第60話 cleaning
オフ会の休憩明け、川越弥生とのセッションは図らずも伊勢海老P祭りとなった。伊勢海老Pの好きなドラマー、師と仰ぐギタリスト、そして本人がいるのだからもはやそうなるのは必然ともいえる。嬉しいことにオフ会参加者の中にも伊勢海老Pを知っているベーシストがいたおかげで、即席の伊勢海老バンドが出来上がってちょっとしたフロアライブになった。ステージのないスタジオやホールなんかで行われるフロアライブというのは、当たり前だが演者とオーディエンスの目線が一緒になる。それでいて距離も近いものだから、いつもよりそのオーディエンスの反応というものに気を取られてしまう。
そんな感じにいつもの調子が出ない僕を目の当たりにしたならば、桃子なら絶対にそのことを煽ってくる。こっちを向けと言わんばかりの圧をかけてきたり、ひどい時は罵声に似た何かが飛んでくることもある。随分とひどいことをされているように見えなくもないけれども、慣れてしまってはむしろ物足りなさすら感じてしまう。
――やっぱり調子が出ない。川越弥生も世代トップクラスに上手いドラマーではあるけれども、桃子とは音色もプレイスタイルも違う。もちろんベースも美織が弾いたものでないと桃子のドラムには合わない。いくら上手いリズム隊がいてくれても、いくらボーカルとギターが同じでも、即席ではだめだ。あの4人じゃないと僕の興奮するようなサウンドは出せないのだと、その時思った。これがわかっただけでもここに来た甲斐がある。
それと同時に、やっぱり僕には桃子が必要なんだなと思った。情けない話ではあるけれども、僕はあの辛辣な女子高生に生かされているようなバンドマンだ。望んでも良いのならば、できるだけ彼女のそばにいたい。そんなことを考えることが最近増えた。
先ほどと同じように僕はまた外で休憩することにした。本日2本目となったブラックの缶コーヒーを少し持て余していると、まるでデジャヴと言わんばかりにまた川越弥生がやってきた。
「お疲れ様! ホンマ最高に楽しかったわ、ありがとうね」
弥生はなにかやり切ったような清々しい表情で、自販機から買ったばかりのペットボトルの水をぐいっと飲んだ。黒い半袖のTシャツに黒のハーフパンツという身なりで、ドラムを叩く時にやたら軽装になるのはもはや職業病なのかもしれないなと僕は思った。
よほど喉が渇いていたのか、弥生は水を一気に飲みして空になったボトルをそのままくずかごに放り込んだ。
「そうそう、伊勢さんにちょっとお願いがあるんよ」
「お願いって?」
「私今めちゃくちゃ金欠やねん。せやから今晩ちょっと泊めてくれへん?」
僕はまるで漫画みたいに吹き出した。金欠を理由にほぼ初対面、しかも異性の部屋に泊まりこもうとするとか弥生の距離感はバグっている。生憎僕は寮住まいだからもちろん泊めることなどできない。
「そんなぁ……、野宿して朝を迎えないかんとか勘弁してくれや……。なあ頼むわ……」
「……流石に無理だ。他を当たってくれ」
そもそも金欠なのにオフ会に来る方がおかしいのだから自業自得だと僕は弥生に言い聞かせるが、それでも彼女はどうしても泊めて欲しいらしい。
あまりにも弥生の押しが強いものだから僕はたまらず妥協案を提示した。寮の空き部屋を使わせてやる代わりに、風呂やトイレなど水回りの掃除をやってもらうという労働対価を求めたわけだ。するとそれまでしょんぼりしていた弥生は、水を得た魚のように元気になった。………聞くに、彼女はこういうやり口で全国津々浦々の宿代を浮かせているらしい。若い女の子がやるにはあまり褒められた方法ではない気がするが、そのおかげなのか彼女の佇まいには少し逞しさが感じられる気がする。
オフ会を終えて車で寮へ戻ってくると、弥生は即座に水回りの掃除を終わらせた。その手際は僕から見ても感心するぐらいのもので、ちょっとした清掃業者を名乗っても恥ずかしくないレベルだった。
「どや、私なかなかやるやろ?これでも伊達に宿代浮かせて全国回っとらんのよ」
「助かったよ、ありがとう。……それじゃ僕はそろそろ」
すると、立ち去ろうとする僕の袖を弥生が掴んできた。
「……どこ行くん?」
「い、いや、自分の部屋だけど……?」
「大の大人が家に女連れ込んで放置とかホンマにあんたは義務教育受けてきたんか?――せっかくやし、打ち上げでもしようや」
どんな義務教育だとツッコミを入れる声がもはや虚しい。しかも付け足すならばここは僕の家でもない。流石に寮の管理人である手前、自室に女性を連れ込むなんて事はできないし、それ以前に空き部屋に泊めてあげるだけでもだいぶグレーだ。だから打ち上げなどせずに弥生には早いところ寝ていただきたい。
僕と弥生は妥協に妥協を重ねた妥協案として、とりあえず打ち上げ兼寝酒の缶ビールを買いにコンビニに行くことにした。




