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落日

 ――煙が目にしみる。呼吸が乱れる。落ちつけ、焦るな。

 セルヴィアは長剣を構え、追いすがった老爺に切っ先をさだめた。

「ティオ様ごとわしを斬るおつもりですかな」

「私の弟を、貴様のような得体の知れないものに渡すものか。返せ」

 言い放ったセルヴィアの後ろからジャクリーンが飛びだした。左手でかたく握った槍を老爺の足に繰りだした。老爺は迫る穂先をかわし、ティオを刃からかばって背を向けた。身を挺してティオを守っている、そうとしか見えない老爺の姿に、セルヴィアとジャクリーンは戸惑った。

「ここは直に崩れますぞ。ジャクリーン、早うセルヴィア様をお連れせい」

 老爺の厳しい口調に、思わずジャクリーンは背筋をのばした。

「ティオ様のことはご案じなさるな。この方だけは傷のひとつもつけてはならないと仰せつかっておる……ティオ様を唯一無二の王族とし、その代を持って王族制度を廃することが、どうやらガヴォ大臣閣下のお望みゆえ」

 この状況では何もかもを疑ってしかりだが、なぜか老爺に一言も返せない。セルヴィアもジャクリーンも、老爺が嘘を言っているようには思えなかった。

「必ずティオ様はご無事で白き司にお連れいたしましょうぞ。ですからセルヴィア様、どうかこの場を離れ、命を大切になされ。妹君の後を追われるのがよろしいでしょう。オルガ様とアリアテ様は、馬を御して山を下っていかれたと聞き及んでおります」

 これもまた、信用ならない嘘であると疑いたくなるのが人間の本性のはずだが、セルヴィアは素直に聞きいれていた。老爺の目は一切の偽りを感じさせず、彼に抱かれているティオは泣き止んで眠っていた。

 すでに起こってしまったことはあまりにも大きいが、彼らがこれ以上の流血を望んでいないことは真実に思われた。何を確証に、と問われれば言葉につまるが、信ずるに値するとセルヴィアは頷いた。この老爺には、信ずるに値するだけの覚悟が見える。

「本当に、ティオを守ってくれるのか」

「約束いたしましょう。この爺亡きあととなっても、メンテス様にお仕えする【精兵連】が必ず命にかえて」

 老爺はメンテスの名をいやに強く呼んで、深く頭をさげた。その背を見送りながらセルヴィアは立ち尽くした。

(不思議だ。あの老爺もまた、この状況をひどく憂えているようだった)

 老爺はゆっくりと階段を上がり、見えなくなった。ティオは泣いていない。

「よろしいのですか」

 困惑しきったジャクリーンに頷き、セルヴィアは来た道を引き返した。

「今となってはすべてが起きてしまったこと。どう足掻いても良くなりはしない。ならば、これ以上悪くならないように行動するしかないだろう? 今は互いの命が守られることが第一だ。オルガたちも気がかりだ、行こう」

 煮え切らない思いで、ジャクリーンはセルヴィアを追いながら、何度も階段のほうを振り返った。

(確かに、あの老人からはいっさいの害意を感じなかったが……本当に信じて良いものだろうか。あのメンテス・ガヴォの息のかかった者を)

 やはり、と思いとどまったジャクリーンは、階段に踵を返そうとした。途端に床が揺れ、石積みがたわんですき間が空きはじめる。

「ジャクリーン!」

 セルヴィアの叫びを背に聞いて、ジャクリーンは首をそちらに向けた。槍を握った左手でなんとか穴のふちにぶら下がり、靴底を焦がすような熱気に顔をしかめる。まるで地獄が口を開けているようだった。

「大丈夫です、一人で上がれます。すぐ追いますから、崩れる前にお早く」

 言いながらジャクリーンは歯を食いしばった。彼女の右腕はぴくりとも動かない。先ほど、玉座の間で階下に落ちようとしたセルヴィアを掴まえたとき、脱臼したままになっていた。当然、自力で這い上がることは不可能だった。

 ふちの反対側には、まだセルヴィアの姿があった。

「何をなさっているのです! 早くお行きなさい!」

 怒鳴った瞬間、ジャクリーンは落ちた。冷静だった彼女は絶望しながら火の中に落ちて行く。その目に、飛びこんでくるセルヴィアが映ったからだ。

「ばかな!」

 ジャクリーンは槍を投げ捨て、左腕をちぎれんばかりにのばした。掴まえたセルヴィアを、足も使って全身で抱きしめ、そのまま背中から石造りの床に叩きつけられた。

 ぐっ、と呻きを飲みこんで、ジャクリーンは炎に焼かれながら退路を探った。わずかに風が通っている。見れば、突き当りに窓があり、まだ燃えていない棚があった。

 ――あれだ。あそこに。

「ジャクリーン」

 セルヴィアは震えながら起き上がった。助けようとした者に、逆に助けられてしまって茫然としていた。石畳に強打されたジャクリーンの体はひどく軋んだが、彼女は気力で身を起こした。

「姿勢を低く、口に袖を当てて。あの窓まで行きましょう」

 ジャクリーンの目は生命力に輝いていた。セルヴィアはひとまずほっと安堵して、燃え盛る炎のなかを這い進んだ。

 棚まで辿りつくと、ジャクリーンは実に済まなそうに言った。

「情けないですが、実は右腕が利かないのです。先に行って引き上げていただけませんか」

「わかった」

 セルヴィアは棚に足をかけ、軽々と窓にたどり着いた。背に負った長剣を窓の外へ投げ落とし、ジャクリーンに手をのべる。

「早く」

 頷いたジャクリーンは左手でセルヴィアの手をとり、棚の上によじのぼった。

「では、次は下におりて私を受け止めてくださいますか」

 セルヴィアは窓から身を乗り出した。外気が冷たく頬を撫でる。外はおそろしく静かで薄暗かった。窓枠に手をかけて飛び下りると、芝生はほんのり湿っていた。窓を――ジャクリーンを仰いで、セルヴィアは両腕を広げた。

「大丈夫だ、受け止めるよ」

「……ありがとうございます。申し訳ありません、セルヴィア様」

 ジャクリーンは窓枠にもたれたまま、なかなか降りてこない。セルヴィアは焦燥感にかられて彼女を促した。火の手が迫っている。

「遠慮している場合じゃないだろう、早くおいで」

 しかし、ジャクリーンは首を横に振った。

「……申し訳、ありません。わたしは、もう、いけません」

 やっと喋っているジャクリーンの口から、どっと赤いものが溢れた。

「ジャクリーン!」

「はやく、いって……ここで、みてます……かならず、いきて」

 ――生きてください。

 言い終らないうちに、ジャクリーンはぐったりとうなだれた。セルヴィアはその体を引き下ろしてやろうとしたが、彼女の体は吸いこまれるように燃え盛る炎の中へ落ちていった。

「私ばかりが生き残れというのか! 助けられてばかりだ、私を助けたから」

 叫び、セルヴィアは長剣を支えに窓枠に手をのばす。しかし、駆けあがろうとする彼を引き戻す腕があった。

「死ぬぞ!」

 振り返った顔には見覚えがあった。庭師だ。たしか、海の向こうにあるギドロイ大砂漠から流れてきた男で、セルヴィアの印象に深かった。

「放してくれ、せめて彼女の……」

「骸を助けるか? ……恩人の死を無駄にしたくなければ、生かしてもらった命を大切にしろ!」

 しかし、尚もセルヴィアが抗うので、男は「お許しを」と怒鳴るや手刀を放った。気絶したセルヴィアを背負い、彼の長剣を背負うと、男は城の背面にのびる昔の山道を駆け下りた。

 木々の枝を(なた)で振り払いながら、男は必死に山を下りる。すねに細かい傷を作りながら、一度だけ王弟城を振り返った。

 男は何者かによって眠らされ、戦争が始まったことすら知らなかった。目が覚めると、腹部に大きな傷痕のある少年兵が立っていて、何が起きたか聞かされた。にわかには信じ難かった。ふらつく足取りで少年兵のあとを追いかけたが、少年兵は姿をくらまし、代わりにセルヴィアを見つけた。

 ――誰の思惑かは知らないが、セルヴィアを助けるのは自分の役目だと理解した。そこにどんな悪意が潜んでいようと、人助けは人助けだ。

「助けたからには、必ず助けきる。それが俺の流儀だ」

 背後で爆発が起こり、熱風が木立のあいだを吹き抜けた。男はさらに足を速めた。



………………………………………………………………。

 時はややさかのぼる。

 国王城から青い火があふれ出したと同刻、ラティオセルムでは人知れず、世界を震撼させる大事が起こっていた。


 オルフェス率いる竜伐隊は、正規の航路ではなかったためレピオレン湖の潮に流されて、ラティオセルム大陸のかなり南寄りに到達した。そこから馬を駆ってカラデュラを目指す道中、彼らは妙なものとすれ違った。

 ――赤ん坊?

 オルフェスは思わず馬脚を止めた。他の隊士もそれに倣い、尾を引いて遠ざかる赤ん坊の泣き声を聞いた。

 ――見間違いでなければ、青い毛の獣族が一頭、泣きわめく人間の赤ん坊を抱えて南へ疾走していった。

 ただ事ではない光景に唖然としていると、色鮮やかなリクヨウムが飛来し、竜伐隊の隊旗にしがみついて鳴き喚いた。

「悪魔来たりて賢者を弑し、盟約の赤子を連れ去った! 悪魔来たりて賢者を弑し、盟約の赤子を連れ去った!」

 それは、壮年の男の声を真似た断末魔の叫びだった。

「私はあちらを追う。念の為に一人はこの先にある五賢者の邸宅に向かってくれ、残りは予定通りカラデュラへ!」

 隊士たちは戸惑いながらも応じた。オルフェスは馬の頭をめぐらせ、すれ違った獣を追って疾走した。


 賢者の邸宅を訪れた隊士は、中を確認するまでもないと顔をしかめた。質素な平屋の扉は壊され、床一面に赤いものが広がっていた。

 彼はこみ上げるものを飲みこんで中へ入り、賢者の骸に己の外套をかけてやると、飛燕を探した。血しぶきの飛んだ書棚の中から羊皮紙を引きだして、わかっていることだけをしたためた。

『悪魔来たりて賢者を弑し、盟約の赤子を連れ去った』

 そして異例ながら、もう一枚羊皮紙を破って書き添えた。

『オルフェス一騎、獣を追い南へ。王城の仔細は後ほど』

 二羽の飛燕を曇り空に放ち、隊士は長いため息をついた。

「五賢者なんて神話の住人かと思っていたが、こんな風に死ぬものなのか」

 ――天地開闢の折、世に、五つの賢者定めらるる。

   彼の地の賢者、ついえぬ知識を得て、世界の歴史を記し録す。

   灯火の地の賢者、大地を支え、生きとし生けるものらを守護す。

   ゲッテルメーデルの賢者、あらゆる封印の要となりて契約を果たす。

   セスナの賢者、翼を持ちて、全てのものに等しく死を与う。

   吾の地の賢者、彷徨の宿命に沿い、世界をうつろい往く。

   五賢者、何にも染まらぬ心を以って世の移り変わるさまを見届けん。

 神話には、そうある。

 ここは彼の地、ラティオセルム。世界史を編纂し続けた賢者の記録が途絶え、濃い錆色に歴史は沈んでいた。


 オルフェスは獣を追って南端の広い森に入った。太い杉の幹が視界を遮る。

 異変はすぐにその場を満たした。地響きとともに獣のけたたましい声が響き、巨鳥や熊や野生馬などがいっせいに森の深部から逃げ出してきた。野生の獣の悲鳴に、勇敢な騎馬も思わずいなないた。

「グラナダ、お前も行ってくれ」

 とっさに背を降り、オルフェスは優しくグラナダの首を叩いた。グラナダはオルフェスに額をおしつけると、一度振り返り、それから疾走していった。

 オルフェスは一人、ひしひしと圧を持ってぶつかってくる魔素の中を進んだ。下手をすれば息もつけない。そんな中、オルフェスに追いすがってくる無防備な足音を聞いた。

「戻れオルフェス!」

 どこかで聞いた声の主が、オルフェスの腕を強く引いた。引かれるままに振り向くとそこには、黒髪を乱したクワトロ・エンデが鬼の形相で立っていた。

「なぜこっ」

 あとは掠れて潰れて聞き取れない音になった。喉が魔素で焼け、ひゅうっと風鳴りのような音を出して、オルフェスはその場に膝をついた。

 クワトロは顔をしかめ、右手をオルフェスの口におしつけた。淡い緑光が広がり、オルフェスの肺は古い空気をおし出して、新しい空気にふくらんだ。

「なぜ」

「もう喋るな。飛燕を受けて来た。その獣はお前の手には負えない」

 言って、クワトロは右手を放して空へ掲げた。森の空気が一瞬で凍りついた。クワトロから先の景色は、半透明にぼやけてよく見えない。

「急ぎこの場を離れよ、長くは持たん」

 オルフェスの知るクワトロとは、口調も面差しも違っていた。空気は依りきれそうなほど、ぴんと張りつめていた。

 自分は足手まといになる。そう判断したオルフェスは立ち上がろうとしたが、膝に力が入らなかった。

「あっ」

 戸惑っているうちに突然、視界が一点の光もない暗闇におおわれた。オルフェスは小さく驚嘆して周囲を見回す。太陽が隠された世界には星も月も輝かない。色のない闇が果てなく広がり、凝らそうとする目が熱い。

「何をぐずぐずして――」

 振り返りったクワトロは絶句した。

 オルフェスは青ざめた顔をクワトロの方に向けていた。だが視線は合わない。彼の眼窩からは血がしたたり落ちる。魔素が、若き輝く双眸をも焼いたのだ。

「動けないのならそこで待っていろ。死んだ方がましだとぬかしても、死なせはしない」

 き、と結界の奥を睨んでクワトロは言った。

「ルワーン、アルヴィスに触れることは罷り成らぬ! 世の理を我欲がために曲げるは大罪ぞ!」

 忠告を嘲るがごとく、内側からの小さな抵抗を感じて、クワトロは顔を歪めた。

(不快極まりない)

 ルワーンの腕が赤ん坊を引き寄せ、肌のにおいを嗅ぎ、柔らかい胸に向かって大口を開ける――そんな恐ろしい映像が脳裡によぎった。

「貴様ごときにその力が御しきれると思うな! 体ごと魂まで消し飛ぶだけだ! ……底無しの飢餓で禁忌をも食らうつもりか」

 音は届こうとも言葉など届きはしない。

 クワトロは法衣を脱ぎ捨て、足元から生じる黒い靄に包まれて肉体を肥大させた。組み変わり、生え変わりして体じゅうの細胞がうねる。一瞬の後に、そこには硬質な鱗に身を包んだ、美しい痩身の黒龍が立っていた。

『神をも畏れぬ哀れな獣、もはや赦されぬ』

 黒龍は吼え、喉元に灼熱を踊らせたが、氾濫する魔力のうねりを感じて口を閉ざした。

 ――手遅れだ。

 左手でオルフェスを掴み、右手で防護の結界を張る。その守備は、魔法も打撃も受けつけない伝説の鉱物、純オリハルコンに匹敵する。しかし、幾重にも張った堅硬な結界は、内側からの魔素の奔流によって破られつつあった。

 ――(あるじ)には敵わぬ。

 黒龍は苦く笑い、結界の内部の潮流を変え、すべての衝撃が自らの立つ一点に向くよう仕向けた。

 アルヴィス、と呼ばれる赤ん坊の肉をたったひと口かじり取ったルワーンは、歓喜に吠えた。その雄叫びは大気を震わせ、聞く者の魂を容赦なく揺さぶった。

 これを聞いたオルフェスは戦慄した。若き英傑の心は初めて挫かれた。自分を包む何か、鱗のように硬質な表面にすがり、光を失ったオルフェスは怯えた子どものように震え続けた。

 雄叫びの残響とともに、凄まじい魔素の奔流が結界を破って溢れ出た。黒龍は右半身を大きく喰らわれながら、身を挺して暴流を鎮めた。半身を失った黒龍はあふれ出した魔素を再び森へ封じ、責を果たすと力尽きた。

 大気に静寂が戻ってきた。

 遅れて、単身飛び出していったクワトロを追い、白魔導師の一団が到着した。ここまで早く追いつけたのは、ゼイーダたち水魔導師の協力があったからだ。

「クワトロ様!」

 白魔導師たちは泣き叫びながら、人の姿で横たわるクワトロに最善の治療を施した。オルフェスにも緑光をあててくれたが、彼らの魔素に焼かれた傷痕は癒えなかった。血は止まり、組織は繋がり、クワトロは虫の息で一命を取り留めたが、彼らの失われた体が戻ってくることはなかった。

 ゼイーダと水魔導師たちが、森の奥から一頭の銀狼族と赤ん坊とを抱えて戻ってきた。

「めいやくの、こ……」

 意識を取り戻したクワトロは、部下たちにすべきことを命じた。

 まず、魔力を放出しきってただの銀狼族になったルワーンの力を封じ、魂に結界をかけて、ラティオセルム中央の都市ロワンジェルスに更迭した。ロワンジェルスの市長はクワトロの副官が兼任しており、常にルワーンの動向に目を光らせることができるからだ。

 次いで、傷ついた赤ん坊を癒した。クワトロ自ら封印をかけ直し、これをサルベジアにある別の賢者の邸宅に預けるよう手配した。

 そして最後にラティオセルムの賢者の家を訪ね、賢者を裏庭に埋葬して待機していた竜伐隊士をねぎらい、失明したオルフェスを引き渡した。

 ゼイーダと白魔導師たちはクワトロを連れてゲッテルメーデルに戻り、白き司の一角に籠った。ゼイーダら水魔導師の軍勢と白魔導師たちは、クワトロの正体を知らない。ただ、その驚異的な生命力に感謝しながら治療を続け、祈り続けた。

 こうして、大事はラティオセルムの南端、後にルワーンの森と呼ばれる狭い場所だけで終結するに至った。クワトロとルワーン、オルフェス、そしてアルヴィスのほかには、事実を知る者はいない。



………………………………………………………………。

 小枝に切り刻まれながら山を下り、馬は骨の飛び出した足を繰って野を駆ける。その背にしがみつくオルガの腕や足も傷だらけだったが、かばわれたアリアテはほとんど無傷だった。

「ねえちゃま」

 息を荒げて手綱を握りしめるオルガを、アリアテは心配そうに見上げた。

「大丈夫よ……兵士長さんがくれた呪符が、おまじないがあるわ」

 オルガは息を吐きながら笑い、顔を上げた。どちらへ行ったものか迷う。なるべくカラデュラから離れた土地に行きたいが、紙面上の地理しかわからないうえ、馬の足が持つかもわからなかった。

 迷っていると、突然馬が頭を巡らせ、北に向かって走り始めた。

「サザンカ、そちらに人家があるの?」

 オルガは愛馬の冷たく硬い首を撫でた。サザンカは何かに焦っている。追っ手かと背後を振り向けば、草原の向こうに砂塵の壁が築かれていた。

 ――何かが来る。

 オルガは戦慄した。その巨大な砂塵よりも遠くから、魂まで凍らせるような恐ろしいものが溢れようとしていると直感した。

「サザンカ」

 馬は怯えていた。背後に迫るものに追いつかれまいと、折れた脚で懸命に――懸ける命がまだあればこそ――草地を蹴った。まるでゼンマイを巻きすぎて壊れた玩具のように滅茶苦茶な走り方だった。とうとうオルガとアリアテは振り落とされ、サザンカはドオ、と重い音をたてて倒れた。

「サザンカ!」

 オルガはアリアテを引き寄せ、サザンカに這い寄った。腐臭のする頭を抱いてオルガは泣いた。

「ごめんなさい。苦しかったでしょうに、なお苦しめてごめんなさい……ありがとうサザンカ」

 濁った目が主を見とめて細められ、サザンカは「このくらい、何ということもない」と鼻を鳴らして眠りについた。オルガはぼろ切れになったドレスを裂き、サザンカの折れた脚に巻いてやった。

 草原のただ中に立って、オルガは遠く南方を見つめた。砂塵の壁は刻一刻と近づいている。

「アリアテ、走って」

 サザンカの頭を撫でているアリアテの手を引き、オルガは北に足を向けた。ところが、アリアテは頑として動かない。

「どうしたの。どこか痛いの?」

 焦るオルガに、アリアテは力いっぱい首を振った。

「ねえちゃまは、はしっちゃだめ」

 オルガは困り果てた。アリアテは感受性が鋭いのか、時おり相手の不調を言い当てることがあった。相手の具合が悪ければ悪いほど、アリアテの態度は頑なになる。

「今はいいの。今は無理をしてでも生きなければ」

 兄の思いや、父や母のぶんまで生きなければ。オルガはアリアテを抱き上げようとしたが、脇に手をいれてもするりと逃げてしまう。

「アリアテ、お願い」

 逃げるアリアテを追ったオルガの視線が、こちらへ疾走してくる一頭の馬影をとらえた。遠目に見ても手綱と鞍がついているのがわかる、見事な意匠の装具だった。

「止まって! お願い、乗せて」

 馬はオルガに気づいたのか、徐々に減速し、彼女の目の前で頭を垂れた。だがそれは、オルガに向けられたものではなく、サザンカに対する敬礼のように感じられた。

 アリアテとオルガは白馬の背に跨り、風のように滑る脚で、ラティオセルム大陸北端の漁村にたどりついた。

 村の名すらない小さな集落には、いまだカラデュラで起こった何事も伝わっていない。しかし今日を生きることだけに目を向ける、実直でおおらかな漁民たちは、傷ついた姉妹を何も言わずに匿った。



………………………………………………………………。

 主塔の寝室。

 昏睡状態のギオと、すでに息のないカルラの間へティオを寝かせてやり、老爺はおっとりと主に歩み寄った。

「これで、爺の役目は終わりですかの」

 淋しそうに言った老爺の体に衝撃が走った。老爺は困惑した表情で膝をつき、ぱくぱくと口を動かしたが、赤黒い血がしたたるばかりで言葉にならない。

 メンテスは老爺を貫いた剣を端に放ってから、気がついたように声を発した。

「爺」

 紫の絨毯を黒く染め上げていく老爺に目を落とし、メンテスは傍らに膝をついて抱き起した。

「御召し物が……汚れますよ」

 老爺は顔をわずかに動かし、横目でメンテスを見た。白く濁ったその目が見えているのなら、メンテスがどのような顔をしていたかがわかるだろう。

「爺は、坊ちゃまが自慢でございました」

 老爺はメンテスの腕のなかで息をひきとった。何かがメンテスの心の奥底で音を立てて割れた。

 メンテスは老爺の体を床に放り出し、剣を拾って天蓋つきのベッドに近づいた。ギオの喉元につきつけた切っ先はしかし、筋ほどの傷をつけることもなく離され、剣は再び床に放られた。

「思い上がるなよ」

 メンテスはわななく腕でギオを助け起こし、もう片腕でティオを抱くと、ゆらゆらと漂うような足取りで渡り廊下を進んだ。尖塔から中庭に出、涼やかな音を立てる噴水の前に立つ。

 空はいよいよ暗く、夜になる前に一雨来そうな風が吹いていた。

 不意にティオが泣きだした。しかし、メンテスには思うようにあやしてやることができない。するとギオが目を開け、ぐずる我が子を腕に抱きとめた。

「ジーン」

 メンテスはようやく色のついた顔をして、噴水の縁にもたれて息を吐いた。

 ギオは王弟城を振り仰いだ。主塔は轟々と音を立てる炎に包まれ、ガラスは割れ、金細工は歪み、何もかもが黒く焼け焦げていく。漂う煙からは、胸をつまらせるようなにおいがした。

 郷愁に満ちたギオの顔を見れば、洗脳が解けていることがわかった。傀儡の毒に打ち勝てる人間がいようとは。メンテスにとっては嬉しい誤算だった。

「とても悪い夢を見ていたようだ。君は、まだその夢を見続けなければならないのか」

 ギオはメンテスを心底憂うように顔を歪めた。

「夢が覚めるよう祈っているよ、カルラとともに」

 ギオの体から力が抜けていくのを悟り、メンテスはギオを支え、ティオを抱きとめた。たとえ心の呪縛は解かれても、体を蝕む毒が消えたわけではない。

 ――もはや間に合わないが、解毒を。そうは思っても、何もかもが意のままにならなかった。せめて、ギオの体を支えてやる。ギオは苦笑し、メンテスの肩にまわした腕を上げ、頬に触れた。

「私はお前を独りにする。すまない、多くを与えてもらうばかりで、けっきょく何もしてやれなかった」

「それは違う。約束を違えたのは私の方だ」

 無理やりに口を動かしたからか、涙が止まらないからか、メンテスの声は震えていた。

「ティオを頼む。子どもたちを」

 ギオは目を開けていられなくなり、眠るようにメンテスの腕へ体重を預けた。力の抜けていくギオの腕からティオを抱きとると、メンテスはその場に座りこんだ。ギオを支えながら、泣きじゃくるティオをあやしながら、彼は古い歌をうたった。


 ――花よ いとし子 風に薫らば

   清き雨露 葉にもこぼれじ

   我は まどろみ 夢を与うは

   安く眠れる子らの守り唄


 歌い終える頃、静かに、眠るようにギオの鼓動は止まった。

「おやすみ、ジーン」

 ギオの骸を横たえ、メンテスは燃え落ちる城を仰ぎ見た。

 ティオを抱いて立ち上がった彼のひび割れた何かは、完全に崩れ去って虚無と化していた。



 ヴェイサレドは、血の海と亡骸の山があるばかりの戦場に放り出された。一方的に蹂躙された戦場と、瓦礫と化した両の王城とを見渡して言葉をつまらせた。ここまで酷い光景は見たこともなかった。

 いまだ、赤々と火の燃える王弟城の上に、ぽつぽつと雨粒が振り始めた。

 中庭に、ティオを抱えるメンテス・ガヴォの姿を見たとき、ヴェイサレドは芯から凍りつくような思いがした。メンテスはヴェイサレドを見とめると、場に不釣り合いな笑顔を浮かべた。

「お前を待ちわびていたぞ」

 妙に明るい声をかけられたヴェイサレドは、怒りとも絶望ともつかない感情を持て余した。

「本当に、あなたがした事か」

 できれば信じたくなかったが、儚い願いが通るはずもない。不敵に笑うメンテスに、ヴェイサレドはそれ以上何も言うことができなかった。

「メンテス様、万事整いました」

 ドーイは感情のこもらない声で言った。

「死体は後で片づけさせましょう。カルラ様とギオ様はいかがなさいますか」

「区別する必要はない、同じ骸だ」

 笑うメンテスの顔を見つめるドーイの目、それを見て、ヴェイサレドは眉間にしわを寄せた。表情は変わらないが、ドーイはひどく冷めて、不快そうにしているのがわかった。

「承知しました」

 答えて、ドーイはちらりとヴェイサレドを見た。ヴェイサレドはわずかに頷き、王弟夫妻の骸は、自分が責任をもって弔うと約束した。

「ヴェイサレド・シオ。今日からお前が私の副官だ」

 有無を言わせず宣言し、ティオをヴェイサレドに押しつけ、メンテスは愉快そうに大笑した。

「大詰めだ。舞台を用意しろ」


 ギオとカルラは寄り添うように毛布でくるまれ、ヴェイサレドの手によって、深夜のうちにゲッテルメーデルに運ばれた。白き司の裏手にある墓地で、メンテスの配下と名乗る獣族の少女と大男が待っていた。

「あの胡散臭い風魔導師から聞いてるわ」

 少女が指さす先には麻袋が立っていて、ひらひらとヴェイサレドに手を振っていた。ドーイの分身であるらしかった。

「私はアルメニア、こっちはヴィッソ。穴は掘っておいた。はあん、これがラティオセルムの王さまとお妃さまね……頭のほう、しっかり支えて」

 アルメニアはヴェイサレドを手伝い、ギオとカルラを墓穴のなかに横たえた。棺こそないが、下には大きな毛布が敷かれていた。包んできた毛布ごと夫妻を大きな毛布で包み、ヴィッソと三人がかりで土をかけ、真新しい墓石を置いた。

「さすがに銘は間に合わないけど、石屋から上等なのを買ったのよ。王さまとお妃さまだっていうし」

「……実権こそなかったが、偉大な賢君だった。惜しい方々を亡くした」

 土のついた手をぱんぱんと払い、アルメニアはヴェイサレドの手に触れた。血管が浮き出るほどかたく握りしめられた手を撫でる。

「戦士の自覚が足りないわね。拳を痛めたら何も守れなくなるわよ」

 ヴェイサレドは顔を上げ、淋しそうに笑ってアルメニアに礼を言った。それから麻袋に向き直った。

「聞こえているだろう、ドーイ・イヴェロイ。あの男は呪われている。あの男を止めたければ、主として契約を交わした者を探せ……手にかけられたギオ様、カルラ様、そして国王陛下もまたあの男の主ではなかった」

 掘り返されて湿った地面に膝をつき、ヴェイサレドは祈りを捧げながら続けた。

「主の手によって殺されない限り、あの男は死なん」



 竜伐隊の三騎はカラデュラに到達した。疲弊した馬の足で、降りしきる雨の夜、ようやく城下町の門をくぐった。

 方々から戦いのにおいはするものの、町は平穏無事の様子だった。手近な民家を訪ねてみれば、城のほうから囚人たちが脱走して襲ってきたが、近衛兵団が救ってくれたのだという。

「家も何件か燃えたし、人も死んだ。だが大きな被害はない。あんたら、向こうのお(ゲッテルメーデル)の兵隊さんかね? 泊まるところはあるのかい」

「ありがとう、お構いなく。騎馬近衛兵団はどちらへ向かっただろうか」

「さあねえ、ただ、ヴァルキリー様は大臣閣下の命令だとか言っていたな」

 竜伐隊士らは礼をいって民家を後にした。

「内乱のことは城下町にすら伝わっていないのか」

「自作自演に民を巻きこんで、大臣はすっかり英雄だな」

「待て、大臣が首謀者だという確証はない。それを確かめに来たんだろう」

 すでに静まり返っている山城のほうを見上げ、彼らは馬を急がせた。

 曲がりくねった長い山道をのぼりきると、城門は閉ざされていた。一人が鎧の甲で門を叩くと、風の逆巻く音がして分厚い木の扉が開かれた。

「我らは」

 名乗ろうとした隊士は思わず口をつぐんだ。雨に打たれ、闇に呑まれた両脇の城、しんと静まり返った大広場、崩れた石積みに散乱する武器。しかし、どこにも屍が見えない異常な戦場跡だった。

 拭いきれない血のにおいだけがひしめいている。

 誰も一歩を踏み出せない、立ち入れないその戦場跡のほうから、一人の文官が歩み寄ってきた。

「竜伐隊ですね。ここにはもはや何も残っていない。先ほど、ガヴォ大臣閣下は唯一存命されたティオ様を、白き司へと護送するため発ちました。あなた方も引き返されるといいでしょう。この場で何が起きたかは、不肖の元大臣副官である私が道中ご説明申し上げる」



………………………………………………………………。

 夜半、メンテス・ガヴォがティオを伴って白き司の門をくぐった。白き司は上を下への騒乱に呑まれた。メンテスを縄打とうとした者は多数あったが、ティオが掌中にあり、また元老院がメンテスの身を預かると申し出たため、静観するしかなかった。

 遅れて竜伐隊がそろって帰還し、カラデュラへ赴いた者たちが、大臣副官から伝えられた仔細を語った。

「加えてカラデュラの民は、大臣の部下に命を救われたと申しております」

「それではまるで、この男が救国の英雄のようではないか」

 将軍の一人がメンテスを指さして怒鳴った。

「しかし、ゲッテルメーデルの住民も同じことを申しております」

 応えたのは、肩を支えられたオルフェスだった。

「この目は見えずとも、民の声は聞こえる。彼らはメンテス・ガヴォに救われたと信じている。王都カラデュラとゲッテルメーデルの二大都市で起こったことは瞬く間に全土に知れ渡るでしょう。ここでメンテスを討てば、我々は民の信用を失い、国政は立ち行かなくなる」

「では全国民が人質にとられたというわけか。なるほどな」

 将軍は吐き捨て、アバデを見据えた。

「アバデ殿の仰ったとおりになった。そもそも、出自もはっきりしないこの男が仕官したのは、アバデ殿が保証人を買って出たからだと聞き及ぶが」

「その責を、わしに担えと申すのじゃな。よかろうよかろう」

 アバデは場違いに柔和な笑みをたたえ、豊かな顎髭を撫でた。

「責は負う。だからこそ退くわけにはいかぬ。我ら元老院が目を光らせておくでな、未来ある若人や重責あるお主らには任せぬぞ。じゃからして、これからも職務を全うすることに専念してもらおう」

 全責任を負う、と言いきって、アバデはメンテスを見つめた。感情のうかがえない表情をしばし眺めて、老爺は落胆して首を振った。

「私は今後も大臣職を続け、ティオ様の後見人を勤めるということで、話はまとまったな」

 メンテスは涼しい顔で立ち上がり、槍の穂先を向ける騎士を一瞥した。

「お前たちのうち、『海の花』の摘み方を心得る者が一人でもいるか?」

 微笑を向けられた騎士はぞっとして槍を取り落とした。底知れない悪意のある笑みを浮かべ、メンテスはぐずるティオをあやした。

「因果なものよ、母君と同じ病とは。十を過ぎる頃には発症する、そうだな? アバデ」

 水を向けられたアバデは、官吏たちの視線を一身に浴びながら頷いた。

「これから先、十年経とうと、この男をおいて海の花を手に入れること叶う者は現れぬ。この男が親切に教えてくれでもせん限りは」

 茫然とする官吏、兵士たちの後ろで、メンテスは快活に大笑いした。視線は刺となり、斜めにメンテスを貫く。あからさまな殺意を向けられながら、メンテスは満足そうに頷いた。

「感心した。絶望して悪漢に媚びへつらう者はいないようだ。その心意気に免じて、決して悪いようにはしないと約束しよう」

「お前は壊れている! 自分が何をしたか、解っているのか」

 誰かが叫ぶと、メンテスは目を細めて答えた。

「王政を廃し、民主政を敷く。新しい時代を築くための尊い犠牲だ」



 一週間後、メンテス・ガヴォは白き司の前に立った。広場にはゲッテルメーデルや周辺の民が詰めかけ、固唾を飲んで待っていた。内乱の仔細を語るメンテスの声は、遠くラティオセルムのカラデュラにも届けられた。

 ――国王一派は、武力を持たぬ王弟一派に叛意ありとの汚名を着せ、病体で臥せっていた国王の名を騙り、偽りの勅令を発した。メンテスは急ぎ王弟にこれを報せ、ともに国王軍に立ち向かったが、王弟一族は孤立。王弟妃カルラならびに長子セルヴィアは捕えられ、処断された。オルガとアリアテは流れ矢に斃れた。王弟ギオはメンテスにティオをたくすと、城に火を放ち、命を絶った。

 その後、国王は乱を嘆き、自ら【サリヤの火】――本来、国王の勅命がなければ使えない代物である――を以て内乱を鎮め、尊き犠牲となった。国王と運命をともにすることを願った冢宰を筆頭に、幾人かの官吏や将校らも進んで生贄となり、【サリヤの火】は戦場のすべてを焼き尽くした。

 時を同じくして、サルベジア大陸。白き司は混乱に陥り、カラデュラと同じく囚人の脱走をゆるした。さらに王族どうしの争いによって理が歪み、亜竜の群れがセヴォーを襲った。

 すべては、王制が招いた悲劇だった、とメンテスは締めくくった。

 国王と王弟の両者を失った国民の落胆は大きかった。気を見計らい、メンテスはティオを抱く女性を壇上に招いた。

「此度の内紛によって国中が乱れ、多くの民が傷ついた。彼女はその一人、セヴォーで唯一生き残った者だ」

 セヴォーが一日にして滅びたことは、先ほどメンテスによって語られた。亜竜の群れに呑まれた町。人々は生唾を飲みこんだ。

「勇敢に戦い、民を守ろうと命すら擲ったが、力及ばず苦い涙を飲んだ。彼女の父母と兄もまた、国家に仕える勇敢なる戦士であった」

 悲しげにうつむく女性に同情が集まる。そこで、とメンテスは提言した。

「唯一、王家の血を残すティオ様が成人なさるまでの後見として、誠実な官吏として国に仕えた、このシーナ・アルティディエ・グラトリエを推薦したい」

 国を救った英雄が、悲劇的な運命をたどった一人の勇敢な女性を立てよと言う。これを聞いた国民の、誰が首を横に振るであろうか。

「すげえや、王族でもない、普通の人間が後見人になるのか」

 ティオの後見人となれば、最高決定権を有し、実質の国の頂点に立つことになる。驚嘆の声が上がるなか、メンテスはさらに付け足した。

「これを期に議会は国民に開き、学校も解放しよう。王族制度はティオ様の代を以て廃し、あらゆる場での世襲制を見直そう。同じ悲劇をくり返さぬためにも、我々は誰もが王になり得る平等な国を築いていきたい。ここにいる一人ひとりに力を貸してほしい」

 一国にただ一人の大臣が深々と頭を下げる。ゲッテルメーデルの城壁を揺るがし、カラデュラの石畳を揺るがす歓声があがった。顔を上げたメンテスはそれを片手で制し、ただ、と言いさして、間を置いてから続けた。

「主たる国王陛下、慈王陛下を守れなかった私の責は重い。大臣を辞すべきか否かを、今ここで民に尋ねるとしよう。私はいかなる罰も受ける所存だ」

 メンテスを責める声は上がらなかった。それどころか、大臣万歳、と三唱では終わらない喝采が巻き起こった。国民にとって、メンテスは他ならぬ救国の英雄だ。彼らは、メンテスの部下によって窮地を救われたことを忘れはしない。

「お国が大変な時に、俺たち国民のこともちゃんと守ってくれたのは、大臣閣下の兵隊だけだった」

「昔から、大臣閣下は貴族と平民の垣根を取り払おうと尽力してくださっていた。私は知っている」

「長年続いた無意味な王家の分断もこれで終わる。議会で我々の意見も聞いてくれるなら、きっと、二度と戦争などしない国になるぞ」

「僕も学校に通いたいなあ……行けるようになるのかな」

 こまごまとした声は壇上まで届きはしないが、国民の喜び舞い踊る様を見て、メンテスは口の端をつり上げた。

 暗君メンテス・ガヴォによる独裁の歴史の幕開けである。



………………………………………………………………。

「冗談じゃない!」

 クワトロは珍しく声を荒げ、特殊鋼の右腕を机に叩きつけた。

「そのように無理をなさっては……まだ義肢が体に馴染んでいませんので」

 機械の体と肉体との結合を促す術をかけながら、白魔導師は主の荒れように戸惑う。ここまで感情を、それも怒りを顕わにした主を見るのは初めてだった。

 クワトロの右半身は、頬の一部と手足を除いて再生していた。足のつけ根と脇からは肉芽も出ず、今後の再生も見込めない状態だった。

 国王軍属魔導師長、ヌルがこの場を訪れた時、クワトロは昏睡から目覚めていなかった。ヌルは強力な魔道の使用に耐え、物理攻撃を通さない新種の鋼【クロノクロム】の義肢を差しだした。

「稀代の白魔導師どのにプレゼント♪ だそうデスヨ~」

 付き添いの道化師はドーラアングルを微かに鳴らし、ヌルとともに義肢を置いて去った。クワトロの部下たちはしばし悩んだが、義肢を肉体に慣らすには一刻も早いほうがいい。妙な呪術がかけられていないことを確かめると、藁にもすがる思いで義肢を傷痕に接合した。

「こんなもの」

 しかし、目覚めたクワトロは機械の手足をもぎ取ろうと暴れた。別の白魔導師が覆いかぶさり、必死に主の体を抑えつけて泣いた。

「お願いですクワトロ様、お願いですから」

 クワトロは息を切らし、自分を囲む部下たちの情けない顔を見回した。

「……わかった。お前たちに免じて、この腕と足は貰っておく」

 ほ、と胸をなで下ろす部下たちが離れると、クワトロは独り苦い顔をした。話に聞けば、この義肢はヌルが製造したもの、つまりクワトロはメンテス・ガヴォに借りを作ったということになる。

(吐き気がする)

 忌々しく右手を持ち上げ、クワトロは試しに小さな火を灯してみたり、結界を張ってみたりした。たしかに魔力は淀みなく通う。だが生体ではなくなったため、二度と白魔道は使えない。

 クワトロの削げ落ちた右頬に、呪符を貼る部下の温かい手が触れた。



………………………………………………………………。

 メンテス・ガヴォは大臣副官にヴェイサレド・シオを任じ、新体制のための施策を講じた。

 まず、国民を重んじる改革がすすめられた。

 貴族の子息だけが通うものであった学校を、試験をとおして平民の子どもも別なく通えるよう変革し、成績によって授業料を免除するしくみを作った。

 議会に各市町村の代表者を招き、庁舎の一部設備を一般に開放し、国官と国民とのあいだに交流を持たせた。

 さらに、白き司の白魔導師を二大陸の各地、現地の医療施設に派遣し、一般の者でも高度な治療を受けることが可能な体制を整えた。

 徴税額は上がったが、富める者は多くを要求され、貧しい者は転じて補助を受けた。

 旧体制において、この真新しい社会を想像できた者はほとんどいなかったが、いざ暮らしてみると、誰もがこれこそが理想の社会だと納得した。

 次いで、国政にも改革はおしよせた。

 地位ではなく実績による、個々の貢献度に応じた給与を与えるとして、名ばかりの高官は搾取の対象となった。実力のある者は出自を問わず、下位であっても多くを与えられ、将来を約束された。

 実にメンテスらしいやり方だ、とある者は蔑み、ある者は感謝した。

 一方で、議会では国民の発言が重くなり、元老院の力はより衰えていった。実力主義の白き司では、上官と部下のあいだにあった壁が結束とともに取り払われ、方々で摩擦や衝突が起こるようになった。

 白魔導師の外部派遣によって、クワトロは部下を失った。

 波乱のなか、違和感を覚えた者や、すでに混乱を危惧していた者たちが結束して立ち上がったが、メンテスへの反駁は国民が許さなかった。あらゆる所から情報が洩れ、活動はままならず、議会にかけられて国民代表から懲役を求められる者も出た。

 大臣の派閥に属する者たちは反対勢力を弾圧したが、当のメンテスは叛意ありきで執政権を振りかざしている節があった。部下から何か報告が上がっても、放っておけと言うのが決まりで、自ら断罪しようとはしなかった。敵にも温情のある人徳を売りたいのか、心底侮って高をくくっているのか、またはその両方か。真意は定かではなかった。

 一方で、メンテスが唯一、容赦を見せない場面があった。犯罪者の処遇についてである。物を盗んだだけで極刑とまではいかないが、罪人には一生消えない墨を入れ、住む場所と職を指定し、観察官をつけて監視を怠らなかった。殺人など重罪になれば必ず極刑となるよう法を改案し、良からぬ徒党を組む者、山賊などは厳しく取り締まった。

 狩人や兵士など、必要に迫られる者以外の武器の携行も禁じた。許可なく帯剣する者は、その場で取り押さえてでも武器を取り上げ、更迭する権利を常駐兵に与えた。

 国民は、罪は厳しく、正しく裁く国政に安堵し、信頼を厚くした。官吏たちも、重くもなく軽くもない量刑に口をはさむことができなかった。

「メンテスは紛うかたなき能吏なのではないか? 内乱の首謀者である証拠もけっきょく何ひとつない。混乱の大きい最中にあっては、国がうまく立ち行くにこしたことは無いだろう」

 声を密かに、メンテスを支持する者は一人、また一人と増えていった。

 わずか半年にして地盤を固めたメンテスは、あっさりとシーナを女王の座に据えてしまった。そして、何食わぬ顔で女王の後見人の座におさまった。



………………………………………………………………。

 一国の「夕暮れ」が明けて数日。

 静かな夜半、後に全世界を震撼させる災いは始まった。最初に異変に気づいたのは、サルベジアの北端セルシスデオで海守りをしている者だった。

「海抜が下がっている」

 それは引き潮などという生易しいものではなかった。波は穏やかで津波の起こる気配も一向にないが、海の嵩だけが減っていた。

 海守りが長老を呼んで戻ってくると、浜にはコラーク――セミクジラ――が打ち上げられていた。すぐさま海守りが呼び集められ、総出でコラークを海に戻そうとしたとき、波が盛り上がった。二つの海水の柱は優しい手のひらとなって、コラークを抱え、ゆっくりと海底に沈んでいった。

 ――私が、奪われる。皆を連れて隠れねば。

 海守りたちの心に言葉が響いた。

「リア様、いかがなされました」

 長老が狼狽して叫んだが、次の言葉は響かなかった。


 レピオレン湖に漕ぎだした漁師は、遠く湖を囲む山の稜線を眺めながら首を傾げた。

「ああ? なあ、山が高くなったような気がしねえかい」

「いや違う、湖の水位が下がったんだ。それにしちゃあ、海の水が向こうから流れてこんが……」


 ある漁村の少年たちもまた首を傾げ、海草すらかかっていない網を村に持ち帰った。


 異変の波紋は広がり続けた。

 海の精霊リアが「隠れる」と言った日を境に、世界中の海から、魔物を除く生き物が消えた。海守りの長老は、海の精霊が何者かに脅かされ、すべての命を連れて姿をくらませたのだと説いた。

 海守りの言葉を疑う者はいなかった。

 精霊を失った海は凪ぎ、船の往来は途絶えた。レピオレン湖にはかろうじて風が吹いたが、海からもたらされた魚が消えることを恐れ、人々は漁をやめた。

 いつしか国土も痩せていき、かつて草原であったラティオセルムの一帯は砂漠と化した。



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