17.帰ろう
――夢とは儚く不思議なものだ。永遠のように感じることもあれば、またたきの間に過ぎ去ってしまうこともある。うつつに帰ったときに胸に残る感慨だけが、その実在を示す証なのだろう。
「風の声、よく分かりませんでしたね」
苦笑するリリエ。
わたしは風で乱れた彼女の髪を直してやり、せっかく遠くまで来たのにねと返す。
だって、しょうがない。
お互いに「びゅー」とか「ぼわーっ」とか言って伝え合っても、お腹をかかえて笑うしかないんだから。
かつて魔物が討たれたヒュポスの丘。
うら寂しい灰色の地に、わたしたちのふざけあう声ばかりが風に舞っていた。
「ほんとは風の声なんて、どうでもよかったんです。大切なあなたと、何か約束がしたかっただけ」
わたしはうなずく。今なら分かる。
今ここにふたりで立っている。それで充分だ。
つと、ふたりのあいだに小さな沈黙が訪れる。
風が胸の中に忍びこむ。寒い。
ここは精霊がすっかり枯れていた。草木もなく、土も乾いている。
森と正反対の環境は、いなくなったはずの鳥の魔物がどこからか現れるんじゃないか、あの竜も生き返るんじゃないかという不安を掻き立てた。
「次は、どこに行きましょうか?」
でも……。わたしは首を振る。どこにも行きたくなかった。
「もう帰っちゃうんですか? せっかくこんなに遠くまで来たのに」
リリエは不満を漏らしたけど、すぐに悪い笑みを浮かべ、わたしにねだる。
「もう一度、帝都に寄って行きませんか? まだ観れてないところもありますし」
リリエは劇場というところに行きたがっていた。
けれども、帝都までの旅費がかさんでしまい、断念をしていた。
「どこかでお金を稼ぎましょう。いちばんの用事は終わっちゃいましたし」
ね、いいでしょ? と瞳だけで訴える。リリエは上手に甘える。
わたしは人間の通貨というものが好きだった。
それを挟むことで、リリエとやらなければならないことやできることが増えるから。
「どこかベッドのある所で落ち着いておきたいなー」
彼女はわたしの髪へ手を滑りこませ、料理をするように慣れた手つきで髪を結んでくれた。
それから、リリエの両手がわたしの手を取る。
この子となら何をしても楽しいだろう。
彼女の屋敷の屋根の上で見上げた星空を思い出す。
数えきれない星たちのあやなす光の渦は、何もかもを吸いこんでしまいそうで怖かった。
だけど、繋いだ手を感じれば、どんなに広くて恐ろしい世界でも平気だと思えた。
じっさい、ここまでこれた。森、帝都、丘。
……でも、どうしても帰らなければいけない気がする。
違う。あの森でもない。わたしは、どこかへ行かなくちゃいけない。
ここではない、どこかへ。
すっと、リリエの手が離れた。
「心配そうな顔……。遅くなったら叱られちゃいますもんね」
いつもなら譲らない彼女がしおれていく。
わたしは、おみやげをたくさん買って機嫌取りをしたらいいよ、竜の贄みたいに! と、おどけて言った。
「おみやげ! うちの村長さんにはお孫さんに着せられるドレス。お父さんには果実酒、お母さんには何を贈ろう……」
リリエが弾んでくれた。わたしもそれに合わせて指折る。ピオンには珍しい食べ物、トマには精のつく薬、ロズナには……彼女は人間のものならなんでも喜びそう。
「ルセナさん」
リリエがわたしを見る。しょうがない人、困ったなという表情だ。
「ロズナさんはもうお亡くなりになってますよ」
わたしは慌てる。すっかり忘れていた。
墓前に供えるものだよ。リリエだって、お父さんとお母さんに買うんでしょ?
「そうですね……。あっ、そうだ! ルセナさんにも何か贈ろうかな」
どうして? 浮かぶ疑問はどろりとした濃い不安を抱きこんでいた。
それを覆い隠すように、じゃあ、わたしも何か贈ろう。何が欲しい?
リリエは首を振る。
「私はもう、充分貰いましたから」
わたしも首を振る。何もあげていない。
「くれましたよ。欲しかったものは、みんなくれました」
風が吹く。何もいだかない風が、わたしたちのあいだを吹き抜ける。
「私のほうこそ、足りなくてごめんね」
そんなことない。どうして謝るの?
「あなたは、ようやく生き始めたばかりなんですよ。もっとたくさんのひとと出逢って、たくさんのものを見て、たくさんのことを知るんです」
そうだよ。あなたといっしょに!
わたしの悲鳴は風の声が掻き消した。
「あはは。ルセナさんったら、ほんとに赤ちゃんみたいになってますよ」
また風。今度の風は、リリエの愛撫のように耳をくすぐった。
リリエが両腕を広げる。わたしは彼女の胸へと飛びこもうとする。
いくら手を伸ばしても届かず、走ろうとしても地面の小石が靴裏を滑らせる。
優しいはずの風の声が、わたしに行くな行くなといじわるを言う。
遠ざかるリリエ。
彼女が、空へと吸いこまれていく。
いやな風。あの子を吹き散らす気なんだ。
リリエ、リリエ!
わたしは叫ぶ。息ができない。あなたが居ないと。
口が苦いよ。どうにかして。くちづけて。抱いて。そばにいて!
はっと気づく。
ああ、みんなが怒っているんだ。
輪からはみ出そうとしたわたしを責めているんだ。
ピオンが、ロズナが。トマが。あの娘が、少年が。人間の村の長が。
精霊たちも怒りに満ちている。
押しつぶされそうなほどの圧力。あなたたちもわたしにいじわるをするの?
わたしのことは地面に縛りつけるのに、リリエはどんどんと空の彼方へと押し上げられていく。
待って、待ってリリエ!
「大丈夫ですよ、ルセナさん」
リリエの優しい声がささやいた。
***