19 流れ星のアザ 前編
「下條君、下條君ちょっと!」
とあるオフィスの昼下がり、午後の業務が開始されてからすぐに、若いサラリーマンは管理職から呼び出される。
「東堂課長、何か用でしょうか?」
横二列に並んだオフィス机、その一番奥の窓際に、その二列に並んだ机を真正面から見据える立派な机がある。それが東堂課長と呼ばれた男の机、彼の居場所である。
「下條君、屋敷主任から君の有休取得申請書が回って来たのだが、何だねこれは?」
「いや、有休の取得……申請書なのですが……」
この下條と呼ばれた若者、この営業部の管理職である東堂課長に呼ばれた理由が、非常に雲行きの怪しい理由である事に気付き、徐々に蒼ざめた表情へと変わって行く。
「有休取得理由として記述されている欄に、君の字で書かれているのだが、【年次有休取得奨励、五日の内一日分】と書いているね。これは理由かい?」
「いえ、まあ……それが理由なのですが」
「これは国が有休取得義務化にあたって、十日以上の有休を有する労働者に、最低五日は取得させよと法制化されたもので、君の理由じゃないだろ」
若い下條に対して、この東堂課長と言う人物もそこそこに若い。見る者は三十代半ばくらいの年齢だと判断するほどに若い課長なのだが、その眼が冷たい。──細い眼鏡から覗く切れ長の目が、まるで汚物を見詰めるように冷たいのだ。
「私も鬼じゃない。親族の急病や本人の体調不良。通院のためや、役所に申請手続きのためなど、今まで様々な有休取得申請書にハンコを押して総務に回して来たが、はっきり言うぞ。何だこれ?」
──東堂課長は怒っている。始まるぞ、絶対零度の説教が
オフィス内の空気は凍り付き、ほとんどの職員たちが自分の机に向き合って耳だけを大きくし始めた。
「有休取得は義務で社員が五日取得するのは当然の権利だから、とにかく俺に有休を取らせろと言うのが、君が上げて来た申請書だ。君は会社に喧嘩を売っているのか?」
「い、いや……そう言う事じゃなくて……」
「そう言う事じゃないならば、つまり君は今後労働組合員として労働闘争を始めるから、その第一段階として義務化された有休を無条件で取得させろと?この理由の文面の深刻なダメさ加減に気付いているのかね?」
もはや逃げ道が無いと悟ったのか、下條は瀕死となった弱々しい声で申請書の真相を明かす。──友人に音楽フェスに誘われ休もうと思ったが、フェスに行きたいから休みたいとは言い出せず、稚拙な理由を書いてしまったと
「それこそ、嘘も方便じゃないのかね?営業職にありながら機転も効かないとは、その方が問題じゃないか。いずれにしても私はこの申請書に承認印は押せない。屋敷主任に戻すから、彼と相談してまともな申請書を上げて来なさい!」
──屋敷主任、主任もちょっと来たまえ。当社の有休取得申請は希望日の一週間前と就業規則にあるのに、あなたは明日の有休希望を今日出して来る社員についてどう思う?それについて本人に確認を取らないまま、私のいない昼休みに机に置いておくのはあまりにも失礼だとは思わないかね?
(言ってる事は正しいのだろうが)
(何だろう、あの人に言われるとカチンと来る)
(それに始まると長いのよねえ)
(事務所の空気が寒々しい)
職員たちがウンザリする中、東堂課長の説教は果てしなく続いて行く。
東堂順治、三十四歳
県内有数の巨大建設会社グループの商社に勤務する、営業部二課の課長である。
高校卒業後ビジネス専門学校に通い、首都圏の大手旅行代理店に就職を希望したが、思うように行かなかったのか、県内の商社に努めて営業畑で歳を重ねる。
会社創設以来の最年少課長と言う事実から、彼が優秀なのは疑いの無い事実なのだが、社会人としての華々しい実績と人柄は、イコールにならなかった。
仕事は出来るがイヤなヤツ、同僚や仲間意識に興味を抱かない冷血漢など、彼を表する言葉は様々あれど、総じて人に冷たく喜怒哀楽の少ない人物評が一人歩きを始めたのである。
結婚歴は無し、親しい友人もいないので彼のプライベートは全くと言って謎。ひたすら規則正しい生活を繰り返して、二日酔いも寝不足も無い彼の姿を見れば、浮いた話などまるで無いのだと想像出来る。──そもそも彼の私生活に興味を抱く者自体がいないから
そんな営業課長が、ここ最近荒れている
普段なら見下すような冷たい視線を投げかけながら、一言二言で済ます部下の軽いミスも、最近は周囲の社員がオーバーキルだと感じるほどに徹底的に追い詰めたり、自己責任で解決しろと簡単に突き放したりと、上司らしからぬ一面を見せる。
仕事に関しては一流なので、自分の仕事は毎度毎度完璧に仕上げて来るのだが、部下たちが進めるプロジェクトにも、過剰に口出ししたり逆に見捨てたりと、ムラが激しいのだ。
──何か私生活で荒れる原因があるのだろうか?
社員たちはそう不思議がるも、彼の私生活に興味を持っていた者が全くいなかったため、結局は生前の東堂が何に対してイラついており、その八つ当たりを受けていたのかを知る者はいなかったのである。