双龍の世界 明治期の世界
大分史実と違って参りました
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日本
織田政権が徐々に民主化を図った結果、曲がりなりにも選挙によって選ばれた議員と織田政権と朝廷によって選ばれた勅撰議員による二院政議会による国政運営が始まった。
1858年のことである。
選挙と言っても全国の大小大名・旗本や有力御家人と大店店主に公家(地下人は上位の者のみ)や庄屋(大きい所のみ)が選挙権を与えられたのみである。そう与えられた。だいたい立候補者がほぼ織田政権の人間である。
まだ織田政権は政権を手放す気は無かった。
これが明治の御代の始まりである。
海外には立憲君主制による議会制民主主義に移行すると言った手前、憲法の制定はまずやらなければいけない事だった。
議会に諮って制定するのであるが、皆初めての事。織田政権と朝廷によって何年も前から練られた条文を審議するだけである。議会によって多少の修正はなされたが、概ね原案通りで憲法は成立した。
憲法により、天皇は日本の象徴であり実権は持たないものの日本で最高の権威有る存在とされた。実権を持たないのは、織田政権でもお飾りの存在だったのである。そのままでいてくれた方が都合が良かった。
初代首相は織田では無く、明智となった。明智光弘が初代首相である。まあ出来レースだが。海外に向けてのメッセージである。織田ではありませんよ。織田の政権では無くなりましたよ。まあ海外でも理解はしているだろう。
三権の分立だが、行政・司法は今まで織田政権が行ってきたことであり、そのまま組織人員ごと名前を変えただけである。追々、時代や世相に沿ったものになっていく。
問題は立法で法律の立案に関わったことのある者は織田政権の人間だけだった。なので議会で織田政権に都合のいい法律ばかり立案され通過するのでさすがに問題になった。
立法された中で一番反響が大きかったのが、武士の廃刀令である。要するに「人斬り包丁を持ち歩くな」である。
月代はとうに廃れていた。多くが総髪の時代であった。「手入れ大変なんですよ、それにカミソリ負けが痛い」と。
頭が光っている人たちやすだれの人たちは月代仲間を増やそうと必死であった。
女性の日本髪もあまり目にすることもなくなってきた時代だ。
町中では洋装も目立ち、刀の恐怖から解放されて人々は生き生きとし始めた。
よほどのことが無ければ抜かないとわかっていても、人を簡単に殺すことの出来る武器である。慣れていて気にしていないようであっても恐怖と圧迫感はあった。
明治期は織田政権と言う武家の支配から曲がりなりにも民主主義国家への変換をと言う困難な時代でもあった。
海外とは友好的あるいは悪くても敵対しないことを外交の目標とした。敵対する余裕など無いのであった。領土欲は無いですよ。貿易で努力します。だから仲良くね。と言う姿勢であった。
その中での、日清戦争である。
清は皇太后である西太后が実権を握っておりそれなりに優秀な政治家であったが、現実が見えていないことも時にはあった。
現実が見えていないとは、自分のために使う金には湯水を使うがごとしであった。また、金が無ければ増税をとか、どこかからむしり取れと命ずることも多く、近代国家への道をたどろうとする政治家達の頭を悩ませていた。
その西太后が考えた。むしり取る先である。むしり取る先とは、日本。
清、対日4箇条を日本政府に突きつける。
1.台湾を返還せよ。古来より我々の領土である。台湾の権利は、日本には無く、清にのみ存在する。
2.日本は台湾占拠期間中に得た利益をすべて清に返還すべし。
3.台湾占拠の罰として日本は台湾占拠期間に相当する年数、国家予算の2割を清に支払うべし。
4.日本は、清が上位国家であることを認め、その冊封を受けるべし。
付帯条項として、
台湾より去る時には、台湾より金品の持ち出しは許さぬ。
日本は清の為に、夷を払うことを命ずる。
等と自分たちに都合の良いことだけを列挙していた。
これには日本政府が驚いた。青天の霹靂どころの騒ぎでは無かった。
台湾はすでに日本にとって重要な地になっている。米・砂糖・南方果物の重要な産地であった。南方交易や軍事上の要衝としても、重要な場所である。
台湾人は土着の先住民も含めて、完全に日本人として育ち日本人として過ごしている。その人達をどうする。
清に降り、属国になれ?確かに以前は朝貢貿易をしていたが、それはその時代他に方法が無かった為のことである。双方も納得していた。
絶対に呑めない条件であった。
これに驚いた日本政府は清国政府に確認するも、宮廷内で西太后と取り巻き達だけで決定されたようで清国政府要人はほとんど関与していなかった。清国政府も驚天動地であった。
日本は清に対し要求を取り下げるよう要求。清国政府もこれを了承。我慢強い交渉を始めた。
しかし、西太后周辺の強硬姿勢は変わらず、正式な国璽も押されている物である。西太后達に諫言をしに行った要人達は次々に職を解かれたり、いわれない罪で投獄されたりした。
日清関係は袋小路に押し詰まり始めていた。そんな中、さらなる衝撃が届いた。
4箇条に更に1箇条、琉球を割譲すべし。
これにはあきれるほか無かった。同時に怒りが頂点に達しようとしていた。まだこの時代、腰の物は差していないとしても心は二本差しの武士である。
交渉が行き詰まり、日本が折れるか戦争かという状況になった。折れることは無い。武士は舐められたら終わりだ。
開戦である。
双方とも同盟国はいない。清には李氏朝鮮がいたが戦力的には無いも同然であった。
日本はヨーロッパを頼んだが、ヨーロッパはフランスが安定せずポーランド周辺が不安定になればロシアがこんにちわしてくる状態で、その中で残る国力を植民地の支配に当てており極東の争いに介入する余裕は無かった。
唯一七つの海を支配する国があったが、その国とて植民地の維持とさらなる拡大に国力の多くを注いでおり、介入はしなかった。ただ、最新の技術情報を教えてくれたりした。
最新の武器は各国ともこぞって両国に売りさばいていた。
そんな中、海では日本海軍が新戦術である単縦陣などで有利に事を進め、ついに清国北洋海軍を威海衛に封じ込めることになった。その後の戦いで伊東祐亨提督が丁汝昌提督の遺体を丁寧に扱ったのは軍事史に有名である。
陸でも有利に事を進め、あと少しで宮城と言う所で
西太后が日和った。
日本の勝利である。損害はかなり多く、国力も傾くほどであったがまあ勝てた。多くの国は清のような
巨大国家に極東の島国が勝てるとは思っておらず、援助しておけば清に足がかりを作ることが出来たのにと残念がった。
勝因は、いろいろとある。大きいのが清国海軍の時代遅れと清国陸軍のやる気のなさ。および装備の貧弱さである。
海軍は最新の強力な艦艇をそろえていたにもかかわらず、古い時代遅れの単横陣での突撃を繰り返すばかりであった。これは海外から招いたお雇い提督のせいであり、丁汝昌提督が全軍の指揮を執っていれば勝てなかったと言われている。
陸軍は威海衛を始め山東半島では頑強な戦いをしたが最新の武器弾薬で固めてあるはずの陸軍が、旧式装備が多い上に弾薬も多くなく、いくら清国陸軍が精強と言っても最新兵器と豊富な弾薬で攻める日本陸軍の前に次第にじり貧になっていったのである。
山東半島を攻略して宮城に向かう日本陸軍であったが、抵抗は少なく逆に逃げていく始末だった。
日本軍はそれを不思議がり、島津の釣り野伏せではないかと警戒してみたり、慎重に進軍をした。
宮城まであと少しというところで近衛と対峙した日本軍であるが、近衛は一歩も動かずその内に西太后が降伏をしたのである。
何しろ北の熊が動いていた。ウラジオストックから出撃し、李氏朝鮮を圧倒、更に遼東半島を伺ったのである。これにはいくら大国清であってもたまらなかった。
結局、日本とは講和。ロシアと戦う力はすでに無くロシアとも屈辱に近い形での講和をした。
講和条件は、清は以下のことを認め恒久的な事とするとした。
台湾は日本の領土である。また清国海岸から五〇海里から外の島は、清国の領土では無い。と国際的に宣言すること。
戦時賠償金として、国家予算の5%を今後五〇年間日本に支払うこと。
他細々とした取り決めがなされた。西太后の退位を要求したかったが、其処までの勝ちでは無かったので要求できなかった。
賠償金はもっと多くを要求する声が強く多かったが、現実的に無理であり実現可能な線に納めようとした政府である。清の4箇条よりも余裕の有る要求で大国ぶりたかったのかも知れない。
しかし、それでも声高に高額な賠償金を要求し続ける者達は容赦なく弾圧された。其処に社会的地位など関係なかった。
ロシアは半島を要求した。2つも。朝鮮半島と、遼東半島である。さすがにこれは国際的にも問題にされ、遼東半島は認められなかった。ロシアも粘り、朝鮮半島はロシアになった。
日本政府は困った。朝鮮半島は李氏朝鮮であり清の支配下にあった。また織田政権時代に使節団という名の調査団によりあまり旨みのない地であるとされていた。山は禿げ土地は痩せ人口の半分以上が奴婢と言ういわば奴隷階級であり、更に下の者もいたようである。また技術的にもかなり遅れており、支配しても何も得るものは無いという報告だった。
明治以降も海軍力など無く、戦力として警戒する対象では無かった。せいぜい密猟者や密入国者を警戒監視する程度である、
其処に大国ロシアが突然出現するのである。いくら友好国だと言っても警戒しなければならない。
清国陸軍が急に弱くなった原因であるが、どうも陸軍に供給されるべき武器弾薬の代金を着服した者がいたようである。西太后の取り巻き達のようで、西太后は武器弾薬を購入し供給するように指示していたという。日本陸軍が宮城に着く前に全員姿を消したようである。
清国海軍も同じであった。主力艦にこそ豊富に弾薬や燃料・糧食が供給されたが、それ以外の艦艇には満足に供給されなかったようである。どおりで主力艦以外の攻撃が低調だったわけだ。
戦術運用がだめな上に必要な物資がないのである。勝てなければ何を言われるかわからなかった。
それではやる気も無くなるわけだと、相手の自爆に助けられたようなものであり、もし正しく弾薬類が供給されていれば、負けていたかも知れない。いや、負けていた。清国艦隊に負ければ日本は海上封鎖を受け降伏するしか無かったのである。
明治期の戦争はこれで終わり、後は平穏な日々だった。
織田政権末期に日本と新たな友好通商条約を交わしに来ていた、ロシア代表プチャーチンの乗ったディアナ号が遭難した。当時すでに洋式帆船の技術があった日本は、戸田で新たに建造して友好の証とした。ヘダ号である。
そして明治中期にまた重要な外国船が遭難した。オスマン帝国のエルトゥールル号である。日本人にはエルトール号として知られている。親善訪日使節団乗船の船であった。多数の死者・行方不明者を出したが、生存者は地元で精一杯の救援活動を受けた。この事件は、日本とトルコの友好の始まりとしてよく知られている。
太平洋の状況はと言うと、穏やかであった。
アメリカの船は来ても物資を金で買っていった。かなりドライな関係であった。相手が拳銃をひけらかせば、こちらもひけらかす。そんな状態であった。
それでも仲良くなった乗組員やちょっとした贈り物をした相手から、内戦状態の合衆国の状況が聞けた。北部と南部の争いなのはわかっていたが、意外に複雑なようだった。
こちら(太平洋)に来ている人間は西部諸州の人間がほとんどで、西部は北部勢力だがロッキー山脈から東で起こっている戦争にはあまり関わりたくないようだった。
東海岸の奴らは開発しろ、鯨を捕れ、とかやかましいがその成果をほとんど持って行っちまいやがる。西部で都会と言えるのはロサンゼルスやサンフランシスコでそれ以外は皆貧乏だ。と言った。じゃあ何で北部にと聞いたら、
「知らねえよ。東の奴らが勝手に始めたんだ。俺たちには関係ねえ。西部だって合衆国だ、合衆国の首都が北部だから北部になったんだろ。首都が南部だったら南部連合になっていたかも知れねえ。ただ、金や物は東海岸の奴らが握っていやがるからな、逆らうにも逆らえん」
政府の分析(西回りで入ってくる情報は、多分に中間国のご都合フィルターが掛かっていることも多く、小笠原周辺の情報は貴重だった)では、
北部の方が人・物・金の三大要素において勝っており、更に奴隷解放という一般受けする大義名分を掲げる北部が短期間で勝つだろう。と言う考えであった。
しかし、ここで南部がウルトラCを出した。奴隷解放をするというのである。
しかも、白人と権利同等、教育の実施、人種差別撤廃などを約束した。南部憲章にも盛り込む力の入れようである。同時に、故郷を追われ居留地に押し込まれたインディアンと総称されるアメリカ先住民族にも、故郷への復帰と様々な援助を約束して協力を取り付けた。
背景には、北部に負けたら東海岸の連中に永遠に貢ぐだけの存在になってしまうのでは?と言う危機感があった。また、イギリスとの世界綿市場の戦いで圧迫されており、早急に生産効率の向上を図る必要があった。
北部はこれに対し有効な政治的対策をとれなかった。南部と同じ事を宣言すれば、優良な土地と安くこき使える生産力(解放奴隷)を失ってしまうからだ。
ここで戦線は膠着した。内戦の長期化である。
イギリスからすればかっての植民地であり武力闘争で独立されてしまった国である。現在は工業製品と綿市場のライバルである。支援する訳が無かった。支援するとしたら、南部であろう。ちょうどいい宣言も出たし、綿市場では有利であり支援して問題は無いだろうという考えである。
フランスは支援する余裕など無かった。人が少し勝手に行っただけである。
スペインは中南米で忙しかった。
バチカンは両方とも多くがカトリックでやれることが無かった。
結局10年近くにわたる内戦は北部がやや有利という状態で停戦した。
南部は宣言が無効になりかけたが、北部の一般市民からは評価する声が多く海外列強からも高く評価された。
南部宣言による奴隷解放は行った。ただ残りの項目は、時間を掛けてと言う実際実行するのか怪しい条項に変更された。まず教育からというのは、南部の意地だった。教育によって得られる知識は力だ。後は少しづつ実行することになった。
ここで言う海外は、北部勢力を気に入らない国々や全く無関係の国々である。植民地を持っている国は後で自分たちに降りかかってくるとも知らずに。
他の国々
イギリス
日の沈むことの無い国、七つの海を支配する国、アメリカには逃げられてしまったが、まだまだ世界一の大国である。技術レベルは高い。
フランスのことはカエル喰いである。まあ100年戦争したこともあるしね。
フランス
政治的に安定しない。ほんとどこに向かうのか。技術レベルは高い。
イギリスとドイツが嫌い。だって挟まれている物。ドイツとは領土争いもあり、仲は悪い。
イギリスのことはザリガニ野郎である。まあ100年戦争したこともあるしね。
スペイン
斜陽の帝国、後が無い。中南米にも次々と逃げられている。技術レベルは一部を除いて全体には低い。
イギリスは嫌い。無敵艦隊が、トラファルガーが。
ドイツ帝国
国内の安定に必死である。ポーランドがとても気になる。その向こうにロシアがいるから。
技術レベルは高い。
フランスは嫌い。何かあるとジャガイモ野郎と言われ田舎者扱いされる。ジャガイモ様に謝れ。
中部ヨーロッパはオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立し、表面上は安定した。
ハプスブルク家の天下である。ただ火種はつきない。技術レベルは高い。
ロシア
ついに太平洋への出口を確保した。憧れの不凍港である。後は鉄道を引くだけ。だが半島をどうする気なのかわからない。技術レベルは低い。
ベルギー
その内吹き飛ぶ。
アフリカの植民地経営で大変な残虐さを発揮した。
オランダ
もう植民地は無い。風車を眺めて暮らす農業国になってしまった。
戦国時代より西洋と貿易をしていました。
鎖国はしていません。
結果
攘夷運動はありません。あっても小さい。
幕末の生麦事件やらは発生しません。
一番重要なこと。
坂本龍馬が活躍しません。
新撰組は結成もされません。彼らは武蔵野の大地で畑仕事しているでしょう。
五稜郭はありません。作られなかったから。
西郷隆盛は畳の上で寿命で無くなりました。
この世界線では南北戦争終結は1871年です。
次は今まで登場した船ですたいした数では無いです。
船の後は、明治の後です