第48話 fist
「行くぞ日比谷ああああああああ!!!!」
肺に納まる最大容積の空気を吸い込んで、まるで人間コンプレッサーの要領で圧縮した声を吐き出した。
シンプルに大きな声を出すということは気持ちがいい。そしてなにより頭がスッキリする。そうすれば自ずと、ここに集まるオーディエンスひとりひとりの姿が見えてくる。
以前、古巣との対バンでは僕らのことを全く知らないお客さんに振り向いてもらうところから始まったわけだけれども、今回は違う。多かれ少なかれ既に僕らのことを知っているということで、その挙動には一体感のようなものがあった。
曲に合わせてひとりひとりが腕を振り上げる動作は小さいものではあるが、これが100、200……、最早ひと目では数え切れない人たちがひとまとまりになって僕らへ押し寄せてくる。ある意味、これはオーディエンスなりの『好き』をぶつけていると言ってもいい。これに押し負けてはいけないと、僕も全力で『好き』を表現するために声を振り絞る。折れてしまってあまり動かさないでくれと医者に言われた僕の左手は、そんな怪我などまるで最初からなかったかのように固く握り拳を作って空へ振りかざされていた。
2回目のサビを歌い切ると、瑛神が足元に置いてある沢山のエフェクターの中から緑色のペダルを踏んでギターのゲインを上げた。
いつか見た音楽雑誌のバックナンバーで、ミッシェルガンエレファントのギタリストであるアベフトシを『鬼』と表現した記者がいたが、その瞬間の瑛神はまさに鬼のようだった。あれほどガチガチになっていた線の細い青年が、ギターと共に生命を燃やし、それを響かせる存在に変わっていたのだ。そんな魂のギタリストが僕は好きだ。………お酒の力というのは、時に恐ろしいが。
瑛神のギターソロ中、僕は美織のほうを振り返った。ギターを持っている時にはまず振り向くことができないので、ステージ上で演奏している美織をまじまじと見たのは初めてかもしれない。こんなにも真面目でこんなにも楽しそうにベースを鳴らす美織はとても良い顔をしていた。昔から見てきただけあって、まるで我が子の成長を見守る親のような温かい気持ちになる。一方で、自分の知らないところで苦労や努力を重ねてきたことも見てほしいと訴えかけるような面も見えるのだ。約6年の付き合いがあれども、まだまだ彼女については知らない事が多くてドキドキさせられる。そんなベーシストが僕は好きだ。
「愛知県岡崎市から来ました『Dining room in the dormitory』です。最後まで宜しくお願いします」
1曲目の『Genius』が終わり、さらっと一言挨拶をすると、間髪入れずに桃子が2曲目のカウントを入れる。
桃子のドラミングは軽快で心が踊る。先程のハードロックバンドのドラマーも中々の腕前であったが、パワフルで重厚だった彼女と桃子の小気味良いスピード感はまるで正反対で、スイカに塩を振りかけて甘さを引き立たせるような感じでお互いにお互いの存在を浮き彫りにしているようだった。桃子は間違いなく天才であるが、その天才をさらに花開かせたもう一人の天才に感謝しなくてはいけない。まだまだとどまることを知らない桃子のことを、許されるのならばずっと見ていたい。そんなドラマーが僕は好きだ。
2曲目が終わり、瑛神がラストナンバーのリフレインを鳴らすと場内にはどよめきが起こった。最後の曲は『rocksteady』、それは伊勢海老Pの出世作だ。まさか僕が伊勢海老Pであるとはオーディエンスの誰も思っていなかっただろうから、咄嗟にコピーバンドのライブが始まったのかと思った人もいるかもしれない。
この曲は『情に流されずに僕は前に突き進むんだ』という真っ直ぐな思いを込めた曲。4人になったバンドがひとかたまりになろうとしている今、この曲よりラストナンバーに相応しい曲は無い。
曲が進むに連れて徐々にこれはコピーバンドのライブではないということにオーディエンスが気付き始める。そして、最後のサビを迎えて僕は左手ではなく、マイクを持った右手を振り上げて観客席へ向けた。アンプラグドで僕が歌い、瑛神、美織、桃子の3人も声を振り絞ってついて来る。そして客席からは少しずつ声が上がり、またたく間に大合唱になった。自分史上最高にキャッチーなメロディを、僕だけでなく皆で歌い上げることで、やっとこのライブが完成したのだ。
瑛神がアウトロのフレーズをファジーに弾ききったところで、僕は生まれて初めてライブをやりきったという感覚に浸ることができた。多分僕は、屈託なく笑っていたのだと思う。




