12.ふたりの世界
――望んでも手に入らなかったものが、望まなくなった途端に転がりこんできて煩わすのはよくあることだ。
リリエの部屋で過ごした午後は、今思い出してもとろけそうになる。
紅茶と彼女お手製のケーキを楽しんだあと、お互いの髪でたっぷりと遊んだ。
リリエの髪を触るのは楽しかったけれど、ほんの少しの苦みも感じた。
ロズナがトマに選ばれたばかりのころ、わたしがロズナの髪を結んだり、髪の小さな庭の世話をしてやっていたのを思い出したからだ。
あれももう何十年も前の話だけど、二度と訪れることはない。
この時間もまた……。わたしは心の中で否定する。竜には呼び掛けない。
苦みはいっそう、甘さを引き立てるものだから。
髪を触られるのは至福のひと言に尽きた。
彼女の香りが充満していて外から隔てられた空間は、自室のよりも落ち着くものだった。
そこで遠慮なく指先の動きや息づかいを追い、わたしの髪が香りを撒くたびに部屋のにおいが少しづつ変わっていくことにほくそ笑んだ。
「こっちのほうが、まったく同じにするよりも好きかもしれません」
森でも試した、普段のリリエの髪型。わたしのみつあみは彼女のものとは反対側、鏡映しになるように結われている。
わたしは同意する。向かい合わせになったときに重なるほうが、ずっといい。
リリエは何か思いついたようで、両者の髪をほどくと、鏡を向いて椅子に座るわたしの隣にぴったりと頬を寄せた。
それから鏡の像を頼りに、白と青の髪をいっしょくたに編み上げた。
二色の螺旋。空と雲のようで美しいと思った。鏡越しに見せつけられると、自分たちのことながら照れくさくて、わたしたちは双子の木の実そっくりになる。
ところが、リリエの中腰の姿勢には無理があったらしく、彼女はそうそうに髪をほどくとベッドに伸びてしまい、腰と首が痛いと嘆いた。
そんな彼女はベッドの中央からはずれた位置に伏せっていて、大きなまくらも半分ほど余らせていた。
それから、ころんとこちらを向いて、目だけで訴えた。
鼻先を触れあわせてのおしゃべり。
わたしは村のことを訊ねる。彼女も同じく。
でも、ほとんどはこれまでの会話で交換したようなことばかりで種は尽き、すぐにくすぐりあったり、ついばみあったりして遊んだ。
ずっとこうしていたい。そんな気持ちに支配される。
わたしの世界はこの部屋の中だけで充分だとすら思った。
でも、本当にいっしょにいたければ、話すべきことや、するべきことがたくさんある。
わたしは、かねてからリリエに「いつも選ばれないこと」の話をしていた。
だけど、つい最近、それについて変わったことがあったのを彼女に打ち明けた。
「その男の子は絶対、ルセナさんのことが好きですよ!」
この手の話になると、いつもは「悪い顔」をするはずのリリエ。
でも、今度の彼女は怒っていた。
じつはつい先日、村の男の子がわたしの家を訪ねたのだ。
大して親しくない者が、日常の役目を担っていないわたしを訪ねるのは珍しい。
だけど、わたしはひと目見て彼が訪ねた理由を悟った。
記憶していた少年はリリエよりも幼い子どもだったはずが、いつの間にかわたしの知るものとは違う低い声に変わり、体つきもがっしりとしていた。
それから、まだ新しい青臭いにおいに苦笑もさせられた。
「断ったんですか?」
わたしはうなずく。以前のわたしだったら、その場で彼をひっ捕らえてベッドに引きずりこむくらいのことはしたかもしれない。
だが、わたしは、竜の贄で死ぬかもしれないし、贄の役を担うあいだは婚礼は挙げられないしきたりだと言って断った。
少年は「竜なんてぼくがやっつけますよ」と気丈に言った。
どこか怯えるような顔だった。勇気は口先だけで、竜に恐怖をしていた? 違う。
少年は不満といっしょに、竜の贄の取り決めについても口にしていた。
どうせ生きて戻ってくるんですよね?
彼が大人になったことを認めたついでにピオンが話したのだろうけど、あまりにも時期が怪しすぎた。ピオンはわたしのことを相当盛って話したと見え、少年はわたしとつがうことを必然として訪れていたらしかった。
だから、予想外の拒否に震えていたのだろう。
わたしのあのときの態度は、ナイフで断ち切るかのようだったから。
……身体を起こす。ぎし、とベッドが音を立てる。リリエは続かない。
わたしにはもう、「つがう相手」はいるし、それに少年が口にした言葉は、男のいけにえたちと大差のないものだ。
リリエとのことがなければ、むしろ、人間と同じで愚かと足蹴にして追い返したまであったかもしれない。ちゃんと諭しただけ偉いだろう。
わたしは、余り者をこじらせちゃったかなと言って笑ってみせた。
リリエは笑わない。
「変だとは思っていたんです。村のおばあちゃんに聞いても、いつも人間の贄が選ばれるって言ってたから。村長さんは、そんなことは無いって言ってましたけど……」
わたしはずるい。卑怯者だ。前置きもなく、さりげなく真実を叩きつけた。
彼女が受け入れやすくするのではなく、わたしが話しやすくするための細工だった。
横になったままのリリエの肩に手を置く。凍えるほどに冷たい。
この手が払われるのなら、それでいい。彼女のことは罪として一生わたしの胸に残るだろうから。
だけど、無限の生の中、この罪に耐え続けるなんて考えただけでも恐ろしい。
だからわたしは、掟に逆らって代わりに竜に食われてやるつもりだった。
……もしも、リリエがわたしの手を取るなら、彼女の望むままにしようと思う。
男たちのように、ともに逃げようとも、竜を倒そうとも口にしてやる覚悟がある。
リリエはそのどちらも選ばずに身を起こし、わたしの隣に座った。
「最近、村の男の人がよく訪ねてくるんです。ずっと私のことを気に掛けてくれたって、きみは竜のいけにえになんかなっちゃだめだって」
彼女は村の男たちの名をひとりひとり挙げていった。
ひとつ年下の男の子から、多くの若者、かつて彼女の母親の横顔を見つめていたという年増の者まで。
それからこう言った。
「よく知らないんですよ。私ってずっと、お父さんのことばかり見てましたから」
リリエは自嘲気味に笑った。男の人なんて、どこでも同じなんですね。
「父も男でした。村の女性がよく訪ねてくるんですよ。小さいころには仲良しなんだな、くらいにしか思いませんでした」
そういうときでさえ、父の精霊の気配は悲しみと怒りに満ちていたという。
「父と女の人たちがやっているのがそういうことだと知ったときは気持ちが悪かった。でもそれで、父は母のことが忘れられないのだということにも気づけました」
リリエは、父のいう「竜を倒して悲劇を失くす」なんてのはただの口実で、本当は妻をいけにえとして奪われたことの逆恨みとして「精霊狩り」をしていたのではないかと口にした。
彼女のくちびるは震えていた。怒りと悲しみの輪。私たちは、そこから抜けらない。
「私も言い訳にしていたんです。村の人たちの目から逃げるために、あなたに会いに行っていた……」
父のことで悩んでいたせいか、男たちの言葉に何度か揺らぎそうになった。
まっすぐ来る者のほかにも、強引に肩をつかむ者や、闇夜に紛れてこの部屋を見上げる影もある。それらに怯えるのにも、疲れた。
「でも、逃げた先に、この私の狭い世界の外に、いったい何があるというの?」
わたしは窓を見た。カーテン越しの夕景。
「ルセナさんのほうが、ほかの誰よりも私にたくさんのものをくれました。たくさん見て、笑って、においを嗅いで、それからいっしょに耳を澄ませて聴きました……」
リリエは静かに立ち上がり、窓を少し開ける。
揺れるカーテンの向こうでは森が燃えるようだった。その先はきっと、灰色の丘。
わたしたちは「窓の声」とそろってつぶやいた。
変わった香りが部屋へと入りこむ。森は薄く、いろいろな食事の混ざったにおい。
似ているようで違うふたつの村。
いちばんの相違は時の流れ。早すぎても遅すぎても、ふたりには合わない。
わたしは浮足立つ。こころはすでにヒュポスの丘に向いていた。
「ルセナさん」
芯の通った呼び掛けだった。
振り返るリリエ。立ち上がるルセナ。
わたしは答えよう。
あなたとなら、どこまでも行けると。なんだってできると。
……。
「逃げずに聞いてください」
……何を言う気なのだろうか。竜と戦うつもりだとか?
リリエはわたしに向かって歩き、通りすぎ、棚の引き出しから「何か」を取り出した。
わたしの目が意図的にそれを直視しないように、視覚をおぼろにした。
「本当のことを、教えてください」
細工の甘いゆがんだ軸に、木製の矢じり。
わたしに突きつけられたのは、罪の矢だった。
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