03.知りたい気持ち
――気持ち、というものは分かりづらい。とりわけ、生きた長さや種族が違えば。
リリエは顔合わせの翌日、さっそくわたしたちを驚かせた。
わたしの顔を知った贄のつがいが、会いに来ようとするのは珍しくない。
目的は竜を倒す相談か、異種族へ向けるべきでない気持ちを押しつけにかだ。
彼らはそれをこっそりとやろうとするけど、誰かに音を聞きつけられ、村を見つけることもなく追い払われるのがいつもの流れだ。
ところが、リリエはいきなりわたしの家の庭に現れた。
外からの音に敏感なバンブの耳すらも素通りだ。彼は去年にようやく子ができたばかりで、いっそう神経質になっていたはずだ。あとで聞いてみると、彼は確かにリリエの気配を感じていたけれど、同族の誰かだと思いこんだと言っていた。
もちろん、リリエは人間の少女だ。
耳の先は短くて丸っこいし、髪に草花を飾ってもいない。
彼女にくっついている精霊の調子がわたしたちに似ているのが原因だろう。
あのひとと同じ、「精霊に好かれるたち」。
硬い枝葉に阻まれた森を踏破して来たはずなのに、服のすそや身体を傷付けていないのは森に愛されている証拠だ。
「ルセナさん、ご気分のほうはいかがですか?」
わたしを気遣いに来てくれたのだろうか。
リリエは今にも泣き出しそうな顔だった。
わたしは返答に困る。村に人間を入れるのは禁じられている。
彼女が存在を現してから、村全体の音が潜められ、外れにあるリュウラの家の中からも矢を数える音を感じた。
それから、つたが絡み過ぎて木板の壁がすっかりと埋まった向かいの家の扉が開き、説教女が瞳を冷たく光らせて出てきた。
「わ、森みたいなひと……」
リリエはピオンの睨視に気付いていないのか、物おじもせずに彼女の横に回りこんで髪を観察しようとした。ピオンの髪は地面に届くほど長い深緑で、同じ色のつるを編みこんである。
彼女はしばしピオンの髪を感心したふうに眺めたあと、向き直ってやうやうしく両手を下腹の前に沿えて頭も下げ、「初めまして」とやった。
「贄の娘よ。昨晩に会ってるぞ」
「えっ、あっ!? 精霊びとの村長さん……でしたっけ? その、気持ちがぐちゃぐちゃになってしまっていて、昨日のことはよく憶えていないのです」
「お互いの村に入るのは禁止されていたはずだが」
ピオンは呆れていた。口が半開きだ。いっぽうで、わたしは笑いをこらえた。
ピオンは昨晩の邂逅で、リリエがすぐにわたしのほうを竜の贄と見抜いたことも驚いていたし、今度はこの顔だ。長く生きた彼女は滅多に感情を表に出さないのに。
「掟に触れるのも分かっていましたが……。昨日のお話をすっかり忘れちゃったので、竜の贄として確認しておかなければいけないこととか、なかったかなーって」
忘れたときた。言い訳かもしれなかったが、本当にそうだとも感じた。
ピオンも同じように感じたらしく、少し溜めて息をついてから返事をした。
「特にない。強いて言うなら、互いの迷惑になるゆえに脱走などは企まないように」
リリエは「もちろんです」と、にっこりうなずく。
「それから、術の扱いに長けるからといって、竜に手出しをしようなどと……」
特にないとは言ったが、恐らくこいつは陽が沈むまで黙らないだろう。
追い返すのではなく説教をする気だ。彼女的には少し気を許したと言える。
だけど、ピオンの長説教は人間の時間感覚には厳しい。
屋内だと日を忘れて数日間も話し続けることもざらなのだ……。
それでわたしはつい口を挟もうとした。
ところが、リリエが遮った。
「どれだけ大きな力を持っても、精霊は竜に従うでしょう。仮に竜を殺すのなら、精霊に頼らずに血肉を損なわせるしかないと思います」
「知っていたか。だが、鉄のやいばすらも通さぬ皮とあの巨体だ。きみは竜を殺す相談をしにきたのか?」
「いいえ。竜の贄のどちらかが死ぬのは、最初から決まっていることです」
「だったら、本当に先ほどの質問をしにきただけか」
「はい。あとは……ルセナさんのことが気になったので」
深く吸いこまれそうな青い瞳がこちらを見た。
わたしは、固く結びつけられたように視線が外せなかった。
時が止まったような気がした。
指折り数える程度だったかもしれないし、雲が去るほどだったかもしれない。
いつかどこかで、彼女のかたくなな瞳を見たような気がした。
「ルセナ、彼女を送り届けてやってくれ」
長のひと声が立ち止まった時を押す。
わたしは何も言わずに村の外へ向かって歩きだし、振り返って目だけでリリエを促した。彼女も同じように黙りこくり、素直に従ってついてきた。
そして、森に踏み入ると、ピオンが人間の耳には聞こえないようにささやいた。
「……リリエはきみの精霊を視ていたぞ。取り決めが知られるとまずい。彼女を村に近付けないようにしてくれ」
わたしも気付いていた。
普段は無闇に精霊を自分に寄せることはしない。「わたし自身の精霊」もそれほど多いほうじゃない。
リリエが訪ねてきたのは、わたしが庭の土を弄っていたときだった。
白いルセナを育てる練習として代わりに持ち帰った黄色を枯らして気落ちしていたところだったから、すっかり油断をしていた。
森の中を歩いて精霊を寄せてきた彼女と比べたら、もしかしたらそのときのわたしのほうが精霊の力が弱かったかもしれない。
リリエは、自分が竜に選ばれるであろうことに気付いた……?
もうひとつ問題がある。
基本的にわたしたちのほうが精霊の扱いに秀でていることは誰でも知っている。
人間の娘に負ける程度のわたしが竜の贄に選ばれたことに対しても疑問を持つかもしれない。
わたしは頭の中で、厄介な仕事を押しつけた長の髪のつるをむしってやった。
「……」
いつの間にか並んで歩いていた。
頬に視線が刺さってくすぐったい。リリエは人間の娘のくせによそ見をしながら森を歩けるようだ。
「昨日はおはなしをしてくれたのに、今日は静かなんですね」
わたしは立ち止まり、何か言おうと考える。
けど、リリエが先に「私が会いに行ったせいで叱られたりしますか?」と訊ねた。
わたしは慌てて否定した。肯定は彼女を傷つけるような気がしたから。
それから仕返しをこめて、「誰かさんは用もなく説教をするのが趣味である」ことをばらしてやった。
「ふふ、私のところの村長さんも同じです」
リリエが笑った。口元に手を当てながらも、無防備に目を閉じて。
花が揺れる姿を連想した。
ルセナの大きい花弁は震えると甘い香りを強く漂わせる。
つと、鼻が探り、リリエのにおいを教えた。
昨晩、泣いたり怒ったりしていたときとは違う、胸から落ち着く香り。
長く生きてきたけど、このとき初めて、人間たちも気持ちによってにおいを変えることに思い至った。当たり前。生き物はみんなそうなのに。
「あ、あの。泣いてます?」
こちらを覗きこむ彼女は、表情とにおいを変えていた。
鼻を鳴らしていたせいだろう。自覚はなかったけど昔からよく指摘される癖だ。
返事と弁解を考えていると、リリエの香りが、ぐんと近くなった。
彼女はわたしの瞳に涙が無いか確かめようとしたようだった。
わたしは追いつけない。わたしがとろいのではなく、わたしたちに比べて人間はなんでも忙しくやるというだけのこと。
慌てて涙を否定するも、香りはさらに強くなり、お互いの両手のひらが結ばれてしまった。土いじりをしたままの手だったのを忘れていた。手に残った小石が食いこみ、かすかな痛みを覚える。
リリエはわたしの手を強く握っていた。小石が痛くないのだろうか。
……小石の硬さと、彼女の手のひらの柔らかさ。鼻や耳に頼らない、感触。
思い出せない。誰かと手を繋いだのは、いつぶりだろうか。
「大丈夫ですよ。選ばれるのはきっと、私のほうですから」
鼻は仕事をし続ける。
どうしてそんなことを言うの? わたしは疑問を持つ。
あの子の香りをもっと近くで嗅いでみたいと思ったのは、このときが初めてだった。
彼女は「竜に食われる」と言ったのに、笑ったときと同じにおいをさせていたのだ。
リリエ。あの子は甘く誘うように香る、青い花だった。
***