003
高木雄吾の朝は早い。五時頃には目覚まし時計もなく目覚めると、テキパキと冗談のような大きさのジャージに着替え、特製の不味いドリンクを飲み、ランニングシューズに履き替えて家を出る。簡単に手足を伸ばした後に、駆け出す。日課の一つである、毎朝一〇キロのジョギングだ。一体何を想定しているのか、時たま拳を突き出し、足を止めて攻撃を避ける様な動きを見せる。控えめに言っても不審者なのだが、自覚があるからこその早朝ジョギングである。いつもの決まった道を、簡単に流して四〇分程で家の前に戻って来る。その後、開始時よりも入念にストレッチをして家に入ると、シャワーを浴びて学生服に着替える。
「おはよう。雄吾」
通学の準備を終えて一階のリビングに降りると、父親である高木正治がエプロン姿でキッチンに立っているのも日常と変わりない。人好きの良さそうな顔に、丸眼鏡。長い総白髪を頭の後ろで縛り、ワイシャツに黒いエプロンと言う格好は喫茶店の店主のような雰囲気ではあるが、職業は残念ながら弁護士事務所の所長である。弁護士と言う職も、それはそれで似合ってなくもない。
「おはよ。じいちゃん」
日本の家庭に在りがちなように、一番年下の家族に呼称を合わせて雄吾は実の父を『じいちゃん』と呼ぶ。実際、今年で還暦を迎える正治と、高校二年生の雄吾の年齢差を考慮すれば、父親よりも祖父の方が年代的にしっくりと来る。
「昨日はどうしたんだい? 悲鳴を上げて。夜襲かい?」
「じいちゃんもそれかよ。俺は何処の武将なんだよ」
孫娘と発想のレベルが同じことに少しだけ呆れながら、雄吾は「夢だよ」と冷蔵庫を開けて応える。
「外国のモデルみたいな美人に、脇の肉を抉られ、それを喰われて、最終的に心臓を抜き取られたんだ。死ぬかと思った」
「前から思っていたけど、雄吾はマゾなのかい? 苦痛に快楽を感じたりしない? おじいちゃん心配なんだけど」
「そんな心配いらん」
ヨーグルトと牛乳を取り出して雄吾は強く断言する。何故、実の父親にそんな心配をされなくてはならないのか。
「じいちゃんは俺を何だと思っているんだ」
「可愛い息子さ」
「そりゃどーも」
他愛無い会話をその後も続けながら、雄吾と正治は朝食を机に並べて行く。百合の両親は仕事(陶芸家だ)の関係で九州に先週の中頃から出張に言っており、現在は三人暮らしなのだが、テーブルの上に並ぶ料理は軽く六人分はありそうだ。無論、雄吾の巨体を維持する為に必要な食事である。筋肉質過ぎる雄吾の肉体は燃費が悪いのだ。サプリメントやプロテインで補ってはいるが、単純な空腹感だけはどうしようもない。恐ろしいことに育ち盛りであることも手伝って、驚異的な量を喰う。恐らく、既に六〇年生きた正治の生涯食費を超える量は喰っているだろう。
料理も並び切り、時計が六時三〇分を指す頃になると百合が二階から降りて来る。朝が弱いことと、可愛い孫であり娘であり姪である彼女が朝食を準備することは基本的にない。昼食も、夕食も、ない。応用的にも、発展的にも、ない。
一家全員が、百合に甘かった。
「おはー、じいちゃん、おっさん」
「おはよう。百合」
「おはよ」
挨拶を交わし、それぞれテーブルの所定位置に座る。長方形のテーブルに雄吾と百合が並び、その正面に正治が座る。ゆったりと三人が並べるスペースがあるのだが、例によって雄吾がとてつもないスペースを取っていて、その光景は遠近感が職務を放棄したようにも見える。
高木家では食事中のテレビは禁止されており、食卓には家族の会話が咲く。話しの話題は昨日から始まった新学年のことが中心で、晴れて高校生となった百合の話しを、正治が楽しそうに聴いている。入学式に保護者として同行したはずだが、一々百合の説明に大袈裟に相槌を打っていた。
雄吾はその光景を眺めながら、黙々と箸と口を動かす。これも、いつもの風景である。
食事が終われば、当然だが片付けとなる。これは百合が一人で行う。家族全員が料理をある程度作れるのに、自分だけができないことに焦りを覚えながらも、特に学ぶ気がない彼女は、取り敢えず皿洗いを率先して行うことで焦燥感を誤魔化すのだ。
雄吾と正治は歯を磨き、登校と出勤までの時間を本や新聞を読んだり、ニュースを見たりして過す。
「雄吾。お前も新聞を読んだらどうだ? 高校二年生だろ?」
「『新聞を読まなくなってから私は心がのびのびし、実に気持ちが良いです。人々は他人のすることばかり気にかけて、自分の手近の義務を忘れがちなのです』」
「ゲーテだったっけ?」
「出典は忘れちまったけどな」
「それで? 君の義務とはなんだい?」
新聞を伏せ、正治が雄吾の読む本の表紙を窺う。『大学受験に役立たない数学』と書かれている。数学関係の雑学本だろう。果たしてコレが雄吾の義務なのかどうかは不明だが、中途半端に勉強色がある為に批判も突っ込みも入れ難いチョイスだった。
「面白い?」
「役に立たない程度には、面白いよ」
栞も挟まずに本を閉じて、雄吾は正治が机の上に置いた新聞に目を向ける。一面にはでかでかと如何にも仕事ができそうな中年の男の顔写真が掲載されており、その横には『新エネルギー開発成功!?』『従来の発電の一/一〇〇〇〇のコスト』とプリントされている。
「…………怪しいスポーツ新聞?」
「いや。全国紙だよ。ここ数カ月で結構話題になっているんだが、知らなかったのか?」
「全然。エネルギー開発は俺の義務じゃあないからな」
言いながら、興味深そうに雄吾はその記事に目を通して行く。その横で、皿洗いを終えた百合が「あたしでも知ってるよ。遅れてるなー」と生意気な口を叩く。
が、確かに雄吾は遅れていた。
「これ、枕原の企業なのか」
記事に出て来る新エネルギーの開発会社は、枕原市の外れ研究所を構える地元企業であった。『セプテントリオン』と言う、ちょっとハイカラ過ぎる社名は寡聞にして知らなかったが、研究の内容が本物であれば雄吾は本当に寡聞である。
近代史最大の問題とも言えるエネルギー問題を解決するかもしれない研究の成功。まだ詳細は伏せられているが、たった二ミリグラムのその新燃料を使った発電で、一般家庭の消費電力の十六ヶ月分もの電力が賄えるのだと言う。
「本当かよ。ほら、随分前の何とか細胞と一緒じゃあないのか?」
自分が知らない物を素直に認めることは難しい。雄吾は無知を恥ずかしがるように、記事を批判した。
「どうも、本物のようだよ。家の事務所が専属で契約を結んでいて、最近契約更新で社長さんにあったんだけどね、実は数年前から完成していて、国家認定とか安定運用の問題で発表が遅れているだけだとか」
「そんな話し、して良いのか?」
「『ここだけの秘密』って言うのは『皆知っている』って意味なんだよ」
正治はそう嘯いたが、弁護士と言う職業に誇りを持つ彼が言うのだから、大した問題ではないのだろう。恐らくは公式に運用が始まる前の日程は緻密に決まっており、今回の記事もそのパフォーマンスの一環と考えた方が正確そうだ。
「ふーん。あ、でも『セプテントリオン』って、日本の会社っぽくない名前だよね」
何が『でも』なのか分からないが、百合は思い付いたように発言する。日本の企業と言えば、創業者の名前に産業の種類を付けるような物が多い。家電製品等は別だが、基本的に分かりやすさ優先である。
そう言う点で見れば、確かにセプテントリオンと言う横文字はあまり前例に倣っているとは言えない。しかし新聞に載る中年社長の名前を見れば、それほど外れたネーミングではないことがわかる。
「北斗龍太郎」
雄吾はぽつりと呟く。百合は首を疑問符のように傾げているが、正治は「流石、時勢に疎くとも博識だね」とその意味を理解したようだ。
「ん? どう言うこと? しゃちょーさんの名前がどうしたの?」
「セプテントリオンは、ラテン語で『北斗七星』って意味だ」
「正解。社長一族の名字が名前の元ネタだよ、百合」
「ラ、ラテン語? それ、何語なの? アミーゴ?」
「アミーゴは、スペイン語だよ」
「確か、バチカンの公用語だっけ? 基本的に学術的な発見はラテン語になるよな」
「日常的に使う人は少ないみたいだけどね」
「あたしは偶に、自分が凄い馬鹿なんじゃあないかと思う時があるよ」
そんな風に和やかに会話を続けている内に、雄吾と百合が家を出る時間が訪れた。
一般家庭では見ることもできないサイズの革靴を履き、雄吾は玄関の扉を開ける。
大丈夫。アレは夢だ。
早朝ジョギングでも自分に言い聞かせたように小さく呟く。外に出れば当然と言うべきか、青い空に太陽が浮かび、爽やかな春の風が吹いていた。小学生が地域ごとに集まって学校に向かい、出勤するサラリーマン達が運転する少なくない量の車が道路を走っていた。
「どしたの?」
玄関を塞ぐように立ち止まった雄吾に、百合が不思議そうに訊ねる。新品の紺色のブレザーに着られている彼女の頭には、ポニーテールがぴょこぴょこと揺れている。
「いや。少し眠くてな」
歩き出しながら、空欠伸をする雄吾。が、眠たいのは本当だ。悪夢から目覚めた後、一睡もしていないのだ。しかも筋トレをしながら読書をし、朝から一〇キロジョギングを敢行した身体には薄くだが疲労も溜まっている。眠くて当然だろう。
今の雄吾を柔らかく表現すれば、完全なる馬鹿だ。
「何? マジで夢が怖くて眠れなかったの?」
「本当にリアルな夢でな。実は夢でダメージを負った所に蚯蚓腫れができてた。痛くも痒くもないが、気味が悪い」
「うひゃー。あれだ! 精神が肉体を凌駕しちゃったんだ!」
少し興奮気味に相槌を打つ百合。それをみて、集団登校中の小学生達が冷たい目線を向けていることにが気がつかない。姪が五月蠅くてすまん。と、心の中だけで謝罪する雄吾。彼が実際に声をかけて謝れば、下手をすれば事案が発生してしまう。案外、小さい子には好かれやすい性質ではあるが、その親までが何を思うかは予想もつかない。そんなことで正治のお世話になるのも情けない話だ。
「ってかさ、どんな夢見てるわけ? ライオンと素手で戦ったの?」
「当たらずとも、遠からず、だな」
「流石のおっさんも、ライオンには勝てないか。なあ、どの辺りの動物だったら勝てる? 豚は余裕だよな?」
「動物と戦ったことなんてないし、今後も予定はない」
阿呆な質問に答え、大きく溜め息を吐く。因みに、豚は元が猪だけあって強い。豚が真剣に人類に歯向かうことはないだろうが、そうなった場合、人類は大打撃を受けるだろう。
ぽつぽつと会話をしながら、最近になって始まった道路工事の現場を迂回し、夢とは違う道で幹線道路に突き当たると、「じゃ、しっかり勉強しろよ」と偉そうに言う百合と分かれる。彼女の学校は電車で二駅離れており、駅へと向かわなくてはならない。
県立枕原北高等学校は、案外偏差値が高い。例の二〇年前の開発が関係しているらしく、他の県立高校と比べても若干の優遇処置があるようだ。ついでだが、給食のレベルも高い。
そう言うわけで、意外にも成績の良い雄吾は合格したが、百合は今一歩努力が届かなかった。
「お前も、頑張れよ」
「おう」
と、別れの挨拶を交わし、二人は互いに背を向けて歩き出す。歩道橋を登り、いつもの道を通り、学校へと向かう。その風景に昨日との大きな違いはなく、少々慎重に歩いていた雄吾も、後半になると夢のことは夢だと思い込める程度には精神状態が回復し、大股で通学路を進んで行く。
勿論、脱いだりはしない。