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舞台と役者

 竜伐隊は南西の港町ブオーノへ向かっていた。フィールトは主要な貿易港であるため、いちはやく封鎖されると見越してのことだ。ブオーノは小さな港町だが、島国を経由し、ラティオセルム大陸へ渡る航路は確保されている。

 しかし、ブオーノの郊外にさしかかったところで、竜伐隊の馬脚はぴたりと止まった。地面を噛んだ馬の蹄がもうもうと砂煙をあげる。

 竜伐隊の面々は、驚きと憤りに満ちた表情で行く手をにらんだ。ブオーノと近隣の村からは、黒々とした煙が立ちのぼっていた。家々は打ち壊され、町は焼かれ、人々の苦しみの声が残響していた。隊士たちは、ブオーノを蹂躙しうごめく影を見据えた。

 魔物とも一線を画す最上の生物、【竜】。それも一頭や二頭ではない、十頭近い【亜竜】の群れがブオーノを襲っていた。亜竜は自然に発生する竜ではなく、人が竜を使役しようと夢見て造りだした「まがいもの」である。とはいえ、礎となったのは竜の歴々たる血族であり、能力は軽々と人智をこえる。第一級の危険生物として討伐の対象にもなっていた。

 野生化した亜竜が群れなすことはあるが、人や町を襲うことは稀だ。まして、完膚なきまでに町を破壊するなど、不自然で不可解な行動だった。何らかの方法で竜を町に呼び寄せた、何者かの陰謀としか考えられなかった。

「構え!」

 緊張がはしるなか、隊長セキルの号により、隊士はそれぞれの獲物を構えた。

 何を見聞きしようと任務を遂行する。だが竜を前にして、苦しむ人々を前にして、他に選択肢があっただろうか。

「竜伐隊士が竜に後れをとるは末代までの恥! 総員【飛駆(ひがけ)】! 散開し強襲せよ!」

「応!」

 竜伐隊は強襲体勢にはいった。

「リーチャ、ハ!」

「セム、ハ! ハイ!」

 隊士は自分の馬に号をかける。竜伐隊の戦いでは、手綱はおろか脚でも馬に合図を送れない。隊士の多くは、竜に対抗しうる、両手持ちの弩級の武器を扱う。脚は馬にしがみつくことで精一杯だ。ゆえに、彼らは声で馬を操る。馬は号名を呼ばれることで主の声を聞き分け、号令通りに速度を上げていく。

 全速力で駆ける馬の歩を「襲歩(しゅうほ)」と呼ぶが、竜伐隊の騎馬にはその上段階が存在する。飛鳥(ひちょう)のごとき神速を、いま馬上の主が命じる。

「シルバ、キャク!」

 令を受けたオルフェスの馬は、蹄のたてる音を置き去りにして疾走した。全力を上回る力が引き出され、人馬は風となる。竜伐隊の騎馬のみが可能とする歩法【飛駆(ひがけ)】は、相手から一撃も受けずに攻撃するための手段である。

 隊士たちは馬と自らの耳に防具をつけて飛駆に臨む。速度にかかる圧力で鼓膜がやぶれ、平衡感覚を失わないように、視覚と触覚だけを頼りに突き進んだ。耳を塞ぐため、飛駆の後の号令は馬にとどかない。竜を倒すが早いか、馬の体力が尽きるが早いか……背水の陣だが、死力を尽くさなければ竜とは戦いにすらならない。

 亜竜は黄色や赤、緑など鱗の色もさまざまで、野生にはない輝きを放つ。その燐光めがけてくりだされた槍や剣の一撃が、砲弾をも跳ね返すといわれる竜の体に深々と傷を残した。亜竜が叫ぶ。痛みにか、怒りにか、その咆哮は大地を、為すすべもなく蹂躙されていた人々を震わせた。このうえ何が起ころうとしているのか、家の中で身を寄せ合う人々には、悪い想像しかできなかった。

 セキルは馬上に立ち、派手に暴れている黒い竜のもとへ走った。鞍の留め具から甲冑のつま先を外すと、軽々と跳躍し、セキルは竜のはるか頭上に舞った。小さな人間の襲来に気づいた黒竜は二足で立ち上がり、家を飲みこむほど巨大な口をあけて火花を散らした。

「ふッ」

 セキルは構えた大剣を薙ぎ、空気を蹴って一回転した。三度の回転で、彼女は竜の額を目前にする。急接近したセキルを見失ったまま、火を噴くまもなく、黒竜は喉元まで縦に割られて絶命した。たった一太刀で竜をくだし、セキルは戻ってきた馬の背にやわらかく着地する。

「……ち」

 戦況をみたセキルは舌打ちした。隊士は善戦しているが、竜の数は減らない。瓦礫にうもれた人々を助け、かばいながら戦っていることもあるが、それ以上に不利な状況だった。次々、馬は飛駆をといた。膝をついて動けなくなる馬もあった。隊士と馬の耳から防具が外されると、セキルは声をはりあげた。

「空気が薄い! 馬をひけ、退却!」

 亜種とはいえ、竜が多数集まったことで大気には濃い魔素が満ちている。目には見えないが、セキルは肌でそれを感じていた。魔素はこの世のすべてを構成する要素ともいわれるが、魔物や精霊でないものにとっては毒でもある。少量ならば人間の魔導師でも扱うことができるが、濃度の高い魔素のなかでは、半時と肺がもたない。

 飛駆で体力を使った馬たちは、酸欠とも中毒ともいえる状態に陥りかけていた。盟友を守るべく、隊士はいったん馬を引いて戦場を離れた。鍛え上げられた騎士たちはまだ魔素に耐えられる。彼らは馬をおいて再び戦場に戻るつもりだった。

 竜伐隊が退却を始めると、背後で風が巻きおこり、土埃が視界をうばった。何も見えずとも、音を聞けば何が起きているのか判った。巨大な生き物の羽ばたきが続々と頭上をかすめていく。足の裏には地響きも感じた。

「追え!」

 セキルの号が飛んだ。竜は次々に飛びたち、または地を駆け、次の「目的地」へと向かったのだ。

「誰かが群れを動かしている!」

 忌々しげに言ったセキルは、オルフェスの横を通りざま、馬上から別働を命じた。

「お前と、馬の立てない数名はここで救命にあたれ」

「はっ」

 オルフェスの愛馬シルバは立ち上がろうともがいていたが、セキルはわざわざ馬を下りてそれを制した。

「回復してもシルバは連れてくるな」

 セキルがシルバの腹部を愛しそうに撫でたことで、オルフェスは初めて、シルバが仔どもを宿していることを知った。オルフェスが黙して頷くと、セキルはシルバの額を掻いてやり、竜を追う隊士の列に戻った。

 オルフェスはシルバを休めて鞍を外しながら、セキルの向かった方角を見つめた。シルバを制するため腕をのばした一瞬、甲冑の隙間に見えたセキルの肌。討伐した竜の鱗から鋳造したという自慢の防具、その鮮やかな紅梅色の鱗は、彼女の肌からじかに生えているように見えた。

 セキル・エレノアールを【竜殺しの魔女】といわしめる、並々ならぬ竜への殺意と憎悪。竜によって一族を滅ぼされたためだと風の噂に聞いた。慈悲やためらいなど一切なく竜を斬り捨てるセキルの目は、常に怒りと憎しみに満ちていた。

 オルフェスは首を振って立ち上がった。シルバはそばを離れようとする主を追いたがったが、優しくなだめられ、おとなしく頭を垂れた。

「けが人を探してくる。お前はここで休んでいろ」

 オルフェスは残った隊士数名とともに瓦礫の町へと向かった。



 午後、議会が再開された白き司に飛燕が舞いこんだ。

「ブオーノの竜伐隊より! 亜竜の群れと交戦、東方に移動する群れを追う、との一報! 竜伐隊が一時任を離れるものと思われます」

「亜竜、しかも群れだと」

 議員たちは地図上の白い駒を海岸から内陸へずらした。

「よりにもよってこんな時に……これも何者かの策謀か? よもやメンテスの」

「埒があかん。我々の対処はことごとく先読みされているらしい。せめて、シオ殿が間に合えば良いが」

 手駒の動きを封じられ、じりじりとした焦りが議会に広がった。そこへ、窓からまた一羽の飛燕が飛びこんできた。広げられた羊皮紙の上でツバメは文字に解けていき、文官が忙しくそれを読み上げた。

「セヴォーより! 亜竜の襲来あり! 救援を求めるものです」

「セヴォーはブオーノの東方だ、竜伐隊の報告と同じ亜竜だろう。となれば専門集団がすでに向かっている。そちらは問題ないのでは?」

 文官は各軍から提出された遠征計画表を片手に、新たな白い駒を地図に追加した。

「セヴォー近隣にグエン・アルティディエ・グラトリエ軍隊長ならびにロッシ・アルティディエ・グラトリエ隊長補佐が駐屯しています。亜竜の群れともなれば容易に視認できるでしょう、おそらくこの大隊も討伐に加わるかと」

 グエンといえば、血風魔人(けっぷうまじん)なる物騒なあだ名で知られる武人だった。武功と剛腕によって出世した叩き上げで、ロッシは彼の長男である。

「セヴォーの町長はシーナ・アルティディエ・グラトリエ……グエンの娘だな。所詮は血風魔人もヒトの親、セヴォーを守るためにいつにも増して無茶をやらかすやも知れん。念のため、第一中隊を追って向かわせてやれ」

「はっ」

 文官が指示の飛燕を庁内に飛ばす傍らで、元老院議員が深いしわを刻む眉間をおさえ、誰にも聞こえない声で呟いた。

「群れ為す亜竜……過去にも斯様なことが起きた」

 十五年前、ゲッテルメーデルは亜竜の襲来を受けて滅びかけたことがあった。その真相は裏の歴史として、いかなる書物にも残されていない。



 セヴォーの空は禍々しくよどんでいた。生ぬるい不気味な風が木々を揺らし、鉄の焦げたにおいを町中に運んだ。この世のものとは思えない声が、遠くの空から町全体に降りかかった。

 亜竜の群れは、ヒトの目でも確認できるところまで迫っていた。空を飛び、あるいは地を駆けて猛進してくる亜竜の群れに、人々は戦慄した。誰もが絶望し、逃げることすら諦めていた。軍も防壁も持たないのどかな町は、ただ竜に踏み潰される時を待っていた。

 ただひとり、うら若き乙女は過酷な運命に立ち向かおうとしていた。

「庁舎へ! 役場へ走るんだ! きっと白き司から竜伐隊がきてくれる。それまで持ちこたえよう!」

 人々を鼓舞する乙女の名はシーナ、生まれ故郷セヴォーの執政を任された統括官――町長――である。父グエンの元、兄ロッシとともに修行にはげみ、文武共に優れた官吏となった。シーナの心に燃える正義は父譲りの信念だ。

 シーナは、挫け、うずくまる背中を一人ずつ支えに行った。

「私がこの町を守る」

 彼女の言葉に勇気づけられた人々は、もつれる足で役場を目指した。

「シーナさまの言うとおりにするんだ」

「みんなで助かるぞ」

 励ましあい、支えあいながら役場を目指す人々の顔を見れば、シーナがどれだけ慕われているかがわかる。セヴォーの町民はシーナを心から信頼し、尊敬し、そして娘のように愛していた。偶然にセヴォーを訪れていた旅人、商人などもあわせて数百名が役場に集まると、シーナは門前に立ち、両手を掲げた。

 借り物のステッキで描いた魔方陣の一端を踏み、ひたすら目を閉じて集中する。呪文の詠唱はない。陣には瓦礫や調理道具など、町人が持ち寄った金属が積み上げられている。

 亜竜の群れがどれだけ迫ろうと、恐ろしげなうなり声を轟かせようと、シーナは怯むことなく姿勢を保ちつづけた。やがて、魔方陣の線が一本、また一本と光を帯び、積み上げられた金属が融けあわさり、町役場の建物にがっしりとまとわりついた。

 折しも直上から一匹の竜が襲いかかったが、爪も牙も要塞には通らなかった。次の竜が建物をうち壊しながら到達し、鉄塊の庁舎に向かって炎を吐いたが、これも防がれた。火炎の熱はすぐさま逃がされ、人々はあらゆる脅威から守られた。束の間の安全に胸をなでおろしながら、一人外に残ったシーナの身を案じ、人々は彼女の無事をひたすら祈った。天災とも言われる竜の襲来を受けたいま、祈ることが、人間にできる唯一の抵抗だった。

 シーナは、緊張状態で膨大な魔力を使ったことにより、疲弊(ひへい)しきっていた。鉄の要塞の陰にうずくまり、暴れる竜の尾がかすめるような場所で、指の一本も動かせずにいた。

(動けない……みんなは守れました……父上、兄上)

 目を開けていることもつらかったが、迫りくる地響きにやっとの思いでまぶたを持ち上げた。赤い竜の足が見えた。竜はちっぽけな人間ひとりをわざわざ狙わないが、鉄の要塞に向かってくれば、手前にいるシーナを確実に巻きこむだろう。シーナは覚悟を決めた。

(私が死んでも鉄壁は解けない。私はみんなを守った)

 責務を全うし、大切な人々を守れたことに誇りをもって、シーナは目を閉じた。しかし、命を賭して抗った者を運命は見放さなかった。

「トレア、ハイヤ!」

 鋭い号が飛び、空を切る音がした。サン、という美しい音がシーナの耳に届く。砂に薄い板をつきたてたような、櫂で水を薙いだような音だ。

「おい、生きているだろう」

 頭上からふってくる高圧的な声に顔をあげ、シーナは再び重いまぶたを持ち上げた。白銀と紅梅の美しい甲冑に身を包んだ少女が、頭のなくなった竜の首に仁王立ちしていた。

「あ」

 それしか声が出なかった。シーナは徐々に、目の前に希望があることを理解した。セキルはシーナの無事を確認すると、身をひるがえし、迎えにきた馬の背に降りたった。休む間もなく別の竜へと駆けていき、跳躍し、一刀のもとに巨躯を斬り捨てる。

 血が飛沫をあげて亜竜が絶叫する、その光景を美しいとすら思った。シーナは優雅に戦場を舞うセキルから目が離せなかったが、亜竜を(しい)するものは彼女だけではなかった。馬を駆る騎士たちが、町を貪る竜を次々と倒していった。

「来て、くれた」

 やっと理解が追いつくと、安堵のあまり意識を手放しかけながら、シーナはよろよろと立ち上がった。竜伐隊の雄姿をその目に焼きつけ、ややあって涙ぐむ。死の恐怖を思い出し、絶望を思い出し、人が竜に勝る様に勇気づけられた。シーナはかすむ目をぬぐって庁舎の扉へ向かった。

(竜伐隊が来てくれたことを報せよう。みんなの希望になるはずだ)

 しかし、その足はハタと止まった。聞き覚えのある声が、町はずれの門からシーナを呼んでいる気がした。シーナはおぼつかない足取りで庁舎を通りこし、崩れた外壁に手をつきながら進んだ。町の東部はまだ竜に侵攻されていない。門が見えてくると、その向こうから二頭の馬が走りこんできた。

「シーナ!」

 父はすぐ、石垣にもたれている娘を見つけた。グエンはロッシとともに真っすぐシーナのもとへ駆けつけると、よくぞ無事で、とシーナを抱きしめた。

「父上、兄上。軍はどうしたのですか」

 再会を喜ぶ間もなく、単騎で乗りこんでくるとは無謀すぎると、シーナはやや咎めるように尋ねた。

「大所帯なものでな……一足先に様子を見にきたのだ。けが人はいるのか?」

「いえ、皆無事です。すでに竜伐隊も……」

「それは何より。ふむ、あれはお前がやったのか」

 鉄の要塞と化した庁舎を眺めながら、グエンは誇らしげに笑った。

「それでこそグラトリエの女だ」

 兄ロッシもまた馬を下り、シーナの肩を叩いた。

「よく頑張ったな、疲れているだろう。あとは俺たちに任せろ」

 シーナがほっと息をもらした、その刹那。とてつもない冷気が背中からシーナたちを包んだ。一寸先も見えない暗闇に突如として覆われたかのような、凄まじい絶望感が襲ってきた。雄々しく戦う竜伐隊も、庁舎の中で祈る人々も、町を襲っている亜竜でさえ、背筋を這う悪寒に震えがはしった。

 辺りを見回しても目立つ変化はない。いつの間にか悪寒もおさまり、得体の知れない恐怖と不安だけが人々の胸に残った。

「……とにかく、我々も竜伐隊に加勢する。彼らがこちらへ向かってくれたのは幸運だった」

 グエンは背中の大太刀をとり、町の西部へ馬を走らせた。ロッシはシーナの背中を優しく叩いて馬上に戻った。

「俺たちの軍もすぐ到着する。もう大丈夫だ、お前は中でみんなを守ってやれ」

 兄に背中を叩かれるのは、シーナにとってこの上なく懐かしい感覚だった。先ほどまでの不安がやわらぎ、再び勇気がわいてくるのを感じた。

「兄上、お気をつけて」

「うん、お前も無茶はするなよ」

 シーナは兄の甲冑に触れ、足を軽くおして送り出した。

 ――セヴォーは風車をつかった農耕や宝飾品の加工業で栄えた町だ。シーナが統括官になってからは、街道の整備や宿泊施設の増設なども進められ、より住みよく、美しく、より愛される町に成長した。セヴォーの人々が、小さなことからひとつずつ積み上げて、ともに築いてきた大切な町だ。シーナもセヴォーの一員として、町が無惨に荒らされてゆくのを黙って見ていることはできなかった。

「私も戦う」

 シーナは拳をにぎりしめ、自らを鼓舞して歩き出した。竜伐隊や、父や兄ほどの働きはできないが、彼らの助けにはなれる。兄ロッシは暗に、シーナも要塞へ避難するよう言ったが、その願いは聞けそうになかった。

「私も戦う」

 もう一度唱えて、ふと、シーナは母の形見のことを思い出した。魔よけの首飾り、シーナが嫁ぐときには必ず持たせると、母が生前よく言っていた。

(どうして今、思い出すんだ……家の化粧台にしまったままだ、あの首飾り)

 瓦礫や土で擦れたブーツがぴたりと歩みを止めた。シーナはその場に凍りついた。圧倒的な絶望が足元から這いずりあがってきた。

「少し遅くなったが、迎えに来たよ」

 声のする方を、できれば振り返りたくなかった。竜と戦うことより、ただ振り返ることのほうがなぜこんなにも恐ろしいのだろう。シーナは意を決して体ごと振り向いた。

「なぜ、あなたが……大臣」

 乾ききった口から冷たい息を吐いて、シーナは目を見開いた。

 瓦礫と化した民家に肘をかけてもたれ、悠々と足を組んで(たたず)む、派手な外套をまとった男。メンテス・ガヴォは不敵に笑んで両手を広げた。襟や袖口の毛皮のせいで、その姿はより大きく見えた。

「私はお前が欲しい、シーナ・アルティディエ・グラトリエ。私とともに来るかね?」

 一応は聞くが、といった風で問うメンテスの言葉が、シーナの右から左に通りぬけていった。

「は、あの、何のことを」

 戸惑いながらシーナは考えようとした。竜に襲撃されている町に忽然と現れ、大臣メンテス・ガヴォが何を言っているのか。

「来るというなら、これ以上の血は流さないと誓おう」

「まさか」――シーナは喉をおさえ、つかえる言葉をしぼり出した――「あなた、が? あなたがこれを……こんな、なぜ、どうして」

 呼吸すら覚束なくなってきたシーナに、メンテスはくり返した。

「私と来るかね?」

「だ、誰がお前などと」

 シーナは反射的に抗った。メンテスはやれやれと体を起こし、シーナに向かって一歩踏み出した。

「メンテス・ガヴォ!」

 凛と透き通った声が、怒りに満ちて彼の名を叫んだ。瓦礫を飛び越えて現れたのは、竜を一刀両断に処す竜伐隊長セキル・エレノアール。メンテスは視線だけをそちらに向けた。

「貴様の差し金か!」

「立ち聞きとは、はしたない」

 煙にまくメンテスに、セキルは問答無用で刃を向けた。

「王都の混迷も貴様の策謀によるものか。いったい何が目的だ?」

「教えてやろう」

 メンテスは洗いざらい、何もかも、何が目的であるのかすら包み隠さず二人に告げた。饒舌に語るメンテスの言葉を聞きながら、セキルの高揚した顔は徐々に青く、白くなっていった。メンテスがすべてを語り終えたとき、抜け殻のようになったシーナと、決意に満ちて得物を握りなおすセキルがそこにいた。

「わかった。貴様はここで止めてやる」

 セキルはいちど退いた。隊士を集めて総攻撃をしかけるつもりだった。

 一方のシーナは、力なく瓦礫の壁にもたれていた。

「さて、水をさされたが、返事をもらえるかね?」

「……私は、行かない。あなたには従わない」

 シーナの目には、ひしひしと憎しみが宿りはじめていた。この男の思いのままにさせてはならない。

「それが私の愛した町のため、この世界のため」

 静かに言って、シーナは唇を切り、血で手の甲に魔方陣を描いた。その手で壁から飛びだす鉄筋の端を掴み、先端を鋭く尖らせた。

「私の力をお前には使わせない!」

 シーナの操る「無機物に働きかける魔道」、【錬成術(マテリ・アルケ)】。古代より限られた一族にのみ継承された大いなる遺物である。魔法と失われた科学とが融合した最難関の魔道であり、生命を自在につくりかえ、創造することすら可能といわれる。シーナの力は禁術の域には及ばないものの、悪用しようと思えば、どこまでもおぞましい力となり得るだろう。

 鉄の針に首を近づけたシーナの前で、メンテスは肩をすくめた。

「ならば致し方ない。良い返事が聞けるよう、お前の愛する町にも協力してもらおう」

 メンテスはあっさりと絶望を口にした。シーナが言葉の意味を理解するまで待たず、メンテスは三歩下がって片手を地面と平行に掲げた。たったそれだけの所作だったが、シーナには心臓が凍るほどの悪寒が走った。黒や紫色の禍々しい光が飛び散り、巻き上がる風がメンテスの髪や外套をはためかせた。暗い影に溶けていくメンテスに代わって、徐々に、召喚された禍々しい者の姿があらわになる。

 亜竜を操っているのはメンテスで間違いない、と改めて納得した。シーナは声もなく、紫の巨大な竜を見上げた。毒々しい姿に、救いや希望などいっさいない未来を見た。紫の竜はシーナに前肢(まえあし)をのばし、やすやすと掴みあげた。

「いやっ」

 さすがのシーナもこの時ばかりは、町民や父や兄たちのことよりも、自分の身の心配をした。もがくシーナの耳に、どこか遠方からメンテスの声が響いた。

「お前が招いた災厄だ、シーナ。そこでしっかりと聞け、人々の嘆きを、怒りの声を。見届けろ、死にゆく者どもの苦しみを」

 危機にさらされているのは自分ではない、自分が守ろうとした人々だ。そのことに気づいたシーナは、自らを奮い立たせ、叫んだ。

「どこだ! どこにいる、姿を現せメンテス・ガヴォ!! この竜を止めろ!」

 耐えがたい恐怖をふり払うためにも、シーナはあらん限りに怒った。(あらが)い続けるシーナの魂の叫びに、メンテスは笑って答える。

「舌を噛む勢いだな。少しおとなしくしていろ」

 途端に、シーナの体は金縛りにあった。指先はもとより、開いた口を閉じることさえできなくなり、動かせるのは視線だけだった。

 竜の手のなかで、シーナは心で叫びつづけた。

(この竜は何かが違う。竜伐隊、父上、兄上……誰も挑みかかってはいけない! 政府機関の中隊が来たところで、もう望みは……)

 竜は二足で立ち上がって前肢をのばし、荒廃した町をシーナに見せつけた。もはや絶望しているシーナには、未だ復興の余地はあるとか、人々が戦い続けているとかいった状況にすら、希望は持てなかった。

「やめ、て」

 動きにくい口でそう囁くと、竜はシーナを握る手を高々と掲げた。踏みにじられたセヴォーの姿がありありとシーナの目に映った。

 地獄は、ゆるやかにシーナの前に広がろうとしていた。

 竜はゆっくりと前肢を片方おろし、シーナを持ち上げたまま、地面に向かって息を吐いた。紫の薄煙が竜の喉から地面へと落ち、ベールのように広がっていく。まるで美しい朝もやの絨毯が敷かれていくかのように、紫の淡い煙は町を覆い尽くした。

 シーナは急に辺りが冷えこんだように感じた。まるで、火が消えた暖炉のそばにいるようだった。

 煙が晴れた町は異様に静まり返っていた。

「ああ」

 シーナの声は震えた。鎧に身を包んだ、猛々しい兵士たちが倒れていた。喉をかきむしる格好をした者、悶え苦しみ、地面を転がった跡のある者もあれば、気を失っているだけに見える者もあった。シーナは青ざめ、目を泳がせて父と兄を探した。やっと見つけた二人は肩を支え合うようにしてうずくまり、石像のように動かなかった。

 死の毒だ。

「いや、いやあ……ころ、ひて……わたひも、ころひて」

 すすり泣くシーナを、竜は大事そうに胸に抱えた。頬に触れた腹側の皮膚は軟らかく、温かかった。

(喉元から腹にかけての、この軟らかくて白い皮膚を貫けば、この竜を殺せる)

 シーナの絶望が殺意に変わりはじめた時、ひとつの影が毒霧の晴れた街道を疾走してきた。

「おおおおお!!」

 ただひとり(たお)れなかったセキルが、大剣を振りかざして紫の竜に突進した。後肢(うしろあし)で立つ竜のつま先を蹴って、一気に頭上まで跳ね上がる。その小柄な体からは信じられないほどの力を(もっ)て、セキルは竜の眉間に大剣を突き立てた。

 ギッ

 鈍い音がして、鋼の小片が宙を舞う。竜を殺すために鍛えられた大剣は、切っ先から四方八方へと砕けた。破片がセキルの頬をかすめ、一筋の血が流れた。竜は迷惑そうにゆっくりと首を振り、破片が当たらないよう、シーナを完全に手の中に包んだ。

玉鋼(たまはがね)銀鈴(ぎんれい)にクロムを合わせた竜殺しの剣……鱗の隙間をぬうことで、突き刺すも断ち切るも自在なこの剣が……砕けた)

 セキルは苦笑した。先ほどの毒霧が金属をも腐食させていたのだ。

 竜はもう一方の前肢を上げ、羽虫のようにセキルを叩き落とした。地面と前肢との間で押しつぶされ、白銀の鎧が砕ける音がした。

(何をしている? さっきの、竜伐隊の少女は……何が起こっているんだ)

 シーナは竜の手のなかで浅い呼吸をくり返していた。この息苦しさは、鱗におおわれた手に包まれているからではない。シーナは叫んだ。

(もうやめて)

 竜は決してセキルの上においた手を緩めなかった。しかし、徐々に、竜の前肢は持ち上がり、陥没した地面との隙間から何かが飛びだした。

「殺す! 竜は一匹残らず殺す! 竜は殺すッ!」

 激しい憎悪を吐きだしながら、セキルは身ひとつで紫の竜に飛びかかった。彼女の体を覆う紅梅色の鱗には一筋の傷もついていない。彼女の竜の後脚、大きく開いた手にはそれぞれ鉱石に似た白い爪が並び、小さな口の端から牙がのぞいた。胸に巻かれた鎧飾りの正体は、セキルの強靭な尾だった。

「竜はッ」

 セキルは紫の竜の肩に取りつくと、力任せに爪を突きたてた。白い爪は竜の鱗を貫き、皮を破り、肉を刺した。

「殺すッ!!」

 獣のごとく爛々と光るセキルの双眸に、もはや理性は微塵もなかった。

 紫の竜は低く唸って身じろぎした。竜の肩に食らいつくセキルの体には、鱗のはげたところや、焼けただれたような古傷が残っていた。首や耳には細い締めつけの痕が残り、体にあわない装飾品を長く身につけていたことがうかがい知れた。爪も、後脚や前肢の数本は欠けていた。

「チェルノーシュをこの手で滅ぼす、とはな」

 どこからともなく、メンテスの落胆した声が響いてきた。


 ――チェルノーシュ族という、その美しさ故に滅びた竜の種族があった。

 ヒトと同じくカムサビに似ながら、白磁の肌に映える紅梅色の鱗と白玉の爪を持ち、黒曜石のごとく輝く黒髪を有していた。

 チェルノーシュは精霊界に近い場所でひっそりと暮らし、長らくその存在は世に知られなかった。しかし、ヒト族に発見されたことで彼らの命運は尽きた。

ヒトはこぞって宝石を蒐集(しゅうしゅう)するがごとくチェルノーシュ族を乱獲した。争いを嫌い、抵抗する術のなかったチェルノーシュは簡単に捕えられた。ヒトは捕えたチェルノーシュを見て楽しみ、所有して楽しみ、時には彼らを財に変えた。

 奇特な者に所有されたチェルノーシュは、ヒトと変わらぬ生活をおくり、ある程度は幸せに過ごせることもあった。だが、ほとんどは光の差さない暗がりへ売られ、地獄を見ることになった。

 セキル・エレノアールは闇市で、奴隷の子として生まれた。幼くして母と引き離され、売られ、場末の見世物小屋に置かれた。見世物小屋での仕打ちは耐え難いものだった。見物人に刃物で刺されては回復してみせ、焼けた鉄を押しつけられて叫んでは喜ばれ、剥がされた鱗や爪は宝飾品として売られ、主に巨万の富をもたらす勤めを強いられた。

 幼いセキルは教えられずとも憎しみの本質を理解した。ただただ恐怖するより、憎んだほうがずっと心が楽になった。しかし、セキルは誰を恨めば良いかわからなかった。だから、自分自身を恨み、呪った。

 セキルは竜であることを捨て、竜を憎んだ。

 衰弱したセキルは、見世物小屋から払い下げられた先で逃げ出した。宛てもなくさまよっていたところを、運よく政府の高官に拾われた。彼はセキルの素性を知りながら、ヒトとして生きるための術を教え、武術を習わせ、仕官させ、一人で生きていくための道へ導いてくれた。

 それでもセキルの怒りや憎しみは癒えることなく、負の感情の矛先を竜族に向けることで、彼女の心の均衡は保たれていた。

(私が竜だったから。竜でさえなければ。竜が憎い)


 竜を否定し、拒絶するセキルの拳を、紫の竜は甘んじて受けた。傷からは血も流れず、セキルの爪は核心には届いていない。

「もう充分だろう」

 メンテスの非情な声がして、紫の竜が動いた。緩んだ手の指のすき間から、シーナは一瞬だけセキルの真の姿を見た。竜はセキルを口ですくい取って一噛みした。巨大な顎でセキルの体はほとんど隠されたが、尾や手足から力が抜け、だらりと竜の口からたれるのが見えた。

「ひっ」

 シーナは短く息を吸った。

 竜はセキルをそっと地面に下ろし、顔を舐めて目を閉じてやった。シーナはとても見ていられなかった。

 静かになったセヴォーの亡骸の上に、シーナは解放された。体の痺れはとれたが、心はいつまでも痺れたままだった。

 紫の竜が姿を消すと、建物の(かげ)からメンテスが現れた。

「返事は」

「殺して」

 呟くように言って、シーナは顔を伏せた。メンテスはシーナに歩み寄り、つま先が触れ合うほどの距離に立った。追いつめられ、シーナはついに関をきったように泣き崩れた。

「わ、私を殺せ! ……頼む、殺してくれ」

 指先に、兄を送り出したときの、傷だらけの鎧の感触が残っている。背中に触れた兄の手の温もりも覚えている。久しぶりに話した父の声が頭のなかでこだまする。

 今にもくずれ落ちそうなシーナの肩を、メンテスは力強く支えた。

「前を向け。しっかりと顔をあげろ。目を逸らすな」

 顔を上げると、鴇羽色の双眸が真っすぐにシーナを見つめていた。何もかもを見透かされるような視線に、目を逸らすことができなかった。シーナの目をとらえたまま、メンテスは囁いた。

「私とおいで」

「はい」

 シーナは答えて、糸の切れた人形のように倒れこんだ。メンテスはシーナを受け止めて外套に包むと、彼女を抱きあげ、足元の影に呼びかけた。

「役者が揃った。舞台に戻るとしよう」

「大詰めでございますな……」

 影からはくたびれた返事があった。メンテスとシーナは溶けるように影と重なり、姿を消した。

 一陣の風が吹いた。魔素や毒の消えたあと、大気を埋めるように吹き込んだ風は、潮のかおりを運んできた。もしくは、誰かの涙をのせてきたのかも知れない。

………………………………………………………………。

 自ら【王弟一族の盾】と名乗るヴェイサレド・シオは、リンゴーの着陸したラティオセルム大陸南東から動けずにいた。

「申し訳、ない」

 腕をおさえて切れぎれに言うセリに、ヴェイサレドは背中を向けたまま答えた。

「言うな、セリ。相手が悪い」

 文官であるセリは戦闘を助けることができない。あまつさえ負傷したことにより、ヴェイサレドの足を引っぱっている。リンゴーを還すと同時に、見たこともない魔獣の群れに襲われての体たらくだった。

 彼らが相対しているものは、召喚術の第一人者であるヴェイサレドも初めて見る、水でも炎でも、魔界のものでもない獣たちだった。精霊、あるいは空気に近い魔獣の群れは、圧倒的な速力で、ヴェイサレドに術を唱える隙を与えなかった。

(何とかして、シオ様に詠唱を……時間を稼がなければ)

 セリは必死に考えた。彼が身を挺して立ちはだかった隙に、ヴェイサレドは詠唱の第一段階は終えている。狼のような魔獣に腕をかまれ、骨を折ってしまったセリを、ヴェイサレドは詠唱を中断して庇ったのだ。

 これ以上の足手まといにはなりたくない。セリは意地で立ち上がると、間合いをはかる魔獣の群れに突っ込んだ。

(セリ!)

 ヴェイサレドは胸中で部下の名を叫び、口で呪文の続きを唱えた。

「ロッツォ!」

 ヴェイサレドの足元から漆黒の影が飛びだした。力強い四肢が大地を蹴って、魔獣の群れを蹴散らした。影は黒い風のように、目ではとらえきれない速度で身をひるがえし、セリの襟首を噛んで宙返りした。地面に落とされたセリは、ヴェイサレドの足元でうめく。

「無茶をするな」

 ヴェイサレドは一先ずセリの無事に胸をなでおろした。

 セリには以前から、自分の身をかえりみない一面があった。向こう見ずというか、自分を犠牲にしてまで人に尽くそうとする。ヴェイサレドはその性格を強く案じていた。

「(この若者は自分のことを話したがらないが、長く居場所を求めてさまよっていた様子だった。やっと得た居場所のためなら、セリは何でもするつもりなのだろう……)お前が死ねば、悲しむ者がここに一人いるんだぞ」

「すみません」

 セリは言い訳をしなかった。役に立ちたかったとか、認めてほしいとか、褒められたいという自己顕示欲を表に出すこともない。だが表に出さないだけで、セリは、ヴェイサレドに心配されたことを心苦しくも、嬉しく思っていた。

(たとえ求められなくても、お役に立ちたいんです……僕に、居場所をくれた人のために)

 仰向けに転がって休むセリの足のほうで、ヴェイサレドの呼びだした黒い魔獣が踊っていた。白く透き通る狼や蛇、イタチのような魔獣を次々に散らし、黒い影はぴたりと足をとめた。美しい長毛におおわれ、ぴんと耳を立てた姿は牧羊犬のように見えるが、体高はゆうに1と5分の3キーマ(160cm)あった。

 【アムテグローク】というその魔獣を、セリもよく知っていた。主にラティオセルム大陸やサルベジア大陸の高地に棲息し、高い知能と身体能力を有する獣だ。ただの大柄な犬と違って、若干の魔力を持ち、人語を解す。魔道士の随従としても優れ、耐魔獣用の番犬として一般の民にも広く存在は知られていた。

 ヴェイサレドのアムテグローク【ロッツォ】は、背筋をのばし、ある一点を睨んだ。体勢を低くして牛のような唸りをあげ、ロッツォは主たちに警戒を促した。



 セヴォーと連絡が取れずにやきもきしている議員たちの足元、白き司の薄暗い階段をおりていく者がいた。湿気たにおいのする地下への道を、仄明るいランプだけをたよりに下っていく。麻袋製の粗末な外套で頭からつま先まで覆い、ランプを遠く持って周囲に気をくばり、少しの異変も察知されまいと努めていた。この麻袋には大いなる使命があった。秘密裏に遂行しなければならない、しくじりの許されない使命が。

 麻袋は最下層に降り立つとランプの灯を消し、あらかじめ用意しておいた【自在鍵】を五つ、格子のむこうへ投げ入れた。金属音に、牢獄に囚われたものどもが鋭く反応する。五つの雑房ごとに、最も力のある者、頭の切れる者、罪の重い者など、畏怖される存在が代表して金属片をとった。彼らがそれを自在鍵――鍵穴に合わせて変形し、いかなる錠も開ける魔術のかけられた金属片――と知っていたかは定かでないが、迷うことなく南京錠へ金属をさしこみ、手首をひねった。方々で錆びついた鍵が開く音、重い南京錠が地面におちる音がした。奇妙な残響に、鉄格子の扉がきしりながら動く音が加わった。

 白き司の真下には、サルベジア大陸最大の地下牢が存在する。それがこの場所だ。

 解放された囚人たちは慎重に進んだ。地上へ続く階段に足をかけ、一歩ずつ着実に自由へと向かっていく。彼らの行列を見送り、麻袋はさらに奥へ、光のない独房へと進んだ。独房は一筋縄ではいかない。収監されているモノもしかり、施された鍵もしかり。

 麻袋はたもとから数枚の呪符を取り出すと、ひとつの独房につき三枚ずつ放った。呪符は、独房を守る結界に触れるやいなや、巨大な空気の爆発を起こした。不可視の爆風が渦巻き、さらなる爆風とまざりあい、真空と莫大な空気とがぶつかりあう。風の摩擦によって結界はすり減り、打ち消され、魔術のかかった錠前ごと風化して砕け散った。

「ギシャアゥウウウ」

 独房のひとつから上がった雄たけびに、麻袋は慌てて身を隠した。右手奥の独房から、2キーマはあろうかという影がのそりと這い出した。とっさに雑房に隠れ、壁にはりついた麻袋のわきを、影は四つ足をついて素早く通り過ぎていった。囚人の誰かが道しるべに灯したのか、小さな明かりが点々と階段を照らしている。明かりにうつしだされた影の正体は、赤い鱗をもった巨大なトカゲ――リザロイドと呼ばれる、血の気の多い魔獣――だ。自然の生き物ではなく、人がかつて竜を造りだそうとして失敗した産物である。

「フシュル」

 リザロイドは階段の前で立ち止まり、麻袋のいる雑房へ顔を向けた。尖った口先から細い舌を何度か出し入れし、においや温度を探る。すぐに興味を失ったらしく、リザロイドは階段を這いずるようにのぼっていき、数秒で見えなくなった。

 麻袋は雑房から出ようとしなかった。リザロイドや囚人の団体などより厄介なものどもが、未だ独房にひそんでいるからだ。しばらく待つと、ひとり、またひとりと、たしかに人間の形をした影が階段へ向かっていった。形は人間だ。だが、おぞましい罪を犯し、中身は果たして人と呼べたものかわからない連中だった。

 最後にのそのそと階段に向かったのは、リザロイドに並ぶ体格をもった大男だった。不安そうに何度も周りを見回してから、おろおろと階段をのぼっていく。明かりに照らされた大男の見てくれは、魔獣に匹敵するおぞましさだった。岩のようにごつごつとはり出した骨格、ふくれあがった筋肉、木彫りの仮面によく似た顔。手足を頑強な鎖に縛られたまま、彼は怯えるように縮こまって、ゆっくりと階段をのぼっていった。

 麻袋はようやく雑房から通路に出て、誰かを待つように、残らず扉のあいた独房のほうへ首をのばした。

 すとん。

 ほとんど聞こえない音――わずかな空気の揺れ――を、麻袋は感じとった。気配は感じないが、背後に何者かが立っているのがわかった。麻袋が振り返ると、獣のように光る双眸と目があった。

「君を待っていたんだ」

 麻袋は一歩、二歩とさがり、青年と距離をとった。麻袋がフードのなかに手を突っこむと青年は身構えた。麻袋は袖にかくれた片手を大げさに振った。

「君の相棒を連れてきたんだよ」

 麻袋の言葉を聞いて、青年の構えがわずかにゆるんだ。麻袋は外套の内側から細長い金属の筒を取り出した。巨大な自在鍵……ではない。筒を見るなり、青年の目の色が変わり、みずみずしい人間の目になった。

「ちゃんと手入れしてある。大変だったよ、なにせ、普及しなかった幻の武器で、製法も扱い方も謎なんだから」

 うやうやしく片膝をつき、麻袋は両手で筒をさし出した。青年は筒をひっつかむと、中をのぞきこんだり、握りの調子をたしかめたり、シリンダーの具合をみたりと、あちこち調べはじめた。得物の点検を終えると、青年はすっかり人らしい顔つきに戻っていた。

「銃。それも長銃(ガイル)と呼ばれる代物だ。君の通り名も獲物に因んでガイルといったね……囚われたとき押収された薬莢も、ここに」

 麻袋はガイルの足元へ木箱をすべらせた。蝶番の蓋をあけると、円錐のような形をした金属の弾丸が十数、埃もなく、ガイルの顔を映した。

「それで、折り入って相談がある。君の気が向いたらでいいんだが、我々の崇高なる目的のためにその銃の腕を……」

 麻袋が言い終らないうちに、ガイルはシリンダーに弾丸をこめ、一呼吸のうちに発射した。空気を巻きこみながら弾丸は加速し、避けようと思考する隙すらあたえず、麻袋の腹へ大穴を穿った。撃たれた麻袋には、遅れてズガアンという重低音が聞こえた。

「おお、すごい威力だ」

 麻袋はひらひらと中空で棚引きながら、ガイルをしげしげと眺めた。ガイルは狙撃の反動で1と半キーマほど後退していた。

「うんうん、ますます欲しくなる。惚れぼれする戦力だ」

 言って、麻袋はへたりと地面に広がった。怪しみながら近寄ったガイルが銃身の先で持ち上げてみると、正真正銘の麻袋だった。布きれの中から一枚の呪符が舞い落ちた。あらゆる物質を人形に仕立て、術者の意のままに行動させることができる【式術魔法】と呼ばれる術だった。

「ふっ」

 ガイルは感情を息に表すと、麻袋をうち捨て、地上を目指した。

 地下牢が空になると、呪符は地面から舞い上がり、再び麻袋におさまった。

「やれやれ、呪符を破られなくて助かった。一枚節約できたな」

 空気をはらんだ麻袋は立ち上がり、階段の灯をひとつずつ消しながら地上へ戻った。白き司に近づくにつれ、耳に入る喧騒は大きくなっていった。

 内乱の混乱に囚人らの脱走も加わり、白き司は混沌と化していた。すでに捕えられた者や骸になった者が、兵士も囚人もなく通路に転がっていた。市街地への流入を防ごうという努力もむなしく、麻袋の見たところでは、曲者連中の姿はそこになかった。誰より先にシャバへくり出していったのだろう。

 麻袋は騒ぎに乗じて北門に向かった。開かずの門と呼ばれる北門は、魔物の徘徊する荒野と国民の居住区とを隔てる関門。ここ数十年は閉ざされたままになっている。当然、門兵の姿もなく、脱獄囚の対応におわれる白き司の目にはとまらない場所だった。

 監視の穴となった北門に、独房から解放された大男の姿があった。麻袋が親しげに手を振りながら近づくと、大男の影から小柄な獣族が飛びだした。少女は強い光を放つ目を麻袋に向け、美しい黄と黒の縞になった毛並みを逆立てた。

 麻袋は大仰に肩をすくめてみせた。

「怒っているのか? 一つめの条件は満たしただろう。こちらは約束を守った」

「あんたの言った条件、本当なんでしょうね」

 縞柄の太い尾を不機嫌に振りながら、少女は爪をむき出しにしたまま問うた。麻袋は「もちろん」と答えて両腕を大きく広げてみせた。

「我々には君たちの力が必要だ。彼は怪力に加えて精霊の力を宿している。そして君は武闘に秀で、人族など足元にも及ばぬ身体能力を誇るラフト族。素晴らしい逸材たちだ」

 この麻袋は、初めて少女の前に現れたときも麻袋の姿だった。正体を、本心を見せない策謀家。鼻につく大仰な仕草、喋り方。すべてが胡散臭く感じる。そんな男を信用できるものか、と、少女は警戒をとかなかった。

(手を組んだんじゃない、利用させてもらっただけ。まさか、本当に「囚人の一斉解放」なんてバカげたことをしでかすとは思わなかったけど……)

 誘いに乗ったふりをして、利用した。目的が済めば用は無い。

「あたしの目的は果たされた。ここで降りるわ。あんたには悪いとも思わない。顔も見せない輩を信用できるほどお人よしじゃあないんでね」

 少女はきっぱりと言ってから、大男に向き直って肩を優しくたたいた。

「ほらっ あんたのせいで余計な手間がかかったじゃない。さっさと行くわよ、まったくウスノロでドジなんだから!」

「ア、ア、ウウ」

 少女が背中を向けると、麻袋は、あるかどうかもわからない口を開いた。

「『猛獣使いアルメニア・ウィード』に『怪物ヴィッソ』」

 ぴたりと少女の動作が止まった。丸みをおびた耳が、頭のうえでゆっくりと反りかえり、後方の麻袋の声に集中した。

「セピヴィア大陸の見世物小屋から逃げてきたんですよね……客引き抜群、稼ぎ頭の見世物がいなくなって、雇い主はさぞ嘆いているでしょうねえ?」

 まとわりつくような敬語がアルメニアを縛りつけた。ヴィッソは心配そうに、アルメニアと麻袋とを交互に見つめた。

「そうでしょうとも。貴女にとって彼はオトモダチでも、ハタから見れば怪物以外の何物でもない。ご覧なさい、岩石が動いているようじゃあないですか!」

「オ、オ」

 うろたえるヴィッソの腕を、アルメニアは小さな手で引っぱった。

「いいの。黙ってて。無視しなさい」

 しかし、アルメニアの耳は麻袋のほうを向いたままだった。麻袋は悠々とその辺を歩き回り、空を仰いだりして、アルメニアが振り返るまで待った。

「あんた、あたしたちの何を知ってるって言うのさ」

 怒りに燃える緑の瞳を、麻袋は――そこに顔があるとすれば――満面の笑みで迎えた。

「さあね。私が知らないように、世間一般で普通に暮らしている人々もいっさい知らないことでしょう。アルメニア、あなたのことも、『怪物ヴィッソ』のことも」

「怪物と呼ぶな! こいつは、ヴィッソはそんなんじゃない」

 思わず感情が昂ぶったアルメニアは、毛並みが逆立ってゆくのを抑えられなかった。怒りに流されれば冷静な判断ができなくなる、それはわかっていたが、ヴィッソのことを引き合いに出されると我慢ができなかった。

「知りませんねえ。だって、知らないから『怪物』だと思うんじゃないですか。ここから先どこへ行こうが、彼は『怪物』として奇異の目にさらされ、迫害にあい……悲劇的な末路をたどるより他にない。この国でだってどんな目にあったことか! 私が助け出さなければ、貴女には、彼を救うことだってできなかったじゃありませんか!」

「それはっ」

 引き合いに出されているヴィッソ自身はアルメニアをなだめようとしているが、アルメニアの心は揺さぶられ、怒りは高まる一方だった。ヴィッソを怪物呼ばわりするこの男が許せない。理由も聞かずに牢に閉じこめた世間が許せない。そして、何一つしてやれない自分の不甲斐なさが許せなかった。

 やるせない怒りに言葉をつまらせたアルメニアに、麻袋はここぞとばかり演説をぶった。

「だからこそ! 我々が必要としているように、貴女がたも我々が必要なのですよ。お互いに必要としあっている。我々に協力してくれさえすれば、名誉も財も思いのまま!」

 アルメニアの鼓動がひときわ昂ぶった。何かが、少女のなかで崩れていった。アルメニアの緑の瞳が震えているのを、ヴィッソは心配そうに見つめていた。

 麻袋はアルメニアたちに近づき、胸に手をあててひざまづいた。

「名実ともに『英雄』になれるのです。どうか我々にお力添えを」

 アルメニアは力なく、しかし希望に震える声でその単語を復唱した。

「英雄……」

 ヴィッソの為を想うあまり、アルメニアを案じるヴィッソの顔を見ないまま、彼女は麻袋の差しだす手に手を重ねた。

「ご協力感謝します。では、参りましょうか」

 麻袋はアルメニアの手をとってエスコートしながら、ヴィッソを手招きした。

「さあ、悪夢の脱獄囚どもを蹴散らして、善なる国民たちを救いましょう。心優しいあなたにはうってつけのお仕事じゃありませんか? ヴィッソ君」


 王立軍は、白き司の地下牢から一斉に溢れ出した暴徒囚人の鎮圧に駆り出されていた。しかし実動部隊は軍の中でも中位以下の者たちに限られ、力のある武将らは、いまだに会議にかかりきりだった。王立軍と囚人の手練れの実力は拮抗し、一進一退の攻防戦が繰り広げられた。

 その中に颯爽と、麻袋に伴われたメヴィーとヴィッソが現れ、囚人たちを次々にのしていった。

「おい、あれは地下牢に捕えていた怪物」

 指令を勤める兵士の口を封じて、麻袋は声を風に乗せ、ゲッテルメーデル中に行き渡らせた。

「口を慎みなさい。彼は怪物などではない、我ら【精兵連】の勇士、ヴィッソだ。見たまえ、いったい君たち何人分の働きをして、何人の民を救っている? 見てくれを恐れる前に、その行動の潔さと心の清らかさをなぜ称えない? まさに英雄と称賛するに足る男ではないか!」

 町人たちも初め、怪物のような見てくれのヴィッソを恐れたが、麻袋の声で見る目が変わった。

「そうだ、俺たちを守ってくれているじゃないか」

「がんばれ大男!」

 凶悪な囚人から守ってくれると理解したあと、人々は一転してあたたかい声援をヴィッソに注いだ。

「オオ……」

「ちょっと、涙ぐんでんじゃないわよ! 危ないったら!」

 アルメニアはヴィッソを助けながら、囚人退治に参加しない麻袋を一瞥した。

「口は達者なのね。で、あんたの本体はどこにいるのさ」

 空っぽの麻袋は両手をひらひらさせ、南西の方角を示した。

「使命を果たすべく戦ってますよ。そりゃあもう、君たちのお相手よりずっと手ごわいものとね」

「ふうん。竜でも相手にしてるの?」

 厭味っぽく言ったアルメニアに、麻袋は片袖をフードにあて、考えこむ仕草をした。

「竜ねえ。たしかに、相当手ごわいですよ。亜竜の相手をしたほうが楽かも知れない」

 つかみどころのない麻袋の言葉を、アルメニアは本気にしなかった。聞き流してヴィッソの顔をうかがう。相変わらず無表情で、落ち窪んだ目に光はない。だが使命感にあふれ、嬉しそうにしているのが、ずっとそばにいたアルメニアにはわかった。

 ヴィッソが剛腕をふるって囚人を殴りとばすたび、逃げ惑う人々は安堵し、歓声をあげた。

(……よかったね)

 アルメニアは俯いて、泣き笑いする顔を隠した。



 ラティオセルム大陸南東の平野、睨みあいは膠着したきりだった。時おり吹く風が砂を巻き上げ、場に冷気を満たした。

 ロッツォの低い唸りは続くが、一向に魔道士――あるいは魔導師――と思しき姿は現れなかった。黒犬の毛は逆立ち、体が二倍にも膨れて見えた。

 セリは首をめぐらせて様子をうかがった。砂ぼこりの動きで、風が一点に集中していくのがわかった。

「風魔道……文献に記載があるだけの、断絶した古代魔道」

 セリは呟いた。召喚魔道に次いで稀少であり、もはや絶えたと言われている風魔道。

「惜しむらくは、こんな形で出遭ったことだな」

 ヴェイサレドは苦笑した。風魔道の正確な威力や術について、現代で知る術はない。だが文献にはこう記されている。唯一、水魔道の優位に立つ魔道だと。

 ヴェイサレドは次の手を考えていた。彼の選択は闘争ではなく逃走。隙をついてリンゴーを呼び出し、一刻も早く王城へ向かわねばならない。ところが、姿を見せない相手には、ヴェイサレドのつま先がどちらへ動いているのか、はっきりと見えたようだった。

「おや、どちらへ?」

 耳元で囁かれた気がして、ヴェイサレドは反射的に手を振り上げた。その一瞬の隙をつき、風が轟音をたててセリをさらった。

「シオさまっ」

「(しまった)セリ!」

 叱咤して、ヴェイサレドはすぐさま詠唱に入る。

(戦ってねじ伏せるしかない、か)

 これまでの戦法といい、セリを人質にとったことといい、ヴェイサレドの足止めを目的としていることは明白だった。セリの命がかかっている以上、ヴェイサレドは必然的に最強の一手を打つしかない。それに対抗するだけの手を、果たして相手が持っているかどうか、勝敗はそこにかかっている。

 ヴェイサレドが構えると、相手は一瞬早く詠唱に入った。魔道の風が空気を冷やし、辺りに霧がたちこめはじめた。かすむ景色の彼方から、反響し残響する詠唱が聞こえた。

「Gu’’randhu(グ・ランデュ),ete:pal(エテパル),lance’lo:(ランスロ・テ).Rve;ce’nura(レヴ・セ・ヌラ),en:jho’ste(エン・ヨステ),rere:ent’eisco(レーリエン・テ・エイコ)

 水魔道のように、詠唱はヒトの言語ではなかった。古代語とも違う、より精霊に近しい言霊が歌のように唱えられた。言葉の意味の一つひとつは解らなくとも、詠唱にかかる長さから、相当の力を秘めた術であることがうかがえた。

(導師級の実力者か)

 半歩遅れて、ヴェイサレドは詠唱に入った。

「エヴィラの庭より其を賜いて我が牙とし、我が爪とし、汝の名を盾とする」

 魔界と精霊界との間には、【境界(エヴィラ)の庭】――または煉獄――と呼ばれる場所がある。戦で命を落とした英霊は庭に留まることを許され、召喚士の呼びかけに応じたものは、再び戦うために現世へ戻ってくる。

 回帰した魂が精霊となるか魔物となるかは術者の系統による。ヴェイサレドの召喚術に適合するのは魔界の混沌にある者ども。呼び出される英霊は、魔物へ転生することもいとわない戦士だ。

「Du’llo:wa.(デュローワ)」

k(クー):far’lin(ファリーン)

 詠唱の終わりは同時だった。

「シオ様」

 四肢を風に拘束されて宙づりになりながら、セリは叫んだ。

 風魔導師の術は完成し、フードを目深にかぶった術者当人の体を覆った。風魔導師の右手には盾、左手には巨大な槍をかたどった風が渦巻き、腰から下は山岳に暮らす山羊のような四肢に包まれた。

「シィッ」

 風魔導師が突風をまとって大地を蹴ったとき、ヴェイサレドの眼前に渦巻く闇から影が飛びだした。小柄な少女のようにも見える影は、つるはしを幾本も束ねたような爪を振り上げ、風魔導師に襲いかかった。

 ヴェイサレドの召喚に応じた英霊は、生前と変わらない姿をしていた。白磁の肌に映える紅梅色の鱗、猛々しい黒髪のチェルノーシュ。

「おおおおおッ」

 かつてはセキルと呼ばれた英霊は、白玉のように美しい爪を風の盾に突きたてた。風魔導師は突撃を受け流して体勢をたてなおし、すかさず左から刺突をくり出した。しかし、風におされた槍の速度をも見切って、チェルノーシュは首に一筋の傷を負いながら追撃を放った。

 獣のごとく本能を剥きだして襲いかかる竜族の力に、さすがの風魔導師も踏みとどまれず、蹄を地面に埋めながら後退した。

「このデュローワを押しかえすとは……さすが、死してなお竜の力とはこれほどの」

 男のお喋りが止んだ。セキルは風魔導師の胸ぐらをつかみ、渾身の頭突きを食らわせた。短いうめきが上がって、風魔導師はよろよろと後ずさった。その瞬間を逃さず、控えていたアムテグロークが飛びかかった。

「ぐっ」

 アムテグロークの牙が深々と風魔導師のわき腹をとらえた。が、致命傷には到らない。風の鎧によって牙の勢いが殺された。

 怯んだ風魔導師をセキルが追撃した。軸足で地面をとらえ、遠心力をのせた渾身の回し蹴り。これは振りかぶりが大きく、かわされた。だが、体をひねった風魔導師は、視界の端にセキルの二撃目をとらえて顔をひきつらせる。

「ひ」

 彼が息をのんだ直後、セキルの頑強な尾が風魔導師の左肩を砕いた。風魔導師は空気の尾をひいて横に飛び、地べたを何度も転がっていった。

 術がとけて解放されたセリは、地面にたたきつけられる前にロッツォにくわえられ、ヴェイサレドの元に戻った。

「大事ないか」

「はい……あの男は」

 風魔導師は立ち上がったが、戦意は失ったようだった。砕けた左肩をだらりとぶらさげ、一歩ずつ後ずさっていく。

「わ、私の役目はここまでっ」

 あれほどの術を駆使した難敵とは思えない、震えてわななく情けない声で叫ぶと、風魔導師は術を唱えて姿を消した。

 ヴェイサレドはしばし呆気にとられてから、セリに応急処置を施し、リンゴーを召喚した。ヴェイサレドといえど、一度に三体の遣い魔を召喚し、それぞれを保つことはできない。まずロッツォをサルベジアの原野に戻すと、ヴェイサレドは改めてセキルに向き直った。

「そなたほどの英傑がいったい誰の手にかかったのか……」

 セキルは竜伐隊をまとめ上げる女傑、敗北を喫す相手は限られる。

「つまらぬことを聞いた。忘れてくれ」

「忘れよう。どうせ、死霊は生前のことを語れない身なのだから……エヴィラの庭で待っているぞ、シオ。私を再び戦わせてくれること、感謝している」

 そう言ってから、セキルはとても淋しそうな顔で首を振り、エヴィラの庭へと還っていった。

 リンゴーの背で風を切りながら、ヴェイサレドは苦虫を噛み潰したような顔をしておし黙っていた。セキルを殺したのは、かつて彼女の命をすくい上げ、新たな人生を与えた男に相違ないだろう。セキルが彼に尊敬以上の念を抱いていたことも、ヴェイサレドは知っていた。

(あなたが自らの手で築き上げたものを、なぜ今、壊してしまうのだ)

 答えを求めて、ヴェイサレドは一路、カラデュラの双子の城を目指した。

※竜伐隊式:馬の歩法 ハ 常歩(なみあし)

            ハイ 速歩(はやあし)

            ハイハー 駈歩(かけあし)

            ハイヤ 襲歩(しゅうほ)

            キャク 飛駆(ひがけ)

            シー 速歩~常歩まで減速

            ドー 停止

 号令をかけるまえに、必ず馬の号名を呼ぶことで識別させる。

 号名であって、愛称ではない。

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