5.この名を失った心の揺らめきに【上】(著:月立淳水)
世界は管理されている。
心無きヒトに管理されている。
それはいったい何のため?
もちろんそれは、幸せのため。
その幸せとはいったい何?
奪わないこと。
奪われないこと。
奪ったものを、許さないこと。
* * *
鈍く、意味のない音が、私の鼓膜を震わせる。
二度。
三度。
この歴史が始まってから、おそらく何百万度も繰り返した音。
皮手袋を着けた大人が、子供を次々と殴りつけている。順序に規則性を見出そうとする無意識の作用は即座に降伏を告げた。
子供が殴られる理由。それは感情を表したからだ。
そこに規則性があるのであれば、からくり時計にでも殴らせておけばいい。そうでないことが、感情の無秩序さと無意味さを自ずから知らせている。
上官が、私の隣に立っている。
「君が担当するのはあの新人だ」
彼が指差した先には、まだ少年と呼ぶべき風貌の新人矯正官がいた。
忠実に職務をこなしている。子供を殴っていた。
「ずいぶん手慣れているようです。教育が必要でしょうか」
私の問い掛けに一瞥をくれると、上官は静かに応える。
「――彼はかつて被矯正者だったのだ」
上官の言葉で、その必要性を私は理解した。
新人は観察対象――あるいは逆教育者。つまり教育されるのは、私なのだということを。
* * *
感情を知らぬ人間が増えた、と言えば、西暦と呼ばれていた時代にあっては、人の容赦なさのレッテルに替えることができたであろう。
あれは、馬鹿な時代だった。
感情を持つがゆえに、人が自我を他に強制した時代。意識の領土争いが絶えなかった時代。
その結果、人類は滅亡した。
いや、滅亡しかかった。
数々の幸運が重なり、わずかな人類は、再び歴史を織り始めた。だが、失敗は繰り返した。
ヒトがヒトを浸食する作用は、マチがマチを、クニがクニを侵略する作用に拡大する。それを止めるには?
――無用の作用を取り除けばよい。
実に簡単な結論であった。
ごく小さなコロニーから再出発した人類は、遍く全体主義のもと、この考え――すなわち、ヒトの浸食作用・感情の除去を、実現につなげた。
長い研究の末、感情を完全に消し去った一人を得た。
それは、アタラクシア・イヴ、と呼ばれた。
我々に完全な平穏と愛を与えた、最初の人。
そうして、感情を知らぬ人間が増えた。
そこに落とし穴があった。
まれに生まれる『感情を持った個体』の処遇である。
私はかつて上官に問うたことがある。
そのような個体、即座に処分するのがよろしいでしょうに、と。
上官はシンプルに答えた。
人類全体の幸福に寄与する度合いとそうでない度合いを比較した結果である、と。
ひとつに、彼らは、矯正さえ受ければ、人類の存続に寄与する。
矯正された彼らは、他の一般的な人類と同じく、管理と生産を遂行できることが分かっていた。仮に彼ら十人のために一人の矯正官が必要だとしても、矯正官の生産性は、牧場の生産者をはるかに上回る計算になる。
もうひとつに、彼らは貴重な感情の情報源である。
生まれながらに感情を持たない一般的な人類は、感情を知らないがゆえに、危険な感情の兆候を見逃す恐れがある。だから、彼らのうちの一定の割合は、建前上は管理者として登用され、貴重な逆教育対象となるのである。
そう、今回の新人のように。
多くの管理者たちは、彼らから感情の何たるかを学ぶ。その上で感情発作を起こしたものを分別し、逮捕し、矯正し、あるいは、処分を行うのである。
私とて、感情が何物か、座学のうちには承知しているつもりだ。
たとえば、笑うという感情。
目を見開き頬を膨らまし口の端を上げ、言語でない音を咽喉より発する。
言語でない音を発するという行為。想像するだけでおぞましいものだが、実のところ、それを聴いたことはない。
ただ喉にものを詰まらせてうなっているのと、笑っているのとを区別するのは、未経験者には困難なことなのだ。
おそらく上官は、座学のみのキャリア組教官である私に経験を積ませるために、彼を私にあてがうのだろう。
自室で一人、明日の彼との対面に思いを馳せる。
誰の頬も叩いていない皮手袋をクローゼットから取り出した。
* * *
新人は、かつて感情を持っていたとは思えないほど、しっかりとした光を瞳にたたえていた。
いや、感情を持つものはおどおどと落ち着かず、目線が泳ぎ、意味の無い言葉を繰り返すという常識さえも座学の知識に過ぎない。
私は彼から、本物の感情を学び、本物の感情対策官とならねばならないのだ。
「僕は――」
自己紹介した彼の声は、震えてもいないしつぶやくようでもない。
互いの自己紹介を終えると、早速、『彼の訓練のための部屋』に移動した。一メートル四方の小さな机、向かい合わせにパイプ椅子が置かれただけの密室。扉から見て奥の席に新人が、手前の席に私が腰かける。
「早速だが、教育に入ろう」
仮に新人が感情発作を起こしても周囲には漏れない。それは一種の配慮に見えるが、あくまで貴重な情報源を守る、という公共利益のためである。彼一人の命には何も価値は無い。感情保有者として生まれ、矯正で無害になったという事実にだけ価値があるのだ。
「君の経歴は承知している。だからこそ念入りな教育が必要なのだ、分かるね?」
言うと、新人が姿勢を整える。
「分かっています。僕は感情を持っていました。万一僕が矯正中に発作を起こせば、被矯正者に著しい悪影響を与えます。だからこそ、僕自身にも教育が必要だと」
その発言に私はうなずいた。彼の言っていることももっともだ。もっともだが――最終的に彼に本当の矯正作業などやらせるつもりなど無い。建前上、矯正の真似事をさせ続けなければならないだけで。
「君は君の感情をよく承知しているだろう」
私は淡々と言葉を紡ぎ始める。
「それを詳しく述べ、それでも動揺しない訓練をしなければならない。感情、この破廉恥なもの。笑う、泣く、怒る、欲張る、あと他に何があるだろうか」
新人は、少しうつむき、それから目を上げた。
「楽しむ、哀しむ、寂しがる。憎む」
こうして私と彼との――被矯正者との対話が始まった。
* * *
毎夜、矯正作業が終わると、私と新人は感情についての談義をするようになった。
彼はあらゆる感情に、恐るべき生々しさと疑問符を付け加えていった。
「赤い鳥が飛び立ち、オレンジの光が空を満たす――すると、僕は、楽しいと感じたのです」
「なぜかね。赤とオレンジ、つまり暖色は、楽しみという神経回路を励起するということか」
「いいえ、いいえ。白い雲も青い空も。春に緑が芽吹くとわくわくが止まりませんでした」
まったく、感情というものは、理解しがたい。
すべて、慇懃な現象に過ぎない。
なぜそこに、余計なものが付随するのか。
「僕はある日、生物学的な母が死んだと泣いている女の子と話をしました。君が泣くかどうかテストするためにそんなことを言ったのだろうと指摘すると……彼女は僕を、寂しい人と言いました」
「寂しい。自分の周囲にいる他人の数が想定より少ないことを不快と感じている感情を指すはずだ。そのとき君はもっと大勢で彼女を訪ねる予定だったのかね」
「いいえ。彼女が悲しんでいることには同情しましたが、僕自身は寂しくありませんでした」
「ではなぜ君は寂しいと指摘されたのかね」
「今でも分からないのです」
「では彼女は間違ったのだな」
「……不思議と、そうは思わなかったのです」
まるで暗号だ。
事実は一つに違いないのに、彼と彼女の間には、二つか三つ以上の事実があるかのように見える。
にもかかわらず、二人はある程度の同意に至っている。
「先生は僕に、生産には至らない、解消行為を持ちかけました。僕もそうしたいと思いました。そうしなければ苦痛がずっと続くからです。けれど、僕をどうにかしてしまいそうな先生のことが……とても怖かったことを覚えています」
「苦痛も恐怖も、続かないほうがいいということかね」
「はい、どちらもとても嫌なものです。どちらも――息苦しく、視界が狭くなり、理性が追いやられ、動物のように鳴き声をもらしたくなる」
「では先生に怖いと告げ、他のものに処理を頼めばよいのに、なぜそうしなかった」
「……先生に嫌われるのが怖かったのです」
苦痛、そして恐怖。
私には、それを疎む気持ちが分からない。
なぜなら、この世界に苦痛など無いのだから。
そのような、あっても困るだけの感情などが、なぜ人に備わっていたのか。
息苦しくなり視界が狭くなり理性が追いやられ、動物のように鳴き声をもらす――そんなおぞましいものが、なぜ存在する?
そして、同時に思う。
――なぜ、彼の言葉は、私の心の平穏をこうも脅かすのだろう。
感情は伝染しない。それは確かだ。にもかかわらず、彼の放射する何かが、私を侵食しているように感じる。
彼の言葉の独特の色合い、間、それが、私が信じてきた世界の平穏を揺るがし、私の心を揺らめかせる。
この新人は、危険なのではないか? ふとそういった考えが脳裏をよぎる。もしかすると、”一般的”な感情保有者ではない何者か――恐るべき怪物なのかもしれない。あるいは彼自身ではなく、彼が内在する感情の残滓が。
――そしてその当の彼は、なぜそんな恐るべきものを克服できたのか?
思い余ったある晩、私は彼に問うた。
「――君はまだ感情を持っているのか」
「……持っていると思います」
彼は答える。私たちと同じように淡々と、表情なく。
「なぜそう思う」
「……なぜ感情が破廉恥なのか、まだ理解できないのです」
「感情は破廉恥――厳然たる事実だ」
血が赤いのと同じように。
「感情は破廉恥です。それでも、なぜと、問うてしまうのです。いつもそうです。なぜ、なぜ。なぜ僕は感情を持ってしまったのだろう。なぜ景色はこんなに美しいのだろう。なぜ僕には彼女が理解できないのだろう。なぜ先生との行為は苦しく快感なのだろう。なぜ、なぜ。そう問い続けると、涙が出るのです」
そう訴える彼の顔は、発作者のそれに近い、ような気がする。
私は用心に手を握り締める。
「僕は、なぜと問うのをやめました。けれど、ともすれば、まだ、僕はなぜと問う気持ちを抑えられないことがあります。教官がうらやましいのです。なぜと問わずにいられる。平穏で穏やかで分け隔てない愛を世界に注ぎ、世界の欠片のすべてを受け入れなぜと問わずにいられる……僕はやはり、なぜ、と問うてしまうのです」
「君はなぜ、私がすべてを受け入れていると思うのだ?」
気付けば私自身が、なぜ、と口にしていた。
その言葉は、私の身体のどこから湧いたものでもなく、空気中から紡いだものでもなかった。私の中の身体とは別の何かが、なぜ、と息を吐いた。
なぜだ?
「それは、教官が完全な人だからです。分け隔てない完全な愛を世界に注ぎ、世界のすべて――星も月も太陽も、空も海も大地も、南極を吹く一陣の風さえも、疑問を持たず受け入れる、完全な人だからです」
「南極の風のことなど知らない」
思わず言い返していた。
私がすべてを受け入れている?
では、なぜ感情なるものがあるのか、と問う私は何者だ? 疑問を発している私は何者だ。なぜ空は青いのか、なぜ海は満ちているのか、なぜ南極に風が吹くのか――そのすべてを理解できないこの私は、いったい何者だ?
なぜ、なぜと問い続けている私は、なぜ涙をこぼさないのか?
「星も月も太陽も、空も海も大地も、ヒトも君も、私自身のことも、私はまるで知らない!」
知らない。分からない。
私は彼の想定にまるで到達していない。
彼の知る完全な人間の基準を一つとして満たしていない。
なぜ?
なぜ私はそうあるのか?
私は彼とは違う。
完全であり完璧であり――それを生まれながらに保証された――。
でも私は何も知らない。
私はなぜと問い続ける。
欠陥品である彼と同じように――。
「なぜ私は涙をこぼさないのだ! 私は何も知らない! 何もかもが、なぜ、だ! さあ、言え! なぜ私は涙をこぼさないのだ!」
答えろ欠陥品め。欠陥品め。欠陥品め。
欠陥品め!
「……教官は、完全な人だからです」
「そんな答えは聞き飽きた!」
今まで一度も使ったことの無い皮手袋の、左手の甲に、彼の頬の細胞がいくつかと唾液が付着した。
昼間にはめたままだった皮手袋がそのままだったことに気づく。
急にそれが汚らしいものに見えてきて、引きちぎるように脱ぎ捨てた。
新人に目をやると、頬を抑え、私を驚いた顔で見ていた。
「……すまない。なぜ君を殴ったのか、私には分からない」
だが、私には分かっている。
私は感情発作を起こしてしまった。
終わりだ。
すべて終わりだ。
彼は私のことを上官に告げ、私は淡々と処分される。成人してから後に感情発作を起こしたものに、矯正の余地はない。処分されねばならない。
私は出来損ないだったのだ。
進化した人類の系譜から外れた、奇形種だったのだ。
気管支の辺りが痛み、熱くなる。発作症状の一つだろうか。
「……教官、泣かないでください」
私が泣いている?
頬をぬぐう。手の甲にひんやりとした感覚が残る。
「すみません。教官も、ずっと、なぜ、と問い続けていたのですね。ずっと、なぜと問い続けているのは僕だけじゃなかったんですね。ずっと問い続けていれば、きっと誰でも涙をこぼしてしまうのですね」
……誰でも?
「教官も同じだったと知って僕は……少しうれしいです」
同じ?
「私は君と同じだと言うのか」
「いいえ。僕があなたと同じなんです」
再び、喉の奥が熱くなる。
彼の顔は、図鑑で見た『笑顔』だ。
おぞましい笑顔だ。
なのに、私はその顔を見て、とても心地よく感じている。
おぞましい?
おぞましい……それは感情ではないのか?
感情は破廉恥だ。
もし感情を起こしてしまったら――そう考えたとき、首筋がむずがゆくなり両手を握り締めてしまっている――。
これの正体は、なんだ?
生まれて今まで、ずっと付き纏ってきたこの感覚の正体は?
感情を知った今だから言える。
これは……感情だ。
なんということだろう。
進化して感情を失ったと自称する動物が、その個々人すべてが、感情はおぞましい、破廉恥だ、と口をそろえる。
本当に、人類は、感情をなくしていたのか?
なぜ、と問うこと。
当たり前のことだと思っていた。
しかし、なぜ、は、理解できないことの裏返し。理不尽への反乱。
愛と理は、無理解の壁を溶かしつくしたはずだったのに……。
私は彼が理解できない。私はあれが理解できない。私は私が理解できない。
――なぜ?
それは、嘘だった。『愛と理は、無理解の壁を溶かしつくした』なんて、すべて嘘だった。
私だって彼だって上官だって同僚だって――。
「……教官、大丈夫です、発作が収まれば、その後自制すればきっと――」
「違う。そうじゃない。私は間違っていた。私だけじゃない。星も月も太陽も間違っていた。私には確かに感情がある。君も。上官も子供も生産者も。ありとあらゆる管理者も」
なぜ、と問いながらそれを出せずにいた。
社会性、協調性、エトセトラ――態のいい合理的な言葉を当てているが、社会に受け入れられないかもしれない、という社会的恐怖に端を発する無意識の抑圧。
彼は――この新人は、その無垢な問いかけで、それを恐るべき生々しさで露わにしてしまった。
彼にかかれば私ならずとも――。
彼に私が受けた啓示をすべて説明し終える前に、私の喉は、あふれ出てくる鳴き声――いや泣き声、で、ふさがれた。
* * *
感情が自我と意識を無遠慮に拡大するからこそ、同時に、自我と意識を守るための防壁となる。
それが無ければ『なぜ』など生まれない。
だから、彼と私は違うのだ。
違うというところだけが、彼と私の一致するところだ。
彼にも私にも感情がある。
彼と違うことがうれしいと思うこの私の心以上に、その存在を証明するものがあるだろうか?
では、この世界はいったい何だ?
「……教官」
新人の呼びかけに、我にかえる。
「僕は――どうすれば」
私の顔色がくるくると変わるのを不気味に思ったのだろう。
思わず口元がゆがむ。ああ、これが、笑い――愉快に思う気持ちか。
「――君。私は面白いことに気がついた」
思ったとおり、彼は、目を見開いて――。
ぎょっとしている。
「この世界には、三種類の人間がいることが、今、分かった」
私が言うと、彼は不思議そうに私を注視した。彼ももはや感情を隠さなくなっている。
「1、無感情な人間。2、感情を持って生まれ矯正された人間。3、感情を持って生まれ矯正されていない人間」
私は大げさに指を折って見せながら続ける。
「ここに、2番に該当する人間がいる。そう、君だ。そして、今、3番の人間がここに現れた」
「感情を持ちながら、矯正されていない人間」
彼の言葉に頷く。
「そう、私だ。私の心の中には、ずっと感情があった。それを感情と認めることが怖かったから……恥ずかしかったから、気づかぬ振りをしていた。では、君に聞こう。私が3番の人間だったことが分かった今、君は1番と3番を見分けられるかね?」
「……分かりません。さっきまで僕は、教官を1番だと思っていました」
「よろしい。つまり、君が存在を確認できたのは、2番と3番だけだ。奇遇なことに、私にとってもそうなのだ」
心が、前へ、前へ、と私を急かす。
この感情は、何だろう。
「――回りくどいのはよそう。結論から言えば、この世界には、1番の人間は存在しない」
彼の瞳孔が、さっきよりも大きく開いているのが見える。
「待ってください、では、人間が無感情な動物に進化したというのは?」
「嘘だ」
「滅亡の危機から反省したと言うのは――」
「嘘だ」
「感情が無ければ愛になれるというのは」
「嘘だ」
「……最初の人、アタラクシア・イヴは」
「もちろん嘘だ。あぁ、そうだ、全て嘘だったんだ」
「なぜ」
その言葉を待っていた。
「なぜなのか、見つけようじゃないか。誰かが君や私や世界の人生をめちゃくちゃにした理由を」
たっぷり暗記教育された古い辞書の言葉の中から、私の感情を表す言葉を選び出す。そこで私はぴったりの物を見つけ出した。目を見開きながら口角を上げる。
憤り。
* * *
生まれたばかりの子は、感情を持っている。
私の考えによれば、そうなのだ。
短絡的と評されるだろうが、『生産牧場』を手がかりとすることに決めた。
翌日、新人を連れて牧場へと向かう。
理由は何とでもつけられた。何しろ、私も彼も、ある意味で特別な人間なのだから。牧場での被矯正者の様子を視察するとでも言えば許可される。
そして、なぜと問うことを知らぬ――少なくとも抑え込んでいる管理官たちは、疑問を持たずに私たちを通した。人を疑わぬ、他人の悪意を認めない世界が、私たちの利となった。
牧場は、のどかだった。
腹を膨らませた女たちが木陰に休み、相対的に少ない男たちは水泳をしたり、ランニングをしたりしていた。牧歌的といっていい光景だろう。
だが、これは不自然だ。
不自然があるという眼鏡を通してみれば、明らかに分かる不自然だ。
子供がいない。
牧場の最深部には、俗に『産屋』と呼ばれる建物群がある。出産の日を迎えたものはそこにこもり、子供を生産する。
そして、その建物は、あまりにも不自然に隔離されている。
再び悪意を知らない人々を欺き、産屋に足を踏み入れた。
そこは、図鑑で見た牢獄に似ていた。
光が入らぬ個室が並び、何もかもが流れ作業で管理されている。暗くじめじめとしたこんな場所で、赤子が生を受けている。陰鬱な気分が襲ってきた。
私は、看護センターで女性に尋ねた。生まれたばかりの子はどこだね、と。身分を確かめられた後、女性は無感動に応じる。
「取り上げられた子供は即座に育成牧場に送られます。育成牧場は総統府敷地内にあって立ち入りは許されておりません。ご覧いただくことは出来ないのです」
そう言われて、ふいに胸が突かれる思いがした。
総統府。
この世界における指導者、模範的無感情者である総統閣下とその一族が住まう場所。
彼の近臣と彼が特に取り上げた模範的人民も多く住まっているというが、その広さは、誰も知らない。
――感情を失ったものなどいない。
それが私の、絶対にして唯一の仮説だ。では、総統は?
総統閣下が完全な人間なのか、私と同じなのか。
その疑問の答えは、おそらく私の憤りのやり場を大きく左右するだろう。
しかしその答えは、永遠に得られないかもしれない。
それでも私は、真実に向けて歩を進めねばならないのだ。
私の心がなぜと問い続ける限り。
* * *
夕暮れの薄闇に紛れ、総統府を囲う塀を越えた。
悪意を疑わぬ者でもルールは守る。門から入ろうとする試みはあっさり失敗した。だが、不正をして囲いを乗り越えるという悪意の試みまでは、彼らは理解しなかった。
新人と二人、総統府の敷地の奥に向かう。
時折、何かを満載したトラックが前・後ろから通りかかり、そのたびに路傍の茂みに身を隠した。
徒歩で一時間はかかったように思う。
いくつもの建物が見えてくるが、どれが育成牧場なのか見当もつかない。
誰かに尋ねるにしても、夜の闇の中を歩くものなどいない。
再び、前方からトラックがやってくる。
茂みに隠れたが、そのとき、鼻になにかつんとくる臭いがあった。
それは、明らかに不快と恐怖の臭いだった。私の中の何かが、あれが求めるものだと告げた。
「今のトラック、どこから来たか、見ていたか」
「ええ、あの交差点の左の道から」
新人が、私の見落としたものを覚えていてくれた。
さらに三十分程度の道のりが続く。その間に、三台のトラックとすれ違う。
やがて、一つの建物にたどり着いた。
トラックが出入りできるよう大きな開口があり、その中にほのかに明かりが見える。建物の両脇は丘のようになっていて、谷底にその建物があるような形だ。
私と新人は、用心しながら、開口部が見える丘へと登る。
作業をしている数人の男たち。闇にうごめくもの。何かをトラックの荷台に積み込んでいる。
何を積み込んでいるのか――目を凝らし、その正体を見た瞬間、私は吐き気を覚えた。
おびただしい数の乳児・幼児の遺体だった。
初めて感情など無ければよかったと思った。
経験したことの無い嫌悪感が全身を縛り、その光景から目が離せなくなる。
同時に、私の中で、事実がつながった。
生産牧場では、一人の女性は、十五歳前後から出産を始め、生産終了まで多ければ十五人前後の子を産む。この世界の女性のほとんどが生産牧場で働いているから、その数は大変なものになる。
それだけ産み続けているのに、街は人であふれない。
簡単な計算だ。仮に一人の女性が平均十人を産めば、一世代で人口は五倍になる。女性が三十歳になるまで、つまりおおよそ三十年を一世代と数えて逆算すれば、十年余りで人口は倍になっていなければならない。にもかかわらずここ数年変わらない町並み――。
確信に近い推測が連なる。
生まれた子は選別され、あるいは暴力で矯正され、狂った理想に近づけようとされる。その中の、どうしようもない失敗作を……こうして投棄している。
矯正官の座学として習ったことがある。子供は生に対し貪欲な生き物だ。意識が生まれる前から、本能として、生き残る為の最善の戦略を神から与えられている。
環境に適応すること。子供の命を握っている人間の思う通りに自分を矯正すること。子供というやつは、それを、恐るべき精度でやってのける。
私はおそらく、物心つく前にそうした処理を受け、幸運にも見かけの無感情を獲得したのだ。
一方、幼少期にそれを獲得できないまま生き延びた少年たちは、施設で引き続き矯正を受けている――。
どれだけ見つめ続けていただろう。
からからになった喉と舌を、何とか動かした。
「……行こう、もう見てはいけない」
新人を見ると、彼はただ、茫然自失の様であった。
「あ、ああ、あああ」
動けなくなった彼の手を引く。
登ってきた道無き道を引き返そうとしたとき。
――しまった、見つかったか。
目の前に人影があるのに、私は気がついた。
* * *
何かしらの注意や警告は免れないかと思ったが、目の前の人影はどんな言葉も発することはなかった。肩から緊張を弛緩させる。
暗闇の中に溶け込んだ男の表情。分からない。
いや、昼間でも分かるはずがない。彼には感情が無いのだから。
――とすれば、こんな深夜に、何をしているのだろう?
彼は、さっきまでの私たちと同じように、あの光景をじっと眺めていた。
私が近づくと、彼はその足音に気付き視線を向けた。直ぐに戻してしまう。
瞳の中に星明りが揺れた。警戒する必要はなさそうだ。
「何をしているんです」
先に声をかけたのは、結局、私だった。
男は振り向くことなく答える。
「――見ているのだ、あれを」
あれ。彼の答えは分かりきったものだった。
「見ていると心が安らぐのだ。永遠の平穏。平坦で――平坦で――平坦な――」
「感情を、殺しているのですね」
出し抜けに、私の後ろから新人が言う。
「――平坦で――平穏で――感情だと? それはかつてそこにあった。見ろ。あれが感情だ。殺して殺して殺されて――死ぬ――死に続ける――感情は死だ」
彼の目線の先に、物言わぬ赤子たち。新人が唾を呑む音が聞こえる。
「あなたは……僕の教官に似ています。感情あるがゆえに感情を殺し続ける、罪を犯し続ける。僕は感情が罪だと知っているから、殺す罪から免れてきました。あなたは感情が罪だと知らないから、殺す罪にさいなまれなければならない」
私は、彼の言葉に静かにおののいた。
感情を罪と知らないがゆえに、感情を持つ自身を殺し続けなければならない――。
そうやって、私は、ずっと自分を殺し続けてきたのだ。
「感情は罪? いいや、罪は私だ」
「そうではありません。――なぜなら、感情をなくした人間など、この世界にいないのです」
男は、興味深そうに新人を眺めた。口を開く。
「私は知っている。恐怖に顔を引きつらせもせず、自らを処分する人間を。あれも感情があるというのか」
私はまるで、自分自身と対峙するかのように、その言葉と向き合った。
抑圧された感情。心の底、私自身も知らない奈落の奥で、感情は叫び続けていた。
たしかに、それは、あるのだ。
「……ある」
私は、そっと置くように口にした。男は、私を一瞥する。
「なぜだ、なぜそう言い切れる」
「なぜなら、私もつい先日まではそうだった――自らそうだと信じていたからからだ」
そこで彼は、実に複雑な表情をした。驚き、恐れ、疑う。瞳の奥でひどく動揺していた。それと同時に、まさかと、しかしと、震えているような。
「そしてあなたも感情があるのでしょう。その罪を恐れ、こうして毎晩感情を殺しに来ている」
言葉が終わるか終わらないかの内に、彼は、小さく咽んでひざから崩れた。
私は、彼がなぜここにいたのか、ついに理解した。
――彼は、知っているのだ。たぶん、きっと、すべてを。
しばらく――彼が力なく座っているのを眺めるだけの時間が過ぎる。
男は小声で語り始めた。
彼が総統の子飼いの者であること。感情を持つ彼を総統が面白がっていたこと。彼が自らを煉獄に落とした、凄惨な出来事。
――そして、彼が、旧世界からの彷徨い人であること。
にわかには信じがたい話ではあった。だが、彼の語る旧世界の光景は、あまりに真に迫っていた。
この時代に生きる人間の、私の頭脳に埋め込まれた西暦時代の知識とはあまりにかけ離れていて、作り話とは到底思えないものだった。
彼は言う。この世界は、何らかのきっかけで理想を――ユートピアを実現してしまったのだろう、と。おそらく人間の所業ではない何か――それこそ、人類が滅ぶほどの大戦争か何か。
ユートピア。この世界が。
しかし彼は同時に確信してもいた。
私たちの信じている歴史が、欺瞞であろうことを。誰かが理想を実現するために、用意されたものであろうことを。作られたものであろうことを。
奇しくも、歴史が欺瞞であろうことについては、彼と私の意見が一致した。
だから私は、私のこれまでの物語を彼に向けて詠いあげる。
私は、それを何者がやったのか知ろうとした。それを実現するために、誰か――何らかの狂った支配者がいたはずだと。
が、彼は、違う、と言う。
「――馬鹿げた理想主義。それが真の支配者だ」
おそらく、自発的に生まれた理想を求める共同意識がこの世界を作り上げ、舞台装置としての総統までをも作り上げたのだろうと。
彼は、だからこそ恐れたと語る。狂った支配者が一人いることではなく――人類すべてが狂ってしまったことを。そして彼もまた、この世界にいる限り、その狂った人類に参加しなければならないのだろうと。感情を、自ら手放したと。
重苦しい驚きの連続が終わる。息継ぎすら、忘れていたような気がする。
終わらせなければならぬ。
かつて彼が感じた使命感は、私の胸腔内で再び燃え上がる。
安堵を抱きながら死出の回廊を歩むものなど、これ以上生んではならぬ。
終わらせよう。
この、私が。
なぜ私なのか? ――その問いは、不思議と、疑問とならなかった。
「――教授」
私は古い脳内辞書の単語の中から、尊敬される学究社を意味する『教授』と、彼を呼んでいた。
「――教授、私と行きましょう。あなたはもう閉じ込められているべきではない」
すると教授は、感情を確かに持った人間が、言った。
「だが、私はそれでも、総統を放っておけないのだよ」
その返答を前に、地面に片膝をつきながら私は手を差し出す。
「だからこそ。私と行きましょう。この世界を終わらせるのです。総統を解放するのです」
教授が私の掌をじっ、と見る。迷いとでもいうべき間が挟まれた後、教授はそれを恐る恐る掴んだ。立ち上がり、声に疑問符を乗せながら呟く。総統を解放する、と。
「そうです」
「総統を……解放する」
手は既に離れている。それでも、闇夜でも、確かに分かった。
教授はその考えに、言葉に、静かに震えていた。