58 参謀情報部司令官 ヘルムート・ラーゲルクランツ少将
手が届きそうな近さを感じる高地の太陽が天上に近付きつつあるバルトサーリ市街地。
勤め人だけでなく、町工場の職人や機織り職人など、人々が腹の虫を鳴らしながら、八月宮殿の近くにそびえる大聖堂の鐘が鳴るのを待ちわびている頃。
バルトサーリの飲食街に向かう三人の軍人の姿がある。
白髪頭の老齢な軍人が先頭を歩き、そのお供のように後ろに二名の若い軍人が歩いている。
先頭を歩くのはアムセルンド陸軍総局 参謀部 参謀情報部の司令官、ヘルムート・ラーゲルクランツ少将その人であり、後方の若い軍人たちはラーゲルクランツのボディーガード。参謀情報部二課から派遣された護衛である。
三人が足を止めたのは、飲食街に並ぶレストランの一つ。美味しい魚料理を出すと評判の『白樺亭』と言う名のレストランで、地元住民や旅人に人気がある老舗の一つだ。
「せっかくだから君たちにもご馳走しよう、一緒にどうかね?普段、なかなかに来るチャンスはないだろ?」
「いえ、せっかくのお誘いですが我々は任務ですので、規定通り席を別にして待機します」
「そんな硬い事を言うなよ。ここの魚料理は美味いんだぞ。ワシの奢りで腹一杯食べれば良かろう」
「いえいえ。少将閣下こそ、久々のご家族との対面です。私どもが参加する事こそ野暮であります」
そうかい?何か悪いな。君たちが注文した料理は、必ず私の方へ伝票を回すんだぞ── ラーゲルクランツ少将はそう言いながら、白樺亭のドアを開ける。
今日はラーゲルクランツ少将にとっては久々の吉日。何故なら、遠い異国の地から少将の家族が帰省して来たのである。
アムセルンド公国の東に並ぶ自由貿易王国フォンタニエ、その首都にある王立大学で世界史を教える准教授の息子。その息子夫婦と幼い孫が、農繁期休みを利用して、毎年生まれ故郷に帰って来るのである。
「おお、おお!今年も良く戻って来たなあ」
店内に入るとウェイターの対応も適当に、キョロキョロと客席を見回したラーゲルクランツ、お目当ての人物たちを見つけて一目散に駆け寄った。
「やあ父さん」
「義父さま、ご無沙汰しております」
「じじ、じじ!」
立派になった息子、そして奥ゆかしさを醸す息子の妻と挨拶を交わしながらも、目と目が合った途端に体当たりする勢いで抱き付いて来た孫に喜ぶラーゲルクランツ。息子夫婦をほったらかしにデレデレに溶け出した。
「ダーリアだめよ。お口の周りがベトベトで、おじい様の服が汚れちゃいます」
「わはは、気にせん、気にせんよ。ダーリアも大きくなったな、抱っこするとじじの腰が壊れそうだわい」
久々の対面に賑やかになるラーゲルクランツ家のテーブル。少将とは対照的に、二課の護衛二名はラーゲルクランツとは他人を装いながら、静かに別のテーブルを選んで席に着いた。
アムセルンドは東西南北全ての領土が海に面していない山国である事から、古くから魚料理の種類も素材も限られていた。
川魚以外で言えば、海から送られて来たのは塩漬けの魚とカチカチに固くなった干物程度で、高い割には満足度の薄い食材と言うのがアムセルンドの人々の古くからの認識だ。
しかし近年においては海産物の流通路が整備された事で、新鮮とはいかないまでも取り扱いが飛躍的に増えたのも事実。
ムニエル、ポワレ、パイ包み焼き、クリーム煮やブイヤベースなど、海沿いの地域から伝わって来た多彩な調理方法と、その調理方法を駆使して出される豊富な種類の魚は、アムセルンドの食卓を賑わせていた。
久々に再会を果たしたラーゲルクランツ家のランチも今日は豪華。
香草をまぶした白身魚の岩塩包み焼きをメインに、魚介類の酢締めサラダや魚介スープのリゾットなどを、冷えた白ワインで喉を潤しながら楽しんでいる。
「母さんの墓参りは済ませて来たか?」
「ああ、バルトサーリに着いて直ぐに寄って来たよ」
「それは良かった、アイツも喜んでるよ」
「三年……早いものですね。お義父さまはお独りの生活は不便はございませんか?」
「なあに、心配ない。ワシはしっかり自活しておるよ」
そう胸を張りながら答えたラーゲルクランツ。
優しげな眼差しで隣に座る孫を見ながら、この子が成長した姿が見たいから、まだまだ頑張らないとな……と、頭を撫でる。
可愛い孫は口に含んでいた食べ物をポロポロとこぼしながら、「じじ」「じじ」とニッコニコの笑顔。頭に置かれたラーゲルクランツの手を、その小さな手で触り返した。
ラーゲルクランツのボディーガード二人も、周囲の客に目を光らせながら食事を始めていると、店に一人の男が入って来た。
見るからにビジネスマンと言った容姿のその男性は、手に重いカバンを持ちながら入店して来て、応対に出て来たウェイトレスに頭を下げながら一言二言会話を交わす。
「うん?何だ」
「見たところ業者のようだな」
護衛二人も、入店して来たその男が客で無い事に注目するのだが、その男の様子からして「私、貿易商を営んでおり我が社の食材も扱ってくれないか」と頼みに来て店主との面談を求めているようにも見える。
こんな忙しい時間を狙って、わざわざ訪問販売しなくても良いのになと、眉をひそめて苦笑いしていると、思いがけない光景が目の前に広がった。
なんと、迷惑そうな表情を浮かべながら、店主を呼びに行ったウェイトレスの後ろ姿を確認したその男は、床に置いたカバンを放置して、脱兎の如くそのまま店から出て行ってしまったのだ。
「あ、あの男」
「カバンを忘れ……」
二課の護衛の一人がその言葉を言い切って、親切心から男を追いかけて忘れ物だぞと声を掛ける事は無かった。
護衛たちのみならず、白樺亭にいた全ての者たちと、近隣を歩いていた市民たちは、巨大な爆発に巻き込まれ、跡形も無く粉砕されてしまったのだ。
落雷と地震が一緒に襲って来たかのような、ドォン!と言う地響きを立てて爆発四散してしまった白樺亭。
やがて辺りに静けさが戻り、市民たちが何事かと白樺亭に目を凝らすも、そこは最早レストラン白樺亭ではなく、煙くすぶる単なる瓦礫の山と化していた。
これがアムセルンド公国の首都で起きた最初の無差別テロ事件、通称『バルトサーリ爆弾テロ事件』の全貌であったのだ。




