第7話 name
高等部のテスト期間が始まると、寮の食堂ではあちこちでミニ勉強会が開かれるようになった。その原因を作ったのは間違いなく僕。先日尾鷲桃子になんとしても宿題をやらせるべく、『赤点をとったら外出禁止』という適当な嘘をついたのだが、なんとそれが学園本部の誰かの耳に入ってしまったみたいで、寮の規則に組み込まれてしまった。
学生たちは非難轟々だったが、僕が苦し紛れに『寮生の赤点ゼロを達成したら焼肉パーティーを開催する』というご褒美条件を勝手につけたら皆途端にやる気になった。万一達成されてしまったら、僕は京介の財布をアテにしようと思っている。
「ねえ美織、『lay』と『lie』っていう凄く紛らわしい動詞を作り出した英国人ってどんな感性してると思う?私は性根が腐ってると思うわ」
「あー、確かに間違えやすいっすよねー。結局どっちがどっちか覚えられないまま大学まで卒業しちゃったっす」
例に漏れず尾鷲桃子も食堂でテスト勉強をしていた。どうやら英語に手を付けているらしい。僕は英語に関してはからっきしだから、僕よりまだ英語が出来る美織がいてくれて良かった。
………ん?美織?
「ちょっと待て桑名!お前どうやってここに入ってきた!?」
「どうやってと言われてもっすねえ………、守衛さんに挨拶して入門書類を書いたら普通に入れたっすよ」
「その入門書類はちゃんとした理由がないと受理されないんだよ。特にお前みたいな部外者はそう簡単に入れないはずなんだ」
「ちゃんとした理由を書いたっすよ、『先輩に逢いに行く』って」
『会う』ではなく『逢う』なのが気になるけどそれは置いておこう。たったそれだけの理由でで美織を通してしまうザル守衛には給与返上してほしい。
「別にいいじゃないっすか、先輩じゃあ桃ちゃんに英語教えられそうにないっすから」
「……確かにそれは否定できない」
「ほんとよね。なんで出来ないくせに英語で作詞するのかしら。私ですら文法がおかしいと思う歌詞がたくさんあるわ」
ペンを置いた尾鷲桃子は視線を僕の方へ向け、いつも通りの辛辣な言葉を吐く。どうしてこうも彼女の口からはdisる言葉がたくさん出てくるのだろうか。たまには褒めてくれたっていいのに。
「でも確かになんで先輩は英語で作詞してるんすか?そういう英語で歌うバンドが好きでしたっけ?」
「いや……、別に大した理由はない。なんとなくだ」
「どうせ『世界に通用する歌にしたい』とかそんな理由でしょ?日本ですら通用してないのにバカみたい」
女子高生天才ドラマーの言葉の矢が心の弱いところをグサグサと刺してくる。図星というやつだ。なんとなく英語のほうがカッコいい感じがするし、万一売れたときに世界に通用する可能性も無くはないと思ったのだ。しかしながら現実的には彼女の言うとおり。日本ですら通用していない。
「何しょぼくれてんのよ。要するに、日本語で作詞し直しなさいよって事よ。そのほうがまともな曲になるんじゃない?」
「何だよ、お前にしては親切じゃないか」
「余計なお世話よ」
そう言って手元にあったペットボトルのジャスミンティーを一口飲んだ尾鷲桃子は、シャープペンのノックボタンを2,3回押して再び集中モードに入った。
「さすが桃ちゃん、アメとムチの使い方にセンスが感じられるっすね」
「アメはアメでもアメ細工で出来たムチだけどな」
完全に余計な一言だった。せっかく集中モードに入っていた尾鷲桃子からツーシームの握りで消しゴムが僕の方へ飛んできた。さすがドラマー、手首のスナップが効いていていいスローイングだ。
僕はその消しゴムをとっさに避けてそれを拾い直し、彼女の手元へ置いた。昔、ドッジボールで何故か最後まで逃げ残るタイプだったけれど、やっぱり飛来物を回避する才能が僕にはあるのかもしれない。あったところで嬉しいかと言われると反応に困るが。
「そういえばお二人って、なんか距離感が良くわからないんすよね。近いところにいるのにどこか他人行儀というか……、ちょっと不思議っす」
「そりゃ他人だからな、近くにいようがそうでなかろうが関係ないだろ」
「えー、なんかそういうの良くないっすよ。せっかくバンドを組んでるんだからもっと仲良くしてほしいっすよ」
美織はそう言うけれどこれがなかなか難しい。なんてったって17歳女子高生と26歳男性の学生寮管理人だから、仲良くする以前にどこか心の中で壁を作ってしまうのだ。美織みたいに『桃ちゃん』『美織』と呼び合える仲になれるような器用さは僕は持ち合わせていない。
「いっそ名前で呼び合えばいいんじゃないすかね?『お前』と『管理人さん』じゃあ流石に私もやりにくいっす」
「流石にそれはこいつも嫌がるだろう」
カリカリとペンを走らせていた彼女は、またペットボトルのジャスミンティーを手にとって一口飲んだ。蓋を閉めて机に置くと、潤った喉でまた僕を困らせることを言い出した。
「私は別にいいわよ。伊勢……、いや、脩也」
「いきなり呼び捨てするのかよ!曲がりなりにもお前より10歳近く年上なのに!」
「『お前』って言わないでくれる?私の名前は尾鷲桃子。はい、『桃子』って呼んでみなさいよ」
「あ、ついでに私のことも『美織』って呼んでくださいっす」
僕は言葉に詰まった。こんなに言葉が出てこないのは久しぶりだ。3日程度誰とも話さずに引きこもってからコンビニで『お弁当温めますか?』と聞かれたときぐらい出てこない。言っていいのか悪いのか、脳内で安保条約の審議並みに議論が紛糾している。
「へえ、無視するんだ。じゃああの動画アップロードしちゃおうかなー」
「ちょっと待てそれはやめろ」
「『あの動画』ってなんすか?先輩の弱みすか?」
「……まあそんなもんだ」
尾鷲桃子は早々にジョーカーを切ってきた。これを持ち出されたら僕には今のところなすすべがない。こうなりゃヤケだ、この小娘のことを名前で呼んでやろうじゃないか。どうせ社会的に今すぐ死ぬかゆっくり死ぬかの違いでしかない。
「桃子」
緊張とか羞恥とかその他諸々の感情で自律神経がおかしくなって身体の穴という穴から液体が吹き出そうだ。しかし、喉元過ぎれば熱さを忘れるではないが、きっかけさえクリアしてしまえばこれは案外簡単なのかもしれないとも思えた。
「やれば出来るじゃない。じゃあ脩也、数学の課題やって」
「それはお前がやれバカタレ」
「また『お前』って言った。今度言ったらアップロードするから」
桃子は不敵な笑みを浮かべる。やっぱり名前で呼ぶことに慣れるまではもう少し時間が必要だ。でも、彼女が『桃子』と呼ばれる事自体を嫌がってないのは意外だった。てっきり嫌がられるとばかり思っていたから。
ちなみに、僕と美織の教えのおかげなのか、それともテストが簡単なのかわからないが、桃子は赤点回避どころか英語と数学に関してはほぼ満点を達成した。残念ながら寮生全員の赤点回避は成されなかったので肉はお預けだけれども、個人的に何か桃子にご馳走するくらいならやぶさかではないなと思った。この件があってちょっと悔しいから、絶対に僕からメシには誘わないけど。