第63話 mother
来訪者は突然僕のもとを訪れた。連絡があったのは昨日の夜。その時はただ、桃子のことについて話があるとそれだけ告げられた。
その来訪者とは桃子の母親である。普段は東京に住んでいて、桃子いわく毎日のように全国各地、時には世界各国を飛び回るというとても忙しい人なのだとか。
急ごしらえでお迎えの準備を終えて一息付こうかとしたところ、寮の玄関から僕を呼び出す声が聴こえた。僕はてっきり桃子の母親はやり手の社長さんだったりするのかなと思っていたのだけれども、蓋を開けてみると度肝を抜かれた。
「はじめまして管理人さん。私、桃子の母親の尾鷲 小梅と申します。――もしかしたら、朝日小梅という名前のほうが貴方には馴染み深いかもしれませんね」
そこに立っていたのは妙齢の女性。身を隠すような装いをしているせいか怪しい雰囲気をまとっているが、どこか凛とした顔つきが桃子や柚香さんの母親なのだなと思わせてくれる。しかも僕はその人を知っている。過去に会ったことがあるわけではなく、テレビや雑誌で何度も何度も見ただけなのだけれども。
――それも当たり前だ、朝日小梅という人は、日本が誇る女性ドラマーなのだから。
数々の有名アーティストのバックでドラムを叩くことはもちろん、その美貌と類まれなタレント性もあってメディア露出がそれなりにある人だ。バンドをやっている人ならまず知っているであろう。
開いた口が塞がらないという言葉がぴったり当てはまる程に僕は口が開いたまま立ち尽くしていた。無理もない。そんな人が今僕の目の前に立っているだけでも凄い事なのに、それがまさか桃子の母親だというのだから。
「あらあら、そんなに驚かせてしまったかしら。ごめんなさい」
「い、いえいえ、僕も予想の斜め上の斜め上をいかれたもので……」
「ふふふ……、でも安心したわ。若い男の人が管理人をやっているって聞いたけれど、案外優しそうな人で」
「それはどうも………」
僕は何を言ったらいいのかよくわからなくなってしまった。とりあえず玄関先で立ち話をするわけにもいかないので小梅さんを寮の中の応接間に招き入れた。
滅多に使われることのない応接間だが、昨晩の僕の頑張りもあって我ながらピカピカに掃除をしてある。しかしながらそのピカピカな応接間すら申し訳なくなるくらい、小梅さんのオーラというものは強い。
「管理人さんはまだ若いのに学生さんたちの面倒をみていて偉いのね。私なんて20代のころなんか音楽をやるか遊ぶかしかしていなかったのに」
「い、いえ……、決してそんなことはないです。ただたまたま良い縁に恵まれただけですから」
小梅さんは僕が慣れない手つきで淹れたコーヒーに砂糖とミルクを入れてかき混ぜたあと、ゆっくりとそれを啜った。忙しいはずのこの人がやけにまったりしていて、僕はそれが不気味で仕方がなかった。前置きとして僕のことを褒めるというのも、なにか嵐の前の静けさな気がした。
「……それで、本題の話したい事ってなんですか?」
心のざわめきが止まらなかった僕は居ても立っても居られずに小梅さんに訊いた。普段ならこんなにも前のめりになることなんて滅多にないはずなのに、そんな風に焦っている自分のことが自分でも信じられなかった。
「あらあら、随分せっかちなのね。桃子は落ち着いた人だって言っていたけれど。――まあいいわ、まどろっこしさが無くてストレートに話ができる方が私は好きよ」
小梅さんはもう一度コーヒーに口をつけ、カップを置くとこう告げた。
「桃子をね、留学させたいの。アメリカにいる知り合いのもとに」
僕の脳は一気にビジー状態になった。桃子を留学させる?字面では意味が分かるのだけれども、肝心の内容が全く入ってこない。
「本当は来年の4月からアメリカの音大に入るために留学する予定だったんだけどね、向こうにいる知り合いが早く来いって急かすのよ。――ほら、向こうは9月から年度初めみたいな感じでしょう? だからなるべく早い方がいいって」
にわかには信じられなかった。そんな大切なこと、桃子は一言も僕に言ってくれなかったのだから。それゆえ僕の頭には、小梅さんの一存で無理やり留学させられるのではないかということがよぎった。
「……それには、桃子は賛成しているんですか? あの子の本心で音大へ留学に行きたいと?」
「もちろんよ。そのためにあの子、勉強嫌いだけど赤点とったり留年しないように頑張っていたみたいだし」
言われてみれば確かにそうだ。出会って間もない頃に桃子に勉強を教えていたことがあるけれども、やたらと留年や赤点といったワードに過剰反応していた記憶がある。あれは単純に悪い成績を取りたくないというわけではなく、留学する際に学力が弊害にならないように努力していたとすれば辻褄が合う。
それならそうと何故桃子は僕に言ってくれなかったのだろう。僕の目の前からいきなり姿を消すつもりだったのだろうか。そんな最後を望んでいたのならば、一体彼女にとって僕という存在は何なのだろうか。
そういう考えばかりが頭の中を駆け巡るおかげで、僕はそのあとの小梅さんの話にはほとんど生返事を返していた。




