08.叶わない約束
――陽が沈むたびにわたしは空を見つめる。そして、風の声を夢想するのだ。
「危なく見つかるところでしたね」
花も散るような風の強い日のことだった。
暗闇に吹きこむ風の音の中、わたしが感じるリリエは声と体温だけだった。
本当なら、彼女に狩りの仕方を教える予定だった。
風が強いと、においがかき乱されるために獣たちが引っこむので、人間の狩人は仕事をしないらしい。
いっぽうで、「精霊びと」のやりかたなら、追跡も狙撃も精霊頼りだから問題無い。
だから、わたしたちは無遠慮に狩人の縄張りへ踏みこんでいた。
ところが、偶然にリリエの知り合いの狩人がいて気づかれ、死んだ大樹のうろへと逃げこむ羽目となってしまったのだ。
もちろん、わたしは狩人に感謝をしていた。
うろの中は、ふたりだけの世界だった。
「狩り、やってみたかのになー……」
残念そうな声。
リリエなら風にも負けずに矢を飛ばせるだろう。
森にも愛されているし、慈悲の心もある。いい狩人になれる。
最初は、彼女が狩りを教えて欲しいと言ったのに面食らった。
リリエは獣を殺したりすることを好まないと、勝手に決めこんでいた。
ところが、人間の精霊学でも、いのちの循環と精霊の循環をなぞらえて教える手法があるらしく、食事もまたその一部だと彼女も理解していたのだ。
精霊学を掘り下げると、どうしても竜に行きついてしまう。
そのため彼女は話題を狩りに移したのだった。それがきっかけだ。
誰かに何かを教えるのは嫌いじゃない。わたしたちは意外と教えたがりなのだ。
特に、大好きなひとに手ほどきをするのが嫌いな者なんていないだろう。
だけどわたしは、この弓の技でリリエの父を殺したかもしれなかった。
リリエが持ち出してきた金属の切っ先をもった矢なら、あのローブの男に射るのは一矢だけで済んだだろう。
リリエの父親だったかもしれないと知ってからも、ロズナを屠った男は殺しても飽き足らないと思う。
こんなわたしは、魔物なのかもしれない。
リリエと花びらをこすりあわせるのも無意味だ。
わたしは罪深い存在だ。そう思った。
唐突に温かな息が耳に掛かり、胸から魔が退く。
彼女はわたしにぴったりと身体をくっつけ、ささやくように言った。
「ね、ルセナさん。風の音って面白いですね」
外からの暴風は大樹のうろを不気味な楽器へと変えている。
わたしは、この音は好きじゃないと答えた。
リリエの言うことはなんでも肯定しがちだったけれど、このときははっきりと否定した。
「私、風の音はみんな好きなんです。何かがおはなしをしてるみたいで」
何かって何? わたしはへこたれない娘の耳に向かって、わざと冷たく息を吹きつけてやった。
彼女は短く甲高い嬌声をあげ、「今のはルセナさんの口の声」と言った。
続いて、風が吹きこみうろが唸ると、「これは木のおばけの声」。
「でも、本当の風の声は聞いたことがないんですよね」
リリエいわく、風は何かのあいだを吹きぬけるために、「純粋な風の音」は聞くことができない。村の家々を抜ける賑やかな声。森の木々がささやきあう声。山のふもとでは笑い声を聞き、谷は叫ぶという。
「ずっと西に行ったところに帝都があって、その帝都よりも、もっとずーっと西」
ヒュポスの丘という、平原のまんなかにできた地面の膨らんだ場所があるという。
そこは精霊を失い草木も生えず、付近に建物や木もないところらしい。
彼女はそんな寂しい景色の場所に行きたいという。
そう言った声もまた、ヒュポスの丘に負けず劣らずだった。
わたしは手探りで彼女の両手をつかまえる。
少し冷たい。温めてあげよう。
「そこなら、ヒュポスの丘なら、本当の風の声が聞ける気がするんです」
わたしは、少し傷ついた。
互いに熱く息が掛かる距離で慰めてあげたというのに、彼女は遠くの寒い丘でたたずんでいる気がしたから。
だからわたしは、いじわるを言った。
リリエの論なら、本当の風の声はどうやっても聞けないと思う。
だって、すべての風は耳を通して聴くのだから耳の声だよ、って。
それからが大変だった。
狭いうろの中で笑い声が大暴れしたから。
「あはは、耳の声!」
表現がつぼにはまったらしく、彼女の笑いは止まらない。
わたしはなんとか彼女の両頬をつかまえて、おてんばな口を黙らせてやった。
彼女もまた、わたしをついばむ。
小鳥のたわむれを楽しむうちに、リリエは姿勢を崩し、わたしの脚のあいだに手をついた。身じろぎをすると、彼女の指が腿の内側をそっとこすり、きゅっとなった。
「私の聞く風の声と、ルセナさんが聞く風の声は、きっと違いますね」
わたしは反発する。同じだよ。リリエのことばの意味は考えなかった。
これから甘酸っぱい罪を深める気なのだと誤解もしていたから、話よりもリリエの指のゆきさきが気になってしかたがなかった。
なんにでも興味と憧れを持てた子どもころには知らなかった意味。
かび臭かったはずのうろは、いつの間にか、わたしたちの汗と吐息で充満している。
わたしの鼓動がうるさくなるのに反して、彼女の鼓動は静かなままだった。そして、彼女の指はわたしの内腿から離れてしまい、代わりにわたしの尖った耳に触れた。
「ね? きっと違うと思います」
そんなことない。わたしはかたくなだった。
「じゃあもし、私と一緒にヒュポスの丘に行くことがあったら、いっしょに風の声を聞いて、お互いに聞こえた音を教え合いませんか?」
悲しい提案。提案というよりは、すがるような懇願に思えた。
わたしは返事をしなかった。
これ以上はつらいだけだと思った。この死んだ胎から飛び出してしまいたかった。
でも、逃げられない。わたしの耳が狩人がまだ森をさまよっていることを知っている。鼻は沈黙の長さに比例して、リリエの香りが沈んでいくのを知らせる。
誤魔化してやりたい。忘れさせてやりたい。
どうしたらいい? リリエは、何を思っているの?
彼女のからだを暴き知り尽くせば、つらい罪を甘い罪で押し流してやれば……。
わたしはリリエの腕を取り、再び脚のあいだへと導いた。
ふと、彼女の指に違和感を覚える。
触れて確かめてみると、いつもの実の茎を結んだ指輪がついていた。
きっと違いますね。彼女の声が胸の中で響く。
わたしは抗いたくなって、とっておいた茎の指輪を自身の小指にはめて、彼女に触らせた。
さえずるような笑い声が聞こえた。
「約束、しましたよ」
どういうこと? わたしはあっけにとられた。
それからのリリエは本当によく笑った。
わたしがいじわるに努めたぶん、彼女もまたいじわるだった。
「私たちにも小指に茎を結ぶ風習がありますけど、それは魔除けじゃないんですよ」
……約束のしるしなんです。
わたしは指輪を外そうとするも阻止され、競うように好奇心を示される。
彼女の指がわたしの腹を優しく圧し、奥が疼くのを感じた。
今度は、同じ。
いっしょになった心音が高まり、うろに響く。
狂おしいほどに吹く風は、いつのまにか嵐を呼び寄せていた。
外では風が森と殴り合い、雨は泣きさざめき溢れた。
うろに流れこむ雨水はわたしたちのあいだを通り、なまぬるくなってどこかへと去る。
誰にも触れさせない場所へ触れあい、驚き身を引き、吐息とともに笑いあう。
嫌いと言ったはずの死樹の声がふたりの音色を掻き消した。
実を結ばずとも、蜜は甘い。
甘い、甘い罪。わたしはけっきょく、どちらの罪も深めることとなった。
「約束、しましたよ」
慰めあったはずなのに、かえって涙を流していた。
うろから出て精霊に光を頼んだときには、やまない雨がもう、押し流してしまっていたけれど。
別れ際、手を握りあおうかと思って互いに手を伸ばすも、同時に引っこめて笑顔を交わすだけに済ます。きっと、際限がないから。
また、明日。
余韻の残る肌に打ちつける雨は秘めごとの続きのようだった。
こっそりと村に戻ると、トマの家から揉めている声が聞こえた。
それはひっそりとしていて、雨音の中でも乾いていた。
わたしは、身体に残るリリエを反芻し、彼らを嗤う。
可哀想なトマたち!
めばなの愛は嵐でも押し流せなかったというのに。
つまらない嫉妬だった。
わたしたちじゃできないことも、あのふたりならできるはずなのに。
果たして、このときのわたしの中に住みついていたのは愛だったのだろうか。
あるいは、魔物だったのだろうか。
ただ、そいつがそそのかしたせいで、わたしたちは叶わない約束をする羽目になったのは確かだった。
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