11.鏡の中のわたし
――欲というものは際限ないものだ。欲する側と欲される側が噛みあうときに晒す姿は、どこか精霊の循環に似ている。
わたしはリリエに連れられて人間の村へと忍びこんだ。
歩き慣れたリリエの足とわたしの耳鼻があれば、髪を結う必要すらなかったくらいに、彼女の家にたどり着くのは容易だった。
人間の村はやけに物が多く、それに比例して音も雑多だ。
領域に踏みいれば、手に取るようにひとびとの暮らしが浮かび上がった。
夕食のためにイモの皮むきをしている女。彼女はずいぶんと太っているようだ。
リュウラと同じようになめし液のにおいをばらまく職人。
ここでは革いじりは狩人とは別の人間がやっているらしく、この前わたしたちをうろに追いやった狩人の音やにおいは村内には感じない。
子どもだ。子どもが追いかけているのは鳥の足音?
森に迷いこんでいるのを見かけたことがある。この「ケコケコ」と喉を鳴らすのは、アサナキドリだ。味に興味があったけど、人間の物扱いで狩ったことはない。
「私の家はあっちです。早く行きましょう」
急かしつつも、リリエは耳を澄ませるわたしを見てほほえんでいる。
それはきっと、わたしも同じ顔をしているからだろう。
少し前なら、わたしはこれらの音に不安を覚えたはずだ。
音の中から「わたしたちと違うところ」をたくさん見つけだして、掟破りと不快感から離れるために、気配も隠さずに森へと逃げこんだと思う。
だけど、今のわたしは違うところを楽しみ、同じところを見つけては喜んでいた。
密度が違うというだけで、「人間」も「精霊びと」もさほど変わらないのだ。
無防備に飛び出していっても平気なんじゃないかという気までしてくる。
いや、そうしたい気すらも……。
わたしは人間が、少なくともこの村の人たちがいいひとたちだと証明したいのだ。
リリエの家は村では三番目の大きさだった。集会所、村長の家、そして彼女の家。
石レンガ造りの豪奢な屋敷。以前なら人間の見栄だと鼻先で笑っただろうけど、今となってはここにリリエがひとりで暮らす事実に胸を打たれるばかりだ。
庭はよく手入れされていて、花壇には白のルセナが行儀よく並んでいる。
表からは見えなかったが、近くにレモナの木もあるらしいことを鼻が教え、白く塗られた柵が庭と屋敷を囲んでいるのも、どこか安心ができた。
「おとなの人は勝手に入ってくるから……」
善意なのは分かってるけど、と言いたげなほっぺを軽くつっついてやり、家の中に気配がないことを請け負う。
リリエが扉を開けると、中から彼女に似た香りがふわっと漂った。
草木が侵食していないのは当たり前だろうけど、出入り口に土や砂のひと粒も見当たらないのには感心する。
リリエの暮らす屋敷は昔、村民たちの憩いの場となっていたらしい。
彼女の父親のみやげ話は誰もが楽しみにしていたし、母親はリリエと同様、尊敬と愛情を集めていた。
村民たちは暇があれば食事や酒を持ち寄り、この屋敷は常に笑い声で溢れていたのだという。
人間らしい話。今となっては静謐で、わたしたちの村に似ていると思えた。
「私が生まれる前のことですけどね。今、訪ねてこられるのは私を心配してくれる人や、必要なものを届けてくれる人くらいです。二階には勝手にあがってこないし、ルセナさんが住んでてもばれないかも」
二階には彼女の部屋と両親の寝室がある。
階段を一段一段上るたびにリリエのにおいが濃くなる。
その中にあのひとのにおいと、ローブの男のにおいを見つけられないかと鼻を鳴らしたが、さすがに古くなりすぎていたか、嗅ぎ分けられなかった。
もっとも、わたしのそばにいたときのふたりのにおいが、ここでリリエといっしょにいたときと同質のものだなんて、考えられなかったけど。
「あの、あんまり嗅がないでください」
最近はお互いに顔を埋めあうことも珍しくないのに、リリエはそのとき以上に頬を鮮やかにしていた。
さて、次に頬を染めたのはわたしだ。
リリエの部屋の扉が開くと、嗅ぐまでもなく胸いっぱいに彼女の暮らしを想像させるいろいろな香りが流れこんできたのだけど、視覚のほうで驚いてしまった。
わたしが部屋を覗きこむと同時に、奥からも誰かが覗きこんでいたのだ。
白く輝く髪に、どこかで見た顔。わたしと同じ服で、わたしが睨むと彼女も睨んだ。
つまりは「鏡」というものだったのだけど、思わず悲鳴をあげてしまい、リリエは慌ててわたしの口を塞がなければならなかった。
「ご、ごめんなさい。部屋に戻ったときに、誰もいないのが寂しくて」
リリエは人の背丈ほどの鏡を扉の直線上からどかした。
そして、「お茶を淹れてきます」と言って、わたしを部屋に残して出ていった。
部屋を見回す。
小さなテーブルとふたつの椅子、取っ手のついた大きな箱はタンスというものだろう。中には衣装などが納められている。
良質な木材でできているらしいが、知らない薫りを醸している。なんの木だろうか。
タンスの上には小さな女の子の人形が座っていて、彼女が着ているドレスは白色らしかったが、くたびれてくすんでいた。
棚にはたくさんの書物。色とりどりの表紙からは革と染料のにおい。
黄金に輝く背表紙の文字はわたしには読めなかったけれど、この中に知識や世界が納めてあることを誇っているかのようだ。
窓にはカーテンという薄い布が掛けてあり、ぼんやりと村の景色が透けて見えた。
近付いて観察をしたかったけれど、子どもの嬌声と親の叱る声が近いのであきらめる。
もっと面白いものはないかと見回すと、部屋の隅に置かれた小さな台の上に植木鉢を見つけた。
わたしは首をかしげる。その鉢から顔を出していた木の芽は、双子の実をつけるあの木のものだったからだ。
季節外れのその芽には、不自然なほどの精霊が滞留していた。
それから、鉢のそばに小さな人影をふたつ見つけた。
わたしは頬を緩ませる。
布で作られたふたり。青い長髪と垂らしたみつあみ、まっしろな長髪と尖った耳。
どちらも手足が短く頭も大きく、人とかけ離れた姿をしていたけれど、頭の特徴だけで何を作ったのかがよく分かった。
彼女たちをそっと鉢のそばに帰してやる。
リリエの気配はまだ一階だ。やはり、やっておくべきだろう。
わたしは満を持して、とある家具に忍び寄った。
触れてみると強い弾力。わたしたちのところのような古い木の板だけで作られたものとは違う。
大きな夏の雲のような枕は、リリエに食べさせてもらった焼きたてのパンのようにふかふかで、押すたびに髪のにおいを噴出させた。
髪だけじゃない、枕の端やそれの置いてある位置よりやや下側は、リリエのうなじのにおいがちゃんとしたし、下に辿ればそれに対応した彼女が染み付いている。
ひとしきり楽しんだあとでわたしは首を振った。
いけないことだ。禁止されてるとか掟とかではないけれど。失礼だ。うん。
普段は本人に対して遠慮なくやっていることだというのに、なんだか胸の奥やお腹の下のほうが、きゅっとなる。ついでによだれも出た。
ふと、視界のすみのわたしと目があう。
さきほどリリエが鏡を動かしたさい、そこに映る彼女の像が実物とまったく同じだということを知った。
やっぱり、今この鏡の中にいる白い髪で耳の長い女は「ルセナ」ということになる。
顔がだらしない。きゅっ、と引き締める。
水面に映るもので見慣れているはずなのに、よくよく観察してみると、知らない人のようにも思えた。はたと髪型のせいかと気付き、ほどいて普段通りに下ろしてみるも、やはり違和感が残る。
じっと観察をすると、目が鋭くなった。誰かさんの面影。
目がそうであるように、ほかの部分も血の繋がる誰かに似ているのだろうか。
わたしの瞳は秋色だ。リリエの深い青とは反対の色。
耳も尖っていて可愛くない。普段は気にしていなかったけど、最近は彼女が好んで触るから、自分で触れてもくすぐったく感じるようになった。
それでも、この耳は好きになれない。
わたしに対して、「違う」ということを突きつけている。
リリエがわたしの髪色を羨んだように、わたしはリリエのような丸くて可愛い耳が欲しい。
いつの間にか、わたしにも「容姿の好み」というものができたのだろうか。
リリエたち人間は見てくれをよく気にするという。彼女の憧れる帝都では特にその傾向が強いらしく、富める者は食事よりも飾ることに財と時間を費やすのだとか。
リリエから見たら、わたしの姿はどうなんだろうか?
そんなことをぼんやりと考えていると、階段をあがる足音が聞こえてきた。
わたしはなんとなく扉には背を向け、鏡を見ながら部屋のあるじを待った。
戻ってきたリリエの持つトレーには白いカップがふたつ。
それは彼女が動くたびにかららと鳴り、花や茶、レモナの香りを振りまき、砂糖の甘い気配も漂わせた。
鏡越しにそれを観察していると、鏡の中の彼女と目が合った。
鏡はいいものだ。はっきりと知ることができる。
可愛いリリエがはにかんでいる。わたしも同じ顔。
つまりはわたしも可愛くて、リリエもわたしが大好きだということだ。
思わずうっとりととろけてしまう。
そして、これを確かめられたわたしの中で欲望が強く燃え上がった。
炎はあまりにも強く、森を焼き払ってしまうかもしれないと感じるほどだった。
わたしや、リリエさえも。
そうならないために、もう少しじっくりと考える必要があると思った。
わたしは浮かび上がった「とある計画」を、勧められた紅茶に頼って、腹の底へと飲み下した。
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