第66話 bonito
気持ちの整理がつかないまま学園祭の幕は開けた。
桃子や伊織が一生懸命準備していたロックフェスも、滞りなくスタートした。二人はサブステージの担当で、機材のレンタルで仕事中の美織もそこにいた。
瑛神が何処にいるかはわからないが、大方レイラと一緒に回っているのだろう。
僕はと言えば一人、会場内をパトロールという名目でフラフラ歩いていた。
粉もの屋台から香るソースと鰹節の香りや、いかにもという感じのクレープ屋から発せられる甘い匂いが鼻をつく。普段の自分ならちょっと買食いしてしまいそうな強い誘惑なのだけれども、今日はそういう気分ではない。今日が終われば、もう桃子はアメリカへ旅立ってしまうのだから。
寮の桃子の部屋は既にすっかり片付いていて、あとは鍵を管理人である僕に返却すればいいだけの状態だった。さらにトレーニングルームとして使っていた隣の部屋もきれいさっぱりもぬけの殻になっていて、余計に桃子がいなくなるのだなという実感を際立たせている。
僕は何をしているのだろうか。
言ったら悪いがこんな毒にも薬にもならないパトロールをしているくらいならば、他に何かできたのではないかと自責の念に苛まれ続けている。
せめて、考えることをやめるために仕事に忙殺されていたいなと思った。
パトロールを始めてしばらくすると、フルーツジュースを出している屋台の周りに尋常ではない人だかりが出来ていた。
一体何事だろうと近づいてみると、答えはすぐにわかった。
今回のロックフェスでサブステージのトリとして登場する『choker』の二人が楽屋を飛び出してジュースを買いに来ていたのだ。あっという間にファンや野次馬に周りを囲まれて身動きが取れなくなっていた彼女達は、道を開けるよう少し声を荒げていた。
「ちょっと!通れないじゃないの!今はオフなんだからサインも写真も握手もしないわよ!」
「お願いだから退いてちょうだい!――ちょっとそこのパトロールの人、ぼーっと見てないで助けなさい!」
パトロール員の腕章が目についてしまったのか、彼女たちから名指しされてしまった。正直なところ何でこのタイミングで楽屋を出てきたのかがよくわからないが、ちょっとしたトラブルになっている以上僕の出番である。不本意ながらお役目はしっかり果たさなければならない。
「皆さんすいません、お二人は休憩中ですので道を開けるようお願いします。――サインとか写真撮影もご遠慮ください」
すると、案外人だかりはあっさりと捌けていった。意外にもパトロール員の肩書は強いのかもしれない。
「……なんでもっと早く来てくれないのよ!もみくちゃにされちゃったじゃない!」
「そうよ、ただでさえサブステージのトリとかいうしょうもないポジションなんだから、せめて護衛くらいちゃんとつけなさいよね」
案の定、『choker』の二人にはボロクソに文句を言われてしまった。だが幸いなことに、ただでさえ心がボロ雑巾状態の今の僕には何を言われても何にも感じなかった。まるで無敵状態だ。スターはおろか、あと一撃でやられてしまう小さいマリオ状態なのに心は無敵というのはなかなか面白い。
「ちょっと何笑ってんのよ気持ち悪い。いいから早く控室に案内しなさいよ」
「わ、わかりました。ではこちらへ……」
前評判に違わず口調のきつい女子2人組に気圧され、僕は彼女たちを楽屋へ連れて行った。ギャラリーに揉まれたこともあって2人の機嫌は最悪。楽屋までの道中、僕だけでなくこの学園祭の運営自体にもブツブツと文句をこぼしていた。
「――大体、なんで私達がサブステージなわけ?普通に考えてメインステージでしょう?」
「そうよそうよ、しかも楽屋もひどい。地方の寂れたテレビ局なんかより全然ひどいし、本当にここの運営はやる気あるわけ?」
「いいや、僕に言われましても……」
2人は行き場のない怒りをため息へと変換した。これ以上まともに相手をしてなどいられないと思った僕は歩調を早め、可能な限り最速でこの2人を楽屋に帰した。
再び一人になると、僕はまたどうしようもない思考を巡らせる。こんなときに限って新しいメロディーだったり、出してみたい音だったり、かっこいいフレーズが思いついたりする。
もうおそらくギターを弾いてバンドをやることなんてないのに。




