1. 卵
海の王の宮廷は毎年夏になると、たくさんの妃や愛人たちを連れて、珊瑚の森の広がる明るく澄んだ南の海へ移動する。そこで彼女たちは、何万、何億もの卵を産みつけ、その卵の多くは王の愛と祝福を受けた子供たちとして生を受ける。その卵から孵った生き物たちは、通常よりも大きかったり長生きしたり、丈夫だったりするのだ。
本当の王の子が産まれることは、稀だった。
その年は数百年ぶりに、王の子の卵が見つかった。珊瑚の陰にひっそりと産みつけられた薄く透ける卵の中で、陸に住む生き物、人間によく似た二本の脚を持つ王の子の幼生が眠っているのを見つけたのは、その子の姉になる王の娘だった。
長い間末っ子だった彼女はイルカの尾を持ち、イルカの王の伴侶として、彼の群れと暮らしていた。艶のある褐色の肌と、波間へ差しこむ夜明けの太陽の光のような金色の髪をもち、イルカたちと歌う歌を、何よりも愛していた。夏になるとまだ見ぬ弟妹を探すために、イルカの王やその一族と共に宮廷へやって来て、遠浅の海の海藻の叢や珊瑚の陰に王の子の卵がないか、探して回るのが習慣だった。
イルカの姫は卵の中を覗き込んだ。彼女が小声で歌いかけると、卵の中の幼生がぱちりと目を開け、初めて姉の顔を見た。
妹だ。
イルカの姫は歓喜に頬を染め、柔らかな卵を胸に抱いて、王のもとへと向かった。
もちろん王は喜んで、どこへ行くにも幼生の眠る卵を伴わせた。
王の子の幼生は、卵の中で長い時間を過ごす。やがて卵の中で目を覚ましている時間が長くなると、孵化に向けての準備期間が始まり、卵の中で活動するようになるのだが、この幼生は十分な大きさまで成長しても、あまり動こうとしなかった。
肌も髪も白く、瞳までもが真珠のような白で、いつも卵のなかで痩せた不恰好な膝を抱えて、瞬きもせずに焦点の合わない目をしている。幼生というのはよく笑いよく動き、卵の中で貴婦人たちや兄姉の歌や踊りを真似るようになる、愛らしいものだったはずだ。
宮廷の貴婦人たちは誰も、それは自分の卵に違いない、とは言い出さなかった。
それでもイルカの姫は初めての妹を可愛がり、色とりどりの魚たちの泳ぐ、鮮やかな珊瑚の森へ、卵を抱いて連れ出した。イルカの姫の楽しげな歌声が小さな魚たちを呼び寄せたが、幼生の様子は変わらなかった。魚たちも、イルカの姫が嬉しそうに見せてくれる卵の中の幼生が、自分達の姿を見もしないことに戸惑った。
珊瑚の森をあとにして、月明かりの差し込む浅い海の帰り道、ずっと口を噤んでいた幼生が、ねえさま、と、初めてイルカの姫を呼んだ。
―なあに。
イルカの姫は、驚きと喜びを押し隠した。
―ねえさまの歌はきれいだけれど、いつも、ずっと遠くから、もっと深いところから、知らない声がきこえるのです。
あれはなに、と幼生は聞いた。
―どんな声?
幼生は再現を試みた。軋むような、低く、聞くに堪えない音で、長く伸びたり、ざりざりぶつぶつと短かったりする。イルカの姫は泳ぐ鰭を止めて妹の歌らしきものを聴いたが、耳障りなその響きに、心当たりがなかった。
―いつ聞こえたの。
―いつも。今も。
―怖くはないの。
―怖くない。
イルカの姫は首を傾げ、卵を顔の前に掲げた。イルカの姫の明るい真昼の海のような翠の目が、妹を見つめた。白い小さな耳は、自分が幼生だった頃と違うようには見えなかった。
―あなたは、特別な耳を持っているのかもしれない。
お父様に聞いてみましょう、とイルカの姫が言うと、幼生の白い眼がようやく姉の翠の眼をちらりと見た。大丈夫よ、と言って、卵をしっかりと胸に抱き、イルカの姫は宮廷へと急いで帰った。
王は海底に聳えるような姿で、浅い夏の海では海面に届くようだった。
世界中のどんな海藻よりも長く、鮮やかで豊かな髪には小さな魚たちが隠れ、立派な枝珊瑚たちが誇らしげに王冠の役を務めていた。長く引く尾は光の加減で金や銀にきらめく珊瑚色の豪奢な鰭に彩られ、蛸たちよりも器用で力強く優美な無数の腕と脚に、たくさんの飾り環が輝いている。無限の慈愛を湛える眼差しは深い海の色で、光と場所によってその色を変えた。
海の王はイルカの姫から幼生が初めて話したことを聞くと、腕に抱いた卵へ、こう聞いた。
―どんな声が聞こえるのか、もう一度歌ってくれるかい。
幼生は躊躇った。居並ぶ貴婦人たちが、好奇心でこちらを伺っているのに気が付いていた。けれど歌わなければ、父に疑問を解決してはもらえない。幼生は姉の前でしたように、今聞こえる通りの音の、再現を試みた。
貴婦人たちは耳障りなその音に眉を顰めてざわついたかと思うと、波が引くようにさっと遠ざかっていった。
王は手を上げ、幼生の歌を遮った。
―もういい。よくわかった。
目の前にはもう、王とイルカの姫しかいない。幼生は目を伏せて、膝をぎゅっと抱えた。
―お前は、その音を聞きたいかい。
王がそう聞くと、幼生は頷いた。
―聞いて欲しがっているのは、わかるの。
誰もいなくなって都合が良い、と王は呟いた。
―お前の聞いているのは、死んだ人間の、魂たちの叫びだよ。
死んだ、人間、魂、と幼生は知らない言葉を繰り返した。
―私にも聞こえるが、聞きたくない時には無視している。あればかり聞いていると、気持ちが落ち込んでしまうからね。
王はちらりと顔を上げて、安心させるようにイルカの姫と目を合わせ、微笑んだ。
―この世界には、水の外がある。
王は二人の娘たちを、順に見つめた。
―水の外には陸があり、我々によく似た、人間という生き物が住んでいる。彼らは水の中で生きることはできない。陸を歩くための二本の脚があり、卵の中のお前とよく似た格好をしているが、大人になっても尾鰭はつかない。彼らには魚たちのように寿命があるが、我らのように言葉を持ち、感情を持ち、知恵を持ち、愛を知ってもいる。しかし時に残酷で、諍いを好み、互いに殺し合うことすらある。
―イルカたちを殺したり、連れ去ったりすることもあるわ。
イルカの姫が悲しそうにそう付け足すと、王は頷いた。
―彼らの営みが海を傷つけることもある。毒を流したり、ある種だけを獲り尽くしたり、彼らの投げ棄てたものが、海の生き物の命を奪うこともある。
幼生は静かに、王の言葉を聞いていた。
―魚たちが死ぬと、どうなるかわかるかい。
命は食べられて巡っていく、とイルカの姫が答えると、そうだ、と王は満足そうに頷いた。
―人間たちも同じだけれど、少しだけ複雑だ。彼らが死ぬと肉体と魂に分かれて、肉体はほかの生き物たちと同じように食べられ、腐敗して次の命の糧となる。一方魂というのは、人間たちが言葉や知恵や感情を、毒を貯めるように記憶しているものだ。だから魂が次へ巡ってゆくためには、全部を忘れてしまわなければならない。全ての人間の魂が海へ流れて来るわけではないが、海へたどり着いた者たちは、深い海の底で何もかもを忘れて、洗い流されるのを待っている。お前に聞こえているのは、彼らのその声なんだよ。
少し難しかったね、と王は娘たちに言った。
―産まれたばかりのお前にはまだわからないかもしれないが、あの声が聞こえるのなら、お前にはそれがわかるようになるのだろう。
王は幼生に言った。
―おしえていただいたこと、わかるまで、わすれません。
幼生は似つかわしくないほどしっかりとした眼差しで、王を見つめてそう言った。王は微笑み、たくさんの腕のうちの幾つもを使って、二人の娘を抱きしめた。
―人間たちはたくさんの言葉を持っている。お前が大人になるまでに、私の知る限りの、人間の言葉を教えてやろう。
イルカの姫は少し不思議そうに、王を見つめていた。
その夏、いつもなら王の傍から離れない賑やかな貴婦人たちが、卵を片時も離さない王を少し遠巻きにするようになり、王と卵の中の幼生は、二人きりの時間を長く過ごした。
お前は陸を見たいか、と王に問われると、幼生はいいえ、ときっぱりと答えた。その後、少し躊躇って、でも、と続けた。
―お父様に教わって、少しずつ、あの声の言うことがわかるようになりました。けれど、陸のことはわからないことばかり。
王は頷いて、お前に文字を教えよう、と言った。
―卵から孵化したら、本が読めるようになる。
―本?
―人間たちは言葉を残す術を持っている。我らと違って、彼らは永遠ではないからね。水の中では長持ちしないが、陸では言葉を永遠にできるのだ。彼らの残した言葉から、陸の物事を知ることができる。
―だから、お父様は陸のことをよくご存知なのですか。
そうだ、と王は頷いた。幼生から、父の表情はよく見えなかった。
―孵化の時も近い。勉強もいいが、少し眠りなさい。
父の言葉には抗えない。懐へ入れられてしまうと、幼生はあっという間に眠りへ落ちてしまうのだった。
夏が過ぎ、宮廷は遠浅の海から暖流に乗って、深い海へと移動した。その頃には、卵の中が窮屈になってきていた。王は卵を膝に乗せて、こう言った。
―お前もそろそろ、そこから出てきて良い頃だね。
出たくありません、と、幼生は迷いなく答えた。
―どうして。
―お父様とご一緒していたいから。
―孵化してからも、一緒にいればいい。少なくとも成人までは、私の傍にいなければいけないよ。
幼生は黙り込んでしまった。
やがて卵の殻が乳白色に曇り始め、柔らかかった殻が中の子を守るように硬くなった。孵化の時期がやってこようとしていた。王は卵に、魔法を授けた。
王の授けた魔法は、卵の中の幼生の性質と望みに合わせて、子の姿を変えるものだ。
―お前はお前の望む姿で、生まれて来るといい。私はどんな姿のお前であっても、もう一度お前に会えるのを楽しみにしているよ。
毎夜、王は卵に語りかけた。
卵のために王が自ら選んだ、静かに凪いだ海の底で、王の見上げる月が欠け、月が満ち、また月が欠けたが、卵は頑なに沈黙を守ったままだった。貴婦人たちのいない水の底で、黙りこくった卵を、王は待ち続けた。
卵はこのまま、死んでしまえばいいと思っていた。海の王の子には訪れることのない死という終わりを、卵はあの声たちから聞いて、知っていた。姉のように美しい声で歌う美しい存在にはなれない、陰鬱な嘆きの声を聞くことしかできない彼女は、いつまでも卵の中でとろりと融けたまま、形を持たないままでいた。
王が、あるいは宮廷の誰かが、卵を急かして外から割ろうとすれば、形を失った彼女は殻の中から零れ出て、海の水に薄まって、消えてしまえただろう。
けれど、王は急かさなかった。月が幾度満ち欠けを繰り返しても、宮廷から遠く離れた暖かく静かな海の底で、たった一人、卵が応えるのを待っていた。
その夜、波の上は嵐だった。水面近くで海は大きく揺れて飛沫を上げ、叩きつけて荒れ狂っていたが、王と卵のいる海底には届かなかった。ただ、暗く静かな夜だった。
―お父様。
卵が沈黙を破った。
―なんだい。
海の王は、静かに答えた。昨日もこうして、話したばかりのように。
―私は、お姉様のように歌えないし、踊れないし、速く泳ぐことだってできないでしょう。真昼の太陽みたいに笑うことも、魚たちに親しく挨拶されることもないでしょう。
―うん。
王は頷いた。それから少しだけ考え込んで、こう言った。
―それでも私の子供たちの中で、あの声が聞こえるのは、お前が初めてだよ。
―お父様は一人であの声を、ずっと聞いていたの。
―そうだ。
―悲しくはなかったの。
お前は悲しいのかい、と王は腕に抱いた卵を優しく揺らした。卵は考えているようだった。
―だって、聞いてあげることしかできないから。
―私が思うに。
王は少しだけ間を置いて、卵にわかるように、言葉を選んだ。
―人間の魂たちは、聞いてほしいだけかもしれない。彼らへ向けて歌ってみたこともあるが、何も変化はなかったし、彼らには私たちの声が届かないのかもしれない。彼らの声が、私とお前以外の者たちには聞こえないように。
いずれにしろ、と王は続けた。
―お前に苦痛を感じさせたくはないが、あれを聞くのが私だけでないというのは、私には心強いものだ。
卵は再び黙りこくった。一昼夜、王の呼びかけにも応えなかった。
そうして次の夜、月の光が海の底へ届く頃、卵が小さく揺れた。王は驚いて懐から卵を取り出し、そっと掲げて、硬く白い殻に耳を押し当てた。
あまりに長い時間をかけて硬く厚く成長した殻を辛抱強く叩く小さな音が、王の耳に届いた。外から手伝ってやることもできるが、卵の殻は自分で破らねばならぬものだ。
やがて、王が膝に乗せた卵の殻に、小さな罅が走った。
月がすっかり沈んだ後、夜明け前のことだった。ぴちりぴちりと罅の辺りを割る音が続き、やがて尖った爪が突き出した。王の見ている前で、厚い殻がぱきりと真っ二つに割れ、中から朱く長い髪の少女が顔を出し、王を見てぱちぱちと瞬きをした。王は微笑んだ。
白く艶のない、細い面立ちに、真珠色の大きな目が目立つ。彼女は殻に手を掛け、卵の中からすっかり抜け出して、王の前に姿を現そうとした。痩せて肋骨の浮いた体は、小さな骨盤の下から極端に薄くなり、白銀の扁平な長い尾が続いている。朱い髪は鬣のように背骨に沿って続き、扁平な魚体では尾の先まで続く、薄い膜を張った繊細な鰭に変わっている。彼女の尾は小さな卵に収まっていたのが嘘のように長く、王は卵からするすると現れる、朱に縁取られた銀色に目を細めた。
―ようこそ、我が娘よ。
海の王はようやく、待ちかねた異形の末娘を、その腕に抱きしめた。