10. 狩られた魔女と子供たちの物語
彼は何者だったのだろう、と深海の姫は繋いだ手を見つめていた。
金色のホイッスルは、初めから彼の胸元の鎖の先で揺れていただろうか。なぜ、彼は亡霊たちを光の方へと送ってやれるのだろう。彼自身も、ただの死んだ人間の魂であるはずなのに。彼もいつかは、行ってしまうのだろうか。
先を行く彼が振り返った。以前より海底で動くことに慣れたのか、深海の姫を抱いて勢いよく回ると、そのままくるりくるりと水の渦に乗って回り続け、姫の長い朱い髪にくすぐられて、音もなく笑っている。
きっと彼は、こんなに暗い場所にいるべきではないのだろう、と深海の姫は幾度となく考えた。光の似合う柔らかな茶色の眼も、姫には聞こえない笑い声も、きっと明るい場所にあるべきなのだと思われた。
それなのにあの時、どうして彼は光に溶けてしまえなかったのだろう。
深海の姫が考え事に沈んでいると、彼はいつものように姫の頬を両手で包み、真珠のような眼を覗き込んで微笑んだ。大丈夫、と言うかのように、いつものように。
イルカの姫と王であれば、驚くような速度であっという間に長距離を泳いでゆくが、深海の姫の鰭ではそうは行かない。少し泳いでは休む必要があったし、一度に進める距離だって、すぐそこまでだった。彼は海底を二本の足で、陸を歩くように歩いて進み、時折休んでいる彼女の両手を引いて進むこともあった。初めは急いでいるのかと休憩を切り上げたりしたが、彼は笑って首を横に振った。姫の手を引くのを、楽しんでいるらしいのだった。
そうして進んでいた時、急に彼が足を取られて前方へのめった。驚いた彼が足元を見たが、ただ暗いだけだった。先を行っていたアンコウが、二人が追いついてこないので戻ってきた。アンコウの淡い光で照らされても、彼の足元は暗いだけだった。
その時、弱々しく暗闇が泣いた。
二人は顔を見合わせた。彼は屈んで足元を探り、輪郭のぼんやりとした魂を、彼の足に絡む暗闇から抱き上げた。まだ足元の暗闇は、力なく泣いている。最初に抱き上げた魂を深海の姫に預け、彼はもう一度、暗闇の中に手を突っ込んだ。
深海の姫は辺りを見回した。微かな泣き声が、そこかしこから聞こえてきた。増えている気がする。
彼は足元からまた小さな魂を抱き上げたが、彼もまた、周囲に無数の魂たちがいることに気付いたらしい。辺りを見回して、動かせないらしい足を見下ろしている。澱んで絡む闇に覆われて、彼のつま先は見えなかった。
深海の姫の耳元をふわりと水が流れ、女の声が聞こえた。
―彼女は村から遠い大きな屋敷に、一人で住んでいた。
深海の姫が呟くと、途方に暮れたように足元を見ていた彼が、姫を見た。
―不運な女たちが、彼女を頼ってやってきた。望まれぬ子を彼女は何人も堕し、何人も取り上げた。女たちが子供を連れて帰ることは、稀だった。幾人かの女は彼女の傍で、子供たちや女たちの世話をするために残った。里親の見つかった子供たちは、幸運だった。
彼は抱いた魂を、ゆらり、ゆらりと腕の中で揺すってやっている。弱々しい泣き声が、静かになっていった。
―ある夜、屋敷に火が放たれた。魔女が赤ん坊を生贄に、人を呪う魔術を使っている、と陰口されているのを彼女は知っていた。屋敷を襲った男たちは女たちを鉈で殺し、赤ん坊の首を折った。その幾人かは、赤ん坊たちの父親だった。
深海の姫の耳に届く声が、怒りを帯びた。深海の姫が彼を見ると、彼は小さく唇を開いた。腕に抱いた魂をあやし、宥めるように、きっと彼は歌っているのだろう。
―ここには、生まれなかった子たちもいる。自力では、終わりに辿り着けない。その子たちの命は始まらなかったから。彼女はその子たちを置いていけない。
深海の姫は、彼の抱いた魂を受け取った。両腕に一つずつなら、抱いていける。
―私が行く。あなたは待っていて。
そう言って、深海の姫は彼の頬へ口付けた。
ゆっくりと、姫は上昇した。どんなに急いでも、深海の姫の尾は浮力以上の速さを作れなかった。海底を見下ろしたが、彼の濃い色の髪は闇に包まれて、見えなかった。
海面で揺れる光が姫の腕から小さな魂たちを受け取れるほど届くには、随分上まで昇る必要があった。海面近くは暖かく、光と命に満ちていた。
重さを感じてもいなかった腕の中で何かが溶けて消え、ふわりと軽くなった。
もう一度、海の底へと沈んでゆく。水は暗く、冷たく、重くなってゆく。肌に馴染んだ嘆きと悲しみが溶けた水が、深海の姫を下へ下へと運んでゆく。
どうして始まらなかった命まで、あんな場所に沈んで行かねばならないのだろう。何も知らない魂たちまで。
数回、海面と海底への往復を繰り返し、また海底へと降りてゆきながら見下ろして、深海の姫は気付いた。増えている。彼を囲む深い闇と、その中で泣くことしかできない幼い魂たちの数を思うと、気が遠くなるようだった。
―大丈夫。みんな、連れていくわ。
深海の姫はそう言ったが、不安げな彼を初めて見たように思った。
―私だってあなたが一緒じゃなきゃ、ここまでできない。
あなたがいるから、と深海の姫は言いながら、はっとした。姫の表情に気付いた彼が、首を傾げる。
―ねえ、あなたは姿が見えないけれど、さっき私に触れたでしょう。
深海の姫は、傍にいるはずの女の魂へ言った。
―私は両腕に一人ずつしか連れていけない。でも子どもたちは増えている。あなたを頼って来ているの。あなたなら、面倒を見てくれるから。きっとあなたなら、みんな連れて行ける。私と彼が、あなたを連れて行く。
でも、と躊躇う女の声が聞こえた。
彼は首を傾げていたが、すぐに姫が誰に話しているのかに気付いたのだろう、頷いて励ますように、姫の手を取った。
―あなたが大丈夫、って言えば、みんなあなたを信じて、ついてきてくれる。今までだってそう言ってきたんでしょう。大丈夫じゃなかったのは最後だけ。それに、今度は私と彼があなたに言ってあげられる。大丈夫だから。信じて。
深海の姫は女の反応を待った。堆積物がふわりふわりと、舞い落ちるだけの時間があった。
ざわりと闇が動いた。二人の目の前に、闇が立ち上がる。
深海の姫には見慣れた、ローブのフードを深く被ったような、暗い亡霊の姿が現れた。
闇の陰から細い指が現れ、闇の裳裾を掴んで、おいで、と呼ぶ声を、深海の姫は確かに聞いた。彼は屈んで足元を探り、小さな魂を抱き上げると、次々に亡霊の広げた柔らかな闇の中へ、そっと入れていった。深海の姫も、弱々しい泣き声を頼りに小さな魂を捕まえ、亡霊の広げた闇の中へ入れた。大きく広がっていた深い闇はだんだん狭くなり、とうとうその裾は亡霊の足元にたどりついた。
―これで全部だと思うけれど。
深海の姫の言葉に、女の亡霊が頷いた。彼女と言葉が通じるのは、意思の疎通ができるのは、とても不思議な気がした。
二人はそれぞれ、女の亡霊を両側から支えるように掴んで、海底を蹴り、水を蹴って、浮力に乗った。ゆっくりと上昇が始まった。深海の姫の長い尾と、男の二本の脚では、そう大した速度にはならない。それでも、徐々に視界は明るくなってゆく。
―笑ってる。
深海の姫が気付いてそう呟くと、亡霊の纏った闇の向こうで、男が微笑んで頷いた。亡霊が広げて支えている柔らかな闇の中で、さざめくように幼い魂たちが笑っていた。
そうして、すっかり明るいところまで辿り着くと、波に揺れる光が遊ぶ水中へ、淡い光たちが、亡霊の纏う濃い闇の中から、飛び出してゆく。
亡霊は黙ってじっと、それを見守っているようだった。波がはじけるような笑い声が、光に溶けて消えてゆく。やがて、亡霊は指先で掴んでいた闇の裾を、ふわりと下ろした。彼がその闇を払った。彼女を、幼い魂たちを守っていた、すっかり役目の終わった柔らかな闇を脱がせるように。
祈るように目を閉じて、女の姿は光に溶けた。
彼は女の消えていった光の中で、ぼんやりと水面を見上げている。深海の姫はその手を引いた。彼の姿は、光に溶けてゆきそうになかった。
深い方へと降りて行きながら、深海の姫はいつも彼がしてくれるように、彼の頬を両手で包んだ。そして唇を重ねて、海の命を分け与える。消えてほしくない、という気持ちが、胸の奥へずしりと沈んだ。
彼は唇を離した深海の姫の細い体を抱きしめて、鮮やかな朱色の髪を撫で、背骨の浮いた背中を撫で、細い肩を手のひらで包んでくれた。
深海の姫は彼に体を預けて、目を閉じる。いつも聞こえていた、死んだ人間たちの声が聞こえなかった。ただ、自分の中で渦巻く感情があまりにもうるさくて、うるさいばかりでそれが何なのか判別がつかなかった。ただ静かに、誰もいない深い海の底で、たった一人で死んだ人間たちの悲しむ声を聞くのが自分の役割だと思っていたのに、彼を見つけてから、すっかり何かが変わってしまった。
その時、深海の姫の耳に楽しげな歌声が届いた。
―姉様だ。
姫がぱっと顔を輝かせ、遠い水面の方を見上げた。イルカの王と、イルカの姫が歌い交わしている。そういえば、二人は言葉が通じるのだろうか。
―行こう。
深海の姫が彼の手を取って浮かび上がろうとすると、彼がほんの少し、躊躇した。
―どうしたの。
彼のそんな様子は珍しくて、深海の姫は思わず、彼を引き寄せて抱きしめた。額に口付けを落として見下ろすと、茶色の目が不安げに揺れた。
―大丈夫。優しい姉様だから。
ちらりと目を上げた彼が、こくりと頷いた。そういえば、以前よりもこちらの言うことが通じているような気がする。深海の姫は嬉しくなって、彼の手を握ると、上へと泳ぎはじめた。少し、浮かれていたのかもしれない。
先に深海の姫を見つけたのはイルカの王だった。イルカの王はくるりと宙返りをして挨拶すると、歌いながらイルカの姫を呼びに行ったようだった。
いつもより明るい水の中で、彼の茶色の虹彩が光に透けるのが美しくて、深海の姫には、嬉しいのか苦しいのかがわからなかった。
すぐにイルカの王が、姫を伴って戻ってきた。姫は王の背鰭に掴まって、大急ぎでやってきたようだった。
―姉様。
手を振った深海の姫に、イルカの姫は驚いた様子だった。彼女が驚いたのは、妹が手を振るような子ではなかったからでもあり、妹と手を繋いだ男の姿があったからでもあった。
イルカの姫はほんの一瞬、その表情を曇らせたが、妹がそれに気付く前に、深海の姫に向けて、いつもの輝くような笑顔を見せた。
―久しぶりね、かわいい妹。
力強い尾で水を蹴って、勢いよく妹に抱きついたイルカの姫は、傍の男へ目をやった。
―彼は?あなたのいい人?人間、のはずはないけれど。
深海の姫は首を横に振った。
―死んだ人間、だと思う。
イルカの姫は首を傾げた。
―でも、私にも見える。死んだ人間の魂なんて見たことがないし、あなたとお父様の話を聞くまで、そんなのがいることも知らなかったのに。
イルカの姫がくるりと二人の周りを泳ぎ、彼をまじまじと見つめると、彼は戸惑いながら微笑んだ。イルカの姫がそっと手を伸ばすと、彼はその手を取り、軽く口付けて礼を返した。
―それに、触れる。人間は海の中では生きていけないのに。彼は生きているわ。
―でも、声は聞こえないの。
深海の姫が言うと、イルカの姫は妹を見た。
―あなたとお父様にしか、死んだ人間たちの声は聞こえないのに、彼の声はあなたにも聞こえないということ?
深海の姫は頷いた。
―お父様に聞いてみたらどうかしら。
イルカの姫の言葉に、そうね、と深海の姫は短く答えた。なぜか、彼を父のところへ連れて行きたくはなかった。
キュウ、とイルカの王が短く鳴き、イルカの姫は彼を振り返り、大丈夫よ、と抱きしめた。
―姉様とイルカの王様は、言葉が通じるの。
イルカの王と姫は顔を見合わせた。
―彼は私の言葉がわかるけれど、彼は言葉を持たないの。彼はイルカたちのするように、私を愛してくれているだけ。
イルカの姫は王の鼻先へ、キスをした。
―私は私のしたいように、彼は彼のしたいように、お互いを思い切り愛しているだけ。それで充分。
肩越しに妹を振り返ったイルカの姫は、くすりと笑った。
―あなたたちはどうかしら。
男はちらりと深海の姫の方を伺ったが、姫は彼の方を見なかった。目を伏せて、何かを考えている。
―ごめんなさい、意地悪だったわね。
イルカの姫は、考え事に沈んでしまった妹の頬を撫でて謝った。
―あなたと彼が一緒にいるのがいいことなのかどうかはわからないけれど、
ごめんなさい、とイルカの姫はもう一度謝った。
いいえ、と深海の姫は首を横に振って、言った。
―お父様はきっと、気に入らないと思う。
―そうね。
そう言いながら、二人はお互いがほっとしているのに気付いた。イルカの姫はそれでも、と言葉を続けた。
―この広い海で、この深い海で、あなたが彼を見つけたのが、無意味なはずがないわ。お父様が気に入っても気に入らなくても、それは運命よ。
私の上のお姉様のことだってそうよ、私はそう思う、とイルカの姫は言った。
―でも、それとこれとは別。私はあなたを失いたくない。
イルカの姫はきっぱりとそう言った。深海の姫は目を伏せていたけれど、男の茶色の眼は、真っ直ぐにイルカの姫を見つめていた。
―これからどうするの。
イルカの姫が聞くと、ようやく深海の姫は目を上げて、また首を横に振った。
―わからない。
ほんの少しだけ考え込んで、深海の姫はこう言った。
―私の役目は、ただ、死んだ人間たちの声を聞くことだと思っていたけれど、それだけじゃなかったのかもしれない。海に流れ着いた人間の魂たちは、次に巡っていくために、海が何もかも洗い流して、忘れるのを待っている、ってお父様がおっしゃっていたの、覚えている?
イルカの姫は頷いた。
―あなたがまだ、小さかった頃ね。
―前に会った時、漁師の話をしたでしょう。ずっと聞こえていたあの漁師の声は、あれからすっかり聞こえなくなった。もしかしたら、私が彼らの話を聞いて、その物語を誰かに語って誰かに知ってもらうことで、彼らは魂にため込んだ全てを手放して、次に巡っていけるのかもしれない。
まだ、自分の役目すら、はっきりわかっていないの。深海の姫は自信のない様子で、そう言った。
―深い海の底には、思ったよりもたくさんの、死んだ人間の魂が沈んでいたの。声を持たないものも多かったけれど、言葉が通じた時だってあった。でもたぶん、彼らは助けて欲しがっていた。
深海の姫は、手を繋いだ彼の方を振り返った。
―彼も、私と同じような役目があるみたい。だから、死んだ人間なのに、次の命へ巡っていけないのかもしれない。彼と、行けるところまで行ってみようと思う。
彼は深海の姫に見つめられると、いつものように微笑んだ。
―全然わからないけど、わかったわ。
イルカの姫は二人の顔を見て、頷いた。
―お父様には、言っても構わない?
―もちろん。お父様に内緒にしておくことなんて、できないのだし。
そうね、とイルカの姫は笑った。それからすっと笑みを消し、真剣な眼差しを妹に向けた。
―でも、忘れないで。あなたは王の子で、巡る命をもつ者ではないの。
 




