11. 希望を喰らう底なしの闇
この先に、世界の海で最も深い場所がある、とイルカの姫は深海の姫へ教えた。
―そこから海より深くて暗い場所へ向かう、洞窟があるそうよ。私たちはそれほど暗い場所が得意じゃないから、行ったことはないけれど。昔、お父様が教えてくださったの。
海の王は、好奇心あふれる娘とイルカたちが、危ない場所へ入り込まないようにと教えたのだろう。それが深海の姫を導くことになるとは、思いもしなかったに違いない。
イルカの姫と王と別れて、二人はまたゆっくりと、深い海の底へと沈んでいった。
彼は深海の姫の手を引き寄せて抱きしめ、そのままゆらゆらと沈んでゆくのに任せた。見上げた深海の姫の視界で、イルカの王と姫の力強い鰭が、海面から差し込む光をきらめかせて、遊ぶように昇っていった。イルカたちの歌がかすかに聞こえている。群れが近くで待っていたのだろう。
暗くなってゆく視界の中で、ぱちりぱちりと瞬きする彼の眼が、いつまでもかすかな光を弾いて、二つの星のようだった。
やがて柔らかな堆積物に受け止められて、二人はしばらく、そのまま海底に横たわった。死んだ人間たちの嘆きは聞こえていたけれど、深い海の底は静かだった。目を開けていても閉じていても大差ないほどの視界しかなく、ただ抱きしめてくれる体の感触だけが、安らかに感じられた。
疲れていたのかもしれない。どれくらい、暗くて柔らかな水の底で横たわっていたのだろう。
海の水全てが揺れるような、地響きのような音がして、深海の姫は顔を上げた。姫が手を挙げると、どこからかアンコウが戻ってきて、ほんの少しだけ辺りを照らしてくれた。
また地響きのように、海の水全てが低く唸って揺れた。深海の姫は、彼と顔を見合わせた。彼は姫の手を取って、音が響いて来ると思しき方へと進みはじめた。
深海の姫は彼の手を、逆方向へと引いた。どうしてもその音が怖かった。なぜか、いつもひっきりなしに聞こえていた死んだ人間たちの嘆きの声さえ、聞こえなくなったからかもしれない。以前はあんなに怖いと思っていた暗闇を纏う亡霊たちの苦痛の叫びさえ、聞いていたくなかっただけで本当に恐れていたわけではなかったのだと気付かされるほど、地響きのようなその音は深海の姫にとって恐怖そのもののように感じられた。
ただ昏い水を、低い低いあの音が、また揺らしていく。
彼はいつものように、深海の姫の頬を両手で包んで、真珠のような眼を見つめた。
姫が小さく震えているのに気付いたのだろう、姫の頬や瞼にキスをしてから、大きな手で姫の両の手を包んだ。しばらくそのまま俯いていたが、ぎゅっと姫の手を握り、それから決心したように離した。
―だめ。
深海の姫が離れたその手を捕まえると、彼は困ったように微笑んだ。深海の姫は彼を見つめると、不意にその手をとって、進み始めた。
深海の姫の手は震えていたけれど、彼を一人で行かせるのは嫌だった。この先に何があるのかも、どうしてこんなに恐怖を感じるのかもわからなかったが、これは深海の姫自身の役目と関わりがあるのだろうとも、薄らと感じていた。
海底はまだ平らに続いていたが、やがてより暗く冷たくなっていった。地底に入ったのかもしれないし、ただ冷たい海流が流れ込んで溜まっているのかもしれない。その判別もつかなかった。
深海の姫はとうとうアンコウを引き返させて、もう一度手を挙げた。淡く光ったのはプランクトンか、藻類か。とにかく、水全体がほんのりと明るくなった。
いつの間にか足元はやわらかな砂と堆積物から、黒くざらついた岩盤に変わっていた。急に暗くなったように感じたのは、白かった足元が急に黒くなったからかもしれない。
また水が低く揺れて唸った。音の発生源は近付いているようだった。深海の姫は彼の手をしっかりと握り、できるだけ離れないように進んだ。
前方に丸く、明るい光が見えた。近づいていくと、徐々にそれが洞窟の出口だとわかった。丸い出口の外は明るく、出口の向こうに広がる艶のある岩盤が、てらてらと光っている。次に水が低く唸ったときには、足元の岩肌までもがびりびりと揺れるようだった。
二人は恐る恐る、洞窟の出口から向こうを覗いた。そこは大きな空間で、二人のいる洞窟は天井近くにその口を開いていた。明るいものは、見下ろした先にあった。
それは、ゆっくりと進んでゆく粗末な木造の船だった。四角い木箱のような屋形が乗せられ、船縁には数えきれないほどの蝋燭が灯されている。
海の中で蝋燭が燃えるはずはない。深海の姫は本で読んだことがなければ、それが蝋燭で、ゆらゆらと明るいのが炎であるとも、わからなかっただろう。
だからその船は、船そのものが亡霊なのだろうと思われた。二人は洞窟の出口から空洞の底へと降りて、船を追った。
また低く、水が振動した。
びりびりと肌を粟立たせるような不快な音の発生源は、船の向かう先にあるようだった。
深海の姫の耳に、キン、と痛いほど高い音が通った。驚いて思わず耳を押さえた姫を、彼は気遣わしげに覗き込んだ。
―海の向こう、海の底、地の底に、永遠の国があると信じている。
深海の姫の口をついて、言葉が零れた。
―民草を導かんと、私は船へ乗り込んだ。常世の国の王へ、現世の救済を願うための旅であった。私が乗り込むと入り口は封じられ、船は沖へと曳いて行かれる。あとは波が、運命が常世の国へと導いてくれるよう、祈り続けるだけだ。昼夜問わず、飲まず食わず、祈る声が掠れて出なくなろうとも。
船は深海の姫たちを待っているように、前進をやめている。あの低い音が水を、岩をびりびりと揺らしたが、船の蝋燭は揺らぎもせずに、静かに燃えていた。
―そうして、ああ、とうとう辿り着くのだ。常世の王が呼んでおられる。
船がまた、ゆっくりと前進を始めた。
死んだ人間の灯す蝋燭が、荒い岩肌をぎらつかせている。二人は船を追った。足元は緩やかに降ってゆき、天井は船の屋形に触れるほど低くなっていった。行く手が明るいのが見えてきた。また狭い出口があり、その先に広い空間が広がっているらしい。
前を行く船は広い空間へと滑り出し、二人も出口にたどり着くと、その先を見下ろした。
先の空間もかなり広いと思ったが、今度は比べ物にならないほど大きい、球形の空洞だった。その中央に、亡霊たちが纏うのよりももっと濃い影が凝ったような、丸く、限り無く昏い闇が、ぞわぞわと蠢いている。
明るいのは、その闇の周囲を驚くほどたくさんの船がぐるぐると回っていたからだった。さっきの船のような、粗末な木造船が多かった。ただの木箱のようなものもあり、どうやってここへ来たのかもわからないような、巨大な帆船もあった。深海の姫が見たことのない、イルカのような形で、その胸鰭を海鳥の翼のように大きく伸ばしたようなものもあった。その船たちがみな無数の灯りを灯しているので、とてつもなく広い空間を余すところなく照らして、岩肌をぎらつかせているのだった。
深海の姫の耳に、キィンと幾つもの高い音が入った。痛みすら感じるようなその音に、深海の姫はまた耳を押さえたが、塞いだところで防げるはずもない。よろめいた姫を、彼は抱きとめて支えたが、姫の眼に、彼は映っていなかった。
―怖い。
流れ込むのは、音だけではなかった。亡霊たちの記憶そのものが、深海の姫の頭の中へ流し込まれているようだった。
―みんな、誘い込まれたんだ。常世の国を探して、宝を探して、世界の果てを、新しい世界を探して、この向こうに求めるものがあるんだって、みんなもう死んだのに、まだ信じている。
深海の姫が呟いた。彼は姫の頭を支えて頬を撫で、彼女の意識を引き戻そうとした。真珠のような眼がようやく焦点を結び、彼を見た。彼はほっとしたように、姫を抱きしめた。そしてくしゃりと顔を歪め、それを隠すように姫の肩へと、額を押し付けた。
―これは私の役目でもあるのよ。あなたのせいじゃない。
深海の姫は、彼の柔らかい髪を撫でた。
―けれど、あれにどうやって立ち向かえばいいか。
彼も顔を上げて、二人は下を見下ろした。あの低い音は、真ん中で蠢く濃い闇から響いているらしかった。鳴るたびに反響して、岩肌も水もひどく揺れるのに、船たちの灯りは揺らぎもしない。
と、二人の見ている前で、蠢いていた闇から長い腕が伸びた。
最初のそれが一艘の船べりを掴むと、それを追うように闇の中から無数の真っ黒い手が伸びた。その手が蝋燭を倒し、炎を消しながら、船を昏い闇の中へと引きずり込んでゆく。
断末魔のような叫びが響いた。聞き慣れた亡霊たちの嘆きにも似ていたが、最後の力の限りを尽くした、聖職者の祈りだったのかもしれない。
呆気に取られていたところへ真っ黒な手がするりと伸びて、深海の姫の尾を掴んだ。一瞬で彼の腕から奪い取られ、ずるりと引きずられていく。突然のことに、深海の姫は悲鳴すら上げられなかった。
彼は岩肌を蹴り、驚くような速さで黒い手に追いつき、組み付いた。長く伸びた腕を引きちぎるようにして深海の姫を奪い返したが、千切られたところから爆発するように伸びた無数の腕が二人を掴み、丸く凝った濃い闇の方へと引き込もうとした。
彼は次々に暗闇の腕を千切ったが、引きちぎった以上の数が伸びてくる。敵うはずもない。彼は深海の姫を守るように抱き、姫に絡む暗闇を引きちぎって自由にすると、その細い肩を思い切り突き飛ばした。姫の長く残る尾をつま先で蹴り、少しでも黒い腕から遠ざけようとした。
深海の姫は無数の腕が彼を呑み込む前に、彼が微笑むのを見た。
考えるよりも先に、深海の姫はその身を翻し、暗闇の中へと飛び込んでいた。
手を伸ばし、感触のない真っ黒な長い腕をかき分けて、掴んだのは彼の肩だった。自分の体を彼の方へ引き寄せるように押し込み、光よ、と呼ぶ。どんな光も吸い込むようなその黒い闇が、微生物たちの淡い光に、一瞬だけ薄められた。脅すように濃い闇が震え、あの低い音が繰り返し響く。深海の姫はその隙に彼の肩を抱き寄せて、長い尾で思い切り、彼女の出来る限りの力で闇をかき分けた。
伸びてくる長い腕は掴もうとする腕だけでなく、鋭い爪をもっていた。彼らの爪は深海の姫の全身に傷をつけ、鰭を引き裂いたが、姫は繰り返し光を呼んで少しずつ体を闇の中から引き抜き、とうとう伸びる黒い手から逃れ、最初に通った通路の内側まで逃げ込んだ。
彼は目を開けると、悲しげに笑った。右手を伸ばし、傷ついた深海の姫の薄い鰭を撫で、淡く水に溶ける血を流す頬の傷に触れぬように、姫の頬を手のひらで包んだ。
彼の左足は付け根から、右足は腰の辺りまで、左腕は肩から、既にあの暗闇に食われ、失われていた。彼は既に生命を持つものではないから、流れる血はなかった。断面にも肉はなく、ただ空白だけがあった。
深海の姫は彼の体を、力の限り抱きしめた。胸の奥に開いた空洞が、埋めてくれる何かを欲しがって、引きずり込みたがるように疼いて痛んだ。彼をそこへしまい込んで、埋めてしまえたらいいのに、それはできないのだった。
彼は残った右腕を深海の姫の背中へ回し、落ち着かせようとするように撫で続けた。
しばらくすると、彼は腕を解いて少しだけ姫の体を押し、離させた。深海の姫を指差して、次は来た道の方を指差す。それから自分を指差して、あの暗闇の蠢く方を指差した。
深海の姫は何度も、首を横に振った。胸が痛くて苦しくて両手で押さえ、彼の前に蹲った。人間たちはこういう時に泣くのだろう、と深海の姫は他人事のように遠く、本で読んだ感情を思い出した。海で涙は流せない。悲しみは行き場を失って、強い酸のように胸の奥に穴を開けるばかりだ。
その時、ころりと何かが転がった。ひとつ、もうひとつと、深海の姫の前を丸いものが落ちてゆき、黒い岩肌へと転がった。
深海の姫は顔を上げた。男は姫を見つめていた。その赤くなった眦から、海では流せない涙が溢れると、頬を転がるうちに水晶になって落ちていく。彼は深海の姫の代わりに、彼女の流せない涙を零しているようだった。
深海の姫が手を伸ばし、彼の頬を撫でると、彼はその手にすり寄るようにして目を閉じた。伏せた眦から、小さな水晶が落ちていった。
―あなただけ行かせるなんて、できない。
深海の姫が言うと、彼は首を横に振った。
―だめ。あなただけの使命じゃない。だから、海と人、半分ずつ。
あなたは人、私は海、と深海の姫は言った。俯いた彼はまた、首を横に振った。
―大丈夫、って言わないのね。
深海の姫がぽつりと言うと、彼は顔を上げた。見開いた目から、ほろほろと水晶が零れ落ちた。
―私が怖がると、大丈夫、って言ってくれたでしょう。
彼は力なく、首を横に振った。
―じゃあ、今度は私が言う番。
深海の姫は彼を抱きしめて、その耳元へ、大丈夫、と呟いた。彼はまた、水晶を零した。
その、大丈夫、に根拠はなかった。
無事ではいられないだろう。確かにあの暗闇に食い尽くされるのは、恐ろしかった。
あの黒い腕が無数の死んだ人間の魂たちであるのは、間違いなかった。それでも、あれをどうこうするのは、本当に彼女の役目だろうか。それさえわからなかった。食い尽くされてしまっては、彼らを次の命へ巡らせてやることはできないかもしれないが、他に方法が思いつかない。深海の姫のもつ永遠の命を飲み込んだら、少しは満足するだろうか。
深海の姫は彼の体を抱え、安全な通路から空洞へと降りた。すぐに黒い手が伸びて彼女の尾を捕らえ、中央に凝った暗闇の方へと引きずってゆく。彼女は彼をしっかりと抱きしめた。
―離さないでね。
深海の姫の腕の中で、彼は頷いた。
ずるりと暗闇の中へ呑み込まれると、無数の手が二人の体を切り裂き、何もかもを引きちぎろうとするかのように襲う。暗闇そのものが尖った爪のある手となり、視界を極限の黒に染め、低いあの音が、意識をすり潰そうとするかのように鳴り続けていた。
深海の姫は抱きしめた彼に口付けて、海の命を分け与えた。
痛みと苦しみと轟音の中で、互いの掌と唇の感触だけがあった。
胸の奥に開いた穴が、ぎゅうと引き攣れるように痛くて苦しくて、本当はこんな暗闇に取られてしまうなら、彼にその空白を埋めて欲しかった。
ああ、この濃い暗闇はこの痛みに似ているんだ、と深海の姫は薄れゆく意識の中で気がついた。この海の全ては海の王そのものなら、この暗闇も、海の王の一部なのだろうか。
―お父様。
深海の姫の声は、何もかもを呑み込む暗闇に吸い込まれて、そして消えた。




