第15話 bandwagon
息を入れたあとのレコーディングは好調だった。それまでの遅れを完全に挽回するどころか、時間に余裕ができたので予定になかった曲を録ってしまったくらいだ。
桃子と美織は既にひと仕事を終えたという感じで、コントロールルームにいる柚香さんと何やら談笑している。一方で僕はといえば、疲れがたまった身体にもう一発ムチを打って、ボーカルブースで歌のレコーディングを始めるところだ。
「さすがに弾きっぱなしで疲れたっす……。こんな感じに毎日演奏漬けしてるプロってヤバいっすね……」
「私もクタクタよ……。今晩は焼肉かステーキかお寿司じゃないと納得いかないわ」
「そうね、せっかくだし脩くんの歌を録り終わったら豪勢にいくのもアリね」
「じゃあお店予約しとくっす!おすすめの焼肉屋さんが近くにあるっすよ!」
ボーカルブースにいる僕には会話の内容は聞こえないが、何やら楽しそうな感じで談笑していてなんとも羨ましい。女子が3人集まると姦しいとはよく言ったものだ。早く僕も歌を録り終えて緊張から解放されたい。
準備ができたので柚香さんに合図を送る。ヘッドフォンから流れてくる先程録った演奏に合わせて歌詞を書いたノートを見ながら歌うのだけれども、いつもはギターを弾きながら歌っているのもあって手ぶらで歌うのはなかなか変な感じがする。戦場で丸腰とはこういうことなのだろうか、変に身体が軽くてふわふわして足元がおぼつかない。けれど不思議と声はよく出た気がする。多分ギターを持っていないぶん身体が自然と声の出やすい体勢になっているのだと思う。
自分では歌の出来に一抹の不安が残っていたけれども、出来上がりを聴いてみると案外悪いものではなかった。さっきの桃子との会話でも感じたとおり、自分の主観というのは当てにならないものなのだなと改めて思った。
「これで無事クランクアップね。あとのミックスは私に任せて。久しぶりだから腕が鳴るわ」
柚香さんのOKサインを確認した僕は、一気に身体から力が抜けた。あまりにも身体が楽になったので、今までこれほどの緊張感に包まれていたのかと少々驚いた。
録ったものはこのあと柚香さんの手によってミックスされ、ひとつの作品に仕上げられていく。以前にも何度かお願いしたことがあるので、彼女のクオリティに関しては全く心配いらないだろう。
「さあ、さっさと片付けて肉を焼きに行くっすよ!ビールとカルビが私を呼んでるっす!」
世界記録樹立ペースで機材という機材を僕の車に詰込むと、定員ギリギリ、スペースギリギリの軽バンは唸り声をあげて国道をひた走った。流石にパワーが足りなくて速度が全然出なかったけれども、それでもめげずに走るこのバンドワゴンは逞しい。
美織が予約してくれたロードサイドの焼肉店に車を駐めると、僕がサイドブレーキを引くその一瞬のうちに皆飛び出して店に入ってしまった。どれだけ腹が減っているのだろうか知らないが、その動きの速さはまさに肉食獣といったところ。そして肉を焼き始めるとこれまたすごい勢いで肉が胃の中に消えていく。もしかしたらこの女子達は下手な体育会系の男子生徒よりも良い食べっぷりかもしれない。
ひと通り肉を平らげると、美織は酔いのせいで、桃子は疲労のせいでスヤスヤと寝てしまった。2人ともいつもこれくらい静かならいいのに。
「はしゃいで食べて寝る、まるで赤ん坊みたいね」
「確かに。この2人にはいつも振り回されて大変ですよ」
「あら、でも随分楽しそうに見えるわよ?案外まんざらでもないんじゃない?」
「べ、別にそんなことないですよ。本当に大変なんですから」
図らずとも柚香さんとの一対一になった。彼女はお酒が入っていてちょっとだけ顔が赤い。思えば、こんな風にサシで話すのは久しぶりぶりだ。
「実は今日、柚香さんに会うまでビクビクしてました。いざ会ったら何を話せばいいのかなとか、僕のことを根に持ってないかなとか、めちゃくちゃ考えてたんです」
「ふふ、脩くんらしいわね。でも私も他人のことは言えないかも。私も同じこと考えてた」
柚香さんは手元にある3杯目のハイボールジョッキを持って口をつけた。もともと濃い化粧をする人ではないせいもあって、ジョッキにはもう口紅がほとんどついていない。その口元にすこし懐かしさとゾクッとする衝動的なものを覚えながら、僕は彼女に悟られないように生唾を飲んだ。
「私が脩くんに振られたのは、今思えば至極当たり前だったのかもね」
「さっき、桃子にも同じようなことを言われました。僕らが『似たもの同士』だって」
「あら、桃ちゃんもなかなか鋭いところ突くじゃない。その通りだと思うわ。私も脩くんも、他人から施しを受けることに慣れてない、一人で何とか自立していかなきゃいけないって性格してる」
確かにその通りだ。他人の手を借りるということにどうしても後ろめたさを感じてしまうし、そういう気持ちがあるからこそ自分自身は他人の役に立たなくてはならないと思いこんでしまう。
「そんな2人じゃ恋仲なんて続かないわよ。遅かれ早かれお別れしてたと思うわ。……まあ、ちょっと後味が悪かったのは私が反省しなきゃいけないところなんだけどね」
「後味悪いって、僕が振ったあとに一言も交わさなくなったことですか?」
「そう思われていたならば謝るわ。正直なところ『一言も交わせなかった』のほうがしっくりくる感じなんだけどね。あの頃は脩くんのバンドに凄く勢いがあったし、逆に私は就職活動に苦戦しててそれどころじゃなかったのよ。――タイミング悪いことって、何故かよく重なるのよね」
僕は一瞬胸の奥がズキッと痛んだ。もしかしてあの時、僕がもう一歩柚香さんに踏み込んでいたならば未来はもう少し違っていたかもしれない。彼女の言うとおり、タイミングの悪さというのは本当によく重なる。僕にもそれは痛いほどわかる。
「というわけで、昔話はこれくらいにしていい加減仲直りしましょ」
「仲直りって……、指切りげんまんでもするんですか?」
僕は『ハンドルキーパー』と書かれた手元のグラスを持って、その中に入っている大して美味しくもないノンアルコールビールを飲んだ。喉越しだけは本物っぽいけれども、やはりノンアルコールビールはノンアルコールビールの味がする。
「んもー、指切りとか小学生じゃないんだから。付き合ってた大人の男女が仲直りっていったら一つしかないでしょう?ご無沙汰なんじゃないの?」
飲んでいたノンアルコールビールが気道に入りそうになったので、僕は必死に吹き出さまいと我慢した。そんな唐突なセックスの誘い方があるかと心の中でツッコミを入れる。そして、そういえばこの人は酒が入ると性に奔放になる人だったなということを思い出した。
世の中の26歳独身男性がこんな美人からセックスしようなんて言われたら、よっぽどのことでなければ断らないだろう。おまけに行きずりの女ではなく勝手知ったる元カノだ。ちょっと記憶を掘り起こせばこの人の綺麗な身体のラインとか、どういう声で善がるのかとか、身体を重ねたときの温かさとかを十分に思い出せるだけに、余計にその誘惑はリビドーへと訴えかけてくる。
正直なところしたいといえばしたい。けれども、今の僕がそんなことをしてしまったら、何か大事なものを失ってしまうようなそんな気持ちがあった。その大事なものというのが何なのかうまく言葉にできないのがもどかしいけれども、少なくともこの今の状況が壊れてしまう爆弾のようなものであるのは間違いない。僕は、そっちのほうが怖かった。
「……まあ、今はこんな状況なので、それはナシで」
「ふーん、そうなんだ。残念」
柚香さんが本当に残念そうな顔をするので、僕も一瞬この決断を後悔してしまったのがなんとも情けない。でもこれが今のところの最適解だと信じたい。
「もしかして脩くん、好きな女でも出来た?誰誰?みおりん?………まさか桃ちゃん?ダメだよー、女子高生に手を出したら捕まるよー?」
「勝手に話を膨らまさないで下さい!どっちでもないです!今は自分のことで精一杯なんですから、誰かと付き合える余裕なんて無いですよ」
「えー、それじゃあ私、フリーな男に断られた魅力のない女みたいじゃない。納得いかない」
「僕がカタブツだってことで納得してくださいよ。第一、カタブツでもなければ学生寮の管理人の仕事なんてしてないんですから」
そう言うと柚香さんは少し驚いた顔をした。そういえば、柚香さんに僕の口から今なんの仕事をしているか言っていなかった。てっきり美織が伝えたものだとばかり思っていたけれど、実は今のが柚香さんにとっては初耳だったっぽい。
「………寮の管理人ということは、脩くんってば、桃ちゃんとひとつ屋根の下ってこと?あらー、お姉ちゃんとしてそれは見過ごせないわー」
「意味は間違ってないけど『ひとつ屋根』がでか過ぎますって!桃子以外にも20人くらい住んでますよ!」
「なにそれ……、20人もいるってまるで大奥じゃない。――脩くんのスケベ」
「あーもう!柚香さんはこれだから面倒くさい!」
冗談だと分かっていながら柚香さんが僕のことをからかうのは昔からのことだ。元通りにこんな会話が出来るようになると、昔に戻った感じがして安心する。歳も住まいも離れてはいるけれども、柚香さんは柚香さんなりに桃子のことを気にかけているみたいだ。
「桃ちゃんをよろしく頼むね。あの子には多分、脩くんが必要だから」
僕はその言葉を寮の管理人として、言葉の通り受け取ることにした。確かに桃子とは一緒にバンドを組んでいて、寮の他の学生に比べたら距離も大分近い。でも、一人の女性として桃子のことを見ることができるほど僕に器量も無いし、世の中もそんなことを受け入れてはくれないだろうから。出来るだけ、やれるだけ頑張ることにする、柚香さんに誓ってそう決めた。
そして、しばらくして店員さんがラストオーダーを取りに来て宴は終わっていった。




