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6.この名を失った心の揺らめきに【下】(著:月立淳水)



 最後の一押しに折れた教授は、私とともに総統府を後にした。特例感情保有者と呼ばれる教授の失踪。追っ手はかかるだろう。私の自宅に匿うことにした。


 そうして教授と語りあった。毎夜のように。この世界について。

 世界を、人を、この基底状態からはじき出すために。


 結局、教授は迷い続け、乗り気になることは最後までなかった。それでも、はるか過去、人がどう生きていたのかを語る彼の言葉は、私の考えを大いに推進した。


 誰もが苦労して無感情の檻に籠っていると仮定するならば、それを破ることは、むしろたやすいのではないかと考えるようになったのだ。

 なぜなら、旧世界の人々は、毎日のように笑いと楽しみに心を休め、憤慨と憎しみに心を痛めていたという。

 その想像すらできない生活が、人が進化の末に身につけた自然の姿なのだとするならば、この抑圧された世界は人間に対し不調和だ。自然ではない。すさまじいほどの応力(ストレス)が蓄積している筈だ。


 そして――。


『光の速度を超えるのに手間は要らぬ。ただ一瞬の爆発的エネルギー、それと、ちょっとばかりの幸運の後押しがあればよい』


 ある日のことだ。教授が旧世界での彼の仕事を雑談の中で語ったとき、ついに私の考えはまとまった。一瞬の爆発的エネルギーと幸運の後押し。


 いつものように夕刻の個別面談で、矯正作業を終えた新人と顔を合わせる。

 その頃には、私は計画のあらましをプロットし終えていた。


「君に聞いてみたいと思っていたことがある」


 私がもったいぶって切り出すと、彼は僅かな表情の変化でその先を促した。


「もし、だ。町の中で誰にも気兼ねせずに感情を出せるとしたら、どうしたい?」


「町の中で? ですか。――でも、感情警察に」


「そうだ。見つからないとして、いや、見つかって処分されると仮定してもいい。それでも一つ、感情を思い切りあらわにしなくてはならない――そうしたら」


「だったら僕は」


 言いかけて彼は言葉を切り、少し考えてから、また口を開いた。



「――笑いたいです。大きな声で」



 * * *



 準備は順調だ。

 普及も進んでいる。

 ラジオ放送によりあまねく再教育をいきわたらせるというアイデアは、支配者たちの心を捉えた。


 ラジオ――古い音声による広報装置。


 実のところ、古く――()()()から放置されているほど古い――倉庫の中に、ラジオ受信機は大量に眠っていた。

 商品在庫と言うよりは、回収品に見えた。使われた形跡のあるものが多かった。


 簡単な理屈だ。人々は感情を失い幸福な暮らしを送っている。彼らの平穏を脅かすものも、彼らの動機を衝き動かすものもこの世界には存在しない。彼らは彼らの狭い狭い世界に居るだけで幸せであり、()()()()()なのだ。


 おそらく、当初の管理者たちは、情報を害悪とさえ捉えたのだろう。

 どんな些細な情報にも、感情の妖精は宿る。

 この世の外のことだからと承知していても、ワルプルギスの夜に悪魔たちが痴態をさらす様を伝え聞いて、心穏やかに居られるものがいるだろうか。


 情報の伝達は感情の温床だ。

 だから、ラジオはひそかに回収された。

 少なくとも私はそう結論した。


 そして、ラジオ放送の危険性を忘れたこの世代の管理者たちに、同報宣教がいかに効率的であるかを説いた。

 その他事務的な通知、徴募、悪天予測――教授から聞いた放送の経済的利益をひとつ残らず話して聞かせた。


 そうやって始まった、私の放送は、害悪にならない範囲に――管理者たちの危機感を呼び起こさない程度に――抑え込めている、と自負している。

 たとえばこんな調子だ。


『あなたはあなたに割り当てられた仕事を過不足無く終えなければなりません。怠けること、虚偽の理由で休むこと、あるいは、あなたの管理者に覚え良くありたいと必要以上に成果を出そうとすること、こうしたことはこの上なく破廉恥なことです。われわれは動物ではありません。知識と知恵と理性を極めた進化の頂点であり世界を管理し所有すべき――』


 あるいは。


『本日は、偉大な指導者であり模範的同志である総統閣下の居住区訪問日となっています。閣下の足元にごみ、汚物、段差等の無いよういつも以上に清掃・整頓に気をつけてください』


 以前の私ならこうした内容に疑問一つ持たなかっただろう。いや、感じた疑問を即座に否定していただろう。

 事実、多くの聴取者がこれを聞くことで、肯定的な結果が表れ始めていた。ラジオ聴取者の生産性、感情発作率などの管理指標は明確に改善の傾向を見せている。


 今では多くの宣教スタッフも抱え、朝の生産が始まる前、夕刻の生産が終わったあとの数時間をラジオ放送で埋め尽くすようになっている。私はおそらく昔ならプロデューサーと呼ばれる役割だろう。


 長い数ヶ月だったが、振り返ってみれば、一瞬の出来事だったように思う。


 だがこれらも全て、準備に過ぎない。

 あの計画のための。



 * * *



 計画を実行すべき日が迫っていることを、感じていた。


 聴取者の数は十分だろうか。分からない。どこで最後の一歩を踏み出すべきだろうか。分からない。それでも、最後の引き金を引く瞬間がすぐそこにある気がする。


 空想にふけりながら、いつものように放送局の玄関扉を開けた。


 ――鍵が、開いている?


 放送室。短い廊下の突き当たりに位置するその場所。物置だったころの名残が消えない放送室の入り口にも、やはり、錠がかかっていなかった。

 昨日閉め忘れただろうか――そう思いながら扉を引いた。予想していなかったものが目に飛び込んで来た。


 ――少、女?


 透き通るように白い肌と漆黒の髪、起伏が控えめでほっそりとしたスタイルは、あるいは少年と言っても差し支えない。

 部屋の奥の一画に、見知らぬ一人の少女が立っていた。


「誰だ」


 私は発作的に尋ねた。

 少女は黙して答えない。その代わりに、紫水晶のような声で質問をした。


「――放送計画の首謀者は、誰」


 首謀者? つまり、立案者のことか?


「それは、わた――」


 無意識に答えようとしていた。

 口を開いてから失敗したと思った。

 彼女が何者なのかも分からない。どうしてここにいて、何をしようとしているのかも分からない。なぜ首謀者を知りたがるのかも……首謀者、そう、彼女は()()()と。


「――っ!」


 不意に、鋭い視線を感じた。

 それは、彼女の双眸から発されたものだ。

 悪意のプリズム。


 それを感じると同時に、私は反射的に鞄を持ち上げていた。憎しみの熱量から私の網膜を守ろうとした。それと、もう一つ。

 鞄に強い衝撃。ドッ、という低い音。


 心臓が激しく鼓動している。


 私の喉の高さ。白銀のきらめき。


 ナイフの切っ先が、鞄の中の分厚い資料を突き抜けていた。


 深い洞察を必要としない。それは、目の前の少女が投げたものだと分かった。

 震える手で鞄を下した。声を発する。


「な、何をする」


「――今の反応。あなた、感情があるのね」


 考えてみれば実に間の抜けた質問をしてしまった。

 もし避けなければ、私はとっくに絶命している。


 彼女は一歩を踏み出す。


「……生まれつき? それとも思い出したのかしら」


 そう言う彼女の視線。明確に感情の色が見える。まさか、特例感情保有者か。


 ――いや、それよりも今彼女はおかしなことを口にしなかったか


 思い出したのかしら、と。


 教授以外にもすべてを知る()()が?


「そうだ、君と同じだ。だから教えてくれ。君は誰で、なぜこんなことを」


 すがるように述べながら、何かが背筋を通り抜けた。

 なぜ今まで気づかなかった? その、根源的な感覚に。


 ――死の、恐怖。


 いつか死を迎えるという漠然とした恐怖はあった。

 だが、今まさに命を失うかもしれないという恐怖。

 それを私は初めて、感じている。


「私と同じ? いいえ」


 彼女の眼光が再び、憎しみの色に輝く。


「あなたは滅ぶべきもので私は滅ぼすもの。あなたは運が悪かった。馬鹿な思いつきは心に留めておくだけのもの。感情があるのなら、」


 彼女の肢体の緊張が、空気を、震わす。


「なおさらに」


 飛び掛ってきた彼女のしなやかな動き。彼女の言葉。

 私の感情は後悔の一色に染まる。


「違う、私はこの世界を……君のような人々を」


 何故一瞬でも安堵していたのだろう。これも、あの、感情というやつのせいだ。感情があるから味方だと思い込んでしまった。そもそも支配者たちこそ、感情におぼれる狂人だった。彼らの放った刺客がそうでない理由は無かった。


 私は失敗してしまった。


「やめろ! やめてくれ! 私は、狂った支配者から皆を救いたいだけで――」


「残念ね。私がその狂った支配者よ」


 彼女が一瞬で肉薄する。

 死はこんなにも近い。


 咄嗟にナイフが刺さったままの鞄を振り回した。咆哮を上げていた。バックステップで容易に避けられる。一度、二度、三度。無我夢中だった。息が上がる。手元がもつれる。


 突然、握りがもぎ取られるような感触を覚えた。

 それがあったはずの場所にスニーカーのつま先。

 空中を舞った鞄を、少女は空中で掴む。


 彼女は、静かに、鞄からナイフを引き抜いた。


「さようなら」


 私の足で三歩の距離にいる彼女。


 この距離は彼女の距離だ。本能が、心臓への冷たい来客の声を告げていた。喉、腹、心臓。どこでも、自由自在だ。


「う、うああああああ!」


 私は、恐怖に抗って生に追いすがった。

 爆発的に放出されたアドレナリンが私の背を押す。


 しかし、私に、何が出来る?

 彼女が手をもうひとひねりすれば、死の白刃は、私の命を刈り取りに――。


「誰です、破廉恥な声を上げているのは!」


 突然、背後から聞き慣れた声がした。


 視線を向けたい衝動を必死で抑え込む。最後の隙、ナイフが首に放擲されるのを避ける。尻もちをついた。次の瞬間、少女は矢のように駆け出していた。

 入り口で声をあげた男――そう、あの新人を突き飛ばして正体不明の少女は廊下を駆け抜けていった。



 * * *



 新人に一通り事件の経過を説明すると、すぐに教授を呼ぶよう彼に指示した。

 彼は出て行き、私は再び一人になる。


 大きく息を吐いた。思考を整理する。


 ――彼女は一体、何者だ? あの、ユキヒョウのような。


 彼女は体制側の刺客である。

 私はとっさにそう思った。

 私は、体制をまさに崩そうとしているのだから。


 だが、考えてみればおかしい。

 私の上官もその上も、そのさらに上も――おそらく総統の近くまで、私の行う『教化放送』を肯定的に評価していることに間違いは無いからだ。

 私は()()()()()()()()()()()()()()()()


『――放送計画の首謀者は、誰』


 それなのに彼女は、この(はかりごと)の主を探そうとしていた。


 思い出す。彼女は自らを『狂った支配者』と呼んだ。

 支配者が狂っていることを知っているのは――教授を除けば、総統自身と、彼に極めて近い取り巻きだけだ。

 独占的に感情を持ち、それを楽しむ神。その独占の崩壊を恐れる……総統……の、身内のもの。感情を持った人間。教授のような――あるいは彼と真逆の、特例感情保有者。


「……参ったな」


 支配体制の維持に役立っているという建前上、表立っては私の行動を邪魔できる者はいない。しかし自らの神性の維持に一抹の不安を感じた彼女が、このラジオ局を秘密裏に潰そうとしてきたのだろうか。


 我ながら、なんとも込み入った陰謀論だ。

 だが、今はこう考えるしかない。合理的に、建設的に。


 そしてその上で、計画の実行を急がなければならない。

 明日まで私の命が残っている可能性も危ぶまれてきた。ならば――。


 実行は、今日だ。


 あるいは私は、その結果を見届けることが出来ないかもしれない。

 だが、それでも……。


「――ふ、はっ」


 私の中の奇妙な現象。自身の中で、()()()という感情が芽生えているのを自覚する。


 私がいなくなっても、私の残した何かが、残された人々に何かを為しているだろう。その想像は、堪らなく愉快だった。


 それと同時に、彼らすべてを私の子だと誇りたい。彼らの真の幸福を願わずにはいられない――。そう思う不思議な感情が。

 この感情には、どんな名がついているのだろう。知らずにいくことが、残念だ。


 突然、ガチャリと扉が開いた。視線を向ける。

 教授がいつもの無精髭の顔をのぞかせた。


「急な話だったが、準備はどうだい、教授」


 私が問うと、教授はゆっくりうなずいた。


「君の言った通りのものを」


 新人から事のあらましを聞いたのだろう、決行するなら今しかないと、彼も勘付いている。だが――。


「本当にそれでよかったのか。あなたのほうが本物を知っている。豊かな本物を。だからこそ教授が選ぶべきだと思ったのだ。結局、私と彼で決めてしまって――」


「いいや」


 教授はかぶりを振った。


「君からあれを聞いて、私は確信したよ。――まだ話してなかったかな。この世界に来てすぐ、一人の少女に出会った」


「少女?」


 先程、急に現れた少女、そして教授の口から唐突に出た少女。その奇妙な一致に、訝しみが言葉となった。


「細く、美しく、どこか悲しい黒髪の少女だった」


 どこまでも符合する。はたしてそれは、あの少女なのか?


「彼女は私を見つめ、静かに歌ったのだよ。……とても哀しい歌だった。彼女に何があってなぜ歌っていたのかは知らない。だが、彼女の深い哀しみはのちに――私の罪となった。それを知っていたがゆえに、私はより深い狂気へと逃げた。だから、与えるべきは怒りでも悲しみでもない――分かるだろう?」


 彼の言うことは、おそらく、分かる。


 怒りでも悲しみでも――もちろん、憎しみでもない。


「これが原稿だ。確認するかね?」


 彼の渡してきた小さな紙片を受け取る。しかし、私は開かないことにした。


「放送まで、私も見ないことにしよう。私も不意打ちを受けるべきだ」


 そう答えると教授は満足そうにうなずいた。教授は別の役割を携え、出て行った。



 * * *



 やがて、放送開始の時間がやってくる。


 いつものスタッフが高尚な経典を読み終えると、私は『今日のお知らせ』の時間割を引き継いだ。


 放送室。マイクの前に腰かけ、原稿を開く。

 書いてある文字を、淡々と読み上げた。


「偉大な指導者であり模範的同志である総統閣下は、昨日、五年後の幸福指数の改善について、先見性あふれる革命的な助言を為されました。この助言により、五年後の幸福指数は現在より8ポイント上昇して135となる見込みです。なおこれに伴い、鉱業生産効率が122パーセント、工業生産効率が139パーセントに上積みされます。約束された繁栄と幸福の時代に生まれたことを感謝し心穏やかにお過ごしください」


 いつもどおりの欺瞞にあふれたニュース。

 だが、この次の一節こそが真に重要な一節になる。

 この世界での最後のニュース。


「では、次のお知らせです。


 本日、総統府前広場で偉大な指導者であり模範的同志である総統閣下の民間視察が予定されておりましたが、







 閣下の右の靴下が見当たらなかったため中止となりました。



 なお、左の靴下は二つ見つかった模様です」







 ――それは、()()()()での最初のコメディ番組。


 私は自ら述べたにも関わらず、思わず口を押さえた。

 それでも手の隙間から口角のゆがみが漏れる。


 見ると、横で見ていた新人も顔を真っ赤にし、手で口を覆っていた。何かを必死に抑えるように。


 彼の動きを見て、私の声帯は不規則に動く。私はついに鳴き声を漏らしてしまった。

 私は、笑ったのだ。


 今、このラジオを聴いた何人が、笑っているだろう?


 それを想像するだけで、さらに愉快になった。


 ふ、と油断が入り込む。大声で笑ってしまった。

 マイクのスイッチは入ったままだ。


 いいとも、聞きたまえ。

 これが、笑いだ。


 おぞましくも破廉恥でもない。

 人は、愉快になれるのだ。


 笑ううちに、私は涙をこぼしていた。

 新人も、私と同じように、笑いながら涙をこぼしていた。


 大声で笑い合いながら、泣いた。

 悲しくなくとも、涙はこぼれるのだな、とどこかでぼんやりと思った。



 * * *


 放送が行われた日、各地で起こったことは劇的と言うしかなかった。


 世界は、救われた。


 言葉にすると実に陳腐なものだが、文字通り、世界は救われたのだ。


 もうこの世界には、生を受けると同時に虐待され、命を落としていく赤子はいない。

 自我を希釈し、誰かに命じられるままに命を産み、命を絶つものもいない。

 感情を持つ自身を責めさいなむものも、いないのだ。


 不特定多数の、名前も知らない、あるいは名前もないこの世界の全ての人に言いたい。君は、貴女は、貴方は、彼は、彼女は、私は、――救われたのだ、と。


 すべてが、周到に準備された欺瞞だった。

 感情を失ったものなど存在しないということが、ここで証明された。


 世界を滅ぼしかけた戦争など怪しいものだ。ましてや、感情を克服した現人類の祖「アタラクシア・イヴ」など、荒唐無稽な作り話に過ぎない。今ならそれこそ、笑い話の部類だ。今度、教授にアタラクシア・イヴを題材にした下品なジョークでも考えてもらおうか。


 世界初のコメディ放送。あの放送を聴いて思わず笑ってしまったものは、その次に、一人残さず涙をこぼしたと報告されている。その次には、顔面を紅潮させたとも。

 彼らは自然と家を出る。通りを行進し、総統府前広場に集まる。人の熱が人を集め大きなうねりになる。ジョークに組み込んだサブリミナル的メッセージ――『総統府前広場に集え』――これも教授が考案したものだが、それが見事に奏功した。


 やがて、声が上がる。男の声だ。欺瞞だ! と。

 実はそれは仕込だ。あの広場には教授がいた。彼が引き金を引いたのだ。


 導かれるように――事実、()()がそれを導いたのだが――それらの声が統治者を憎む声に変わった。時間はかからなかった。


 笑い、泣き、怒り、訝り、憎む。


 わずかな時間の中で目くるめく感情。

 これが、人なのだ。


 彼らは進んだ。同じ感情を持った人々の結束は、無感情に愛し合う人々を圧倒した。

 総統府の門は瞬く間に破られ、首座にある総統を引きずり出すのに半日もかからなかったそうだ。


 彼は、笑っていた。

 大地の果てにまで聞こえるほどの大声で、笑っていた。


『見ろ、アタラクシア・イヴ! これがお前のもたらしたものだ!』


 彼はそう叫んで、大衆の前で嬲り殺されたと言う。


 役割を終え局に戻っていた教授は、その最後の様子を伝え聞くと、小さくつぶやいた。

 そうか、総統は――我が友は、死ねたのだな、と。


 それから数日、統治機構を受け継ぐ『委員会』が設置された。

 民主的な自治を行うための委員会。

 すべての人類の自由と平等を保障するためと彼らは嘯くが。


 分かりきっている。いずれ彼らは迷走し暴走する。自由や平等など欺瞞だ。誰かが得れば誰かが失う。そんなゲームの盤上で、自分こそが得るという魅力に抗えるものか。


 だが、それが人間だ。

 すばらしき人間だ。


 ――自宅で安楽に座り、駄洒落と下品なジョークで埋め尽くされたラジオを聴く。


 何も為さない。何も生まない。

 それなのに、時間とは、こんなに楽しいものだったか。


 結局、刺客は来なかった。もう、私を消す動機はその発生源もろともなくなったのだろう。この世界に生ける神はいなくなったのだ。そう納得をつけた。私はこうして、平穏で退屈な日常に戻ってくることができた。


 新人――いつまでもこう呼び続けるのは失礼かもしれないが、彼も、そばにいる。私の近くで仕事がしたいと、あの日から居候している。彼なりに、何か深く思うところがあるのかもしれない。最初はそう思ったが、たぶんそんな高尚な理由ではないだろう。ただ、楽しそうだから、ここにいる。きっと。


 そしてここには教授もいる。総統府を逃れ、この自宅にかくまって以来の彼の本居だ。


 私たちの間に、会話は無い。

 ただ、ラジオ放送の同じところで、同じように笑ったりうなずいたりするだけ。


 もう少ししたら明日の糧を得る心配をしなければならなくなるだろう。

 委員会は貨幣経済の再導入に取り掛かっている。これまでの規則正しい配給はいつか停止される。


 そんな中でも、私が責任を持つラジオ放送の運営は順調だ。なんとか上手くやっている。商業化の話でも出れば私に声がかかるだろう。そういう意味では、私は将来の役割がほぼ約束されている。


 ドアをノックする音が響いた。


 早くも委員会の呼び出しだろうか。

 私が立つ。残る二人が私を見送る。ラジオからはとっておきのジョーク。


 ドアを押し開けると、そこには予想と違うものがあった。


「君は……」


「こんにちは」


 そこには一人の少女が立っていた。



 * * *



 その少女は無遠慮に私の部屋に踏み込んできた。

 私はドアノブを持ったままだ。恐怖で動けない。


 なぜなら、彼女こそ、ここ数日私が恐れ続けた刺客なのだから。

 しなやかな肢体と投げナイフの妙技。訓練された動き。


 ――今度は、逃れられまい。


 私は恐怖とあきらめの表情を彼女に見せたが――彼女はそれを一瞥しただけだった。


 私の案内も待たず、リビングの空いたスツールに腰かける。細い四肢と腰、その体。必然的に私の座るところが無くなる。新人は驚きに教授へと目を向けたが、その教授は知的な容貌を損なわせていた。口を薄く開き、目を、見開いていた。


「私は、すべてを知っているの」


 注目を一身に集める中で、彼女は唐突に口を開いた。とても自然に。予め招待されていたかのように。ハンドベルのラのような音だった。


 その声を聞き逃さないように、急いでラジオを切った。


「知っているって、何を? ――そもそも、君は何者だ?」


 私が問うと、彼女は無表情の瞳を私に向けた。言う。


「私は、アタラクシア・イヴ」


 意味が素通りする。口が、ふはっ、と小さく息を漏らしたのに気付いた。


 アタラクシア・イヴ? 

 私の命を狙っていたあの少女が、かのアタラクシア・イヴだって?


 教授の考案した数々のジョークで、笑いの耐性は磨かれたつもりだった。これはさすがに虚を突かれた。


「……は。なるほど、分かった。君は革命を生き延び、降参の手土産にそのジョークを携えてきた……そういうわけだね」

 

 私は出来るだけ陽気な性格を空気に与えようと、気楽めかして言った。


「そうじゃない」


 だというのに、少女は深刻さを崩さない。あまつさえ――。


「……この世界を作ったのは、私。作った理由は――復讐」


 そんなことを、言うのだ。

 瞬きが止まない。アタラクシア・イヴを名乗る少女。狂っているのだろうか。


 ガタリ。椅子が動く音に視線を向ける。


「……君、だったのか」


 振り向くと、教授が立ち上がっていた。少女に引き寄せられるように、一歩、二歩と。おぼつかぬ歩調。少女はゆっくりと彼に顔を向ける。


「あなたは……」


「覚えて、いるだろうか。私は、いや、僕は、君と夜の中庭で」


「……覚えているわ。いつかの特例感情保有者。そう、あなたも関わっていたのね。納得したわ」


 二人の会話は、私にとって全く意味をなさないものだった。口を開くことなく、目と目で会話を続ける二人。


 教授は何かを得心し、一度目を伏せ、うなずくような仕草を見せた。私に半身を向ける。


「……なあ、聞いてやってくれないか。私の見立てが正しければ、彼女は本物のアタラクシア・イブだ。そうでなければ、あんなに哀しく歌えるはずがない」


 教授のその言葉を聞いた直後。彼女、イヴは、()()()()

 儚く。()()()()に。


「本物、の?」


 私があっけにとられて繰り返すと、イヴは私の言葉を引き取った。


「えぇ、そうよ。本物のアタラクシア・イヴ。……あなたは、この世界の歴史も人類の系譜もすべて嘘……そう確信しているから、この計画を作ったのでしょう」


 私は何かを恐れるように彼女を見た。薄く、微笑むイヴ。


「その通り。すべては嘘。たった一人の女がついた、嘘。どこから話しましょうか――そうね、この狂った国の話から」


 視界の端で教授が椅子に腰かける。それからイヴは語った。

 私が『世界』そのものだと思い込んでいた、とある『国』の話を。


「数十年前、ここは世界の中でもありふれた国だった。でもある独裁者を戴いて、狂ってしまったの。行き過ぎた全体主義に陥り、しかも民衆がそれを喝采した。非常識な軍拡に走り、冗談のような破壊力を持った兵器を開発する。そして、それを――使ってしまった」


 それは、旧世界の歴史の一部に、酷似していた。

 皆が息を詰めてイヴの言葉に耳を傾ける。


「私は別のある大国に生まれた。そこで、当たり前に育ち当たり前に恋をして――でも、当たり前に家庭を持つことは許されなかった」


「――それは」


 教授が尋ねると、イヴはふっと笑った。


「私が、暴走するこの国を止めるための、特殊エージェントとして適正を持つことが分かったの。強制徴用され、老化を止める遺伝子改造を受けた。それから、訓練を施された」


 訓練――そう聞いて、もしや、と感じる。


「されたことは、あなたたちと同じ。徹底的に感情を壊され、罪の感情もためらいも感じることなくこの国を支配者ごと滅ぼすための『兵器』となった。彼ら自身が作ったばかげた兵器を抱え、この国で自爆するだけの兵器。私の他にもエージェントはいた。でも幾重にも張り巡らされたセキュリティを潜り抜けられたのは私だけだった。一人がたどり着けば、十分だった。――けれど、間に合わなかったの」


 そこで彼女の瞳に映った光が、不意に揺れた。

 その動きを私は見逃さなかった。


「彼らは、私の目の前でその兵器を全世界に向けて発射し、すべてを滅ぼした。私の国も、私の家族も、あの人も……。何も感じなかった。何も感じない自分が不気味だった。だけど、ある言葉だけはいくらでも湧いてきた。――許さない、絶対に許さない。私は復讐を決意した。独裁者に近づき、そそのかした。完全な全体主義の実現、そのための無感情化計画。もちろん私は、人の感情を壊す方法を知っていた。嘘の歴史で世代を塗りつぶし、新しい世代は壊しつくす。そして、アタラクシア・イブという神格化された祖を――私の存在そのものが、私の計画の説得力を十分にした。私は、彼らの行ったあらゆる感情刺激テストを容易に耐え抜いた。だから、私が、アタラクシア・イヴ」


 張り詰めた空気に、息を吐く。彼女の言葉に含まれる真実のパーセンテージを量ろうとする理性に対し、感性は彼女の瞳がたたえる哀切の音に触れた。


 予感する。私はきっと、彼女の言葉の真偽を、永遠に忖度し続けるだろうと。


「心を揺さぶるかもしれないあらゆる刺激から、人々を隔離しなければならなかった。思い出させてはならなかったの。彼らが感情を持っていることを。私が復讐を遂げるそのときまで」


「だから、私を殺そうとした」


 尋ねると、彼女は顎を上げて答える。表情を動かすことなく。


「そう」


 私はどんな自分でその表情に対すればよいのか、分からなかった。

 イヴが顔を元の位置に戻して続ける。


「――結局、あなたは私が思っていた以上のことを考えていて、私の復讐を台無しにしてしまった」


 なぜこんな世界が作られたのか。

 それは、たった一人の女性の復讐のため。

 全人類が、彼女から奪われた大切な人に殉じるため。


 ――こんなものが真実ではありえない。


「あなたは、どうしてあんなことをしようと思ったの?」


 彼女の突然の問い。返答につまる。


「……わからない」


「わからない?」


「ただ――何かが間違っていると思ったんだ」


 事実、私はただ、終わらせなければ、と思っただけだった。

 純然と。


「――君は、自分でこんな世界を作って、そうは思わなかったのか?」


 知らず、口が疑問を発していた。


「――わからない」


 イヴが私を見て、目を伏せる。


「奪われたから、奪った人間から、その子孫からも奪いつくしてやろうと思った。奪いつくして、奪い合う世界を終わらせて――」


 最後まで言葉を継がず、彼女はうつむく。


「……すまなかったな」


 無意識に、そんな言葉が口から出ていた。

 どうしてこの口から零れたのかと、疑う言葉が。


「いいえ。人は、私が思っていたよりずっと強かった――それだけ」


 そう言って彼女は、おそらく何十年もこぼさなかったであろう涙を、頬に流した。とても、静かに。二条の線が彼女の顔に走るのを、私は無言で眺めていた。



 * * *



 立ち上がって涙をぬぐうと、もう行くわ、とイヴはつぶやいた。


「どうしてここに?」


 私の最後の問いに、イヴがその華奢にも見える体ごと私に向けて応じる。


「あなたたちには真実を知っていて欲しいと思ったから。この理由じゃ不足かしら」


「そうか……」


「えぇ」


 彼女がちらりと見せた横顔には、また寂しげな微笑が乗っていた。

 そして、彼女は、さよならも言わずに歩み出す。


 ――が。


「待ってくれ! 君は、大国の出身と言っただろう。たぶん私が知っている国だ。僕の母の生まれた国だ」


 スツールを蹴るようにを立った教授が、イヴを引きとめていた。顏だけを向ける彼女。


「君の訛りは母に似ていた。なぜ……僕が君に心奪われたのか、今分かったんだ」


 その教授の表情に、私は驚きを禁じ得なかった。彼がこんな表情を見せたことがあっただろうか? まるで別人としか、思えない。

 何十歳も若返ったかのように生気に満ち生き生きとし――。


「もし君が嫌でなければ……君を連れて君の故郷に行きたい。何年かかるか、何十年かかるか分からない。でも、絶対に君を連れて行く、約束する。あの大地ですべてをやり直すんだ!」


 告白にも似た言葉を受けたイヴが、教授と向き合った。


「やり直す? 私はあなたが思っているよりずっとたくさんの命を奪ってきた。とてもあなたの手に負える――」


「そんなことは僕が決める。いいや、望むなら、僕が君を裁く。君の罪の最後の一滴(ひとしずく)まで。そうとも、君は審問を受ける義務があるんだ」


「審問。あなた、面白いことを言うのね。でも私は、自分でもあとどれだけ生きられるのか分からないし――遺伝子改造の副作用でじきにしゃべることも難しくなると思うわ。それでも――」


「かまわない。決めたぞ、僕は君を連れて行く。必ずだ」


 二人が見つめ合う。その僅かな時間の中で、私は決定的な何かを感じていた。

 イヴが一度瞑目する。


「……どうぞ、ご勝手に」


 そう言って、イヴが再び歩み出す。

 さっきまでと違うのは、その斜め後ろに、教授を連れていることだった。


 この世界で生きる目的を見つけたとでもいうような目で、私たちを一度見て大きく頷いた――生気に満ちた教授を。


 扉が閉まると、世界が狭まった。


「……訛り、ってなんでしょう」


 見ると、何も言わずにたたずんでいた新人が、困ったように笑っていた。


「さあ、私にもさっぱりだ」


 辞書に載っている字義を教えることは容易いが、やめた。


 それは、人を分け隔てる何か。

 それがあったから、彼らは惹かれ合った。

 それだけで十分じゃないか。


 教授とイヴが腰かけていたスツールそれぞれに焦点を結ばせていると、新人が声を発した。


「教官。あの、僕も、助けたい人が」


 彼の言葉に、私はうなずく。


「ああ、まずは君自身を」


「いえ、僕のことは最後でいいんです。でも、教授と同じように、連れ出したい人がいるんです」


 連れ出したい人。それは……。


「いつか話していた女の子か」


「はい。僕は彼女に――好きな人の子供を、産んで欲しいんです」


 私は、そうか、とつぶやいた。


「それだけじゃ、ありません。先生にも……一言、謝りたくて。僕は自分の汚さを先生に押し付けて――きっと先生にも感情があって、それで傷ついて――だから」


 私は再び、そうか、とつぶやく。


「教官も、分かるでしょう?」


 新人の澄んだ瞳を眺めた。たぶん、そうだ。

 頷きで応えると、新人は歯をこぼすことなく笑った。


「それでは、失礼します」


「あぁ」


 そう言って、行くべき場所を見つけた新人は、この場を去る。

 私は一人になった。スツールに歩み寄って腰掛け、大きく息を吐く。


『教官も、分かるでしょう?』


 先程の新人の言葉を思い返しながら、瞼を閉じる。手を組み合わせた。


 彼が、自分を後回しにしても誰かに幸せになって欲しいと思う気持ち。

 教授が、身を粉にしても憎悪の冥府から救い上げたい人を見つけた気持ち。

 あの時、死を覚悟した私が残された隣人たちを誇り、慈しみたくなった気持ち。


 すべて、同じ感情のように思う。

 執着にも似た破廉恥な感情。


 この心の揺らめきに、なんと名がついているだろう。


 ――大丈夫。答えを焦ることは無い。そうだろう?



 幸いなことに、考える時間は、たっぷりとあるのだから。



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