09.親
――絆は人を縛る。望もうと、望まなかろうと。同じ縛るのなら、絆なんかじゃなく、お互いの腕でもって縛りあいたい。
珍しくピオンの家を訪ねた。長や村民としての役目を除いての来訪は何十年ぶりだったか分からない。
ピオンの部屋の中は窓もすっかり草蔓で覆い尽くされていて、昼でも灯りを精霊に頼っている。出されたお茶もつるが運んだ水分を精霊の作る熱で煮沸して作ったもので、茶葉もそのあたりからむしっていた。
手の届かない範囲は精霊に頼んでつるや枝を動かして済ませるのが彼女だ。
あの細い足や頼りないお尻に根っこが生えていないのが不思議だ。
リリエは「動かないと太りますよ!」と言っていたけど、それは人間だけのようだ。
「ヒュポスの丘の伝説?」
片肘をついた手にあごを乗せながらの返答。
目はテーブルを這いまわる甲虫を追っている。
「南の谷の長は遥か西の湖の長と交流があったから、又聞きをしたことがある。その地にも魔物が居てな。竜ほどではなかったが、同族や人間たちを煩わせていた」
魔物。それは体内に蓄積した精霊が邪や怒りに染まり、その力を濫用して他者を脅かす、竜と同質の存在。
「大きな鳥の魔物だったらしい。あっちでも鳥の贄をやっていたのだが、鳥のほうが約束を破った。だから、西の湖の同族たちは丘の植物に命じて翼を奪い、人間たちとともに魔物を討ったそうだ」
わたしはその話を聞いて腰を浮かせそうになった。
でも、ピオンが「結末」を語ると、知りたがったことに後悔を覚えた。
「ま、私たちと人間なんてそんなものだな」
人間は「精霊びと」の力を目の当たりにしたために、さまざまな欲を起こした。
西の湖の集落はもう、無い。
「丘も精霊を失って草木一本生えなくなったという。魔物は何もかもを奪う。たとえ討てたとしても、滅びを早めるだけのことなのだろうな」
ピオンは表情ひとつ動かさないで言った。
彼女の欠けたカップに虫がよじ登り、中に落ちて雫が跳ねる。
もしも、魔物が精霊を蓄えないうちに、「わたしたち」だけでやっていたとしたら?
「討てても人間に目を付けられるのは同じだろう。湖と人間の村の関係は穏便だった。贄の供出をしていた村ではなく、帝都の軍が動いたんだ。鳥を討ったそのつるぎで斬り捨てた。生き残った者は南の谷に移り住んだらしいが、会ったことはないな」
……ピオンは茶をすする。虫の名前を言い当てた。
うろの中で風の声の約束をしたさい、リリエはヒュポスの丘についての伝説を父親から教えてもらう予定だったと言った。
わたしたちは森の外を知らない。けれど、長く生きた村長のピオンなら、よその集落との交流の経験も豊富だ。
だから当てにしたのだけど、こんな話ではあの子には聞かせてやれない。
リリエのお父さんは、そのまま話す気だったのだろうか。
幸せな部分までで打ち切り、その後の結末は話さないつもりだったのだろうか。
いや、そうならリリエがいまだにあんなふうなわけがない。
彼女は本当に不思議な子だ。
はしゃぎ、禁を犯して互いに胸を打ち震わせるかと思えば、急に聖らかに澄んで、どこか遠くを見ているときもある。
同じく贄となった母親と同じように、まっすぐ、静かに。あの蒼い目で。
わたしがあれほど精霊力の差を見せつけたというのに。
なぜだろう……。
「ルセナよ。きみはなぜ、こんなことを聞く?」
わたしはあらかじめ用意しておいた言い訳を使った。
誰かが丘の名前を口にしていたのを思い出したのだと。
そもそも丘という地形はこの近辺には無いし、それで興味を持ったのだと。
ピオンはカップを床へ向けて傾けた。
飲みさしの茶と、一命をとりとめた虫がこぼれ落ちる。
「ヒュポスという呼び名を使うのは、人間側だけだ。私たちがここをただ森と呼ぶように、南の谷のように、西の湖の者たちもただ丘とだけ呼んだと思うぞ」
ぎし、と音がした。振りかえれば、扉の隙間からわずかに入りこんでいたはずの外の光が、つるによって隠されているのを知った。
わたしはとっさに、何十年か前に竜の贄のつがいとなった少年が臆面もなく「竜を討つ」と豪語したときのことを引っぱり出していた。
「その少年が贄になったのは百年前だ。付け加えると、鳥の贄の風習があったのも三百年足らずの少し前の話だ。私たちにとっては、伝説と呼ぶに足らない」
わたしはピオンの鋭い視線から逃げ、床に目をやった。
茶の虫は腹を見せて六本の脚をばたばたさせているが、丸い背中が茶に滑ってくるくると回転するばかりだ。
「リリエ、と言ったか」
わたしに出されたぶんの茶から、冷気があがった気がした。
「しつこいのか?」
いやな言いかただ。
わたしが私的にリリエと交流していることは、贄としても種族としても禁に触れる。
追い払う名目であれば許されるが、許されるにはリリエへの不名誉を肯定しなければならない。
わたしは答えなかった。材料を増やすと説教が伸びる。わざわざ帰ってからピオンを訪ねていたが、明日はきっと、リリエに待ちぼうけをさせることになるだろう。
「慣れない関わりに毒されるな」
わたしは顔と気配だけで抗議した。
リリエは毒なんかじゃない。むしろ、わたしを冒す毒を取り除いてくれている。
毒で痺れてしまっているのはピオンやこの村、リリエのところの村長たちだろう。
「では、絆されるなと言おうか。植物にはほかの植物を絞め殺す種類もある。絆は同族でのみ繋ぐべきもので、それ以外とでは首に絡む縄となりかねない」
ピオンは地面の虫を見た。
精霊の流れが視える。ピオンは精霊を従わせ、細いつるに虫を絡め取らせていた。
この家のように、虫もみるみるうちに緑に覆い尽くされていく。
……いつも上から接する彼女への、反抗心だったんだろう。
わたしは強く精霊に働きかけ、虫の自由を奪うつるに退くように頼んだ。
ぱちん、という音がして何かが跳ねる。
「助け起こそうとしただけだったんだがな」
ピオンの細く白い指が、テーブルに乗ったぎざぎざの脚をつまみ上げた。
「説教をしよう。表面上のことに囚われるな。たかだか月の満ち欠けひとつで知ったつもりになるな。リリエがどんな人間なのか、きみは何も分かっちゃいない。きみは優しい子だ。ゆえに、そういう弱さがある」
反論なんてできなかった。大人しくしているのに精一杯だったから。
あなたは知らないでしょう。リリエはとてもいい子だし、反対にわたしの心には魔物が巣食っていることを。……無論、言えない。
「西側に行くのもしばらくは控えたほうがいい。この前の精霊狩りと同じ格好をしたローブの人間をリュウラが察知している。両村の安寧と、何より種の存続のために、不用意なおこないは慎んでくれ」
限界だった。暴れてやろうかと思った。
あなたはいいよ、出たければ村を出れるから。
彼女は掟の曖昧な線を明確にすることができる、線自体を引き直すことだって。
そんな権利があるのに、あなたは家に引きこもってばかり。
そんなだから、竜やひと握りの悪い人間に怯えなければならないんだ。
言ってやりたかった。
人間と仲良くできないの? 伝説のように、竜も斃せないの?
でも、ピオンが「西側」と言ったことが、かろうじて踏みとどまらせていた。
これからは森へ行くときは北側か南側を経由すればいいだけだ。わたしが人里のそばでリリエと遊んでいることはまだ隠せているはず。
「ルセナ、念を押すぞ」
わたしは聞かず、立ち上がった。
説教を途中で無視して帰ることは珍しくないし、寝ないと明日はリリエのお腹を枕にしなくちゃいけなくなる。
「きみは竜の贄のつがいに選ばれたんだ」
ただ余っていただけ、でしょうに。
「もしも余り者が複数いたとしても、私はきみの肩を叩くだろう」
……それはどういう?
「だから、たんたんと役目をこなせ。リリエのことは忘れろ」
わたしは立ち止まる。また、怒り。
精霊には頼らず、扉を塞ぐつるをつかんで力づくで退ける。
つるが裂けると、濃い森の香りがほとばしった。
「いつだったか、あの子と同じ瞳の色の女はそうしていた。彼女は立派だったよ」
……。
「私も、いじわるをしているわけじゃないんだ。きみは私が長になる以前に産んだ子の娘なんだよ。きみに何かあると、私だって悲しい」
ピオンは消え入りそうな声で語り始めた。
……彼は最後の息子だったから、少し贔屓をしすぎてしまったんだ。
彼がつがった相手と上手くいかなかったから、子ができたばかりだというのに、つがいの解消までさせたくらいだ。村の長の権利とはいえ、やりすぎた。
だからだろうね。罰が当たったんだ。それからの彼は最期まで「余り者」だった。
ピオンは、彼女は痛みを感じている。背中を向けていても理解ができた。
……不手際だったのか、竜の気まぐれだったのかは分からない。
だが、誰か一人のために、仲間すべてのいのちを天秤に掛けることは許されないんだよ。
わたしは振り返らなかった。
ピオンの言葉に嘘はないだろう。
彼女の説教は趣味だ。前に聞いたような内容が大半を占めて、要点が出てもどうどうと巡り繰り返されるばかりの無意味なもの。
しかし、この日の彼女の話は、ひとつの「答え」に帰結していた。
わたしもまた、リリエと同じ……。
だからわたしは、精一杯の優しさをこめた返事をした。
もしここで、ピオンがリリエと同じやりかたをしていたら結末は違っていただろうか。
だけど、彼女は椅子から動かなかった。
もう少し待てば、抱いて引き止めてくれたのかも知れなかったけど……。
ううん。どちらにせよ、同じだっただろう。
わたしにとってはもう、「精霊びと」の時の歩みは、あまりにもゆっくりすぎるものになっていたのだから。
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