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英雄

 カラデュラにおける牢獄の決壊、囚人の大脱走と時を同じくして、ゲッテルメーデル【白き司】。二階中央に位置する会議室では、議員や中隊長らによる審議が続いていた。

「信憑性はあるのか?」

「何とも言えんな。こちらが送った一報が確実に王城へ届いたかも疑問だ」

 数時間前、彼らの元に届いた奇怪な一報。文面はただの一行、『国王軍勝利によって反乱鎮圧』というものである。挙兵の一報を受けてからわずかな時間しか経っていなかった。

「先鋒隊は予定より遅れている。その後、ラティオセルムに向かったかも判然としないが、彼らの報告を待った方が確かだろう」

 王城からの飛燕であることは疑いようがない。白き司の止まり木に降りたち、文字となって記されたのだから。

「すでに王城は何者かの手におち、飛燕が敵に使われたとも考えられる」

「何者かの工作が働いているとすれば、なおさら、いたずらに政府機関(白き司)を手薄にするわけにはいかぬ」

 話し合いは膠着(こうちゃく)していた。行動を起こしてみることは事態の見極めに重要だが、一度動き出せばやすやすと元には戻せない。誰の意見が正しいというわけでも、誤っているというわけでもなかった。

「王城へ帰還された、シオ殿の足取りもつかめないままか」

 万事休す、という言葉が皆の頭をよぎった。



………………………………………………………………。

 囚人たちがなだれこみ、カラデュラの戦場に鮮血が上塗りされた。

「何が起きている」

「地下牢が破られ、囚人が外へ」

 国王軍の伝令は息もまともにつけないまま、レンガのわずかな凹凸につまづきながらも、最悪の状況を報告した。眺望塔の将校らは作戦図上の駒をちらっと見やり、互いに苦虫を噛みつぶしたような顔をつきあわせた。

「間者か。この守りの中を突破した者がいるか、最初からもぐりこんでいたか」

「ネズミめ、やっかいな病の種をバラまきおった」

 膝に手をつき、肩で息をしている伝令に、将校たちは命じた。

「かまわん、どのような罪状であれ囚人は即刻処分せよ」

「はっ」

 呼吸をととのえる間もなく、伝令は敬礼して踵をかえした。ふたたび螺旋階段を駆けおりて、砦壁の内部へ、門へ、戦場へと休みなく足を巡らせる。

「囚人が脱獄! 見つけしだい処刑せよ!」

 争いの混乱のなか、どれだけの兵士の耳に討伐令がとどいたかわからないが、すでに囚人と刃を交えている兵も少なくない。両軍、敵兵に加えてあらわれた第三勢力にとまどい、気をとられ、陣形や作戦のことはそぞろになっていた。

 国王軍の司令塔たる将校たちは、囚人の討伐には【狩人】などの少数精鋭をあてた。兵の陣形が崩されることを嫌ったためである。戦場に紛れこんだ「不純物」を取り除くには単騎決戦が有効だった。自慢の機動力と、特異な得物や武術が十二分にいかされる結果となった。

 【狩人】は機械弓や短弓を駆使し、相当数の囚人や敵兵をしずめた。ラ・カラ族のザハカは半分獣の狩猟型となり、自慢の爪と牙をもって囚人を屠った。

 眺望塔では鳥瞰が、いそがしく手元の羊皮紙と戦場とを見比べていた。

「手配犯はすべて見当たりません!」

 囚人はなべて麻袋を縫ったような布きれを着ており、衣服には背番号が振られている。独房に入れられるような囚人には、直接その背中にも番号が彫られ、人海のなかにあっても見分けがつくようになっていた。

「ふむ……町への流入は防がねばならんが、手のまわしようがない。しばらくは城下の非番兵や自警団に耐えてもらうしかないな」


 一方で、革命軍にも混乱は広がっていた。

「囚人の処理は?」

「捕えても檻などない、斬って捨てろ!」

 中核の騎士たちは歩兵を引き連れ、陣形をたもったまま前進をつづけた。


 王弟城、主塔の寝室。物見やぐらより高い位置にある窓から、メンテスは興味がなさそうに戦況を眺めていた。

 巨大なベッドではギオが昏倒して眠っていた。【傀儡の毒】に蝕まれた心身はもはや限界に達し、いつ現国王と同じデクの棒と化してもおかしくなかった。

「悲しいか?」

 メンテスは目覚めないギオを見遣って呟いた。

「驕らず、柔和で、少しのことにも心を砕きすぎる……それでいて芯の強い男だ。優しさや慈悲という、尊くか細い信念を決して折らなかった」

 第三者に語りかけるように言い、メンテスは胸に右手をあて、背に左手を回して頭を下げた。伏した顔の影で北鼠(ほくそ)笑むと、メンテスは足元の影に命じた。

「頃合いだ」

「かしこまりました」

 影はしぶるように返事をして、階下に溶けていった。


 王弟城に仕える兵をまとめる兵士長は、メンテスが引き抜いた精鋭のなかから選抜された。

 甲冑に身を包んだ若干二十歳のうら若き乙女は、脚を主軸とした舞踏のような戦技「武脚(ぶきゃく)」の師範として知られる女傑である。周囲への警戒をおこたらず、磨き上げられた槍の穂先を天井へ向け、彼女は王弟の子息を守っていた。

「少し話をしてもいいか。私はセルヴィア、君は」

「は、ジャクリーンです」

 物怖じせず、媚びず、ジャクリーンは無感情に答えた。彼女は、先ほどまでここにいたメンテス直属の部下、ディエロとはかなり毛色が違うようだった。

「君は、ガヴォ大臣のことについてどれくらい知っている?」

「私は今回の作戦のため、皆さまをお守りするよう言い付かっております。が、それだけです。直属の上官はシオ武官長です」

 それで王弟派についたのか、と納得はできた。彼女は、メンテスの個人的な配下になったつもりはないようだった。

「懐かしい名だ。君が彼の身内と聞いて安心した。ところでジャクリーン、誰かが上の寝室に入ったようだが、父だろうか、母だろうか」

「私はうかがっておりません。申し訳ないが、この場を離れ確認してくることもできません。畏れながら、セルヴィア様やオルガ様たちにこの場を動かれるのは論外です」

「そうだな。さて、困ったものだね」

 セルヴィアは肩をすくめた。

 玉座の間から寝室への階段に続く石造りの廊下は30キーマ、燭台の火がたよりなく灯るだけの薄暗さで、先の様子は見えない。寝室への上がり口はこの玉座の間と、渡り廊下でつながった尖塔側の寝室にしかない。

(見られては困る何かがあるというのか)

 セルヴィアの、メンテスに対する不信はつのるばかりだった。

 一方で、ジャクリーンもまた釈然としない気分だった。彼女は、メンテスは玉座の間に残り、ともに王弟一族を護衛すると聞かされていた。それが叶わない場合は直属の部下をつける、と。

(王弟一族の護衛に私一人では役者不足もいいところだ。なぜここはこんなにも手薄のまま放置されている?)

 胸につかえる不安を振り払うように、ジャクリーンは軽く頭をふった。

「これよりガヴォ大臣の令がおりるまで、玉座の間にて待機します。が、状況によっては私の独断で動いていただく」

「よろしく。それからありがとう、ジャクリーン」

 セルヴィアに微笑みかけられたジャクリーンは、一瞬、状況の何もかもを忘れて呆けた。慌てて首を振り、自分の両頬を叩いて戒め、赤く差した色をごまかした。

「おんもでたいよお」

 アリアテはオルガに抱きついたままぐずった。

 明かりとりの窓には鉄板が打ちつけられ、室内を照らすのは壁に備えつけた燭台のみ。仄暗い玉座の間では、もう何年も主のかけていない豪奢な椅子が階段のうえに侘しくたたずんでいる。鬱屈とした気分になるのも無理はなかった。

「ねえちゃまもくるしそう」

 アリアテはオルガの鎖骨のあたりを撫でた。セルヴィアは気がついて立ち上がり、オルガを抱き起した。

「気分が悪いのか」

「ごめんなさい、兄さま」

 オルガは体が丈夫ではない。これだけ心労のかかる状況におかれて、今まで泣き言のひとつもいわず、よく耐えたとセルヴィアは目頭が熱くなった。

「何を謝ることがある、もう充分だ」

 玉座の間にはなぜか真新しいソファが一脚あり、セルヴィアはそこにオルガを寝かせた。妹の容態を案じる兄のかたわらに、ジャクリーンが立った。

「オルガ様、これを。少しは楽になるかも知れません」

 ジャクリーンが甲冑の裏側から取り出したのは、一枚の呪符だった。オルガの胸の上に置かれた呪符は淡い緑光を放ち、心なしかオルガの表情が和らいだ。

「我々兵士が深い傷を負った際に頼るものです。心は癒せませんが、お体の悪いところだけなら治してさしあげられます」

「白魔術の札か。少ししか支給されないのだろう、こんなに貴重なものを……ありがとう」

 セルヴィアは感極まり、ジャクリーンの手をとって胸に抱いた。ジャクリーンは危うく心臓が止まるかと冷や汗をかき、次にはのぼせ上って、何も言えずにうつむいていた。するとセルヴィアが覗きこもうとするので、ジャクリーンは顔をそむけて咳払いした。

「いいかげん、私に武器を持たせていただきたい」

「ああ、すまなかった」

 あっさり手を離されると、ジャクリーンは槍の柄を握りこみ、憮然とした表情で壁にもたれた。

 セルヴィアはオルガの前にひざまづき、閉ざされたホールへの扉を見つめた。

 ――いつだったか、カルラは、立ち上がりざまにドレスのすそを引っかけてよろけたことがあった。ギオは難なく愛妻の腰をつかまえ、ついでにくるくると回ってみせた。

「そのまま飛びたってしまうのかと思ったよ」

「あなた。ごめんあそばせ」

 そのまま二人はワルツを踊りはじめた――若い恋人どうしのようにじゃれ合う二人の姿を、セルヴィアは忘れることができない。

(父上が戦などなさるはずがない)

 セルヴィアは長剣の柄をぐっと握りしめ、思考をめぐらせた。

(この状況に打ち勝つ方法を必ず見つけ、この国と家族を取り戻す)



………………………………………………………………。

 脱獄囚による混乱も、戦場ではあと一息で鎮静されようとしている。その一方で、城下町は大いなる悪意の渦にのまれようとしていた。

 山城の裏手から襲来した脱獄囚はわずか十数人。しかし、その顔を見ればおぞましい罪歴が頭をよぎるような、凶悪至極の輩ばかりだった。山城から上がる戦の煙を眺めていた町人は、次は自分たちの身が危機にさらされる番だということを知って、方々に走り出した。

「戸を閉めろ! 罪人たちが山を下りてきた」

 彼らは走りながら必死に声を張り上げる。それは自らが助かるための敗走ではなく、人々に危険を報せるための奔走だった。

「戸口をかためろ! 誰も入れるな、旅のものや商人は町を出るんだ!」

 街道を走り、裏路地を走り、体力のある男や女は人々に伝えてまわった。火の粉が降りかからんとしていることを知った人々は、伝令の言うとおり、戸口をかたく閉ざした。伝播するように窓のかい棒が外されていき、ある家では老人が、ある家では子どもたちが、囲炉裏の火を消し、土間に腰かけてじっと息を潜めた。

 自警団や腕に自信のあるものたちは武器をとり、麻袋を着こんだ囚人どもが悠々と歩いてくる街道に陣取った。囚人の前列が近づいてくると、町人の一人が声を上げた。

「お前らの好きにさせねえ、ここは通さん!」

 すでに、囚人らの背中では、火を噴いている家もあった。倒れている町人も、壊された屋台もある。破壊される平和な日常を前に、民たちは怒り、悲しみ、恐怖していた。自警団のなかにも、敵を目の当たりにして膝を震わせている者はいる。それでも彼らは退かなかった。

 その覚悟を認め、囚人の一人が下品に笑った。

「おお、いいとも。ここは通らないでやろう」

 それを合図に囚人らは散開した。ばらけて路地に向かう囚人を、敵うすべもないと知りながら、町人たちは必死に追う。

「久しぶりに血が舐められるぜ」

 わざと追われていた囚人が、町人を引きつけたところで振り返った。手には兵士から頂戴した頑丈な剣を握っている。麺棒を握った町人は臆したが、それでも立ち向かおうとした。

 何かが、重いものを貫く音がした。

 町人は思わず目を閉じ、闇のなかで、自分が死んだものと思った。恐怖のあまり痛みも感じない。しばらく経ってから恐るおそる目をあけると、囚人が仰向けに倒れていた。囚人の腹には穴があき、石畳を血が染め上げていった。

「フシュルル」

 頭の後ろで聞こえた鼻息に振り返ると、そこには一騎の騎馬兵が(たたず)んでいた。

「自警団ならびに町人の諸君、凶悪な罪人たちは我らに任せ、自分の身を護ることに専念するよう」

 騎馬兵は手綱をとって馬を反転させ、次なる犯罪者を追って路地を駆けていった。

「な、なんだぁ?」

 町人は拍子抜けした声でつぶやき、辺りを見回す。あちこちで囚人のほうが倒され、馬の蹄が石畳を蹴る軽快な音が響いていた。

「我ら騎馬近衛兵団! メンテス・ガヴォ大臣閣下の命により、民には指一本触れさせぬ!」

 高らかに名乗りを上げたのは、マーブル模様の馬を駆る美しい女傑だった。その顔は戦士の誉れとして、あらゆる祭事を通して国民に知られていた。

「戦場の女神だ、ヴァルキリーだ!」

 ある町人は祈るように手を組みながら、誉れ高き女騎士の通り名を叫んだ。

 淡い金の長髪をひるがえし、近衛兵団を率いるアイーシャ・リオナは鬨の声をあげた。その猛々しさたるや、腹の底から囚人たちを震え上がらせ、さながら竜虎の咆哮だった。

 喝采を博すなか、騎馬近衛兵団は瞬く間に囚人を鎮圧していったが、馬上の彼らをあざけるものどもは未だ逃げ延びていた。

「ばかめ、馬なんぞでこの狭い路地まで来れるってんなら……」

 息をひそめていた囚人は、そのまま気を失った。後頭部に強烈な拳をくらい、酩酊したように倒れ、小刻みに痙攣しはじめる。囚人の背後に音もなく立つのは、黒髪を結わえた少年兵クレオ・シアンだった。

 カラデュラ城下町は道幅が広く、馬や驢馬でも町の隅々へ入っていくことができる。建物の密集する場所には路地ほどの狭い通りもあるが、その本数はごくわずか。隠密、敏捷、破壊力の三拍子がそろったリヴェラ族がひとりいれば、守りは万全だ。

 クレオは再び影のように身を潜めて屋根にのぼり、逃げこんだ囚人がいないか探った。

 ――つい先ほど、走る馬に併走して山道をおりながら、クレオは「これはメンテス様の采配だ」とだけ聞かされた。アイーシャの騎馬隊が現れた時は背筋がざわついたが、彼女がメンテスの私軍よろしく動いているという噂は予てより耳に入っており、そこまで警戒はしなかった。

「結果として民を守れるなら協力はする」

「王弟陛下のようなことを言うのだな」

「ただ、目のまえのことをこなさなければ、戦場では後悔することになるから」

 アイーシャは、クレオを気に入ったと言って笑った――



………………………………………………………………。

 国王城内は戦場並みに混然としていた。

「近衛兵団が城から出ただと」

 将校のうち、准佐官と佐官の数人は眺望塔から城の中枢へおり、玉座へと走った。アイーシャが無断で騎馬兵を引き連れ、いずこかへ向かったという報告の真偽を確かめるためだ。

「こともあろうに近衛兵団が、この有事に!」

「我々は女神殿の忠誠心を買い被っていたということかな? 所詮は女よ、メンテス・ガヴォとの良からぬ噂は本当であったと見える」

 歯噛みして、佐官の一人が護りもいない扉を蹴破った。

「御免!」

 将校たちが玉座の間になだれ込むと、はたして、そこには落ちついた表情で座す君主の姿があった。

「国王陛下、ご無事でしたか」

「うむ」

 将校たちはあたりを見回した。護衛はおろか、宰相の姿もなかった。

「案ずるでない。ここに、メンテスより遣わされた者どもがついておる」

 国王は眠たそうに答えて、大仰に両手を打ちつけた。ぱんという乾いた音にあわせ、玉座にかかる天蓋の影から人が飛びだした。彼を何と形容すればよいか、将校たちは戸惑って顔を見合わせたが、一人がサーベルの柄に手をかけて怒鳴った。

「メンテスとは、裏切り者ではありませんか! その方は何者か!」

 道化師の格好をした男は深々と礼をした。

「これはしがない人形師でございマス♪ が、こちらは大陸随一の魔導師様方にございマス!」

 人形師がドーラアングルを打ち鳴らすと、さらに黒いローブの二人組が現れた。

「国王軍属魔導師【第八(アハト)】殿、【第九(ノイン)】殿!」

 国王城の砦門を守るのは下位四名の魔道士、そして彼らの上位にあるのが三名の導師たちである。導師ら三名は、国王城内にて難攻不落の結界を張っているはずだった。

 将校連中が何か言う前に、アハトが口を開いた。中性的で肌が白磁のように輝く、やや人間離れした外見の水魔導師だ。

「ガヴォ大臣は国王陛下を欺くことなどしておりません。大臣は自ら間者の役を買って出られた。王弟軍を先導するふりをして、我々に有利にすすむよう、準備をなさっておられるのです」

「何と。にわかには信じがたいが」

 将校たちは再び顔を見合わせ、戸惑いをあらわにした。アハトは続ける。

「すべては、王弟一族に革命をそそのかし、彼らによって内乱を引き起こすため。国民の目にも自然に、政府にも疑われることなく、邪魔な王弟一族を抹消するため……純然たる血族のみによる王家の統一こそが、長年国王陛下に忠誠をつくされた大臣の悲願。ひいては、国王陛下の御意向です」

「元々、王弟側に叛意があったことは確かだろ?」

 隣で押し黙っていたノインも俗っぽい口をはさむ。

「遅かれ早かれこうなっていたさ。ま、今回は大臣さんがうまく手綱をとって、俺たちが勝てるよう誘導してくれてるんだ。表彰モンだろ? 参謀の鑑だねぇ」

 将校たちは顔を見あわせた。そういえば、と思い当たる節もある。王弟軍の不自然な動きや、囚人の解放、ギオが戦場から王弟城内へ引き上げたことなど。統括してみれば、戦場の混乱により、国王城への王弟軍の到達が遅れていると考えることもできる。

「数々の不審な動きは、何かの時間稼ぎのためなのか? 大臣は裏で何をしようとしているのだ」

「裏でやることっつったら一つだろうよ」

 ノインは飲み屋で話すような調子で答えた。

「王弟ギオの首をとる。暗殺するのさ」



………………………………………………………………。

 ディエロとギュスタフは国王軍の兵士を片っ端から斬り捨てていった。

「ちぇっ 本当は武器って苦手なんだよな」

「ふん、拳で戦っていては埒があかんぞ、ディエロ・ソルティク」

 その様子を、眺望塔の鳥瞰は呆気にとられてながめていた。

「強い……騎士のほうはギュスタフ・フェルデロイで間違いありません。ですが、子どものほうは素性が知れません」

「王弟側の軍人はくせのある者ばかりだな。演出にしては力量が違いすぎる。メンテスは本当に国王軍を勝たせるつもりがあるのか?」

「我らの目的はあくまで防衛、強大な敵にわざわざ立ち向かうこともあるまい」

「そうだな、砲弾もそろそろ尽きる。門は魔道士や弓兵にまかせ、いったん白兵を城内に退かせて様子を見たほうが良いのではないか?」

 国王の無事は、様子を確かめにいった数名が保証している。

 一人が頷き、また一人が頷き、作戦会議が一時中断されようという時だった。めらめらという耳慣れない音が眺望塔の螺旋階段を這い上ってくる。

「火矢か? 様子を見てこい」

 鳥瞰は恐るおそる壁を背に下方を覗きこみ、腰を抜かして這い戻った。

「さ、さっ 【サリヤの火】だあ」

 その場は凍りついた。

 【サリヤの火】は水のように流れる青い焔。生き物の体だけを焦がし、命が尽きるまで燃やし続けるという絶命の劫火である。サリヤの火が流れた場所は、半年経っても草が生えない。

「ばかな! サリヤの火は我々しか……【第零(ヌル)】しか生みだせぬ代物だろう!」

「そういえば、玉座の間にアハトとナインはいたが、ヌルの姿はなかった」

「では魔導師長が裏切ったとでも言うのか!? そんなことをして奴らに何の得がある、こんな、こんなバカなことがあってたまるか!」

 将校たちは唯一の窓に殺到し、窓と人との間に挟まれた鳥瞰が悲鳴を上げた。

「やめて! 落ちる、押すなあっ ああっ」

 鳥瞰はそれ以上、声もなく塔の真下に転落していった。城壁の上に落ちて動かなくなった鳥瞰を見て、将校たちは苦い物を飲みこんだ。

「落ちつけ、着ているもので命綱を作るんだ」

 彼らとて、窮地を切り抜けてきた軍人である。冷静になり、一人ずつ、勲章で重くなった上着を脱ぎ始めた。

 だが、サリヤの火は滑らかに彼らの足元へ這い寄っていた。

「ぎゃあああっ」

 驚いて靴を脱ぎ捨てるが、青い火はすでにズボンに燃え移り、温度もなくちりちりと上へ上へのぼってくる。炎が肌を焦がしはじめると、彼らは極寒の海に放り出されたかのように凍えはじめた。

 サリヤの火が燃やすのは肉体と、魂そのもの。焼かれた魂は転生の輪に還元されず、そこで燃え尽きて無となる。心を、魂を焼かれる虚無感がそうさせるのか、サリヤの火に焼かれた者は熱さではなく、氷を抱くような冷たさに震えながら絶命していく。

 五分も経たず、眺望塔は静まりかえった。後には人数分の衣服が残った。

 国王城内も静かだった。

「サリヤの火だ! 燃え移れば死ぬぞ、急げ!」

 騒然としているのは前庭から外で、国王城砦門から、城砦から、峡間窓から、兵士たちがわっとあふれ出した。逃げ遅れたものは絶命の青い火の洗礼をうけ、鎧以外には骨も残らない。青い火に呑まれた中でただ一カ所、砦門の上だけは無事だった。砦門を護る魔道士のうち三名に、二名の導師を加え、五人がかりの結界でサリヤの火の行先をコントロールする。

「キャー♪ 青くってキレイだナ~、ステキなフィナーレ!」

 砦門の上では人形師が小躍りし、ドーラアングルを打ち鳴らした。

「君たちのリーダーはスゴイスゴイ、ネェ~っ こっちだヨー♪」

 音もなく燃える国王城の中から、ただひとり、サリヤの火に脅かされない者が悠然と姿をあらわした。その名は第零(ヌル)、魔道士及び魔導師を束ねる導師長である。常にローブに包まれてフードを被り、声を発さない。確かなのは他の追随を許さない実力だけだ。

 魔道士らは一人を除いて砦門の上に集い、サリヤの火を結界の中央に閉じ込め、真空を造りだして悪夢の炎を消し去った。

 はじめ砦門を守っていたゼクスはいま、任務を果たすべく王弟城に潜む。

「う~ん、チョット順序やタイミングが狂ったケド、おーむねヨロシイでショー。さあゼクスくん、ド派手にやってもらいマショー!」

 仮面の下で、人形師の口は細い三日月のようにつり上がった。描かれた口よりも不気味に男は笑う。

 砦門の上から人形師と魔道士たちが引き上げるのを見て、ギュスタフはディエロに合図した。

「アレイ・レイオたちが引き上げる。我々も急がねばならん」

「ちぇー、簡単に言うよな。これで結構手ごわいんだぜ、こいつら」

 ディエロの手ごわいとは、すなわち楽しいということだ。もっと戦っていたい、楽しみたいという気持ちをおさえて、ディエロは槍の切っ先に小瓶の中身をかけた。ギュスタフも同じ小瓶を取り出し、長剣の刃に液体を滑らせた。

「解毒剤は飲んでおいたな?」

「ちぇ、こんなの使ったらすぐに終わっちゃうなあ……」

 ディエロが足で槍を弾くと、透明な雫が滴った。踏みこみ、兜の隙間をねらって相手の頬に一筋の傷をつける。かすり傷だが、兵士は苦しみもがき、倒れるとそれきり動かなくなった。

 ディエロは口笛を吹いた。

「ひょう。おっかねぇ」

 小瓶の透明な液体は、メンテスから支給された即効性の毒液である。成分も詳しい効力もわからないが、ヒトを殺すには充分な品だと実証された。一撃でもかすれば相手を殺す、死神の鎌と化した武器を振りまわすと、まともにやりあおうという国王軍はいなかった。

「逃げるなよ! 向かってこい、じゃないと上手く狙えないだろ!」

 笑いながら毒を突き刺してくるサソリのような少年から逃げようと、国王軍の歩兵たちは我先に戦場の内側へ、内側へと追いやられていった。

「ち、気づいてないのか奴ら。すっかり包囲されちまった」

 ザハカは外壁の真下に身を潜め、戦況をうかがっていた。負傷したり気力が切れたりしたわけではなく、彼は自分の命を守るために戦線を離脱した。

(聞いてねえぞ、サリヤの火を使うなんて。しかも焼きだされたのは国王軍だ……ここに居たらきっと俺も死ぬ。いや、殺される)

 ザハカは静かに移動し、閉ざされた外城門にたどり着いたが、獣族の爪をもってしても乗り越えられそうになかった。ここまでか、と絶望しかけたその時、空を切る音とともに、城門脇の壁に深々と矢が突き刺さった。振り返ると、【狩人】が仁王立ちしていた。

「おいおい、勘弁してくれ」

 ザハカは、敗走する自分を粛清するために追ってきたのだ、と思った。腰をおとして臨戦体勢に入る。【狩人】は次の矢を射た。十本の矢が、大きくザハカをそれて壁に突き刺さった。

「いったいどこを狙って……」

 【狩人】は何も言わずに武器をおろした。ザハカは眉根をよせて背後を振りかえる。【狩人】の放った矢が、まるで足場のごとく均等に壁に突き立っていた。

「お前……」

「交換条件だ。このまま足場は作ってやる。お前、オレを乗せて跳べるか」

 初めて聞いた【狩人】の声は、喧騒のなかでも澄んで耳に届く、凛とした美しい声だった。

「女だったのか?」

「そんなことはどうでもいい」

「そうだな……なんだ、お前も逃げるのかよ」

 ほっと胸をなでおろしたザハカに、【狩人】は素早く短弓を向けた。

「逃げるのではない! オレは……くそ、オレを負って跳べるのかと聞いている! できなければ」

 忌々しそうに歯をくいしばって短弓をひく【狩人】に、ザハカは慌てて両手を挙げた。

「やるよ! わかったよ、もう何も聞かねぇ」

 ザハカが屈むと、【狩人】は遠慮なく負ぶさってきた。いつも遠巻きに見ていた【狩人】は、思ったより小さくて華奢だった。ザハカは獣の脚で踏みきり、高く跳躍した。等間隔に打ちこまれた太い矢を足場にして、着実に城門の上へと迫る。【狩人】はすかさず五本の矢を射て足場を完成させた。幸い、彼らを追撃するものはなく、ふたりは無事に城門を飛び越え、城の外へ着地した。

 仕官する身だが、ザハカに未練はなかった。職よりは命のほうが惜しかったし、いま逃げることで誇りが傷つくとも思えなかった。

 一方の【狩人】は、ややあってから渋々歩き出した。

「お前、本当は残りたかったのか?」

「オレは国王陛下に忠誠を誓った軍人だ、当然だろう」

 じゃあ何で逃げる。聞いてみたかったが、ザハカは口をつぐんだ。また短弓で脅されたくはないし、用済みとなった今は本当に射殺されるかもしれない。

 しばらく並んで歩いていると、【狩人】がぽつぽつと話しはじめた。

「見ただろう。城中が青く燃えた。国王陛下は玉座におわしたと聞く……サリヤの火だ、生きてはいまい。もう主はいないのだ。この先もし、王弟ギオや大臣メンテス・ガヴォなどが国の頂点に立つようなことがあっても、オレは、そんな奴らに従いたくなどない。だから……」

 彼女は自らの誇りのために戦場を去るのだ。主なく、虚しく戦うことを捨て、何者でもなくなって生きることを選んだ。ザハカは感心して「へえ」と声を漏らした。

「俺なんて愛想を尽かしたから逃げるんだぜ。てめえ自身が死んだら何にもならないだろう。俺は自分の命が一番惜しい」

「オレは、自分の命は惜しくないが、国王以外に仕えることは死ぬよりもつらい。国王が先に死んでしまうなんて、考えたこともなかった……」

「そりゃあ見上げた忠義の士だねぇ……おっと、待ちな」

 呆れ半分に言ったザハカは、山道に残る大量の足跡に気がついて歩を止めた。戦乱の興奮と脱出が成功した安堵で欠けていた緊張感がもどる。

「馬だ。荷物か人を乗せた馬が、数十頭」

「騎馬か。そういえば、近衛兵団が姿を消したと将校たちが騒いでいた」

「足跡の量からして、近衛兵団である可能性は高いな。それからコイツは」

 蹄の川の横に、点々と見慣れた足跡が残っている。自分の足跡によく似ているが、深く地面に残るそれは、大型の獣族の足跡だ。

「クレオ・シアンだな。おおかた逃げ出した囚人を追っていったんだろう……王弟軍のクレオが何で近衛兵団と動いているかは、この際どうでもいい。だが町へ降りるのはマズイってことだ」

 城下町には囚人と近衛兵団がいる。行けば、騒ぎに巻きこまれる。ザハカは【狩人】の手をひき、山道をそれた。

「行くところが決まってねえなら、いっそのこと、俺の故郷まで逃げるか?」

 ぼそりと呟いたザハカの手を、【狩人】は振りほどこうとした。

「おい、一人で歩ける。おい……」

 ザハカは聞き流し、ぐいぐいと【狩人】の手を引いていった。



………………………………………………………………。

 国王軍の残党を仕留めた革命軍は雄叫びを上げた。

「さあ、英雄たちを称えよう!」

 そう言って、彼らは負傷した【千人盾】をはじめ、名だたる猛者たちを広場の中心に迎え、兜を脱いで軍歌を合唱した。ある者は槍で鎧を叩き、ある者は剣どうしを打ち合せて音頭をとる。

 だが、勝利の余韻は長くは続かなかった。

「おい、ギュスタフ殿は? 一緒に戦っていた少年兵は?」

「クレオはどこだ」

 徐々にどよめきが広場を埋めていく。獅子奮迅の活躍をした精兵たちは、こぞって姿を消していた。骸があるわけでもなく、ただ忽然と戦場からいなくなってしまった。

「まあ、良い。それより誰か、国王城の様子を頼む。王弟陛下にご報告申しあげねば」

 数人が連れだって国王城へと走り、数人が王弟城砦門を守る兵士たちを呼びに向かった。まもなくして、叫び声は、王弟城側の壁上狭間から上がった。

「どうした」

 下から声を張り上げると、先ほど走っていった兵士が狭間の凹凸から身を乗り出し、声をわななかせた。

「し、死んでるっ みんな死んでる!」

 なに、と重装兵の一人が呼応し、鎧を鳴らしながら走った。彼は門の脇から塔に入り、螺旋の石段を駆け上がり、そうして異様な光景を目の当たりにした。焦げた木製の矢板と破壊された弩や砲台の残骸に、点々と骸が紛れていた。そのどれもに頭がなく、血が叩きつけたように飛び散っている。

「これは……」

 その場には火薬のにおいが漂っていた。だが、砲撃を受けたにしろ、誤ってこちらの砲弾が引火して爆ぜたにしろ、そろって頭だけが弾けているのは妙な話だった。

「何だよお、こりゃあ」

 腰を抜かしている兵士を連れ帰り、重装兵はすぐさま、王弟城を指して声を張り上げた。

「王弟陛下の御身が危ういかも知れん」

 騒ぎのあいだに国王城を確かめに行った者たちも戻り、国王の死と革命軍の勝利を噛みしめながら、彼らは総勢で王弟城に押しかけた。

 城内は暗く、残っているはずの非戦闘兵の姿はどこにもなかった。石積みの室内は冷え切り、心なしか吐く息も白い。勢いを失った革命軍は、あたりを何度も警戒しながら慎重に進んだ。

 先頭が、玉座の間へとのぼる階段に足をかけた時、背後で大扉が閉ざされた。

「なにっ」

 誰かが叫び、数名が門に取りついたが、ぴくりとも動かない。ややあって兵士たちは階段につめかけたが、誰一人、その段を上りきることは叶わなかった。

 紫煙が薄くたちこめ、兵士たちは短い呻きを残して斃れていく。呼吸がついえてしばらく苦しむ者もいれば、昏倒したまま絶命する者もいた。

「陛下」

 最後の騎士が暗澹に沈んだ。城内は再び静まり返り、巨大な墓所のごとく冷えびえとしていた。



 聞きたくもない音だが、とセルヴィアは眉間にしわを寄せた。

「静かすぎる」

 立ち上がって長剣を帯にとめるセルヴィアを、ジャクリーンが制した。

「止めてくれるな。先ほどから戦場はおろか、城内に残ったはずの兵士たちの気配もしない」

 では、とジャクリーンが口を開いた。

「畏れながら、ここは私が先導いたします。背を離れられませんよう」

 彼女もまた、静けさのなかに漂う不穏な雰囲気を感じていた。セルヴィアは頷き、オルガを助け起こすと、ティオを抱き上げた。

「アリアテ、姉さまの手を離すな」

「あい!」

 セルヴィアはアリアテの頭を撫で、厳しい表情を一瞬ゆるめた。それからまた思いつめた顔をして、寝室を仰ぎ見た。兄の視線を追って、オルガも苦汁を飲んだ顔をする。彼らは互いに頷き合い、黙ってジャクリーンに続いた。幼いアリアテの前で、あえて父母のことは口にしない。

「では」

 ジャクリーンは言って扉に手をかけた。よもや、施錠されてはいまいかと疑ったが、扉はあっさりと開いた。

 その先の光景にジャクリーンは息を飲む。気づいたセルヴィアがとっさにオルガの視界を塞ごうと動いたが、すでに、オルガは腰を抜かしていた。

「何だこれは……」

 ホールを囲む張り出しの上には、見慣れた鎧姿の兵士たちが転がっていた。セルヴィアたちが立つテラスの左右から階下へのびる階段の、向かって右手の中腹に、軽装兵や重装兵のいりまじった集団が倒れている。眠っているかのような者もいたが、敷かれた絨毯を掻き毟った者、指がすべて鉤のごとく曲がった者、仰臥して苦悶の表情をあらわにした者もいて、彼らの命が奪われたことは明らかだった。

「【千人盾】殿……こちらの異変に気づいて、皆で陛下の安否を確かめようと来てくれたのか。どうやら戦争は終わったようですが」

 絶句するセルヴィア、動けないオルガを促し、ジャクリーンはいったん玉座の間に引き返した。唯一の救いは、幼いアリアテとティオには、この惨劇がよくわからないことだった。

 セルヴィアは愕然と立ち尽くし、腕のなかのティオがぐずった。もはや誰が敵であるかは言うまでもなかった。

「面目ない……私は愚かだった。信じるものを誤った。だが、必ず命にかえてもあなた方をお守りします」

 ジャクリーンは槍を構え、きっと開け放った扉を睨んだ。主塔からの出口はひとつしか――寝室に乗りこんで尖塔に移る手はリスクが高すぎる――ない。ホールを閉ざす大扉が開かなければ退路を断たれる。

(先ほどもうかつだった。彼らの死因が罠――毒の類であるとして、まだホールにそれが充満していたなら……私は公子たちを弑すところだ)

 逃げ道を、そして逃げ方を模索するジャクリーンは、足元から一気に這い上がる悪寒に跳ねた。彼女が振り返った時には遅く、何者かがセルヴィアからティオを奪い去り、影のなかに沈もうとしていた。

「待て!」ジャクリーンには叫ぶことしかできなかった。

 それは、誰も見たことのない老爺だった。老爺は靴底からゆるやかに、己の影のなかに沈みこもうとしていたが、突然なにかに弾かれてタタラを踏んだ。

「なんともはや、お強い力を持っていらっしゃる」

 老爺は、火がついたように泣き叫ぶティオに目を落とし、よろめくように奥の通路へと走った。

「おのれ」

 老爺を追って駆けだしたジャクリーンの足元が、爆音とともに大きく揺れた。揺れは徐々におさまり、かと思えば増大しはじめた。玉座の間の中心から床が抜け落ちていく。

「オルガ、アリアテ!」

 セルヴィアはとっさに妹たちを突き飛ばした。そこへジャクリーンが走り、何とか、落下するセルヴィアの腕を掴んだ。床の大穴から、赤い光と熱気が噴き上げた。一階の食堂は火の海だった。

 ジャクリーンに引き上げられながら、セルヴィアは背後の妹たちに叫んだ。

「行け!」

 穴は壁まで広がり、巨大な亀裂がきょうだいの間を隔てていた。

「兄さま!」

「行けオルガ、アリアテを守ってくれ」

 祈るように告げて、セルヴィアはジャクリーンとともに通路へ駆けた。寝室へと続くわずか30キーマの通路、その先へ老爺を逃がすわけにはいかない。

 オルガの未練を断ちきるように走り去った兄たちを見送り、オルガは幼いアリアテの手をしっかりと握った。

「アリアテ、姉さまと離れないで」

 アリアテは涙をこらえた、くしゃくしゃの顔で頷いた。

「強い子ね、えらいわ」

 オルガは溢れる涙を袖で拭い、アリアテの涙も拭ってやって、テラスに出た。向かって左手の階段を駆け下りる。恐怖と不安で膝が震え、何度も躓きそうになった。命を奪われた骸が、どうしても視野の端に映った。オルガは溢れる悲しみを振り払うように首を振り、ふと思いついて、恐るおそる、倒れている兵士に近づいた。骸のベルトから短剣を引き抜く。

「動かないで」

 オルガはまずアリアテのドレスを裂き、次に自分のドレスを裂いた。走りやすいように丈を短く、切れ目を入れ、優雅に余らせた布を切って紐にし、それでスカートをズボンのように足へ縛りつけた。

 オルガは短剣を捨て、アリアテの手をとって扉に向き合った。とうてい開かないであろう、と思っていた扉が、突然、背後からの突風で弾けた。振り返ったが、そこには誰もいない。困惑しながらも外へ飛び出すと、戦場は静まりかえり、命の気配がどこからもしなかった。

 意を決し、オルガは厩に向かったが、馬はどれも泡を拭いて死んでいた。とっさにアリアテを抱き寄せて骸を見せないようにし、オルガは震えながら、自らの愛馬の骸に手を振れた。冷たくなった額を撫で、心細さに震える声で祈る。

「帰り来よ、汝が足で円環より駆けて来よ。いざ立ちたまえ……お願い」

 すると、馬の体は冷たいままびくりと跳ね、こわばった筋肉が軋みながら動き、無理やりに立ち上がった。オルガの愛馬は濁った眼を主に向けると、低く頭を垂れた。

「ごめんなさい」

 オルガは涙を零し、鞍を置いて手綱をつけると、先にアリアテを乗せた。死臭をまとった馬に跨り、妹を抱えて、オルガは手綱を引いた。彼女が馬に示したのは、おそらく砲撃によって崩れた城壁の切れ目。そこから先は急傾斜が続く山の中で、獣の通る道すらない。馬はいななくことができず、ただ鼻を鳴らして駆けだした。



 炎は食堂から這い出し、一階をなべて火の海に変えた。火勢はおとろえず、遮るものがなければ天井まで舐めている。閉ざされた空間で行き場を失くした黒煙が、さまざまなものの焼けるにおいを伴って充満している。

 メヴィーはディエロとともに、昏睡状態のカルラを主塔の寝室に運んだあと、その場を離脱しながら顔をしかめた。

「ゼクスの爆炎か……この炎は石まで焼くのか?」

 返答はディエロではなく、顔の半分に呪符を貼ったドーイからあった。

「いや、食糧庫の油を残らず撒いただけだ」

 彼らは王弟城の中庭に向かった。怪しげな魔方陣の中心に立ち、合言葉を述べると、静かな暗闇に迎えられた。

「英雄の皆さん、お揃いで――」

 けたたましいドーラアングルの音が響き渡り、ドーイは言いさして暗闇を睨みつけた。

「クライマックスはまだかナー♪」

「アレイ・レイオからそのやかましい棒切れを取り上げろ!」

「言われなくとも」

 メヴィーは暗闇の中でも迷わずに動き、力づくで人形師アレイ・レイオから打楽器を奪った。

「ああーっ そんナー……」

 アレイ・レイオは大仰な落胆の声をあげておとなしくなった。

 静寂をしばし堪能してから、ドーイは再び口を開いた。

「全員いますか?」

 口々に返答があり、最後に、誰かがカンテラに火を灯した。ドーイは風を使ってカンテラを頭上に掲げ、集った者の顔が明らかになった。

「どういうことか説明してもらおう」

 憮然としてドーイたちを睨むヴェイサレドは縄打たれ、魔力を封じるやっかいな呪いをかけられていた。これで、召喚はおろか、簡単な術すら使えない。副官セリに至っては強制的に眠らされていた。

 彼らはヴェイサレドたちにこれ以上の危害を加えるつもりはないようだが、もちろん善人ではなく、信用がおけるわけでもない。

「お前は、先の風魔導師だな」

「ご明察。ですが、長々と説明している時間はありません。ここは安全ですが、それは、術者の気力が保たれている間だけの話」

 ドーイが片手を挙げると、ギュスタフ、ディエロが立ち上がった。メヴィーはヴェイサレドに近寄り、かたわらのセリを担ぎ上げて背を向けた。

「待て!」

「ご心配には及びません、白き司に連れて行くだけです。彼の出番はここまでですので」

「出番だと。これは茶番劇ではないぞ!」

「メヴィー、後は私が引き受ける。行ってくれ」

 ドーイに促され、メヴィーはギュスタフらとともに結界の外へ出た。

「で、そちらの報告は?」

「ううう……第二から第九までの魔道士たちは、第零の永久凍土(コキュートス)って結界に封印してきたヨオ……魅了はかかったままデエス」

「わかった。では第零(ヌル)殿をお連れしろ」

「ハアイ……」

 アレイ・レイオは傍らのフードの人物を促し、力なく結界から出て行った。

 ヴェイサレドと二人きりになると、ドーイは腕を組み、風の椅子に掛けた。

「この場は舞台、我々は演者。そう仰っていましたよ」

「あの男がそう言ったのか?」

「ええ。ですからこれは、壮大で馬鹿げた、残酷な茶番なのでしょう。私をあなたに差し向けられた時、手加減などという器用な真似はできないと申し上げましたら、思う存分殺して構わないと仰いましたし」

「殺されていないということは、あれでも加減をしてくれた、ということか?」

 苦笑するヴェイサレドにドーイは首を振った。

「ええ、手を抜いた。サルベジアに分身も何体か置いたままで、物理的に全力を出せない状況でした。お蔭で死にかけましたよ、まったく」

 今度はドーイが憮然とした顔でため息をつき、椅子にもたれ、呪符の上から顔を撫でた。

「仰せつかった命令は足止めでした。殺しても構わないとは言われたが、必ず殺せとは言われなかった……それに、命令が違っていれば、私自身があの場で逃げ出すことも叶わなかった。お互い命拾いしましたね」

 ヴェイサレドの心は凪のように静かになっていった。このドーイという男は敵であり、間違いなく許されざる罪を犯してはいるが、わかっている。すべてをわかったうえで、主を守るためにその命令に甘んじているのだ。

「もう止めることはできないのか」

「ええ。ただ、これは気休めでしょうが……」

 ドーイはヴェイサレドの縄を風で切り、戒めを解いた――しかし呪符は体に貼りついたまま剥がれない。これはメヴィーという女が施した呪いだ――。腕をさするヴェイサレドは、ドーイの言葉の続きを待った。

「オルガ様とアリアテ様は逃がしました。逃げ延びるか否かはお二人次第ですが、ね。セルヴィア様については充分自衛なされるでしょうし、ティオ様にいたってはどう転ぼうと安全が約束されています」

「ここにいた連中は、ガヴォ大臣はギオ様とカルラ様を亡き者にした後、王弟一族はティオ様を除いて根絶やしにするつもりだとのたまっていたぞ」

「ええ。確かにそう命じられました。ですが、我々はたとえ何があっても王弟一族をお守りするようにと、先んじて命じられていましたので」

 ドーイにある種の信頼がおけることはわかった。少なくとも、彼の言葉に偽りはない。安堵はした。だが、素直に喜びがわき上がってくるはずもなく、ヴェイサレドは困惑しきった表情でドーイを見つめた。

「少なくとも、王弟一族の誰かがこの世界で生き延びてさえいれば、あなたは王弟一族の盾を名乗れるわけです。ティオ様以外に王弟一族が生きていれば、我々は必ずその抹消を命じられるでしょう……その暁には、我々を殺してでも王弟一族をお守りください、シオ様」

 ドーイは深々と頭をさげた。

「もはや残る希望はあなたのみ……メンテス様を殺せる者はあなたをおいて他にいない。時が満ちるまでは、どうか賢明なご判断を」

 ヴェイサレドは苦々しい顔で応じた。ドーイは再び頭をさげると、肩を震わせ、しばらく顔を上げなかった。

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