06.笑顔の矢じり
――明日を強く恐れるときほど、つらい今日はないのかもしれない。
リリエが泣いた夜、わたしは彼女に慰めの言葉のひとつも掛けずに帰ってしまった。
あのときほど長く感じた夜は、もう二度と訪れないだろう。
わたしたちは長く生きすぎて時の流れに鈍感になることが多い。
余暇を寝て過ごすのも珍しくなく、誰とも口を利かずに月を過ごすことさえある。
リリエとの時間が痺れるくらいに濃かったせいもあるのだろう。
出逢ってほんの数日のあいだに、何年も経ったような気がしていた。
じっさい、わたしがリリエを通して他者や自分自身について知ったことや気付いたことは、本当に数年分はあっただろう。
だからこそ、ロズナを殺したローブの人間が気になった。
わたしは正当な理由があって、彼を殺した。
確証はない。人間なんていくらでもいるし、わたしは人間に詳しくない……。
だけど、じっくり思い出せば、あのリリエと同じ髪色の男が、彼女と同じ年頃の子どもを持っているのにちょうどいい容姿だった気もしてきた。
そして、あの手紙。リリエの謝罪……。
ルセナは、彼女にとっての「魔物」なのかもしれない。
それでもわたしは、いつもと同じくらいの時間に白ルセナの広場を訪れた。
木陰から顔を出すと、すでにこちらを見てほほえんでいる彼女。
それから「こんにちは」と弾んだ声。
わたしは少し遅れ気味に挨拶を返す。
それがいつものわたしたちだ。
……初めてだった。待つほうになったのは。
不安が首をもたげる。リリエ、もう来てくれないの?
ロズナを失った日よりも、澄んだ恐れ。
その清らかさがわたしの罪を克明に照らし出す。
あの子が来ないのは、わたしが泣いている彼女を置いて黙って帰ったから?
それとも、わたしが彼女の父親を殺したかもしれないことに気付いたから?
「よかった。ルセナさん、こんにちは!」
不安は胸を満たすと同時に霧散した。リリエはずっと居たのだ。
いつもの時間に来ていて、少し離れたところから、わたしたちの花園を見ていた。
「昨日はご迷惑をおかけしました。もし、来てくれなくなったらどうしようかと思って、出ていけなかったんです」
わたしと同じ。胸がいばらに閉じこめられる。
とぼけることにした。黙って帰ったことや彼女が泣いていたことを知らんぷりするには、種族の違いなんて言い訳にならないのは分かっていながら。
リリエは何も言わずにわたしの手に触れようとした。
触れるか触れないかのところ。
腕が風で揺れたせいにできるような、ほんのささやかな求めだった。
彼女の迷いが伝播して、わたしも迷いに満たされる。
指先が冷える気がした。ここでわたしのほうから手を取ってやらないのは、ロズナへの不義理よりも酷いことに思えた。
とまどいの中、こちらの手のほうがリリエの両手に包まれてしまった。
今日もまた、あの夜と同じ悲しいにおい。
でも、わたしだって、ちょっとは上手になっていた。
リリエの握る手へわたしの残った手を重ねるだけで、彼女の言いかけた「ごめんなさい」を照れ笑いに挿げ替えることができたのだから。
「えへへ、ありがとうございます」
わたしの胸に矢がもう一本。罪のとなりに笑顔が並ぶ。
リリエは、ぽつりぽつりと話し始めた。
父親はずっと西にある帝都で精霊の研究をしている。
年に何度か村に帰ってくる。そのたびにみやげ話や贈り物をくれる。
普段はひとりで住んでいるが、精霊に通じる力や村民たちとの良好な関係に助けられて不自由なく暮らしていけている。
でも、やっぱり寂しいんです。
……リリエはお父さんが大好きだと言った。
「ルセナさんのお父さんはどんなかたですか?」
わたしは首をかしげ、眉を寄せ、腕を組んで考えた。
それから、知らないと答えた。
「あっ、ごめんなさい。小さいころにお亡くなりになったんですか? 私も母が……」
たぶん死んだが、違う。父親は誰だか分からないという意味だ。
「それって、お母さんが乱暴を受けたり……」
またも否定しなければいけなかった。
わたしたちのあいだではそんなことは起こらない。
ところが、否定と説明のあいだにリリエは「にやけ笑い」を見せた。
「じゃ、じゃあ、もしかして! 禁じられた秘密のお付き合いだったとか!?」
食い気味だ。
これも単に、わたしたちと人間たちとの違いだ。
家族の概念が違う。生きる長さが違う。
母親はほかの子を産むさいに亡くなった。その子の父親は、わたしの父ではないどころか、わたしよりあとに生まれている。
わたしの種を撒いた男は、長い時を生きるうちに分からなくなった。母が別の男とつがっていたということは、わたしの実父は死んだのだろう。
「そ、それって、やっぱりいけない関係じゃ?」
リリエはどうも、そういうのが好きらしかった。
狭い界隈に暮らして寿命も持たないわたしたちには普通のことなんだけど。
「でも、家族のつながりが分からないのは寂しくないですか?」
ある意味、仲間の全員が家族ともいえるけど……。
関係性でいえばトマは弟分だし、ピオンとは近い位置で血も繋がっているらしい。
とにかく、丁寧に説明してあげると、リリエは理解するとともにとてもがっかりした。
「じゃあ、ピオンさんがルセナさんの親代わりですか?」
あれは口うるさいだけだ。
あえてあれを母と位置付けるのなら、ピオンはみんなの母だろう。
平等に説教するし、長に就くまでに産んだ子の数や名前も憶えていない。
数千年も生きているのが本当なら、現在村に生きるほとんどの者が、どこかで彼女の血を受けている可能性が高い。
ちなみに、わたしたちのしきたりでは種の存続に身を捧ぐのは義務だけど、同時に出産は死亡原因の筆頭で、寿命が無いとはいえ生涯に三人産めたらいいほうだ。
だからピオンはけっこうすごい。頑丈だ。
「頑丈!」
リリエが、ぱっと花開くように吹きだした。
「あのかた、精霊の力もすごいですよね。見た目も気配も森! って感じですし。ずっと生きていてくれるお母さんって、羨ましいです」
開いたはずの花がしおれる。
「私のお母さん、私が生まれてすぐに死んだんです。竜に食べられて」
訊ねたわたしの声は震えていたに違いない。
彼女は肯定した。「はい、竜の贄になって」。
ここ数代は、こちら側からの竜の贄はすべてわたしが担っている。
わたしは彼女の母親とも贄のつがいとなって、木箱に入れられ竜の前に並べられたことがあるということだ。
リリエは語った。
「だから、いけにえなんて悲しいこと、終わりにしたかったんです」
父が帝都で精霊を調べていたのはもともとの生業だったが、「精霊狩り」に手を染めたのはリリエの生後……つまりは、彼女の母親が竜に捧げられてからだという。
リリエは帝都で権威のある研究職につけるほどの父と、竜の贄に選ばれるほどの母という両親の才を継いでいる。
だから、彼女も父親と同じ道を歩もうと考えていた。
「でも、だめそうです。きっと竜は、私を選ぶでしょう」
森がざわつき、白い花たちが怯えた。
周囲に漂う精霊がいっせいにリリエの中へと流れていくのを感じる。
竜には及ばないが、並の術師ではとうてい敵わないほどの精霊力。
無意識だった。いや、違う。今ならはっきりと分かる。
リリエの瞳が、あのひとの瞳と重なったからだ。
わたしは彼女の言葉を否定し、禁を破っていた。
種族間のものではなく、長ピオンと竜の贄ルセナとして交わした約束を。
あたりの生物が気色を失うほどだったろう。
精霊の流れが風を招き、いくつかの木からまだ熟していない実が落ちる。
わたしの足元の花は枯れ、反対に髪に挿していた白いルセナの花弁が膨張して強く香り始め、茎も伸ばし球根を甦らせ、重みで髪から外れて大地に落ちた。
リリエへと向かっていたはずの精霊たちの気配までもが目に見える光の粒へと変じて、わたしの胸の中へとゆきさきを変える。
「ルセナさん、すごい……!」
わたしはただ無闇に精霊を吸い寄せただけだ。
わたしたちは精霊の扱いに長ける。人間よりも、遥かに。
リュウラの矢が獣に刺されば、獣自身の精霊をも消し飛ばす毒となるし、ピオンならその気になれば、森じゅうを秋をまたいで冬にさせることだって、ひと粒の種から春を呼ぶことだってできるだろう。
わたしは教える。これでも竜を克つことはできない。
それからこの場所も、竜が降り立ってできたものだよ、と。
竜が大地を踏みつぶし、精霊を奪い草木を殺したから空き地となり、そのあとに白いルセナの花がやってきた。
ここに竜が降り立ったのは「あの日」。あなたが生まれ、あなたのお母さんが終わりを告げられたその日にできた花園……。
リリエは森の小屋で顔合わせをしたときと同じくらいに取り乱した。
わたしよりも精霊の扱いに長けると思いこんでいたこと。
リリエのお気に入りのこの場所が、じつはわたしたち三人を結びつけていたこと。
そして、わたしが、リリエの知らないリリエの母を知っていたということ。
「お母さん……!」
わたしは、あなたのお母さんじゃない。
母親どころか、選ばれず、誰ともつがえず、竜の口にも合わない余り者だ。
だけど、わたしは精一杯に応えた。
胸に誰かを抱いたのは生まれて初めてだった。
人間の母親をまねたつもりで、気高かったあのひとに対してのはなむけのつもりで、リリエの身体を抱きしめた。
……つもり、だった。
反して、わたしの中でおこったのは別の現象。
あの日トマの横にいた若い娘へ感じた嫉妬が砕け散るのを見た。
選ばれるのを待った夜にトマに抱いた淡い気持ちも、「選ばれないこと」への執着も、すっと溶けて消えていくのを感じた。
わたしははっきりと自覚した。気付いてしまったのだ。
いのち繋ぐ役目に伴えば、もっとも幸せであろう感情。
それを、もっとも遠い、異種族で同性のリリエに対して芽生えさせていた。
掟やピオンの戒め、わたしのこれまでの振舞いなどがいっせいに非難しても、わたしの身体はリリエの身体を放さない。
ぎゅっ、と固く。
そうすればまざりあって、「同じ」になれると思いこんでいるかのように。
けれども、そのおこないは胸に刺さった矢をさらに深く食いこませるばかりだ。
矢軸は折れ、矢じりはわたしの胸から二度と抜けなくなってしまった。
「ルセナさん」
彼女が呼ぶ。
わたしは自分の衝動的なおこないに恐れをなし、嫌悪し、彼女を放す。
手放すと、見えない傷から血が溢れて死んでしまうのではないかと錯覚して胸を押さえ、宙に放りだされたかのような気持ちになった。
「ありがとうございます」
また矢。笑顔がわたしを殺そうとする。
罪を作って咎めているのは彼女ではなく、わたし自身なのに。
「でも、やっぱり私が竜に選ばれるように努力しますね」
どうしてそんなことを言うの?
「ルセナさんのことが大好きですから」
リリエが両手を差し出し、今度は彼女が胸へと招く。
屈託のない笑顔の裏側に、彼女なりの罪をにおわせて。
わたしたちは昨夜のように花園へ倒れこむ。
罪の小石に目をつぶり、濡れた花びらをお互いのものへと変えて。
香りと音に続いて知る、味。
知らなければ、お互いにひとつの円を描いて消失するだけで済んだだろうに。
罪の矢じりは甘い毒を塗られ、お互いの胸に何本も刺さった。
この行為が「想いあう気持ち」からなのか、「どうせ、竜に食われるのだから」なのかは、お互いにうやむやのままにしておいた。
わたしたちは、顔を離すと同時に気持ちをすれ違わせた。
ルセナは怯え目を背ける。
反し、視界の端のリリエは花の蜜に湿らせたくちびるを柔らかに笑わせる。
「……こんなの、いけないことですよ」
そう言いつつも彼女から嗅ぎとれたのは、むせかえるような愉悦と興奮。
初めて自分の矢で獣が獲れた幼き日に感じたそれ。
ふたりは白き花の甘く濃厚な芳香に沈む。
鳴りやまない弦音。昼は短かった。
***