第28話 shrimp
ご近所トラブルは瑛神が越してきたその日に起こった。
「ちょっと聞いてないわよ!私の隣の隣に入居してくるなんて!」
「仕方ないだろ、やんごとなき事情があったんだ。我慢してくれ」
当初の予想通りやはり桃子からのクレームが入ってしまった。どうやらいつもの通りトレーニングルームでゴムパッドのドラムセットを叩いていたら隣の瑛神から苦情が入ったみたいだ。一応、桃子には僕から伝えて置いたはずなんだけれど、自分には関係ないと思って完全に聞き流していたらしい。
「何よやんごとなき事情って、あんな陰キャラみたいなのにボソボソと文句言われるとか腹が立って仕方ないわ。もっと文句があるならはっきりと言えばいいのよ」
「そりゃみんながみんなお前みたいな性格してないからな。――んで、なんて言われたんだ?」
「『振動でノイズが乗る』とか『集中が切れる』とか自分勝手なことを抜かしてたわ。思い出しただけで腹が立つ」
自分勝手なのはどっちだよとツッコミを入れたくなったのはさておき、一体瑛神は部屋で何をやっているんだろうか。話を聞いた感じではかなり物音や振動にシビアな感じがする。今日入居してきたばかりで気が引けるけれど、ここはもう少し踏み込んで彼と話をしておかなければならない。
怒る桃子をなだめて僕は瑛神の部屋へと向かった。余計なトラブルは御免なので、桃子は部屋に返して大人しくしてもらうことにした。
「瑛神、ちょっといいかい?」
瑛神の部屋のドアをノックすると、ひと呼吸おいてから『はーい』と小さく間延びした声が聞こえてきた。そして彼がドアを開けると、桃子が視界に入ったおかげで途端に嫌そうな顔を見せた。
松阪兄弟の三男、松阪瑛神は兄の京介によく似ている。小柄で童顔で身長も高くなく、京介と同じように10代に間違われても仕方がない。違う点は、切れ長の目と知的に見える眼鏡、あとはゆるくウェーブがかかった長めの髪ぐらいだ。
引きこもりと言う割にはきちんと髪型や眉に手が入っているので、思っていたより陰鬱な感じはしてこない。しかしながら桃子基準では陰キャラに分類されてしまうらしい。なかなか厳しい。
ドアが開いて部屋の中が少し覗けると、そこにには引っ越し用の段ボール箱に混じって沢山のギター、ベース、アンプやらエフェクターやら機材が並べられていた。もしかしなくとも、全てこれは瑛神の持ち物である。さすがにボンボンなだけあって、プロが使うような本格的な機材ばかりだ。学生時代に楽器屋でショーケース越しにしか見たことがないような物が沢山ある。
「……ああ、管理人さんですか。どうしました?」
「い、いや、ちょっと隣人とトラブルがあったようだから話をだな……」
「ああ、例の隣の隣にいる女子高生ですか。――勝手に空き部屋使ってドラム叩いてるとか、それって寮則違反なんじゃないですか?って彼女に聞いただけですよ。一応言っておきますけど、別に叩くのを止めてくださいなんて言ってないです」
「お、おう……、そうなのか」
桃子は瑛神がボソボソとドラム練習に対して文句を言っていたと証言していたが、今話している感じでは瑛神ははっきりと喋っているし、むしろちょっと威圧感すらある。……やっぱりだけど、何か2人の言うことに齟齬が生じている。
もしかしたらイライラした桃子が話を盛っているかもしれないし、逆に瑛神は女性と話すのが苦手な可能性もありうる。どちらにしろ現状をきちんと把握しておく必要はあるだろう。
「それで、振動のせいで『ノイズが乗る』とかどうのこうのって聞いたんだけど、一体どういうことなんだ?見た感じかなり楽器とか音響機器だらけの部屋だけど、DTMでもやってるのか?」
「そうですよ。そういえば管理人さんはバンドをやっているんでしたね、道理で勘がいいわけだ。――ご興味あるならどうぞ見てください」
僕はとりあえず瑛神に誘われるがままに部屋の中へ入った。彼は家具も寝床もまともに荷解きしていないのに、パソコンと機材だけはしっかりセッティングされていて、DAWと呼ばれる音声の録音、編集、ミキシング、編曲など一連の作業が出来るソフトを立ち上げている。いわゆる『宅録』とかDTMと言うやつで、自宅で曲を作っていると言うわけだ。
僕も昔少しだけ齧ったことがあるけれども、お金も時間もかかるせいで結局数曲作って投げ出してしまった記憶がある。その難しさを知っているだけに、ここまで本格的に宅録に取り組んでいる瑛神はすごい。
「今ちょうどミックスダウンが終わったところなんです。――ボーカロイドって知ってますか?」
「知ってるよ。僕も学生時代に少しだけ手を出したことがある」
「なら話は早いです。僕はそれをネットにアップして発表しているんです。いわゆる『P』と言うやつですね」
動画サイトにボーカロイドが歌う曲をアップしている人は沢山いる。そして中には実際に商業デビューする人なんかもいてなかなか夢がある世界だと思う。
僕は出来上がったばかりの瑛神の曲を聴かせてもらったけれど、これがなかなかクオリティが高い。しかも、なにかちょっと自分の曲に親近感を覚えるようなメロディのおかげで余計に良く聴こえる。素直に凄いじゃないかと瑛神を褒めると、表情に乏しそうな顔に少し笑みが浮かんだ。
「ボーカロイドで曲を作ろうっていうきっかけを僕にくれたPがいるんです。その人のおかげでこんなに楽しく音楽ができるようになってきたんですよ」
「なるほどな。その人には感謝しなくちゃいけないな。――んで、曲を作るからって引きこもりになったのか?」
瑛神は『ギクッ』という擬音が聞こえるくらい気まずそうな顔を浮かべて、僕から目をそらした。意地でも表情を変えない桃子と違って分かりやすくて良い。
「………はい、お恥ずかしながらそんな感じです」
僕はいつもの通り肩をすくめると、今回はため息ではなく少しだけ苦笑いを瑛神に見せた。僕は社会生活が疎かになりそうなくらいやりたいことに没頭できる人間というのは嫌いではない。その証拠に、そんな感じの人間が僕のまわりに沢山いる。
「まあ、没頭するのも悪くはないけどほどほどにな。一応この寮には『脱引きこもり』が目的で入ったってことになってるし」
「……はい、わかりました。夏休みが終わったらちゃんと学校には行こうと思います。――管理人さんは、兄さんから頼まれたんですもんね」
「ああ、そんな感じだ。でもまあ、引きこもりの原因が人間関係とか病気じゃなくて良かったよ。その憧れのPさんには少し文句を言っておかないとな、ハハハ」
「ちなみに、その人は『伊勢海老P』って呼ばれてます。だいぶ前に投稿を辞めちゃったんですけど、そこからずっとじわじわ伸び続けているんですよね」
「………えっ? 瑛神いま、なんて?」
「ですから、『伊勢海老P』って……」
伊勢海老P、それは僕が昔ボーカロイド曲を投稿していたときについた通り名だった。
どうやら、瑛神を引きこもりにさせた犯人は僕らしい。




