18.竜よ
――リリエは言った。精霊の循環はうずまきで、どこか一点に帰結するものだと。それは少し違う。精霊の巡りはひとつの輪で、結ばれる前にいったん無に帰ってから、新たに始まるものなのだ。
世界は怒りに満ちていた。
息苦しく狭い木箱の中。外からの激しい光が隙間に忍びこみ、まぶたをこじ開けんと突き刺す。
「遅刻」という使い慣れない言葉が頭に浮かび、全身が総毛立ち覚醒する。
苦い。
口の中に感じる苦みは、本来の調合に手を加えられた事実を教えていた。
ピオンめ!
内なる精霊を燃やし、村の掟が作った木枠を吹き飛ばす。
視界いっぱいに竜の腹。音もにおいも掻き消す精霊の奔流が、やつの中へと収束していくのを感じる。わたしまでもが奪われそうな、圧倒的な力。
それでも、わたしの中から溢れる炎は尽きない。
いびつな鏡映し。
見上げれば、竜の頭も天を向いていた。
それは、ばりばりと音を立て、何かをゆっくりと飲み下した。
リリエの入った箱はもう無い。
箱があったはずの場所には、どうやって持ちこんだのか、帝国みやげのナイフが転がっていた。
そのやいばは血に濡れることもなく、精霊の光でなまめかしくわたしを手招いている。どこか嘲るように。
咆哮。
はらわたを混ぜくりかえすような震動がわたしの足を縛りつける。
負けてなるものか。さだめに、竜に、死に!
リリエはどこ!?
わたしの瞳とあの子の父の瞳が重なった気がした。
わたしは探す。怒りが手放せない。
身体の内側が、こころのすべてが魔へと染まるのをひしひしと感じる。
よこしまとなったわたしの精霊が、あらゆるものを渇望し、暴れ出そうとしていた。
このままではわたしも……。
お願い。あの子の姿さえ見られれば……。
ふっと、身体が軽くなる。
わたしじゃない。
竜にたむろする精霊の怒りが、「何か」によって薄められたのを感じた。
竜が羽ばたいた。
あの薄い翼のどこにそんな力があるのだろうか。
深緑の巨体は、ふわりと優しく浮き上がった。
まるで、夢の中のリリエのように。
またたきひとつ。竜の尾の作る影がわたしの顔をそっと撫ぜる。
あの子の手のひら、指、くちびる、髪を想起させた。
あの夜のような、激しくも優しい愛撫。
竜は長い首を北へ向ける。
あでやかに咲きほこるわたしの精霊を一瞥することもなく。
わたしは持ちこんでいた弓を構えた。
すべての怒りをつがえた矢に籠めて。
「竜よ!」
張り詰めた弦。金属のやじりと目覚めの鳥の尾羽を使った矢。
それは精霊をいだきがらも導かれず、この世の道理に従い空へと放たれた。
輝く矢は竜を追い、翼をかすめ追い越し、遥か彼方へとさかしまの流星を示す。
竜は翼を大きく羽ばたかせるとひと鳴きし、星を追って去っていった……。
わたしは弓を下ろす。
何もかもが空虚だった。この世界にひとりぼっちになってしまった。
竜も、リリエも、わたしを選んでくれなかった。
胸の底から湧きいずる悲しみ。
涙のみぎわで、リリエの父のナイフが光った。
わたしは魔物だ。罪深く、まがまがしく、誰にも選ばれない、憐れな存在。
ふと、気配を感じる。
わたしはつまさきに当たった小石を見るように、それへと視線を向ける。
竜と同じ髪色をした女。
ろくに手入れもしていない、森と一体化したような姿の、狭い、女。
彼女は矢をつがえていた。
その切っ先は、竜ではなく、確かにわたしへと向けられていた。
瞳も同じように鋭く、濡れ光っていた。
わたしはまだ怒りを持っていた。際限なくかき集められるそれは、悲しみによって胸に開けられた穴へと流れこんでゆく。
ナイフを拾い上げる。その煌めきは、わたしをずっと待っていたようだった。
……やいばに映った姿を見て、わたしはほほえんだ。
髪に飾っていたルセナの花。
白かったはずのその花びらは、知らぬ間にあの子の髪色と同じ深い青に染まっていた。
……すっ、とわたしの中にあの子がやってくる。
「ありがとう、リリエ」
わたしはやいばを振るった。
「それ」は思いのほか容易く裂け、鋭い痛みと鮮血をほとばしらせた。
右も、左も、どちらも切り取る。
ピオンが何か言っているのが聞こえた。
声は痛みだった。
わたしは精霊びとたる証を地に捨て、立ち尽くす祖母へ「ありがとう」と「さよなら」を告げると、背を向けた。
花を撫ぜた風が、青き香りを運ぶのを感じる。
行こう、西へ。
わたしは歩き出す。
リリエといっしょに、あの広い世界へ。
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