10.もっと深くへ
――身体のいちばん深いところを知ったからといって、こころまで知った気にならないことだ。
ピオンの家を訪ねてからというもの、わたしはリリエに対して積極的に自分の話をしをし、訊ねるようにもなった。
秘めごとや子どもじみた時間の共有ばかりじゃなくって、お互いにもっといろいろなことを教え合わなければいけないと感じていた。
誰かを知るには、その誰かだけでなく、その人の周りも見なくてはならない。
これは説教くさい祖母の言だ。少し腹立たしいけど、わたしはそれに従おうと思う。
「わ、私の家に行きたい、ですか?」
そう、わたしはリリエの村を訪ねたいとねだった。
感覚の鈍い人間たちの村ならば、耳さえ隠せばどうにでもなるだろう。
もう白いルセナには不自由しなくなっていたし、わたしは彼女の返事を待たずに髪を飾る花を取り除いた。
「やっぱり、すてきな髪ですね」
しなやかな指がわたしの髪の中を泳ぐ。
「飾らないほうがいいと思います。まっしろで、とっても綺麗……」
リリエはわたしの髪を持ち上げ、指を巡らせたり、頬を寄せたり、においを吸いこんだりする。
くすぐったかったのは頭だけじゃなかった。
父親の帝都みやげの滑らかに輝く虫布よりも素敵だと褒めてくれたから。
「耳の隠れる髪型かあ。ふわっとさせて、うしろで縛るだけでよさそうですね」
下ろすだけでは耳の先が出てしまうから、できる髪型は限られる。
ちょっと不満そうだった。わたしが変装はおいて髪で遊んでみるかと提案すると、彼女はまたもわたしの髪へ潜りこんで、首根っこにくちびるを当てて短く吸った。
「じつは、ルセナさんの髪をずっといじってみたかったんです。でも、お花に触ると悪いかなって思って、言い出せなかったんですよ」
けれど、髪型はひとつしか試されなかった。
リリエと同じ、額の横の片側だけをみつあみにするかたちだ。
「似合ってます。可愛いです」
満足そうだ。だけど、わたし自身が確かめようと思えば、水面のある場所まで足を延ばさなくてはならない。
リリエは髪をさっさとほどくと、またも父親のみやげを引き合いに出した。
「私の部屋、鏡があるんです。高価なものらしいんですけど、値段よりも、割らないで運ぶのが大変だったって言ってました」
自慢げだ。わたしは彼女の父親に嫉妬する。
是が非でも、リリエの部屋のすみずみまで知らなくてはならないと感じた。
「なので、続きは私の部屋でしましょう。でも、見つかってしまわないかな……」
どちらからともなく手を繋ぐ。
獣が歯を噛みあわせるように固く指を組み合わせるも、わたしたちの足はなかなか動かなかった。
リリエの村でも「精霊びと」は立ち入り禁止だ。そうでなくとも、特定の立場の人間でなければ部外者はやってこないらしい。わたしの容姿だとリリエと同じか、ひとつふたつ上に見える程度だというから、変装をしたとしても隠密は欠かせないという。
「会っているのがばれたら、きっと村に閉じこめられてしまいます」
それだけで済むだろうか。鳥の贄、約束の丘の悲劇を想起する。
リリエは村でとても大切にされてきたらしい。
今回の任でも村民たちに心配をされている。
すべてを知っている村長はいけ好かないが、やはり彼も心配づらをしているとか。
そういう連中が、わたしを見つけたらどうするだろうか……。
わたしは、握り合った手を胸の高さまで持ち上げた。
それから、ふたりの指が作るいくつもの段差を空いてる手の指でなぞった。
「ひゃん!」
可愛い声があがる。
結び合った手を上から撫でると境界が曖昧になって、今どちらの指を撫でているのか分からなくなる。今のように声をあげた場合は、気が逸れている証拠だ。
これはわたしたちが見つけだした法則で、ちょっとした遊びだった。
蒼い瞳をじっと見ると、彼女は、じっと見つめ返してからまぶたを臥せって、ふーっとため息をついた。
「村長さんに見つかると、わたしよりもルセナさんが心配なんです」
手を繋ぎながらもべつべつだったが、じつは同じことを考えていたらしい。
危惧する理由を問うと、「お母さんを竜の贄に決めたのもあの人だから」と明快な答えが返され、耳と鼻が怒りにひりついた。
鏡、といったっけ。なんとなくだけど、リリエが村長のことを話すときの目と、わたしがピオンのことを非難するときの目は、そっくりだったんじゃないかと思う。
わたしたちは森の東端まで来ると、双子の赤い実がなる木を探した。
ひと房拝借し、房を千切って、リリエのしとやかなくちびるに実を押しこむ。
「すっかり、甘くなりましたね」
口から漂う香りは甘ったるかったが、彼女の体臭は苦みを孕んでいた。
見つかることへの心配と、実の熟し加減が教えるわたしたちの残り時間のためだ。
わたしは返事をせずに、心の中で竜よと願い、実の片割れをリリエに手渡した。
それからわたしは、くちづけを待つかのように目を閉じ彼女にせがむ。
「はい、あーん」
わざと半端に開いたくちびるへ実が押しこまれる感覚を楽しむ。
張りのある皮が歯に擦れ、舌先のかすかな抵抗を受けて舌の上へと転がる。
……しょっぱい。彼女の指まで入りこんできた。
くちびるで優しく指を捕まえ思案する、舌が感じる柔らかな指の腹。
ここからどうしてやろうか。
思案していると、リリエが指を脈打つように動かし遊んだ。
「痛っ!」
いじわるをして噛んだわけじゃない。
自分でも分かるほど、わたしの耳が痙攣していた。
リリエは上目遣いでそれをみとめると、抗議もせずに黙りこくった。
わたしの耳が仕事をするときは彼女は静寂に努めてくれる。
彼女はおそるおそる自分の村の方角を振り返ったが、そっちじゃない。
異変は反対側から感じる。
いくら当人が気配を殺そうとしても、そう都合よくはいかない。
鳥や獣はわたしたちや人間よりも敏感だし、精霊の流れが変わって植物が反応してしまうこともある。
あの助言と同じ。隠れる者を見つけたければ、その周囲を知れ。
……やっぱり、人や獣の気配がしないのに植物たちが動いている気がする。
微風。草木を動かすのは精霊だろう。
精霊力の高い存在が、音を殺して近くにいる。
ピオンだろうか。あるいはローブの精霊狩り?
わたしは聞き分けようとさらに耳をとがらせる。
ローブの連中は狩人よりはへたくそなはずだ。ピオンのゆっくりした心音や、普段から閉じかかっているようなまぶたの立てる音は記憶してある。
……のだが、集中できない。
リリエがまだ指を入れたままだった。しかも、さっきよりも深く。
わたしの口の中の実を弄んだり、舌や頬に触れまわっていて気になってしょうがない。
実が奥へ転がり、喉へ落ちそうになって、彼女の指が追って、さらに深く。
ふざけている場合じゃない。わたしは歯を使い制止した。
リリエはいっしゅん顔色を変えたが、かたくなに声をあげない。また半笑いになる。
そのうえ、それでも無理に奥へ分け入ろうと指を固くくねらせている。
お仕置きにきつめに歯を立ててやったら、ようやく小さな悲鳴とともに指を引っこ抜いた。
涙目のリリエを傍目にため息をつく。気配は離れたらしく、植物たちも精霊の流れも静かになった。
「どうします?」
リリエは自分の指を歯型に重ねるように咥えながら訊ねた。
無意味な質問だ。
誰が監視していたにせよ、やめる気などないのだから。
リリエも落ち着いている。
村へ踏みこむことへの戸惑いは、半分はたわむれだった。
「行きましょうか」
返事をしようとしたら、実が喉へと落ちかかり、わたしはむせてしまった。
実はいきおいよく飛び出し、リリエの鼻先を直撃した。
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