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第46話 cup

 朝から日比谷野外音楽堂は満員御礼だった。中高生に人気のラジオ番組が主催しているということもあって、人の集まり方が尋常ではない。キャパシティが約3000人ということは知っていたけれども、いざこの人数を目の当たりにすると目が回りそうだった。

 ただそれでもひとつ安心できる点があるとすれば、うちの女性陣は全くこんな人の数に動じないということであろう。朝からマイペース全開である意味頼もしい。


「先輩!今朝喫茶店でコーヒーを頼んだらコーヒーしか出てこなかったんすけど、これってぼったくりっすよね!?」


「あー、それはな美織、県民特有の病気みたいなやつだ。むしろコーヒー頼んだらいろいろついてくるほうが少数派でな……」


「……なんでもっと早く教えてくれなかったんすかっ!おかげで私、コーヒーの他に色々注文して朝から1000円も使っちゃったじゃないですか!」


 そんなこと知ったこっちゃないのだけれども、僕も上京したての頃に一度似たような経験をしたことがあるのでなんとも言えない気持ちになった。でも、変な緊張をするよりはこういう風にいつもの雰囲気を保っていられる方が全然良い。僕自身も先日の古巣との対バンに比べたらあまり緊張していないし、もちろん桃子なんて緊張しているわけがない。

 だがしかし、うちのニューカマーである瑛神だけはどうも違ったらしい。


「………むむむ無理ですあんなたくさんの人前に立ってギターを弾くとか」


「よく言うわよ、普段から女装してギターを弾いた動画をアップして何万人の前に晒しているというのに。だらしないわね」


「じょ、女装したのは先日の1回きりですよ!」


「1回も100回も変わんないわよ。大体、途中加入のくせにいっちょ前に緊張するなんておこがましいのよ」


「まぁまぁ桃子、そのくらいにしとけ。緊張するってことはその分『上手くやってみせたい』って気持ちがあるわけだから、何も悪いことじゃない」


「まあ……、あんたがそう言うならやめておくわ。でもあまりに緊張し過ぎよ。なんか手を打たないとこいつ、本番でコケるわよ?」


 本番前に緊張感を持つということは本当に良いアクトをする上で僕は大切だと思う。自分の好きなことを上手くやってやりたいという気持ちが入っていなければ、そもそも緊張なんてしないのだから。しかしながら桃子の言うとおり瑛神は緊張し過ぎている。このままではおそらく大なり小なりやらかしてしまう気がする。……いや、絶対にやらかす。


「じゃあ昔の先輩みたいに本番前に『アレ』を飲むのがいいんじゃないっすか?」


「うーん、『アレ』は人を選ぶからなぁ、瑛神に合うかどうか……」


 美織の提案する『アレ』は確かにそれなりの効果はあるだろう。ただ、人を選ぶものであるし効果もまちまちで諸刃の剣であるのは間違いない。


「その……、お2人の言う『アレ』って言うのは……?」


「それはだな……、『酒』だ」


 僕がぶっちゃけると瑛神は虚を突かれたのかキョトンとした。

 その昔、僕が本番前にあまりに緊張し過ぎていたとき、酒を1杯引っ掛けてから演奏に臨むということを何度かやっていたことがある。確かに緊張感は和らぐし、身体が温まるおかげで声もよく出たりして良いことが結構ある。しかしながらその良い状態に持っていくことがかなり難しい。お酒を飲み過ぎてへべれけになってしまえば台無しであるし、そうでなくても判断力が鈍るのでかえって演奏ミスが増えたりもする。これは僕自身が身体で証明してきた。

 ましてやここは高校生バント選手権の決勝大会だ。瑛神が酒を飲める年齢であってもコンプライアンス的に大手を振って酒を飲むのは絶対によろしくない。


「……お酒、飲みます」


「瑛神、本気で言ってるのか?」


「……本気です」


 瑛神の目が血走っている感じがしてちょっと怯んでしまったが、彼がそう言うならそれなりの裏付けができる経験があるのかもしれない。ここは清水の舞台から飛び降りる気持ちで、瑛神にほろ酔い状態になってもらおう。

 そういうわけで僕は美織にこっそりお酒を買ってきてくれと頼んだ。そしたら美織は海兵隊員のような綺麗な敬礼をしてコンビニへ走りだそうとしたわけなのだが、ちょうどそのタイミングを見計らったかのように僕らの元へ客人がやってきた。


「皆さんお疲れ様です。これ、差し入れです。――やっぱり瑛神くん、緊張して顔が硬くなってるね?」


 やってきたのはレイラだった。瑛神がバンドに加入することになってから、ことあるごとに手伝いをしてくれたり、今みたいに差し入れをしてくれたりとバンドにとって大変ありがたい存在となっていた。そして今日はわざわざ東京まで駆けつけてくれたというわけだ。………まあ、殆どその本心は瑛神に逢いたいという気持ちで占められているのだろう。こんなに『好き』を全開で見せつけてくる彼女がいるのだから、瑛神は幸せ者であるともっと自覚を持ってほしい。


「瑛神くんが緊張しているだろうと思って、こんなの買ってきました。――周りにバレないようにこっそり飲んでくださいね?」


 レイラの差し入れが入った袋にはペットボトルのミネラルウォーターとワンカップの清酒が入っていた。……まさか、レイラは瑛神の緊張を予想してこれを持ってきたのか?


「瑛神くん、お酒の力を借りると結構大胆になって面白いんですよ?今日のライブも上手くやってくれると私が保証します」


「大胆って、酒を飲んだ瑛神は具体的にどうなるんだ……?」


「それはですねぇ………」


「うわああああああああやめてくださいよおおおおお!!!」


 話しにくいことなのか思い出したくないことなのかわからないけれども、瑛神自身が赤面するくらい大胆になっていたというのは容易に想像がついた。話したがっているレイラまでちょっと紅潮しているくらいなので、ここではないところで聞いたほうが良さそうな気がする。

 そういうわけで瑛神は本番前に隠れるようにワンカップを一本空けたのだった。

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