日常 -戦火の夢-
燃え上がる炎にまかれ、人々が、獣が、精霊たちが赤く染まりながら踊っている。叫び、喘ぎ、焼かれる体をひねりながら走っている。子どもを抱いた母親が半狂乱になって逃げ惑う。男が瓦礫を掻きわけながらわめいている。
誰もが悲劇の舞台で嘆きもがく。
「生きるんだ」
老人は息子たちの背中を力強く押して叫んだ。
オルガは鋭く息を吸って跳び起きた。じっとりした汗が滝のように流れ、心臓の鼓動は外に漏れ聞こえそうなほど大きかった。夢で見た凄まじい炎の熱さや焼け焦げのにおいまで、目が覚めたあとも感覚として体に残っていた。
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朝一番の鶏が鳴く頃、露のおりた草を踏み、メンテスは王弟城の中庭に現れた。花の手入れをしていたオルガは慌てて立ち上がり、ドレスの裾についた露をはらった。
「まあ……い、いらっしゃるなら私、御迎えに出ましたのに」
頬を赤らめるオルガに、メンテスは優雅に一礼して微笑んだ。
「王弟陛下はどちらに?」
「あ、書斎に」
「恐れ入ります」
目を伏せてもじもじしていたオルガが顔を上げると、メンテスは目の前まで歩み寄り、綿毛をつつむようにオルガを抱きしめた。声も出ないほど驚くオルガの耳元に、メンテスは声を落としてささやいた。
「今日は花のことはお忘れなさい。兄君には狩りに出ないよう、妹君には庭遊びを我慢するようにお伝えなさい……誰ひとりとして外に出してはなりません」
「わ、わかりました。わかりましたから、その、私、胸がくるしくて」
「どうか無礼をお許しくださいますよう」
メンテスの腕が解かれると、オルガはその場にへたりこんだ。冷えきった手で顔に触れてみると火のように熱かった。しばらく濡れた芝のうえで頭を冷やしてから、オルガは靴の泥をはらい、尖塔に戻った。開け放していた大窓にしっかり鍵をかけると、セルヴィアを楽器の稽古にさそい、アリアテには文官による授業を受けさせた。
――誰も外に出してはならない。
「おにわにでちゃ、めっなの?」
「今日はお勉強の日だからよ。いい子にね、アリアテ」
――あの人が言ったことだもの、きっと重大なわけがあるのよ。けれど、何かしら。胸騒ぎがする。
書斎では書籍の山が崩れ、インクが敷物の上を這った。
「……これは現実か? 嘘だと言ってくれないのか、メンテス」
「国王陛下の勅令です。もはや私でも止めることはかなわない」
今朝方、国王の勅令が下された。
【政府機関を二分する派閥問題は深刻であり、かつ、王弟一族ならびに王弟派閥内において謀反の動きありと判じた。よって王弟一族と此れに属する一党を処刑し、以降、王家は現国王一家のみと定める。】
「謀反の首謀者は王弟陛下、あなたです。王弟一族はなべて斬首刑、ただし捕縛における生死は問わず」
「我々が王家を裏切るなどあり得ない」
「言われずとも王弟陛下とご一族に叛意のないことは明白。国王派の官吏の内でも、此度の勅令を疑問視する声が上がっています……が、国王の勅令となればもはや真偽を争う段階ではありません」
王弟派の官吏らに革命を起こす腹づもりがあるにしろ、少なくとも現時点では反旗のはの字もひるがえっていない。だが、事実なき罪でも王の言葉で真実になる。国王は、濡れ衣を着せてまで王弟を排除しようとしている。
「国王陛下が王弟陛下のお声を聞き入れる可能性もないでしょう。裁判は開かれず、今日にも出頭の令がくだり、拒否すれば武力を行使するでしょう」
ギオは口を開き、何か言いかけたまま膝からくずれ落ちた。茫然とするギオの前にひざまづき、メンテスは胸に手をあてて誓いをたてた。
「今この時を以て私は大臣職を辞し、いち臣下としてあなたのもとへ下ります」
ギオは顔を上げた。希望と困惑が入り混じった奇妙な表情だった。
「国王陛下の意思をこうしてお前から聞くというのも、考えれば妙な話だ。なぜ大臣であり相談役であるお前が、すべてをなげうって私に味方してくれる? 判りきった結末が待っているだけだ。お前まで巻きこむわけにはいかない」
「ギオ様、御身とご家族をまずご案じ召されよ。私の行く末など瑣末なこと」
意識がもうろうとしてきたギオをメンテスが支えた。歪む視界で、メンテスの鴇羽色をした目だけがはっきりと見えた。
「ここ数年のうちに国王陛下の【ご病気】は重くなる一方、今となっては国王派の傀儡といっても過言ではない……何度もお諫めしたが無駄だった。私はあなた方を御守りすべく手を尽くして参りました。覆らぬ虚構を現実に変えてしまえばいい。私が貴方を護りましょう。戦うのです」
メンテスは、オニキスのようなギオの目を覗きこんでゆっくりと言った。その声はどこかよそよそしく、感情がこもっていなかった。
「戦う? 国王軍と戦えというのか。多くの人々に血を流させよ、と」
「恐れるな、死にたくなければ……妻や子を死なせたくなければ、戦え」
ギオは糸の切れた人形のごとく床に倒れ込み、しばらくして顔を上げると、その双眸は赤潮にのまれたように染まっていた。
「そうか、戦う……戦わねば守れない」
「下でお待ちしております、陛下」
メンテスは北鼠笑み、花の香りがのこる書斎をあとにした。
回廊の物陰からメンテスを呼び止める声が上がった。
「坊ちゃま、【精兵連】の招集完了いたしましたぞ」
「うん、ご苦労」
進行方向を見据え、歩みを緩めずにメンテスは答えた。影は途中までメンテスを追ったが、徐々に減速してとどまり、メンテスの背中を見送った。
「これが坊ちゃまの真の望みだというのか……」
国王城は騒然となり、文官も武官も方々へ駆けずり回った。常に王弟派打倒の機会をうかがっていた国王派の面々も、いまだ半信半疑だった。
「ついに国王が動かれる」
「急ぎ白き司の軍部に連絡を。王弟の武力など高が知れるが、王立軍をもって完膚なきまでに叩きのめす」
玉座の間に設けられた第一作戦会議室では、将校らが額を付き合せていた。そこに颯爽とメンテスが帰還した。将校らはいっせいに視線を大臣へ向けた。
「王弟は軍備をととのえている。早ければ明日にも開戦となろう」
メンテスが武具や兵士のコマを盤上で動かす、その指先に視線が集中した。
「何たることだ。これほどの動きを我々が把握できなかったは由々しき事態」
「王弟を見縊っておったわ。牙など持たぬ聖人君子の顔をして、裏では王政転覆を狙っていたとは」
将校らは腕組みしてうなった。メンテスは離れた位置に用意された六つの駒を指した。
「具体的な兵力差は、城内だけで約二千。王立軍全軍を招集すれば三万。王立軍をあわせた全勢力を投入すれば半日もせずに力技で勝てようが、天然の要塞であるこのカラデュラは平地が少ない。全軍を結集させることなど物理的に不可能だ。かといって選り抜きを呼び寄せたにしろ、最も機動力の高い第六分隊であっても到着までにそれなりの日数を要する」
「つまり、数日間は我が城の兵だけで持ちこたえねばならんということですな」
「だが充分ではないか? こちらには攻城兵器や魔道兵などもそろっている。もともと国王城は攻城戦に耐えうる造りだ。戦を長引かせて第六分隊の到着を待ち、消耗した王弟軍を叩けば被害も少ない。大臣閣下はどう思われますか」
「それで良いだろう。引き続き、向こうの様子は【精兵連】に探らせる。今後の総指揮はレメレ将官に一任する」
「はっ 思い上がった王弟一族に目にものを見せてくれましょう!」
メンテスは会議室を出て、足早に大臣執務室へ向かった。手狭な応接間のような部屋で、メンテスは膝をついて絨毯を握りしめた。
「私を弄んで満足か? この私を利用しようなどと、貴様は神にでもなったつもりか」
苦しげに息を荒げ、メンテスは口の端をつり上げて笑った。
「思惑通りになどさせん、必ず殺してやる。悔いて待つがいい」
常に影として寄りそってきた老爺は、カーテンの陰でメンテスの乾いた笑いを聞いていた。
「坊ちゃま、そこまで王族をお恨みになっていらしたとは知りませんでした」
たまらず声をかけると、メンテスの乾いた笑いはぴたりと止まり、感情のこもらない声が返ってきた。
「俺は呪いに縛られた運命を憎まぬ日などなかった。父を死なせ、俺をむしばみ……だが、奴らが死に絶えればそれも終わる。念願の一族復興もかなうぞ、爺」
「ですが、呪いの件はギオ様と解呪の法を模索しておられたではありませんか? 爺には、とてもギオ様が坊ちゃまとの約束を違えるとは思えません。坊ちゃまには、ギオ様に全幅の信頼をおかれたからこそ、本来の名をお教えになったのではありませんか」
「結局、解呪の方法などありはしない。王家の血筋に名乗ったのはうかつだった。おかげで、王弟までもが忌々しい呪いを自在に操れる。国王ともども確実に死んでもらわねばならない……爺よ、所詮人間というものは強大な力に目が眩み、おぞましい欲望をわき上がらせる害悪でしかない」
メンテスはさらに息を荒げ、ソファに這い上がるなり眠りに落ちた。老爺は影から抜け出て、うなされながら眠るメンテスにひざ掛けをかけた。
「坊ちゃま、いったいどうなされたのです……」
落胆する老爺の耳にノックの音が届いた。
「ドーイ・イヴェロイ、アイーシャ・リオナ参じました」
「【精兵連】か。入れ、メンテス様のお言葉を伝えよう」
【精兵連】は八名からなるメンテスの親衛隊である。王立軍の隊長や傭兵など、顔ぶれは様々、メンテスに従う理由も一人ひとり違った。メンテスは基本的に王立軍や政府機構からの護衛はつけず、身辺は【精兵連】だけに守らせるなど信頼を寄せていた。
真っ先に駆けつけたのは中でも忠誠心の高い二名だった。老爺はメンテスの意向を説明し、残る六名とも共有するようにと伝えて二人を帰した。
二人組はテラスに移動し、老爺から手渡された羊皮紙の呪文を解いて文章を読んだ。アイーシャは眉間に深いしわを刻んだ。
「我々がすべきは、メンテス様の命を遂行することだ」
「そうですねえ、メンテス様のご意志が第一です」
ドーイは風が吹くとともに姿を消し、アイーシャは部下の待つ隊舎へと戻っていった。
翌日、王弟城には不穏な静けさが満ちていた。
まだ朝日ものぼならない頃、夜番の兵士たちはのんびりと虫の音を聞いていた。空が明るくなってくると、年配の兵士は門のかがり火に蓋をかぶせ、くすぶる煙を手であおいだ。そろそろ朝番が交代に来るはずだ。若いほうの兵士は東の空を眺めた。段々とかすみが深まり、空が明るく、青くなっていく。西のほうには月が、まだ白じろとかかっていた。
鎧についた夜露が光りだす頃、向こうから騒々しい音を立てて朝番の兵士が走ってきた。あまりに慌てて、鎧はひっちゃかめっちゃかに動き、槍も放り出しそうな勢いで振りまわしていた。
「おいおい、寝ぼけてるのか? まだ遅刻っていう時間じゃないぜ」
「お小さい王子がいるんだ。起きちまうだろ」
夜番の暢気な声に首を振りながら、朝番は逼迫したようすで駆け寄り、掴みかかるようにして怒鳴った。
「招集だ!」
「招集だと? 何があった。お前さんの相方はどうした」
年配の兵士に問われ、朝番は鬼気迫る表情を浮かべた。事態を呑みこめない二人を押しては引き、朝番はうめいた。
「戦争だよ」
城のあちらこちらで火がともり、早朝の王弟城はにわかにざわついた。兵士たちは支度をととのえ、変わり果てた城内を見て回った。
「おお、何じゃこりゃあ。武器庫がいっぱいだ」
平常、王弟城は軍備を許されないため、空の武器庫や筒のない砲台を飾りのように持っているだけだ。それが今、物見やぐらにも城壁の上の回廊にも矢板がつき、磨き上げられた大砲がずらりと壁上狭間の凹部に並び、武器庫には砲弾に火薬、あらゆる武具が揃っていた。さらに食糧庫にも酒樽や木箱、麻袋がびっしりと積まれ、兵糧が備蓄されていた。
「何でえ、知らねえ間に戦争でも始まんのか?」
倉庫脇では、攻城車を見上げる兵士がひとり呟いた。
物見やぐらには弓矢を背負った兵士が二、三人ずつ詰めており、常に周囲を警戒していた。王弟城に仕える兵士たちはうろたえ、騒いだ。
「ありゃあどこの兵だい、見たこともねえ」
「それがよ、気のせいじゃなけりゃ、国王直属の軍隊のやつらなんだよ。支給されてる弓の質も、動きのキレも俺たちとは全然違う」
「俺、第三分隊長『千人盾』を向こうで見た」
状況を把握しきれないまま、王弟属の官吏や兵士たちは大きなうねりのなかに放り出された。
大広間に集められた面々には、いつもの髭面のほか、名の知れた英雄や豪傑もいた。王弟属の兵士たちは自然と一か所にかたまり、錚々(そうそう)たる顔ぶれを他人事のように眺めていた。
「みんな明晩のうちに白き司からこっちへ集まってきたらしい」
「あっ あいつ! あいつも知ってる! あっちにも」
「よせよ、遠足じゃねえんだから」
基礎訓練だけ受けてきた平民出の自分たちとは明らかに違う、軍人特有の雰囲気をまとった集団に、彼らは近寄ることもはばかられた。
「諸君」
頭上から声がかかり、兵士たちは大階段のほうへ首をめぐらせた。菫の髪に派手な外套、しょっちゅう何かしらの噂が絶えない国家大臣が、踊り場まで降りて演説をはじめた。
「もはや国王は卑しい冗官どもの傀儡同然。此度は国王派の議員ならびに将校の謀計によって、罪なき王弟陛下を処断(※)なさると勅令が下された」
国王の勅令は絶対である。議会や元老院の可否も必要なく通される命令であり、覆ることは決してない。
「かつては我らは守護者クルタナによって王という賜いものを与えられたが、その尊い御言葉を私益のため利用するなど言語道断。国王派の恥知らずな行いを正さねば、ゆくゆくはこの国が亡びかねん。今こそ、真に王として相応しい者を我らが玉座に迎えるべきだ」
おお、という巨大な歓声が上がるなか、王弟属の兵士らは肩身をよせあってぼそぼそと話しあった。
「ええと、王弟陛下は濡れ衣を着せられたってことか。いやあしかし、いきなり処断とはひでえ話だ」
「それにしても、なんで国王の懐刀がこんなとこで演説打ってるんだよ?」
兵士たちは恐るおそるメンテスを見上げた。
「さあなあ、俺に聞いてくれるなや……ただ、戦争になるってことは、俺たちも命かけなきゃならねえってことだよな」
やがてメンテスの話が作戦の説明に及ぶと、訓練を受けた一般平民である王弟属の兵士たちはついていけなくなった。円柱のそばまで下がって何となく作戦を聞き流していたが、そこへ、一人の文官が近づいてきた。
「あなた方にもわかりやすくご説明申し上げましょう」
感情のない目をして、口もとだけが笑っている奇妙な若者だった。
「あっ 知ってる! 大臣閣下の秘書さん」
「だから指さすんじゃねえって」
思わず声をあげた仲間の手をたたいて、兵士の一人が頭をさげた。
「秘書というよりは副官なのですが、それは今はよろしい」
若き副官はにべなく言って話を戻した。
「メンテス様は国王派はもとより、国王陛下にも愛想をつかされました。日頃、民を想い公務に励まれるすばらしき人徳者、王弟陛下ギオ様こそ我が国の王にふさわしいと、御自ら王弟派の舵取りをなさる決心をされたのです」
「はあ、ギオ様に鞍替え……失礼、主をかえなすったと」
「そういうことです。無論、メンテス様の将来設計も兼ねて」
副官は咎めもせず、冗談だか本気だかわからない一言を付け加えた。
「分家の皆さんは立場も然ることながら、領土、財産、兵力すべてにおいて格段に本家より劣ります。よって、我々メンテス様個人に忠誠を誓う無派閥の官吏、軍人一同も、皆さんに協力させていただくことと相成りました」
「これだけの猛者がねえ。俺たちはどうすりゃいいんです?」
兵士が不安げにたずねると、副官は愛想のよい笑顔を浮かべた。
「御心配なく! 皆さんにはこれまで通り、城の警備と管理をお願いします。実戦経験のない素人が戦闘行為など、危険極まりないと承知していますから。これまでと何も変わりませんよ……ただ、ご自宅へは当分帰れませんが。ああ、ああ、大丈夫です。この内乱は城内だけで済みますから、城下にまで戦火が及ぶことなどあり得ません」
まくし立てられた兵士たちは、とにかく自分たちは戦わなくていいこと、今まで通りの仕事をこなすこと、家族は心配ないことだけは理解した。
「ここに来られなかった方々にもお伝えくださいな。さあ、もう広間を出てよろしいですよ」
にこにこ手を振る副官に見送られ、王弟城仕えの兵士たちはぞろぞろと広間を後にする。
「なんだか、俺たちには関係なさそうだな」
「お国を巻きこむほどでっかい戦争にゃならねえってことか」
それぞれ平時の持ち場に向かってばらけると、一人が相方がいないことに気づき、きょろきょろと辺りを見回した。
「おうい、クレオよ! どこ行ったかなあ、俺一人で馬番させる気かな、あの小僧っこは」
王弟属の兵士のうちただ一人、黒髪の少年兵クレオだけが大広間に残り、他の王弟派にまじって作戦の説明に耳を傾けていた。ひととおり説明を終えるとメンテスは口を閉ざした。質疑に応答するという意味だったが、無派閥の者たちから手は上がらなかった。
王弟派文官の一団は小声で話しあった。
「国王派はこのことを知っているのか? ガヴォ大臣が密偵で、これが国王派の策略でないという保証は?」
国家大臣という大物中の大物が地位を捨て、国王に反逆するのは非常に不可解なことだった。メンテスは国王の腹心として、執政だけでなく軍事にも介入し、多大な影響力をもっている。おとなしく国王側について王弟ギオを吊し上げたほうが、よほど身の為になるはずだ。
「ザティアレオス王政の陰の立役者が、築き上げたものをすべてなげうち、国王を裏切るなどとても信じられない」
困惑した声の直後に、誰が言ったか、はばかりのない嘲笑が起こった。
「案外、色事じゃねえのか。年寄りの王さまより若い王弟のほうが良いってよ。他人に何でも言うことを聞かせる魅了とかいう力で……」
下卑た罵倒はごく小さな声で、一部にしか聞きとれなかったはずだが、大広間の空気は一瞬で凍りついた。失言した男に対し、数名が殺気を向けるなか、メンテスは穏やかに口を開いた。
「……発言を許す」
広間にどよめきが広がったが、その言葉は揶揄した男に向けられたものではなかった。遠く、出入り口あたりで高々と挙げられた細腕を見とめて、メンテスは静かに促した。
挙手したのは少年兵クレオだった。
「恐れながらお尋ねいたします。王弟陛下はなんと仰っているのでしょうか」
凛とした強い声だった。広間の端から端までクレオの声は行き渡り、あらゆる音が静まりかえった。周囲の者たちが身を引き、人海のなかにぽつんとクレオの姿が浮かび上がった。年季のはいった軽鎧の下に、その重さから常用はしない鎖帷子を着込み、彼は真っすぐに立っていた。細作りだが筋肉の発達した褐色の体、腰まである長い黒髪をひとつに束ね、クレオは十五歳の少年兵とは思えない目つきをしていた。
「私は、王弟陛下のお言葉のあるまでは動きません。これが陛下のご意思と示されるまでは」
クレオが言い切ると、大広間に冷気がおりた。閉めきられて風も通らない広間を覆い尽くす、この冷たい気配はいったい何なのか、理解しようとする者もいなかった。
メンテスは懐中時計に目を落とし、片手を挙げて答えた。
「クレオ・シアンに答えよう。王弟陛下に命を捧ぐ諸君に謁見が許されぬはずがない。これより御言葉を賜る、心して聞きたまえ」
メンテスは笑って目を細めたが、広場に集った誰もが、ヘビに睨まれたカエルの心地がした。とくに少年兵クレオ・シアンは背筋が凍りついた。一介の少年兵の名を、まさかメンテスが把握しているとは思わなかった。
(すべてを見透かされている。背中を見せたら食われる、そんな心地だ)
間もなく、兵士たちは前方にならって次々に叩頭した。一堂に会する猛者どもが深く頭をたれ、耳に入る音だけに集中するなか、一歩また一歩と足音が近づいてくる。革靴の底は重々しく絨毯を踏んで止まった。
「大義である。さあ、顔を上げてくれ」
促すように、労うようにかけられたその声が、何より彼の人柄を表していた。兵士たちは信頼に満ちた顔をあげ、王弟を一心に見つめた。
ザティアレオス王族が分家、現王弟ギオ・イセルガナ・シデヴィオ・ソルナテセ・カル・ザティアレオスⅪ世。「冠無き賢帝」「玉座なき慈王」と称えられ、民を愛し、民に愛される男の姿がそこにあった。
「長きにわたる本家と分家の確執は、ともに歩むべき臣の道を分けてしまった。現国王陛下の御心をも変え、争いの火種がここに大火を起こそうとしている」
ギオの言葉は一つひとつが慈愛に満ち、決して国王を断罪せよなどという趣ではなかった。
「此度の国王陛下の断は、いずれ我が民にも下されるであろう。罪なきものが逆賊に名をつらね、処刑される恐ろしい時代にしてはならない。私は私の民のためにも過ちを正し、平穏の道を築きたい。諸君には、ともにその道を歩んでもらいたいのだ」
善道に準ずるギオらしい言葉だった。兵士たちは何の疑いもなく、使命感に満ち溢れた顔でギオを見つめた。
しかし、クレオと、二階の観覧席に身を潜めた王弟長子セルヴィアの二人は、王弟の言葉に違和感を覚えた。
(王弟陛下が戦うことを選んだ)
クレオは納得のいかない表情のまま、解散する人々の群れにまぎれて大広間を後にした。
(父上が戦争を主導するなんて)
一方、セルヴィアは急ぎ尖塔へ戻り、招集の様子を母カルラに報告した。
「父上はどうしたと言うのでしょう」
動揺を隠せないセルヴィアの肩に優しく触れて、カルラは決意に満ちた表情で言った。
「あの方が何か知っているかも知れません。私が尋ねてきましょう」
「危険です」
セルヴィアはカルラの行く手を阻もうとしたが、カルラの強い眼差しにおされて後ずさった。
「セルヴィア、あなたは妹たちや弟をお守りなさい。メンテス・ガヴォ……急に姿を消すこともあったけれど……忙しい身ですもの、気にも留めなかった。彼がギオ様と話しあっておられたのは、決して戦争のことではなかったはず。どこからおかしくなってしまったのでしょう」
「メンテスは元より掴みどころのない男でしたから、いつから様子が変わってしまったのかも検討がつきません。しかし、父上は確かに、昨日まではいつもの父上でした」
カルラは静かに頷き、セルヴィアを残して主塔に向かった。震えまいと力の入った母の背中を見送り、セルヴィアは重くため息をついた。
「なぜこんなことになったのだろう」
旧い玉座にかわって真新しいソファが壇上に置かれ、ギオは深く腰かけたまま眠っていた。
「ギオ様、意識が途切れがちですね。【傀儡の毒】では強すぎたのでは?」
【精兵連】及び国家大臣副官ドーイ・イヴェロイは巻物片手にギオを眺め、くるりと主に向き直った。メンテスは玉座をいただく台座の、三段ほどの階段に腰をおろし、ぐったりと項垂れていた。
「元より私に好意のある者には効きにくいうえ、この男の意志の強さはあなどれん。下手な術ではたちまち正気を取り戻すだろう……それに、精神が少し壊れるくらいどうということもないだろう? どうせ生かしてはおかんのだ」
ドーイが水さしを差しだすと、メンテスは口もとへはもって行かず、頭の上でひっくり返した。
「お疲れのようですね。時に、王弟軍の指揮はギオ様に一任されるとか? あなたほどの軍師が譲るのですか?」
ドーイは空の水さしをメンテスの手から受け取ると、水浸しになった絨毯に向かって軽く手を振った。風が巻きおこり、絨毯はじりじりと乾いていく。メンテスは濡れた前髪を垂らし、俯いたまま答えた。
「勝てる駒は与えた。私は女を口説きに行く」
「ええ、水も滴ってらっしゃることですし」
大義そうに立ち上がったメンテスは、受け応えしたドーイを見つめて一時停止した。
「申し訳ありません。いま乾かします」
「いや、お前が冗談を言うとは思わなかった」
水を吸った毛皮と厚手の生地を、内外から風をあててすっかり乾かしてもらうと、メンテスは影にとけて出かけていった。影の主は幼少よりメンテスを世話している爺やで、その存在は【精兵連】しか知らない。
彼らと入れ替わりに、女騎士が玉座の間を訪れた。
「メンテス様でしたら、たった今お出かけになったところですよ。アイーシャ、我々の軍隊はどうでしたか?」
「ああ、使えそうだ。メンテス様のくださった軍なれば当然だが」
女騎士アイーシャ・リオナ、戦場を駆る戦女神とたたえられる女傑である。彼女は本来、カラデュラ国王を守護する誉れ高い【騎馬近衛兵団】の隊長として、国王城に常在しているべき人間だ。
十年前、彼女は十六歳という若さで【国王軍属騎馬兵団】の副隊長に抜擢された。五年後、次期大臣メンテス・ガヴォの推薦により、騎馬兵団は国王近衛兵の称号をあたえられ、【騎馬近衛兵団】となった。アイーシャは隊長に任命され、晴れて【精兵連】にも迎えられた。
アイーシャはメンテスに見出された恩義とともに、崇拝に近い感情を抱いていた。メンテスの執政は弱きものを助け、国民に慈愛をもって接する、王弟ギオの方針を汲んだものだった。だがギオとは違って罰則をゆるめることはせず、罪は厳しくつぐなわせた。これを二面性があるといって揶揄する者たちもいたが、アイーシャはメンテスのゆるぎない正義を感じとった。
「このようにまどろっこしい策など練らずとも、メンテス様は王の器だというのに」
「メンテス様の私軍よろしく動く貴女がいうと物議をかもしますので、お口は慎んでくださいね」
誰にも聞かれていないことを確かめ、ドーイはアイーシャを軽くたしなめた。
「ここに長居も禁物です。何かあればアレイ・レイオを通じて報せますから、せいぜい国王陛下の護衛に励んでくださいな」
「ふん、あの道化か。ドーイよ、メンテス様の側近としてしくじるなよ」
アイーシャは睨みをきかせて退室した。
ドーイはギオの様子をもう一度確かめ、起きるようすがないと判断すると、風を使って三階の寝室へ運んだ。埃にまみれ蜘蛛の糸がはっていたベッドは新調され、壁紙もはりかえられ、絨毯も敷きかえてある。今後、王弟一族には主塔で生活してもらう必要があった。
すべては、護衛と筋書きのために。
「それにしてもアイーシャ、焼きもちですかね。可愛いところもあったものですねえ」
くつくつと笑いをころして、ドーイはカーテンを閉めながら尖塔のようすを眺めた。
(筋書きのため……)
計画を爺やから聞かされたとき、メンテスに心酔しているドーイですら戸惑いを感じた。否、心酔しているからこそ戸惑いを感じたのだ。
(これは本当にあの方が望むことだろうか)
正午、ドーイに伴われ、王弟一族は主塔への引っ越しを終えた。
幼いアリアテは無邪気にはしゃぎ、いかめしい装飾品を見るたびに歓声をあげた。オルガはその後をついて回りながら、ふとこぼした。
「お兄さま、私、こんなに怖いことは初めてです……お父さまは、私たちはどうなってしまうのでしょう」
「わからない。でも安心をおし、お前たちのことは私が守るから」
セルヴィアは六か月にも満たないティオをあやしながら、妹たちとともに母の帰りを待った。オルガはそわそわと落ちつかず、不安のあまり呟いた。
「ああ、メンテス様、どうかお守りください」
それを聞きつけたアリアテは、ドーイの官服の裾を引っぱった。
「ねえ、だーじんは? どーい、あそんでくれないの、つまんない」
「ガヴォ様でしたら、明日には戻られますよ」
ドーイはちょろちょろ動き回るアリアテを目で追いながら事務的に答えた。
王弟一族の世話役には大臣副官ドーイ、護衛には少年兵ディエロ・ソルティクと伍長ジャクリーンがついた。ジャクリーンは元々王弟属の軍人だが、他の二名はメンテス直属の部下であり、今日この日まで面識もなかった。
「大臣は城内にいないのか?」
セルヴィアは顔をしかめて尋ねたが、オルガの視線を感じ、慌てて表情を消した。ドーイは感情のこもらない声でつらつらと答えた。
「今後に必要な人材との交渉に向かわれました。私はこれより、白き司から派遣された国王派の援軍を足止めしに参りますので、長く城を空けます。何かあればガヴォ様が戻られしだい、お尋ねになると良いでしょう」
「援軍とは、王立軍か」
セルヴィアの顔が青ざめた。やはり無茶だ。メンテスにどれだけの策があるか知らないが、ザティアレオス王政そのものを敵に回すなど無謀の極みだった。
(こんな時にヴェイサレド、あなたがいてくれれば)
家庭教師であり、剣術や狩猟、乗馬なども教えてくれた大きな背中を思って、セルヴィアは歯噛みした。そして違和感に気づき、目の前のドーイを見つめた。
「援軍を足止めすると言ったな。あなた一人でか?」
大臣の補佐である以上、ドーイは文官のはずだ。多勢に無勢の軍人を相手取って、彼に何ができるというのだろう。家柄の良さが端々に見てとれるドーイは、歴戦の猛者たちを達者なお喋りだけで食い止めるつもりだろうか。
セルヴィアの懐疑的な眼差しに、ドーイは意地の悪そうな、そして心から嬉しそうな笑みを浮かべた。
「私を誰だと思っていらっしゃる?」
ドーイは口の端が引きつれそうな笑顔をはりつけたまま、窓のひとつを開け、後ろ向きに枠に飛び乗った。
「左官に窓という窓を塞ぐように言ってありますが、もちろん、ここも戸締りをお願いします」
言い終るやいなや、ドーイは窓の外に身を投げ出した。オルガが悲鳴をあげ、ティオが目を覚ましてぐずったが、セルヴィアとアリアテは風に浮き上がるドーイの姿をしっかりと目に焼きつけた。目に見える風のすじをまとい、それを翼にかえて、ドーイは一瞬のうちに山の向こうへと飛び去った。
アリアテは手をのばし、言われたとおりに窓の戸締りをしてから、両手をばたつかせて鳥のまねをはじめた。オルガは腰を抜かしたまま壁によりかかり、ティオは再びうとうとと眠りはじめた。
セルヴィアは驚愕の表情で、未だ窓の外を眺めていた。
この世に魔道は数あれ、風を使役する魔法はどの文献にも載っていなかった。しかし、召喚術を得意とするヴェイサレドは言っていた。カレスターテで最高峰の魔道といえば水魔道と召喚魔法だが、それらと互角に渡り合う魔道がかつてあった。現在は失われてしまった古代の魔法。風魔道という。
将校について
准佐官以上で構成される管理司令機関であり、作戦を立てて指示する。
補佐として、准尉官~尉官から鳥瞰役と伝令役が選出され、従事する。
階級を示す言葉ではない。
階級
*階級制度は「武官(軍)」にのみ適用される。
「文官(執政)」は各担当の長と補佐は上官として存在するが、階級は適用されない。
階級…准尉官、尉官、准佐官、佐官、准将官、将官(少~大という内訳はない。
下士官以下は階級を持たないが、「○○長」などの役職を担うことはある。
隊員の数…大隊 約1,000人(中隊4つ+α)
中隊 約200人(小隊3つ+α)
小隊 約60人(分隊4つ+α)
分隊 10~15人
(α…砲兵や魔道士などの小~中隊
※処断 ここでは「斬首刑」の歪曲表現。処断刑とも。反逆罪に問われたものはおしなべて斬首となる。