16.大空、そして翼
――竜は翼を広げ大空を翔ける。あの子は憧れを、わたしは恐怖を口にした。
わたしはリリエの屋敷に居座った。
森にも出掛けなくなった。リリエも「森はもう知り尽くしましたから」と言い、誰かに聞いた村の外の話や、本で読んだという異国の話をわたしに語った。
リリエはわたしに帰らなくていいのかと訊ねた。
日に何度も。聞くときは必ず、わたしの片腕を両手で抱きかかえてだった。
わたしたちの習慣では、何日も顔を合わせないなんてことは珍しくもない。
とりわけ、竜の贄――つまるところ役目なし――のわたしは存在しないも同然だ。
いっぽうで、リリエは贄に選ばれてから、人付き合いが増えたという。
年寄りは彼女を心配し、いけにえの意味を知らない子どもたちは憧憬のまなざしを向けてくる。リリエはそのたびに応じて帰りが遅れる。
屋敷に居ようとも居まいとも、食糧を届けてくれる人や、布革の入用を訊ねる人は遠慮なく踏みこんでくる。リリエの言う通り、階段から先に侵入するのは声だけだ。
わたしは耳がいいから、容易くそれを察知できる。
見つかるわけがないとたかを括っていたし、リリエの時間が邪魔されないように守っているくらいの気構えだった。
一度、聞き逃してしまったのは、わたしたちが互いを楽しんでいたせいだ。
リリエは慌てて服を着て下りていったが、そのときに訊ねてきた若者は意外と鼻が利くらしく、帰ってからリリエに想いを馳せていたようだ。
彼が何をしようと勝手なのだけれど、わたしは面白くなかった。
これらのことで難儀したのは、見つからないことやリリエが煩わされることではなく、リリエが村の者とやり取りをすると、相手が老若男女の誰とも問わずに、わたしは彼女を抱かなければ収まりがつかなかったことだ。
人間の村に住むには耳と鼻が良過ぎた。それに、どうやらリリエもロズナと似た趣味を持つようで、わたしに薪をくべるのを楽しんでいた。
それでなくとも、夜になれば星露に濡れて雫をそそぎあうのは欠かさなかった。
やっぱりリリエはずるい。あれだけ聖げで無垢に笑うことができながら、罪ごとにも同じように耽れるなんて。
わたしなんて、自分から求めたくせに恥じらって、彼女に分け入るのが二度目以降になっても、お互いの反応にいちいちたじろがなくてはいけなかったのに。
昼夜を問わずとろかしあったせいで、部屋のにおいはすっかりと変わってしまった。
窓の下で香っている白ルセナたちとそっくりでいて、反対のにおい。
ずっと淫らにしていたわけじゃない。リリエには人間の文字を教えてもらった。
ふやけた指でペンを持つのは難しかったけれど、簡単な挨拶やお互いの名前くらいは書けるようになった。
料理だって覚えたし、この村の人の名前や役割、関係だって、窓が開け放たれているだけですっかりと把握してしまった。
前もって知っていれば、仲良くできる気がする。
いつか竜を討ち、お互いの村が交流を持つことはできないだろうか。
同じ時を歩むことは、できないだろうか。
それを何気なくつぶやいた。
リリエはわたしの両のまぶたへ接吻をくれたけど、悲しい顔をしていた。
それをやり遂げようとしたのは彼女の死んだ父で、わたしはすでに彼のことを忘れかかっていた。
本当のところを言うと、人間には無関心になりつつあった。
同時に、わたしの村の者たちへも。
リリエが喜ぶだろうと短絡的に考えて、それらしいことを口にしたに過ぎなかった。
竜が討てるはずなどないのだから、ふたつの世界が繋がるなんて、夢のまた夢だ。
わたしの世界にはもう、リリエ以外には不要だった。
竜や訪れ捧げの儀式が済めば、わたしたちはこの村から消える。
体裁だけ繕って、竜がわたしたち両方を喰らっても満足しなかったていでいく。
そういえば、以前に感じたあの気配は、やっぱりピオンだったみたいだ。
彼女は人間の村長とも会っているようだ。リリエが食われるように細工するように念押しをしていた。
ふたりの長には、腹立たしさよりも申しわけなさが先に立った。
わたしたちは、この村を捨てて出ていく。
それなのにわたしは、たびたび空を見上げ、竜に呼び掛けていた。
竜よ、竜よ。どうぞ来ないで。ずっと甘い夢を見させてください。
なぜ、祈るのだろうか。なぜ、不安なのだろうか。自分でも分からなかった。
逃げそびれることはないはずだ。
いけにえは薬を使って眠らされることもある。
祖母には悪いが、今回はそれを疑ったほうがいいだろう。
睡眠薬のレシピは知っている。それに対抗するには、あらかじめ身体の中に解毒薬を仕こめばいい。
普段は人間の贄にだけ使われるものだけど、わたしも対策をしておくべきだろう。
何かを身体に入れるのにはもう、慣れっこだ。
念のために武器も持っておこう。表向きはいけにえの武器の携帯は禁止されているが、こちら側の贄は確認をされない。
万全を期すというならば、竜が来る前に逃げてしまうのが一番だろう。
わたしが手を貸せば容易いことだ。今からでもできる。
それをしないのは、形だけでも儀式を済ませるのが、わたしといっしょに逃げるためのリリエの出した条件だったからだ。
罪はふたりで背負おう。
だけど、わざわざみんなの精霊にまでわたしたちを怨ませることはない。
リリエの母の誇りまで傷つけることはない。
これはわたしたちふたりにだけできる、せめてもの贖罪。
よく晴れた日だった。
明け方に降った雨が蒸発し、むせるような森の薫りに満たされた昼下がり。
すべての精霊がざわついた。
「来ましたね……」
リリエは胸に手をやり、父と母の名をつぶやいた。
わたしは彼女の肩を抱き、ともに窓ぎわへと立つ。
深緑のたくましい胴。それを支える脚、野太い尻尾。
太陽を透かす膜のような翼は空いっぱいに広げられ、岩のようなたくましい顎と長い鼻先は、逆光により真昼の空にくろぐろと不気味に存在を主張した。
竜。
「初めて見ました。ちょっとだけ、羨ましいと思います。私もあんなふうに自由に飛べたらいいなって」
同意できなかった。
何度も見たはずのあいつが怖い。わたしは怯えている。
今度ばかりはいつもと違った。確かに訪れた約束のとき。
リリエとの約束も破って、献上の儀式をすっぽかして彼女を連れて逃げたい衝動に駆られた。
咆哮。天空で竜が猛る。
やつはこの地の精霊を吟味するかのように上空を旋回し、木々が領土を主張する森深い場所へと遠慮なく降り立った。震える空気とかすかに揺れる地面。
鳥たちが慌てふためき、枝葉が砕け、花たちが絶叫する。
「大丈夫ですよ」
リリエが抱いてくれる。
いまも、今日までも、これからも、ずっとずっと、ずっと……。
「仕度をしましょう」
たおやかな笑みは、よすがなく儚げに見えた。
リリエもきっと怖いはずだ。
わたしは抱きかえしてやろうとしたが、彼女は強かった。
「最後の夜はお祭りをするんです。お化粧をして、綺麗な衣装を着て。豪華なお料理も出るんですよ」
自慢げに言い、ころろと笑う。
それから、竜の消えた森のほうを見つめ……。
「竜も、ちゃんと待ってくれるんですね」
人間の村では竜にいけにえを捧げる前夜に村民総出で祝い、祈るという。
精霊びとの側は数人が駆り出されて祭壇を作るために労働をするが、それだけだ。
竜の贄は人間側では「竜の巫女」と呼ばれるらしい。
巫女とはなんなのかと訊ねると、リリエが教えてくれた。
「精霊にお伺いをたてたり、占ったりまじなったりする人らしいですよ」
わたしたちは笑った。
精霊は口を利かないし、いけにえのほうが竜に占われるのにね、と。
「巫女が村長さんよりも偉い村もたくさんあるそうですよ」
人間はそうやって精霊の威を借りるものなんだそうだ。
巫女の姿も、竜の選択も、何もかもが作られたもの。
祭りだってそのための欺瞞に過ぎないのかもしれない。
だけどそれは、いけにえが、リリエが大切にされているからこそなんだと思った。
「ルセナさん、また逢いましょうね」
くちびるは交わさず、抱擁だけに済ます。
そして、わたしたちは別れ、みずからおのおのの長を訪ねた。
最後の夜、木箱に入れられる前にわたしたちはもう一度顔を合わせた。
長たちの前だから言葉を交わすことはできなかったけど、竜に捧げられるための衣装をまとったリリエはとても綺麗だった。
まっしろで無垢な虫繭の糸で織られた衣を身にまとい、背に垂れた夜を流すような髪はかがり火で幽とした光を映す。
そのふたつの色が綾なすのは、生と死だろうか。
軽く結ばれたくちびるは化粧でくれない咲き、頬はおしろいでその温かさを隠す。
額の横で結ばれた小さなみつあみは、わたしたちの約束の茎を使ったもの。
わたしもまた、鏡あわせの髪型をしていた。
リリエはわたしと目を合わせると、照れくさそうにはにかんだ。
それだと困るから、彼女はそれからずっと、どこか一点を見るようにしたようだった。
あの瞳はまさに彼女の母親、あのひとの生き写しだった。
ああ、リリエ。わたしの愛しいひと。
わたしたちはべつべつに四角い闇へと封じこめられ、竜を招く祭壇へと供される。
とざされる世界。
真新しい木材の香りと、竜が嫌う香油がわたしを満たす。
もうすぐ、もうすぐだ。
わたしとあなたの世界が、もうすぐ始まる。
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