるだけの口付けを繰り返してから顔を上げ、愛おしげに頬を撫でる。


 彼の唇が小さく動いて、深海の姫には聞こえない音を紡いだ。


 彼は手を離した。


 そのままふわりと一人、浮かび上がっていく。呆気にとられていた深海の姫は、離れてゆきながら姫を見つめ続ける彼の茶色の眼に、縛り付けられたように動けなかった。


 彼の眼が逆光で見えなくなった時、深海の姫はようやく動いた尾で、水を蹴った。


 彼は次へ巡るために、行ってしまうつもりなのだ。今までと何が違うというのだろう、それなら、最初に水面近くへ連れて行った時に、消えてしまえばよかったのに。


 深海の姫の尾は、速く泳ぐのには適さない。それでも姫は浮かんでゆく彼に追いつき、その手を捕まえ、彼の首へ縋るようにして、唇を重ねた。今すぐ消えてしまえないように海の命を分け与え、海の底へ向かって彼を引き戻す。


 暗い方へと沈んでゆきながら、深海の姫は、腕の中の彼がくしゃりと笑うのを見た。




 海底の柔らかな砂に受け止められても、しばらく二人は、どちらも動かなかった。


 深海の姫は顔を上げて、彼がもう一度光を目指そうとするのを見たくなかった。本当は巡る命を留めることなんてするべきでないはずなのに、どうしても彼の手を離したくなかった。ぎゅう、と胸の奥が引き攣れて痛む。あの何もかも飲み込んでしまう濃い暗闇が、胸の奥で蠢きはじめたような気がした。


 腕の中で強張る深海の姫の体に気付いたのだろう、彼の大きな手が、姫の背中を撫でた。心臓の裏を大きな手のひらが通るたび、ぎゅう、と胸の奥が締め付けられる。


 心配そうに深海の姫の顔を覗き込んだ彼へ、姫は何をどう伝えてよいかわからなかった。


―私にも、涙があればよかった。


 流すことができれば、あの暗闇はあんなにも濃くならずに、海に溶けて消えるのに。


―何も望みなんてなかった。あなたに会うまで。


 海の王に願い事をと聞かれても、父をあの声から自由にしてあげることしか、望みはなかった。それなのに今は、胸の中に渦巻く感情を溶かして流す涙が欲しい。深海の姫の耳には届かない、彼の声が欲しい。彼にずっと、傍にいて欲しい。


 海の王の宮廷を離れるとき、王は深海の姫に、どうしても叶えたい願いができるまで、願い事はとっておきなさい、と言った。


 彼とずっと一緒にいたい、という願いを、父に告げるのは違う気がした。一緒にいるかどうかを決めるのは、父ではない気がする。彼自身の意志を聞くのは怖かったし、彼自身に決められることでもないようにも思えた。本当は次の命へ巡っていくべき彼を永遠に引き留めて、ずっと一緒にいたい、なんて、随分自分勝手だ。


 けれど、彼の声なら。


―お父様なら、あなたの声を、私にも聞こえるようにしてくださるかもしれない。


 深海の姫は体を起こした。


―海の王の宮廷へ、一緒に来てくれる?


 彼はほんの一瞬躊躇ったあと、頷いた。




 海の王の宮廷は、季節により、日により場所を変える。イルカの姫の鰭であれば帰るのも難しくないのだろうが、ただでさえ泳ぐのに適さない深海の姫の長い尾と、彼の二本の脚の移動では、不可能にさえ思えた。


 蛸の姫が海での移動を教えてやろうと言った時には、二度と戻るつもりはなかったのだ。


 海溝を出ると海底ですら海は眩しいほどに明るく、生命が溢れて息苦しいように感じられた。見上げれば魚群が煌めき、岩場には色とりどりの海藻がみっしりと生えて、さまざまな色や形の生き物たちが所狭しと暮らしている。深海にだってたくさんの生き物がいたけれど、もっと物静かで奇妙な生き物たちが、お互いに関わりたくないとでもいうかのように、ひっそりと暮らしていた。


 深海の姫は今すぐ海溝の底に帰りたいとさえ思ったけれど、もう戻る道すらわからなかった。


 彼は明るい海を楽しげに見回し、時折色鮮やかな小さな海老や小魚など、美しいものをそっと手に捕まえては、深海の姫に見せようとした。それでも姫の表情が晴れないのを見ると、寂しげに彼らを元の場所へと返してやるのだった。


 そうやって二人がやけに明るい海を移動し始めてしばらくが経った頃、海面近くから姫を呼ぶ声がした。見上げても、太陽を乱反射する水面が邪魔をして、どこに声の主がいるのか分からずにいると、目の前に突然、黒と白の力強い尾と長く艶やかな髪を翻し、シャチの王子が降りてきた。


―宮廷へ向かうのか。


 シャチの王子と会うのは、宮廷の図書室に彼が来て以来初めてだったが、挨拶もなく唐突に、シャチの王子はそう聞いた。


―兄様。


 どうしておわかりに、と深海の姫が聞くと、シャチの王子は軽く眉を(しか)めた。


―お前がこんなところにいる理由が、他にあるか。


 それはお前の連れか、とシャチの王子は男の方を見た。深海の姫が頷くと、シャチの王子は群れの若いシャチを手招き、呼び寄せた。


―二人で背鰭に掴まれ。振り落とされんようにな。


 送ってやろう、とシャチの王子は言った。


―礼は要らん。お前たちでは、何十年あっても宮廷に着かんだろう。


 若いシャチが早く、と急かすように鳴いた。深海の姫が先にその背鰭を掴み、彼は姫の長い尾に跨るようにして、彼女の体が振り落とされないように、両足でシャチの体に掴まった。


 若いシャチは、深海の姫の知らない速度で泳いだ。顔に当たる水が苦しくて何度も顔を伏せ、飛ぶように過ぎていく景色に目眩がするようだった。


 背中に押し当てられた彼の胸が震えていて、聞こえなくとも楽しげに笑っているのがわかった。振り返れば明るく輝く茶色の眼と、黒く見えていた髪が明るい陽の光に透けるとどんな色なのかが見られただろう。


 深海の姫の胸はまた、海の底へと引き摺り込むように引き攣れて痛んだ。だから振り返る代わりにシャチの背中へ顔を伏せ、目を閉じた。


 シャチの群れは海流に乗り、瞬く間にもっと明るい珊瑚礁の海へとたどり着いた。


 季節は夏。海の王の宮廷は、生命の溢れる暖かな海に来ているのだった。


 シャチの王子は二人を乗せた若いシャチを連れ、群れから離れた。


―図書室でいいか。


 深海の姫が頷くと、夏の宮廷の図書室となっている大きな洞窟へと、二人を下ろした。


―父に会って来るが、呼んで来て欲しいか。


 深海の姫はこの大柄な言葉少ない兄が、慎重に気を遣ってくれているらしいことに、気が付いた。どうだ、と問われて慌てて首を横に振ると、そうか、と言っただけだった。


 洞窟から出て行こうとした兄へ、深海の姫が慌ててありがとう、と言うと、シャチの王子は振り返り、無表情に頷いて、行ってしまった。


 深海の姫は図書室の書棚となっている岩に背中を預けて長い尾を引き寄せ、目を閉じた。孵化して間もない頃、こことは違う洞窟にあった王の図書室のことを思い出していた。宮廷の中では貴婦人たちに嫌がられ、視界にも入れたくないように避けられて、とうとう図書室にしか居られなくなった。父には、どうしても言えなかった。避けられるのが嫌なのか、避けられるような醜い自分の容姿が嫌なのかが、わからなかった。


 それと似ているかもしれない。


 王の子にしては随分醜い自分が、王の嫌う人間の男を連れて厚かましくも御前へ出て、王の御前で宮廷の貴婦人たちに謗られるのが嫌なのか、謗られるようなことしかできない自分を愛してくれる王に申し訳なくて嫌なのか。今でもわからない。


 いつの間にか書棚を眺めていた男が、深海の姫の傍に腰を下ろしていて、姫が彼を見たのに気付くと、微笑んでみせた。


 いつものように、大丈夫、と姫には聞こえない声で言って欲しかった。けれど、きっと彼は言ってくれないに違いない、と深海の姫は思った。


―行こう。


 深海の姫が手を伸ばし、彼はその手を取った。

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