第5話 homework
半強制的に尾鷲桃子とバンドを組むことになった僕は、寮の管理人としての仕事が一段落する金曜日の夕方と土日を中心にあの楽器屋のスタジオ練習をするようになった。
何をトチ狂ったのか知らないけれど、彼女は僕に対して拓にボツにされた曲を持ってくることを強く希望してくる。古巣のバンドは僕ではなく拓がほとんど作詞作曲をしていて、拓の実力のおかげでメジャーデビューに至ったようなものだ。だから拓のような才能ある人間に見向きもされなかった僕の曲に、僕自身価値があるとは到底思えなかった。しかしながら貧乏性な僕は作曲用のノートとメロディを録音したICレコーダーを後生大事に保管していた。恥ずかしながら、どこかでこの曲たちが日の目を見るのではないかと心の奥底に下心みたいなものがあったのは認めざるを得ない。
ただなんとなく、僕は彼女に必要とされて少し嬉しかった。
「――ねぇ、この曲の2回目のサビ前なんだけどさあ、1回目と同じブレイクを入れちゃうってなんかナンセンスじゃない?」
「確かにそれは僕も思っていたんだけど………」
「思っていたんだけど、何?」
彼女は『何か不満?』とでも言いたそうな顔で僕に詰め寄ってきた。パーツの整った綺麗な顔が近づくと、ふんわり香る風呂上がりのいい匂いが鼻をくすぐる。僕は瞬間的にまるで肉食獣の気配を感じたシマウマのような動きで逃げる体勢をとった。またこの間のように一杯食わされてしまうのではないかと、本能的に彼女の行動を警戒してしまっていたのだ。
無理もない、今僕と彼女がいるのはスタジオではなく僕の部屋の前なのだから。
スタジオ練習だけでは曲について考える時間が足りないらしく、このところ彼女は夜分に僕の部屋のドアを叩くことが多くなった。熱心にアレンジを考えてくれるのは作曲者冥利に尽きるのだけれども、夜な夜な女子高生が成人男性の部屋を訪れるというのはあまりにも世間体が悪すぎる。
「あのさ……、流石に部屋の前で長々と立ち話というのはどうも……」
「それもそうね、じゃあお邪魔するわね」
「ちがうちがうそうじゃない!夜中に男の部屋に出入りする女子高生がどこにいるんだよって話だよ!」
「別にいいじゃない、法を犯してるわけじゃないし。それとも何?私が部屋に入ったらまずい理由でもある?」
「大アリだよ!そんなことしたら京介……、じゃなくて副理事長にクビにされちゃうよ」
「大丈夫よ、管理人さんにそんな甲斐性なんて無いでしょう?」
確かにそんな甲斐性など持ち合わせていないのだけれども、いざ言われると意気地なしと言われているようで少しイラッとする。いかんいかん、また彼女のペースに持ち込まれかけている。ここは男らしく、管理人としてビシッと言ってやらなければ。
「駄目なもんは駄目だ。それより毎日毎日ドラム漬けで、宿題とかちゃんとやってるのか?うちの学園、かなり教育熱心で厳しいんだろ?留年なんてしたら大変だぞ?」
すると彼女は急に僕から目を逸した。どうやら図星らしい。宿題が溜まっているのならば、追い返すには十分な理由だ。
「それは……、追々やるわよ」
「駄目だ、今すぐやれ」
「……イヤ」
「やれ」
「イヤ」
彼女はよっぽど宿題をやりたくないらしい。その嫌がり方は何か他に理由があるのではないかと勘ぐってしまうくらいだった。とにかく彼女を追い返したかった僕は、適当に思いついた本物っぽい嘘で追撃する。
「そういや、寮生は赤点とったり単位落としたりしたら外出禁止なんだってな?」
「ウソよ、そんなの聞いたことない」
「ウソじゃないさ、副理事長がそう言ってたんだ」
別に京介はそんなことを言ってはいないのだけれども、成績不振の非行少女を更生させるためだと大義名分を立てて僕から訴えかければこんな嘘でも本当にすることができる。第一、そのために僕は管理人としてこの寮にいるのだ。
それにしても彼女はやけに『留年』とか『赤点』というワードに対してよく反応する気がする。ひょっとしたら、親がめちゃくちゃ厳しかったりとか、留年したらまずい理由があるのではないだろうか。
「………わかったわよ。やるわ、宿題」
「わかればよろしい」
ようやく折れてくれたようだ。いつもこれくらい素直なら苦労しなくて済むのに、本当に手強いやつだ。
僕はじゃあなと言ってドアを閉めようとすると、彼女はそれを妨げるように自分の脚を隙間に入れてきた。
「待って……、ひとつお願いがあるの」
「今度は何?」
僕はため息をついて肩をすくめる。そんな僕より頭ひとつ分身長の低い彼女は、ここぞとばかり上目遣いで僕にまた詰め寄ってきた。
「………数学、教えてくれない?」
反則だ。なんだこの恐ろしい女子高生は。フェアプレー賞過去16回受賞の藤田伸二元騎手ですら即騎乗停止になるレベルだ。可愛い。辛いことに揉まれ続けて枯れかけていた僕の男心に潤いが戻ってきそうだ。可愛い。
これを断るのは男としても管理人としてもダメな気がする。いや、気がするではない、ダメだ。高校数学なんて久しぶりで覚えているかどうか朧げではあるけれども、そんなに教えてほしいのならば僕だってやぶさかではない。
「……わかったわかった、教えてやるよ。ただし、寮の食堂でな」
僕は念の為保険をかけた。ただ、かけなければ良かったという助平心が無かったかと言われると、そうでもない。そんな自分が少し情けない。
そして彼女は、まるで計画通りだと言わんばかりの得意気な顔をして、自室に勉強道具を取りに行った。