プロローグ
『君はそんなことに責任をとろうとするのか。
しかし、それよりも自分の夢の実現に責任をとったらどうだろう。
夢に責任をとれないほど弱いのか。それとも、きみには勇気が足らないのか。
きみの夢以上に、きみ自身であるものはないのに。
夢の実現こそ、きみが持っている精一杯の力でなすべきものではないのか。
――――フリードリヒ・ニーチェ』
『昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。
自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。
不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。』
若い女教師が右手に握った白墨が、心地の良いリズムを刻む。
「『昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。』」
女性らしからぬ堅い文字を黒板に書き記しながらも、女教師は漢文を口語に訳すのも忘れない。
一般に『胡蝶の夢』と呼ばれるこの説話は、知名度で言えば『朝三暮四』に劣るかもしれないが、荘子を知らない人間でも覚えがある物だろう。
「じゃあ、えーっと、雄吾君。これを日本語訳できるかしら?」
「はい。えーっと、
『昔、私は夢の中で蝶だった。喜んで蝶になり切っていた。
楽しくて舞っていた。荘周であることなんて忘れていた。が、目覚めると荘周だった。
人である自分が蝶の夢を見ていたのか、今がまさに蝶である自分が人の夢をみているのか、どっちが真実化は分からない。
人と蝶の形は違うけど、主体としての自分は変わることがない。これが物の変化と言うものである』
って感じですかね?」
「そうですね。少し文章が砕けすぎていますが、正解と言って良いでしょう」
語弊を恐れずに言えば、『物事の本質は変わらない』。そう言った意味合いの説話だと思ってもらって間違いはない。
もう少し踏み込めば『無為自然』『万物斉同』――詰まる所『逍遙遊』を解く荘子の思想が詰まった代表作であるとも言える。乱暴に説明してしまえば『人の一生に対して学ぶべきことは多すぎる。人間が理解できる程度の知に振り回されるくらいであれば、現実をただ受け入れて自分の生を生きよう』と言った所だろうか。
また荘子のことを知らなくとも、自分と言う存在の不確かさを実感するには十分な漢文である。正確なことを言えば反論もあるだろうが、デカルトの有名過ぎる『我思う、故に我あり』に通じる哲学的な所もある。十七世紀を代表するデカルトよりも二〇〇〇年も早く荘子が産まれていたことを考えると、東西の哲学的なアプローチや発展の違いと言うのも中々に興味深いだろう。
「今度のテストには、この原文を口語訳にする問題を出しますので、皆さん、覚えておいてくださいね」
が、結局の所、学業においてそんなことには何の価値もないようだ。
知識による固定観念に縛られる生活の無意味さを語る説話に対して、これ以上の皮肉があるだろうか?
しかしそれも仕方のないことでもある。紀元前の人間に習う所は無論あるだろうが、あまりにも時代が違い過ぎる。生活が違えば、必要な知識も変わるだろうし、生き方も変わって来て当然だ。高度情報社会等と言われる現代に置いて、知識は何よりも貴重で重要な武器なのだから。
しかし、だ。
かの文豪、太宰治はこう言った。
『時代は少しも変わらないと思う。一種のあほらしい感じである』
嗚呼。
人類は進んでいるのか、停滞しているのか。
変わり続けるからこそ、変わりえないのか。
果たして今生は夢か現か。手にした真理は嘘か誠か。真に恐れるべきは生か死か。