33 嬉しい誤算
──自分を装え。混乱して脅えていると思わせろ──
マーヴェリックと名付けた諜報部員と別れたオレルは、首都バルトサーリの街中を歩き続ける。
しきりに後方を振り返りって闇夜に目を凝らしながら、時に小走りに、時に立ち止まったりと、酷く忙しない様子。
側から見れば、見えない何かに怯えて逃げているようにも感じられるのだが、首都中央の凱旋広場から官公庁街を抜け、住宅街を更に抜けて街の外れの倉庫街へと足を踏み入れたオレル。
警察署や人が大勢いる場所に逃げ込めば良いのに、わざわざ人気の無い場所を選んで足を進めるあたりは、どうやら策を講じているようだ。
レンガ造りの巨大な穀物倉庫が並ぶ倉庫街の大通り、ポツポツとガス燈の灯りが頼りなさげに周囲を照らすだけで、猫の鳴き声すら聞こえない。
いかにも歩き疲れたかのようにガックリと膝を折ったオレルは、荒い息で肩を揺する「フリ」をしながら、この辺りで良いかと、暗闇で笑みを漏らす。
オレルが期待した通りの反応だった。
大通りの倉庫の影から、ふらりと人影が現れたのだ。
「誰だ?」
オレルの声が反響しながら倉庫街を駆け抜ける
あくまでも儀礼的なもので、監視者が答えてくれるとは思っていない。
オレルは人影に対して正面を向いて対峙する。視界から入って来る人影の情報をフルパワーで精査を始めた。
──身長は私と同じくらいか、つまりは亜人や獣人ではなく人間である可能性が高い。身体つきはがっしりしているから、何らかの格闘訓練を受けた兵士かエージェントと考えるべきだな。
そして動きやすい黒の作業服と黒い目出し帽を被っている。そして靴は石畳に響いて靴音を立てない特殊仕様……こいつは夜間戦闘のプロか。すると得物はナイフ、正面からは見えないが腰の後ろに隠しているか
眼で威圧しながら、急いで敵の分析を行なったオレルの結論は、敵は静音殺傷術のレクチャーを受けているプロ。チャルナコシカの公認会計士だったヘッケンを暗殺した疑いのある公安警察か、又は公安警察に繋がる組織の者と推察される。
何故そのルートからオレルを狙う者が現れたかと言えば、ヘッケンがオレルの名前を喋ったからに違いない。
そしてオレルも、こうなる事を期待してヘッケンに自らの名前を語ったのである。
つまり黒い監視者、追跡者、今となっては黒い暗殺者となって目の前に現れた者を、オレルは首を長くして待っていたのである──
「この大陸にいるとされる暗殺教団は、暗殺儀式の正装をまとって邪神の名前を唱えながら殺すそうだ。お前はそうは見えないが、公安警察に暗殺部隊でも出来たのかな?」
おどけたように問いかけるも、当たり前の話黒い暗殺者から返事は返って来ない。
だが、このオレルの余裕の表情に違和感を覚えたのか、黒い暗殺者は静かに身構え、背中側に収めていたナイフを抜く。
監視の目に脅えて、追跡の恐怖から逃げ回っていたはずのターゲットが、パニックを起こしてこの倉庫街に逃げ込んだ訳ではないと覚ったのである。
──追い詰めた積もりが、追い詰められた事に気付いたのだ
「来るか。この身体では堪えるが、無力化くらい出来るだろう」
両の脇を締め、背中を丸めて中腰の姿勢を取り、ナイフを顔の高さに上げて構える黒い暗殺者。ススススと石畳を擦るように前に進んでオレルににじり寄る。
対するオレルは何と、はああ!と深く深く息を吐き出しながら両足を大きく前後に開き、右の拳を腰に添える。拳法家よろしく、一撃必殺右正拳突きの構えをとったのだ。
黒い暗殺者のナイフも、オレルの正拳突きも、どちらの武器も手を伸ばせば届く距離にたどり着くと、互いにピタリと静止して睨み合いが始まる。自分の動きに対して相手がどう動くのか、敵の動きを読む作業……つまり何手も先を読み合う詰み作業だ。
だが、黒い暗殺者の様子をくまなく見ていたオレルが、ここに来て重大な事に気付く。黒い暗殺者のナイフを掴む右手・右指の使い方にデジャブを覚えたのだ。
(親指と人差し指でナイフを持ち、小指が遊んでいる!これは、ナイフを即座に逆手に持ち変え敵に致命傷を与える軍隊式ナイフ格闘術。コイツは公安警察ルートじゃないのか?)
ナイフを普通の剣のように持つ攻撃内容と、逆手に持つ攻撃内容は全く違う。
剣のように持てば、腕の長さを射程距離内としてブンブン振り回す事が出来る。だが短くて軽いナイフは破壊力を更に減らして、相手の身体表面を傷付けるだけで致命傷には至らない。
もし致命傷を与えるならばナイフを垂直に刺さねばならないのだが、レイピアのような刺突剣のように身体の動きが直線的になってしまう。
だが、ナイフを逆手に持つと、手の小指側に刃がある形となり、パンチの延長線としての攻撃方法もさる事ながら、身体を直線的に動かさずとも、腕の動きだけで相手の身体に垂直に突き立てる事が出来るのだ。
もっと単純に言えば、腕の動作の力関係で順手持ちと逆手持ちの破壊力の差が見えて来る。
剣のように順手で持ったナイフは、アッパーカットと同じで腕を持ち上げる動作。
逆手で持ったナイフは、相手の頭にゲンコツを振り下ろすのと同じ、つまり腕を振り下ろす動作なのだ。
オレルと対峙した黒い暗殺者が、順手でナイフをチラつかせながら、握った右手の小指を遊ばせている事で、この黒い暗殺者がどこでナイフを習った人間か、どこに所属する人間なのかが見えたのだ。
「なるほど面白い、ひどく面白いぞ、これは嬉しい誤算だ。貴様はアムセルンド公国陸軍所属の兵士だったのか。ならば素直には殺さん、地獄を見せてやる」




