川村香奈美
しっかりした子。それが幼い頃からの香奈美の評価だった。
よく気の利く子。頼りになる。優しいお姉さん。そんな周りの期待を裏切らない様に、その通りに振る舞ってきた。
初めは純粋に「大人」に憧れる幼心。それは次第にちゃちなプライドを形造り、いつしかこうあるべしと香奈美の心を縛り付けた。
大人っぽく。クールに。誰からも好かれる様に。中身の研鑽を面倒臭がって、外面ばかり取り繕って。そうしてハリボテを纏った子供は、身体ばかりが歳をとっていった。
しっかりしているのは見た目だけで、中身は結構テンパっている。頼りにされたいのは自尊心を満たしたいが故に。誰からも好かれたいのは、嫌われたくない訳ではなく、普通や一般的とされる一定のラインから逸脱したくないからだ。この表現で伝わるだろうか。つまり、変わり者や少数者は嫌われやすく、香奈美は多数派に埋もれて居たいと言う事だ。
そんな己を冷静に分析してみると、何ともまぁ利己的で自分本位で、あまりにも子供っぽい見栄の張り方に羞恥心や嫌悪感が湧いてくる。まるで中学生や小学生の様ではないか。
かといって今更、己の在り方を変えるつもりはない。変わる為の努力、それを続けてゆく根性が無いのだ。
やれば出来る子は、やらない限り出来る子の片隅に居座っていられる。
香奈美は出来る子の振りが昔から上手だった。
中身はどこまでも子供のままで、それでいいやと目を瞑る日々。
香奈美は自分の人生を、どこか他人事の様に俯瞰して見下しながら生きていた。
「香奈美ちゃんは、他人に興味が無いよね」
いつだかの会社での飲み会での事。職場で隣のデスクに座る気のいいおばさまが何気なく溢したそんな言葉に、グサリと胸を刺された。的のど真ん中を射抜いた言葉であった。
(その通りだし自覚してるし気にしてないし。でも他人に指摘されると、なんか……)
普通に凹んだ。
他人に興味が無い事でも、それを見透かされ指摘された事でもなく、あたかもそれは悪い事ですよと言いたげなおばさまのその声色が耳に痛かった。
確かに香奈美は、自分含め人というものに興味が薄かった。芸能人のゴシップなんて興味のカケラも湧かないし、女性が二人以上集うと始まる井戸端会議も、唯々面倒な時間でしか無い。誰某が付き合っただの浮気しただの、へー以外に何と言えと?
そんな捻くれた性分なものだから、相手が家族だろうが友人だろうが、誰かと過ごす時間より一人でいる事を好んだ。しかし、果たしてそれは悪い事なのだろうか?
恋人がいない事は後ろめたい事なのだろうか。
友人や恋人とお洒落をしてお出掛けする事こそを充実した一日というのだろうか。
休日に一日中ベッドでごろ寝する為に今日を生きてはいけないのだろうか。
あの漫画の続きを読む事が生きる目的ではいけないのだろうか。
(なんて、わざわざ口に出したりしないけど)
お酒で口の滑らかになったおばさまが女の幸せとやらについて語って下さるのをにこにこ拝聴しつつ、脳内ではずっとぐちぐちつらつら考えていた。
香奈美は他人に興味が無い。
他人に興味は無いが、他人からの評価は人一倍気にしてしまう、面倒臭い性格をしていた。
そんな、狭く浅く短い人間関係しか築こうとしない困った奴にも、たった一人だけ、一生涯大切にしたいと思う縁があった。
香奈美は小さな町工場に事務職として勤めていた。
中年のご夫婦が営む備品工場は家族経営で、働き手は皆社長の親戚筋である。その中で唯一の若手であり他所の子である香奈美は何くれと可愛がられていた。
この就職難の時代に高校卒業と同時にすんなりと採用を頂き、お給料は最低賃金ギリギリだが、お昼には社長夫人のお手製の賄いが付くし、おじさまおばさまは毎日の様にこぞってお菓子を貢いでくれる。希望休等も大分融通して貰っている。そんな高待遇はひとえに、学生の時分に他界した父親が遺してくれた彼人の人望、人徳のお陰であった。
香奈美の両親は社交家で、ご近所から遠方の町まで、とにかく友人知人が多くいた。社長夫妻もそのうちの一人だ。
父親は社交活動が行き過ぎたのか若くして肝硬変で亡くなってしまったが、その葬儀の際に改めて両親の顔の広さに驚いたものだ。よくもまぁあの二人からこんな閉鎖的な娘が産まれたものだ、と自虐ではなく純粋に疑問だったりする。
ともあれ、そんな父親の遺してくれたもののお陰で、母娘二人になってもさほど苦労もなく生活する事が出来ている。人との繋がりこそが財産だ、とは生前父がよく口にしていた言葉だが、まさにその通りだと常々実感している。しているが、自分がその様に生きていけるかどうかは、それはまた別の話である。
さて、そんなわけで。
香奈美は今の職場を大層気に入っている。
父の飲み友達だった社長夫妻は香奈美を大変に可愛がって下さるし、他の社員たちも同様。彼氏がどうの結婚がどうのと面倒臭い絡みもあるが、それは何処でもそうであろうし。わざわざ他の職を探すほどの熱量も無いので、定年までずっと此処で働いてゆく心算だったわけだが。
「辞めさせて下さい」
急な申し出に不機嫌を隠さない社長を前に、平身低頭平謝りをする事になるとは、今朝までは露程も思っていなかった。
話はその日の昼時まで遡る。
お昼休憩の終わり頃、昼食を食べ終えて手慰みにスマートフォンを弄っていた時のこと。珍しい相手から着信があった。
相手は香奈美の大親友、電話が苦手でお馴染みの寺井美穂その人であった。
美穂からの電話、しかも初めてのというだけでもうただ事では無い。すわ何かあったのかと身構えてしまうのも仕方なし。
「もしもし、美穂?久しぶり。珍しいね、電話なんてーー」
香奈美の声を遮って放たれた言葉に、心構えは呆気なく、トランプタワーの様に一瞬で崩れてしまうのだった。
美穂は昔から死にたがりな少女であった。それ自体は特に言う事はない。香奈美自身似た様なものだからだ。
辛い事があった時、悲しい時、仕事でちょっとしたミスをやらかした時、香奈美は自分の死ぬ場面を妄想する。
登山中に足を滑らせて崖から落ちてみたり、ドライブ中にハンドル操作を誤って崖から落ちてみたり、もしくは海に落ちてみたり。クマに襲われてみたり。そんな惨事を妄想しては、現実にならないかなぁと思ったりしていた。
香奈美自身そんな具合なものだから、美穂が「死にたい」と言うのは別にいいのだ。二人で遊んでいる時、理想の葬式について討論する事もたまにあった。その時はすごく盛り上がったものだ。
だから、「死にたい」と言うだけならいいのだ。
ただ、実際に行動に起こすかどうかはまた別の話であるだけで。
電話越しの声を聞いて、今回は本気なんだと思った。たまにあるのだ。お互いの気持ちがまるで自分のことの様に感じられる事が。
美穂は本気で死のうとしている。引き止められたくないと思っている。
私が引き留めないと思っているから、こうして連絡をくれたのだと、その声を聞いて理解した。
(ふざけるなっ!!!)
身体を突き抜けた激情たるや、生まれて初めて震えるほどに拳を握り締めた。
止めないわけがないでしょう。
止めないわけがないでしょう!!
私を何だと思っているの!!?
ぎりぎりと拳を軋ませる。そろそろ切ろうと思っていた伸びてきた爪が手のひらに食い込み、そこから齎される痛みが薄皮一枚で理性を繋ぎ止めていた。
震える声をなんとか押し留めて、当たり障りのない言葉を返して通話を切った。らしくない切り上げ方をした自覚はあったが、そうでもしないといらぬ事を口走ってしまいそうだったのだ。
返答を間違えれば、もう二度と美穂と言葉を交わす事が出来なくなる。そんな確信めいた予感があったから、そうするしかなかったのだ。
周りの言う事を聞き流して、流されるままに生きてきた香奈美も、今回ばかりははいそうですかと素直に頷いてやる訳にはいかなかった。
「辞めさせて下さい」
何をすれば良いのか、何をしたいのかも分からないまま、衝動のままにただ頭を下げた。
兎に角ただ、一刻も早く親友の傍へ行きたかった。
間を執りなしてくれた社長夫人のお陰で、何とか穏便に退職手続きを済ませる事ができた。
天涯孤独の友人が余命宣告をされた、とか面倒を見てくれる人が必要で、とか私が行かないと、と涙ながらに訴えれば、元々情に厚い社長も一先ず納得する姿勢を見せてくれた。急な申し出にも関わらず、つくづく頭の下がる思いだ。
本当の事情など話せる訳もなく(美穂も嫌がるだろうから)適当に、思い付くままに喋った訳だが、咄嗟の言い訳にしてはよく出来た話だ。我ながら惚れ惚れするほどの口八丁。思わずハッ、と鼻で笑って自画自賛してしまう。
自分の人生が如何に嘘に塗れているかを、改めて実感することになった。
まぁ、本当に本気で涙してしまった事には自分でも驚いたけれど。
実際に美穂に会ったとして、何を言えばいいのか。どう言う態度で接するべきなのか。いつまで経っても答えの出ない問いがぐるぐると脳内に渦巻き、比喩ではなく眠れない夜を過ごした。鬱になりそうだった。
わかっているのは、明確に引き留める様な言葉、態度はNGだという事。
(そもそも私は、美穂を引き留めたいのだろうか?)
香奈美の一番の悩みどころはそこだった。何を馬鹿な事をと思われるかもしれないが、香奈美は本当にそれがわからなかった。
最初は当然引き留めるべきだと思っていたし、そうするつもりだった。しかし自分に置き換えて考えてみた時に、欲しいのは自分を引き留めてくれる人よりも、全てを許容してくれる理解者であった。
自殺なぞ誰も認めてはくれないだろう。親は泣き、世間様には後ろ指を刺され、ご近所さんには有る事無い事吹聴される事請け合いだ。
だからこそ。
誰も認めてくれないからこそ、香奈美は、自分だけは美穂の理解者で居てあげたいと思ってしまった。
一緒にやりたい事が尽きないほどある。やりたい事など無くても側に居たい。このご縁を一生涯大切にしたいと、そう思ったたった一人の人なのだ。
おばあちゃんになっても仲良くカフェでお茶を飲んで、くだらないお喋りに興じていたいと思うのに、そんな稀有な相手をこんなに若い時分で失ってしまうなんて、あまりに惜しすぎる。
そう思うのに。
二つの気持ちに板挟みになり、結局どうするのか決めきれないまま。寝不足の頭はとっちらかったまま何故か旅行に行く計画を建て始め、脳内と感情が剥離したままからんからんとドアベルを鳴らした。
どうか普段通りに振る舞えます様に、とその音に祈る。美穂は硬い表情で笑って片手を挙げていた。
旅立った初日に香奈美の心は決まった。
暗い浜辺で見えもしない海を睨みながら、隣から聞こえてくる泣き声をただ聞いていた。
助手席に向けて伸ばされた腕は途中で動きを止め、迷うように揺れた。髪を撫でるとか、手を握るとか、抱き締めるとか、思い付く行動は多くあったが、なにぶん香奈美は人に触れるのが苦手だった。
幼いままの心は他者との触れ合いを望みながらも、貼り付けた外面が素直にスキンシップをとる事を恥じらい、どうにも自分から手を伸ばす事が、相手に触れる事が出来ない。たとえ相手が気心の知れた親友でも、ほんのちょっと手を握る事が、どうしても恥ずかしくて出来なかった。
きっとこんな些細な出来事が、出来なかった事が、一生記憶に残る事になる。そんな確信を胸に抱きながら、気付かれないうちにそっと腕を元の位置に戻した。
「死んでいい…?」
その声があんまりにも自己嫌悪に満ちていて、不安で揺れていて、香奈美の心は決まってしまった。
きっといつか後悔する。寂しくて堪らない夜を幾つも迎える事になる。そんな夜に寄り添って共に越えてくれる友人は、励ましてくれる人は今から居なくなる。
他でもない、私がそれを良しとする。
きっといつか後悔する事になると分かった上で、香奈美は美穂の理解者になる事に決めた。全てを許す事に決めた。
ハグを乞う様に腕を広げる美穂に腕を広げて示せば、躊躇いもなく飛び込んでくる。その子供の様な純真さが羨ましい。
美穂の体は柔らかく、温かく、生きていた。
そんな当たり前の事実がこれから失われる事を思えば胃の腑がズンと重たくなった。
こちらの気も知らず腕の中で笑う女を、ちょっとでも恨めしく思ったりしませんように。
誰にともなく祈りながら、ズ、と一つ鼻を啜って痛む心を飲み下した。
旅行は楽しかった。
いろんな町に行って、観光して。ただ綺麗な景色を見るだけだったり、博物館で学びを得たり。得た学びは一時間もすれば思い出の彼方に旅立って行ったが。
何にもせずにだらだらするだけの事も多かった。
あるホテルに滞在していた時の事だ。
眠りの淵に引っ掛かっていた香奈美の意識がふ、と浮上した。ぼうっとした頭でまず知覚したのは喉の渇き。部屋の隅で水切れを知らせる加湿器の赤ランプが、暗い部屋の輪郭を光らせていた。
のそのそと起き出し、未だ夢現の状態で自身と機械に水分を補給しベッドに戻る。隣で健やかに眠る美穂になんとなく視線がいって、ふと寝る前に観ていたある映画のワンシーンが思い出された。
記憶の中の動きを真似る様に、美穂の上に覆い被さった。顔にかかった髪を払い、そっと身を屈め、唇を重ねた。
温度も感触も掴めない程極僅かに触れ合わせた唇。それを薄く開いてふー、と息を吹いた。それはピタリと閉じた唇をこじ開けるには余りにも弱々しく、跳ね返って香奈美の唇を擽って消えた。
キスだった。
愛しい恋人に贈る様な、親子間で交わされる様な、性のニオイを感じさせない優しいキスを、香奈美は美穂にしたのだ。
香奈美自身にそのつもりはなくとも、それは確かにキスだった。
唯のキスでしかなかった。
込み上げるものが喉を焼き胸を締め付ける。未だ夢の中にいる美穂を起こさない様に、そっと、素早くトイレに逃げ込んだ。
「う、う、っうぅー…!」
扉を閉めて鍵を掛けて、途端に溢れ出す涙に必死に声を噛み殺す。溜め込んだ澱が噴き出すようだった。頭を掻き毟り髪を振り乱し、身も蓋もなく怒鳴り散らしたい暴力的な衝動を、己で己を抱き締めて耐えた。
思い返すのは、寝る前に観ていた映画のワンシーン。海で溺れたヒロインが、ヒーローの人工呼吸で息を吹き返すという、何ともありきたりで感動的なシーン。
私はあれがしたかった。
キスでは無いのだ。香奈美がやりたかったのはそれじゃ無い。
美穂が息を吹き返してくれる様な、もう一度呼吸をしてくれる様な、私はあれがしたかったのだ!
悲しいかな、香奈美のそれは救命措置にはなれなかった。唯のキスにしかなれなかった。
香奈美自身日々ギリギリの所で生きている様な状態で、他人に分け与えてやれる程の余分な酸素など持ち合わせている筈もなく。
香奈美にはキスしか出来なかった。
唯のキスしか出来ようもなかった。
香奈美は泣いた。静かに泣く事しかできなかった。美穂の理解者になると宣いながら、未だに彼女と見る未来を諦め切ることのできない己の意地汚さに。こんなにも楽しい日々を過ごしておきながら、一向に心変わりしてくれないいけずな友に。
ただ、美穂の眠りを妨げない様に、静かに泣くしかできなかった。
「おはよーぉ」
大きく欠伸をしながらの挨拶は語尾を震わせながら消えていった。
眩しい日差しがカーテン越しに降り注ぐ。光の色から見てそろそろ午後もいい時間帯だろう。
もうおそようだけどね、そう返した声は普段通りの声色で、我が事ながら、昨夜のことは夢の中の出来事の様であった。
「あれ、香奈美、ちょっと顔浮腫んでない?」
「げ、まじ?流石に夜更かしが過ぎたかなぁ」
「私はどう?」
「大丈夫っぽい」
食事を買いに行くためにコートを羽織りながら、何でもない会話がぽんぽんと飛び交う。
美穂の態度も何でもない。それが良かったのか悪かったのか。
傷跡一つ残すことすら出来なかった事実に、香奈美は複雑な心境で溜息を飲み込んだ。
旅行中、たった一度だけ香奈美の泣いた夜だった。
彼女の最後の悪足掻きだった。
旅行中は二人の世界には互いしか主要な人物が居なかった訳だが、稀に地元人と交流を持つ事もあった。
寒波をやり過ごし、とある温泉街に宿泊していた時の事。
雰囲気を気に入り通い詰めたカフェ&バーで、そこを切り盛りするおばあちゃんと仲良くなった。彼女は若いお嬢さんがお好きな様で、ごろごろしてばかりいる二人によくよく構ってくれて、田舎暮らしの擬似体験をさせてくれた。
ピンと伸びた背筋にまだまだ元気な足腰を駆使して山に分け入り、春の山菜取りに連れ出してくれたり、周辺の観光スポットや散策路を案内してくれたり。
自分たちより余程元気なおばあちゃんに、こんな歳の取り方をしたいね、と二人で憧れを抱いたものだ。
ある日、売店で購入した製作キットで作った蒸し立ての蒸しパンを持ってカフェを訪れた時、ほんの少しだけ彼女の人生に触れる事になった。
「もう随分と昔の出来事になってしまったけれどね。わしにも娘がいてね。よぅくこんな風に、温泉の蒸気で蒸した菓子さ作ってやったんだ。大きくなってからは、今度は娘がおやつに作ってくれる様になってねぇ。あぁ、懐かしいねぇ」
そう言って顔の皺を深めながら、まだ温かいそれを両手で抱きしめる様に持ち上げて、小さくちぎりながら、一口ずつ大事に大事に食べていた。
材料費ワンコインで、二人でふざけながら作った蒸しパンを食べるにはあまりに大仰で大事な態度に、揃って申し訳なさを感じた。
「そこな道行く時は気をつけなさんよ。トンネルん先が急カーブになっとっから。野生動物なんかもよう出てくっから、地元のモンもよう事故おこすんだ」
過ごした時間などほんのひと時しかでしかないというのに、おばあちゃんは実の娘にする様に別れを惜しんでくれた。道中の無事を頻りに祈り、あのトンネルは気をつけろ、と何度も何度も口にした。
集落を後にする際に通る事になる件のトンネルは、集落から進み入った場合の出口にお地蔵様が祀られている。常に瑞々しい生花と綺麗なお水が供えられていて、それらはあのおばあちゃんが管理しているのだと、バーで隣り合った地元民のおじさまが教えてくれた。
何十年経とうとも癒えない傷もあるという事実をまざまざと見せつけられた気がして、香奈美は一人だけ沈んだ気持ちになって、優しかった集落を去る事になった。
葬儀の知らせは美穂のスマートフォンを通して、恵理子から知らされた。
電話口の声は震えており、彼女がどんなに娘を愛していたか、こちらの胸も締め付けられる程によく伝わってきた。
ダム湖の畔で流星群を眺めたあの日の夜。わいわいと騒ぎながら目指したコンビニで、菓子パンとサンドウィッチとお菓子を買った。
真夜中に砂糖たっぷりのミルクティーを飲みながらバターの香り豊かな菓子パンを食べ、マヨネーズの効いたサンドウィッチを食べ、チョコレートや最中を食べた。カロリーの暴力。背徳感すらいいスパイスだった。
田舎特有の広いパーキングの片隅で、シートを倒してさあ寝ようかと体勢を整えていた時だ。
「帰ろっか」
静かな声だった。
横になって顔をこちらに向けた美穂は、見たことのない穏やかな顔をしていた。何処か眠そうにも見える瞳は、未だ流れる星を写しているかの様にチカチカと輝きを含んでいた。そう見えた。
「…星、綺麗だったね」
頓珍漢な返答にも、美穂は肯定する様に深く笑った。
二月の終わりに旅立って、約二ヶ月。
とうとう、旅の終わりに行き着いてしまった。
帰り道はあっという間だった。途中で温泉に寄ったりお洒落なカフェに寄ったりと、帰り道も充分に満喫した道程であった。
それなのに、帰りの旅程はなんだかあっさりしていて印象が薄く、朧げにしか思い出されなかった。
「着いたよ」
「うん」
寺井家の前に車を止めて、山ほど買ったお土産を玄関先に小積んだ。荷物を下ろす間、二人は終始無言だった。無言で、顔にも態度にも出てはいなかったけれど、確かに別れを惜しんでいた。
車に乗り込みシートベルトを締める。ずっと埋まっていた助手席を空っぽにしたままエンジンを回す。
「ありがとう。楽しかった」
「どういたしまして。私も楽しかった」
助手席側の窓を開けてドア越しに交わした言葉。普段と何ら変わりない、あっさりとした口調でのそれからは、またねだけが除かれていた。
手を振る美穂を置いて車を発進させた。角を曲がって見えなくなるまで、美穂が手を振っていたのをバックミラー越しに見ていた。
これが最後だとわかっていても、不思議と心は凪いでいた。
恵理子から連絡の来る一週間前の出来事だった。
上手くやったものだ、と葬儀の最中にぼんやりと考える。
事故だったそうだ。ドライブに出かけた先で崖から転落。全身を強く打ち付け、即死だったと聞いた。普段から事故の多い、野生動物のよく飛び出してくる場所で、それを避けようとしたのだろう、と裕治から聞かされた。美穂の車にはドライブレコーダーが付いていなかったので、本当のところはわからないそうだが。
敏雄と恵理子は見るからに憔悴していて、香奈美が挨拶に行けば、娘の面影でも見たのかワッと泣き出して、結局言葉一つも交わせなかった。二人してそんな様子なものだから、葬儀の一切は長男が取り仕切っていた。その裕治も、隈の浮いた酷い顔をしていた。
真実を知っている後ろめたさから、三人の目を見る事なぞ終ぞ出来なかった。
美穂は遺書を残さなかった。香奈美に対してもメールの一つもなかった。だから誰も、これが自殺だなんて気付きもしない。
こんな不幸な事故はありふれていて、七十五日も待たずにご近所さんの興味関心から外れる事だろう。
ただの事故なのだから、保険金だって当然おりるだろう。家族にお金を残せるのは良い事だ。
本当に上手くやったものだ。
葬儀は厳かに執り行われた。
可愛らしい笑顔の遺影とそれを飾り立てる沢山の花々。涙するご家族と参列した親族関係者一同。白い棺はこの後燃やされて、骨になった親友は一つの壺に納められ、父方の墓に仕舞い込まれるそうだ。
棺には花と手紙を添えさせて貰った。
美穂の理想からとことん外れた葬式だった。
大袈裟な式場など使わず、花なんかで飾り立てずに、ただ焼いて骨になった身を庭かその辺に撒いてくれたらいいと、いつだかそんな話をした。
今になって思うのだが、葬式とは死者当人ではなく、残された者の為にあるのかも知れない。嘆く心に区切りをつける為に、有体に言えば自己満足のために、行われるのかも知れない。
香奈美自身、自分の葬式はこんなで、お金を掛けず、墓はいらなくて、等と美穂と共に語った事があるが、それは随分と驕った考えというか、身の程知らずもいいところな話だったのかも知れない。
この葬儀は美穂の為に開かれたのではない。彼女に酷く傷つけられた、被害者達の為に開かれたのだ。
つらつらとしょうもないことを考えて、用意された茶菓子を摘みながら火葬が終わるのを待った。
そう広くない待合スペースには独特の匂いが漂い、窓の外には抜ける様な青空が広がっていた。
香奈美と美穂は趣味嗜好が良く似ていて、死にたがりなところも良く似ていたけれど、そこに至る迄の理由というか、「死にたい」の気持ちの大元、根っこの部分に決定的な違いがあった。
香奈美は辛いから死にたいのだ。苦しいから、怖いから、恥ずかしいから死にたいのだ。嫌な事からの逃避として死を望むのだ。それは手っ取り早く逃げ出す為の手段の一つであった。
ついでに言えば、香奈美のこれは他殺願望である。自殺なんぞ、そんな事をする勇気はとんとない。他人が、事故が、運命が殺してくれる日を期待しながら日々生きている。
美穂は、辛かったから死んだ訳ではない。
美穂のそれは逃げでは無かった。では何かと問われると答えに窮するが、確かに美穂は幸せで、だからこそ死んだのだ。
満ちた月は欠けるのが道理な様に、美穂は幸せに満ちて、溢れ溢れて溺れるほどの幸せに満ちて、そうして欠けていってしまった。
ただそれだけの話だった。
臆病風に吹かれて、自分で身に付けた枷に囚われて、気にしいで他力本願な自分と違って。美穂はほんの少しだけ、マイペースで勇気があって、そして身勝手だっただけの話だ。
月は満ちれば欠ける事を知っていて、それでも美穂を満たしてやろうと決めたのは香奈美だ。
他でもない自分が、美穂を満月へ至らせたのだ。
ただそれだけのつまらない話だ。
香奈美は美穂を愛していた。友愛にしては行き過ぎたそれは、けれど恋愛でも家族愛でもなく、きっと自己愛に近かった。どこか愛しきれない自己の代わりに、美穂を愛し、慈しみ、どこまでも赦し、常に味方で居続けた。身勝手で独りよがりな愛だった。
もっと自分に厳しく在れたら。
ほんの少しでも、ストイックな面が自分にあったのならば、もしかしたら
ーーーーー詮無いことだ。
窓の外には抜ける様な青空が広がり、その青さが目に染みる様だった。
明るい日差しの中にひっそりと浮かぶ真昼の月は、白くて、丸くて、輪郭がぼやけていて、なのにどうして、こんなにも綺麗なんだろう。