96話 スイの都へ 8/12
スイの御殿はガランとしていた。
空っぽの静けさが漂っていた。
──── 数刻前、それは起こった。
海榮が、朝の閣議、兵の修練の様子なども見終え、御殿の奥へと向かう。
御内原だ。
御内原はもともとユイの居住区だった。
たった一人で御内原へと向かう。これも日課なのだ。
御殿は、高い山の無い十六夜の土地の中で唯一と言っていいほどの小高い丘に築かれている。
あのトイフェルが侵入した日以降、御殿の奥に当たる御内原は海榮をはじめ、ごく一部の女官や庭師しか入れない場所になっている。
それも海榮以外の出入りは、海榮の許可が必要になる。
この御内原より奥は城壁と崖になっているので、まさに箱庭のような場所なのだ。
誰の侵入も、簡単には許されない場所。
それほど厳重にしているのも、全てあの秘密を守る為だ。
海榮は、ユイへ閣議の報告やお伺い、話し相手になるという理由で、遅い昼食を自ら運び、この御内原で食べるのが日課だった。
毎日の事とは言え、ここに来る時の心苦しさはあの日以来何一つ変わってはいない。
いくら悔いても、謝っても許されることではないと分かっている。
しかし天加那志が不在という事は、有ってはならない事だった。
結果、どんなに十六夜の民を欺いたとしても、トイフェルにやられてしまったとなれば、その混乱は計り知れない。
この国が安寧であるのは、全てはユイ加那志という存在が、尊敬と信仰の対象、平和の象徴だったからに他ならないのだ。
大げさではなくではなく、真の意味でユイは十六夜の鎹だった。
あまりにも重い咎。嘘。
しかし、あの動乱の中、まとめあげる方法はそれしかないと、カマディと海榮で決めたのだ。
どんな罪を背負う事になっても、この秘密は守り抜き、ユイ加那志をトイフェルより奪還すると。
あれから五年。
海榮はここでユイと政の一旦を遂行している体を取り、実体は政をほぼ一人で行ってきた。
それがどれだけの孤独と心労であるかは想像に耐えがたい。
今日も一人、帳が降りた空っぽの空間と向き合い、運んできた膳で食事をしていた。
いつもと変わらない午後だった。
しかし、そんな日常を壊す声が、何の前触れもなく部屋の隅から聞こえてきた。
「ハイサイ!海榮、ワッチ覚えているばぁ?」
瞬時に海榮が、刀に手をかけ身構える。
「マチュンさー! ワッチ、ワッチばぁよ!」
と、慌てて姿を現したのは、モサモサの赤い髪の小さい子供……、キジムナーだった。
「キジムナー……?どうしてお前がここに……。城には結界が張ってあるはず……!」
キジムナーだと分かったところで、完全に警戒を解くわけにはいかない。
あの一件でカマディからはキジムナーの話は聞いていたのだが、海榮自身が信頼をしているわけではないのだ。
ましてや現在はトイフェル側にいるのだ。寝返ったという事だって、ありえないわけではない。
「イーヒヒヒヒ、ワッチには清明の作った壁は効かないからよー。……って実はよ、こんな事してられないからよ、」
そう言いながらキジムナーが近寄ろうとする。
それを、海榮が静止をした。
「止まれ!近寄るな。」
「まだワッチの事、信用できないさぁ?」
「動くな!動くと切る!」
「ハンマヨー……」
「……。」
「魚釣で熱を出した娘がいるからよ、カマディに頼まれて備瀬までユウナを呼びに行ったらよ。
そしたらよ備瀬の宿にキラキラ光る変な動物を連れているよそ者を見たさぁ。
ここの客やっさぁ?ここに来たのはカマディのお使いじゃないヤシガ、カマディの為ばぁよ。
……頼むんから話を聞チュンさぁ。一大事やっさぁ!」
熱を出した娘という話は分からないが、確かにキラキラ光る獣は心当たりがある。
先日この御殿を旅立ったストローたちが連れていた動物だ。少なくとも魚釣か備瀬にいたという事は確かなようだ。
カマディがユウナを頼るという事も、海榮の認識と食い違いはない。
しかし、それだけの事。
だが、ここは一旦信用するしかないと刀にかけていた手を下ろし、床に腰を下ろした。
「まだ完全に信用するわけではないが、話を聞こう。」
その様子を見ると、キジムナーが部屋の隅からペタペタと近くまでやって来た。
「海榮はほんとウトゥルサヤー。」
「その一大事とやらを早く話すのだ。……もしかして、魚釣で何かあったのか?!」
そう思うと急に不安が押し寄せ、キジムナーに詰め寄ってしまう。
「アッシェ! 気が早いさぁ。ちゃんと聞チュンばぁよ。デージナトンやっさ。」
キジムナーが城へやって来るなんて、この五年間一度も無かったこと。
気が動転して色んな最悪の事態が駆け巡ってしまうのだ。一度、息を整えた。
「あぁ、わかった。わかったから、早く言ってくれ。」
「魚釣と神降の御嶽が壊れて山原の壁が無ナトーン。してからよ、今、トイフェルがこっちに向かっているばぁ。」
──── !
森榮は、何から問えばいいのか、何から受け止めけばいいのか、言葉を失った。
まず鉄壁の御嶽が、カマディが守っているはずの御嶽が壊れるはずがないのだ。
「ワッチはこれからトイフェルの命令で、この辺り暴リーンからよ。それなりの事をしないとダメさぁね……、」
「トイフェルがまたここへ来るのだな……?」
キジムナーは頷いた。
「ヤサヤサ。きっと一直線でここに来るばぁ。からよ、大急ぎばぁよ!」
「……承知した。しかし、火を放つのはやめてくれて。頼む。」
「やしが、火を放つ以外に、どうやって皆を避難させるさぁ?」
確かにそうなのだ。
兵士はいい。今からいくらでもここから離れさせる口実は作ることができる。
しかし、兵士以外の者たちをどうやってこの場所から遠ざけるのか。
ありのままを言う手も考えないではない。
しかし、どうしてその事実を知りえたのかという説明がつかない。
まだユイが戻っていない以上、キジムナーの事は伏せないといけない。
それどころか御殿に人が居るという事は、騒動の最中に、今まで守ってきた秘密が暴かれる可能性もある。
いや、きっとトイフェルがばらしてしまうだろう。
それは、事態の悪化にしか繋がらない。
卑怯だと言われようが、このスイ……延いては十六夜を守ると言う責務が海榮にはある。
自分の命と引き換えてでも、守らねばならないのだ。
「……そうか。子供だましかもしれないがこれしかない。」
海榮に、一つの案が浮かんだ。
苦し紛れの策だが、それを成功させるほか方法はない。何より時間が無いのだ。
「……キジムナーよ、カマディとユイ加那志への忠誠心が偽りでは無いというのであれば、協力してくれ。ひと芝居うってもらうぞ。」
ウトゥルサヤー / 怖いねぇ
デージナトン / 大変なことになった
ハンマヨー / 何て事だ
アッシェ / まったく