4.客人の平穏【下】(著:布瑠部)
外出許可が下りた。
いつもの時間、いつものルートを通って総統のもとへ向かう途中、どうやら待ち構えていたらしい使いの者に呼び止められた。
最近の僕の振るまいは無感情者として通用するもので、これならば混乱を招くこともないだろうと判断された、とのことだった。もっともそれは、総統と一緒にいないときの、という条件がつくし、外出時にはしっかり監視もつくのだが。
希望するのであれば、今からでもいいらしい。
了解しましたとだけ述べて使者を追い返し、そのまま歩きだす。
正直に言うと、少し面食らっていた。
外の世界を見てみたいという僕の希望は、ここで生活するようになってすぐの頃に、一度却下されている。
僕は特例感情保有者で、側近たち無感情者からは『総統の飼っている破廉恥な者』という侮蔑的な評価をされているので、このまま黙殺されるものだと思っていたのだが……。どうやら律儀にも一定期間ごとに審査していたらしい。
しかし考えてみれば、彼らの思考・行動基準は彼らの外にあるのだから、何も不思議なことはなかった。
かつて僕を処分しようとしたのだって、立ち入り禁止区域へ侵入している者がいるから咎め、そいつが感情発作を起こしたから処分しようとしたに過ぎない。無感情者には、悪意すらないのだから。
だから侮蔑的な評価というのも、『飼う』という言葉の印象からくる僕の主観であって、彼ら自身に恐らくそういった意図はない。
この世界の言葉の多くが、表面上の意味をなぞっただけの記号になっていることは承知していたはずなのに、どうにもその辺りの切り替えが難しい。
それはともかく、以前の僕なら、いよいよこの世界の実態を見ることが出来るのかと喜んだかも知れない。でも今となっては、もうどうでもよくなっていた。
外の世界といっても、どうせ人としての尊厳を奪い奪われ、そのことに気付きもせず機械人形のように右往左往する人間たちがいるだけだろう。今さらそんなものを見ても気分が悪くなるだけだ。
「ならば児童の矯正施設に行くといい」
到着後、とりあえず報告も兼ねて相談すると、総統がこともなげにそう言った。
「それは僕としても望むところですが……許可されますでしょうか」
一切の制限がないのなら、考えるまでもなかった。僕が行くべきところは、そこしかない。感情保有者の子供らを教育し、真の愛へと導き救済するという、その施設。
わずかに残った感情保有者たちから、笑顔を奪い、悲しみすら奪う、僕にとって最も憎むべき悪魔の城だ。
「人間どもの都合は知らぬが、かまわんだろう。吾が許す」
総統がその場で側近を呼びつけ、命令を下した。僕は祈るような気持ちでそれを眺める。
基本的に総統の命令は絶対だが、いくつかの例外もあったという。
例えば総統が単独で外に出ようとしたときなどは、側近たちは何を言われてもどれだけ暴れられても、「お考え直し下さい」と言って譲らなかったらしい。しまいには総統の方が根負けしたそうだ。
僕が訪問を希望する教育施設は、たぶんこの世界の根幹をなす最重要施設の一つだ。だから感情という爆弾を持つ、いわば危険分子である僕の訪問は却下されるのではないか……と、危惧していたのだが。
そんな僕の心配は、いともあっさりと杞憂に終わった。
「かしこまりました。ではさっそく午後から案内いたします」
側近は、その場でそう即答したのである。何だか拍子抜けするほどだった。
ともあれこれで正式に許可がおりた。僕は感激して、いつものように感情を表す言葉を使って礼を言った。
「ありがとうございます総統! とても、嬉しいです!」
総統も満足げに笑う。
「うむ。あそこは面白いぞ」
聞けば、教育施設には総統も何度か足を運んだことがあるらしい。
「まれに側近どもが連れてくる面白き者は、どれも同じような者ばかりでな。吾自らが探しに出たときは、たいていそこに気に入った者がおる」
そういえば僕がこの世界に漂着したとき、総統は「吾は破廉恥な者どもを愛でる」と言っていた。これまでにも僕のような者を保護したことがあるのだろうか。
総統が『面白い』と評するのは、たぶん彼が知らないことを知っている者か、感情表現の豊かな者だろう。
僕は静かな興奮を感じた。もしかしたらこの訪問が、この世界を変える、ささやかな一歩になるかも知れない、と。
* * *
時計の針が頂点で重なった頃、僕は用意された車の後部座席に乗り込んでいた。
――では総統、行って参ります。土産話にご期待下さい。
ついさっき総統と交わしたばかりの挨拶を思い出す。土産にするのは話ばかりではないかも知れません、とは言わなかった。あわよくばという気持ちはあるが、さすがにそこまで楽観的ではない。
車が静かに動き出す。中庭の広大さから予想はしていたが、この総統府という施設は、かなり馬鹿げた広さを持っているようだった。
僕が生活していたのは、まさしくその最奥の、ごく限られた一角だったらしい。
――この広い敷地のどこかに、あのひとがいるのだろうか。
ふと、そう思った。
僕は、ある風の強い夜を思い出す。悲しさを忘れてしまったと言った、彼女を思い出す。自分が泣いていることにも気付けない、哀しい少女を。
あの夜から、僕は中庭に出ていない。彼女に会えてしまうかも知れないのが恐くて、一度も出ていない。
もし次に会うとするなら、それは僕が何かを成した後だ。笑って下さいと言えるようになってからだ。そしてその時こそ、ありったけのジョークと、精一杯のおどけた仕草で彼女を笑わせるのだ。
無表情な泣き顔を見るのは、もうたくさんだ。
「――ん」
ふいに何かが聞こえたような気がした。あの夜と同じだ。
「どうかされましたか」
僕の隣で、どこか遠くを見ていた壮年の側近が訊いてきた。彼は総統の側近たちの中でも特に屈強な肉体を持つ、僕の監視役だ。
「いえ、何か泣き声が聞こえたような気がして」
「泣き声?」
監視役の瞼がわずかに震えた。
「鳥か何かかも……いや、やっぱり気のせいですね」
あるいは彼女のことを思い出していたせいかも知れない。
何となく気まずくなって、僕はさっきまで彼が見ていた建物を指差した。
「あの建物は何ですか」
「……それより」
彼は無感情者にしては珍しく、強目の語気で言った。
「あと数分で総統府を出ます。あなたが『特例』でいられるのは、総統府の中だけだということをお忘れなきよう。場合によっては、この外出は即刻中止されます」
脅迫じみた……いや、忠告なのだろう。ここから先は、僕はこの世界における普通の人間として扱われる。感情発作を起こしてはならない。
「はい、分かっています。今から僕は……いや私は、無感情者です」
車が総統府の門を過ぎて、僕はいよいよ気を引き締めた。
車の窓越しに眺める町並みの印象は、僕のいた時代に照らし合わせるなら工業地区に近かった。
何らかの生産施設、計画緑地、居住区。それらを明確に区分けする、十字に交差する道路。娯楽施設や商店舗らしきものどころか、広告看板すら見当たらない。薄灰色の建物はほとんどが統一規格によるもので、代わり映えしない景色が延々と続いている。
無味無臭の、乾燥した風景。この世界に住まう人間たちの精神性をそのまま具現化したような、表情のない町。そこに蠢く、虚ろな目をして規則正しく行き交う人々。
改めて思い知る。この世界に、暮らしはない。彼らはただ生きているだけだ。
解ってはいても、それを目の当たりにするのは、やりきれなかった。
「まもなく到着します。矯正施設です」
やがて車が森に入る。しばらくすると、運転手が告げた。
深閑な森に建設されたそこは、目隠しのような塀にぐるりを囲まれた、まるで監獄のような場所だった。僕も何度か名前だけは聞いた、感情警察とやらが管理する施設である。
施設の入り口で運転手がカードを差し出して身分照会を済ませ、奥の駐車場に車を入れる。迎えの者が来るまで待機していて下さいとのことだ。
「ちょっと回りを見てきます」
「遠くには行かないようお願いします」
壮年の監視役に断りを入れて、僕だけ車を降りる。
辺りを見回すと、他の車の陰からこちらを覗く小さな女の子がいた。年の頃は十にも満たないくらいか。
怖いもの見たさというのだろうか、好奇心と緊張が入り交じった、瑞瑞しい表情をしていた。
普通だ。普通の女の子だ。この世界にやってきて、総統以外の人間に初めて見た、『表情』と呼べるものだった。
僕は女の子に近付き、しゃがんで視線の高さを合わせた。女の子が少し怯えているのが分かる。
「こんにちは」
「こんにちは。ごめんなさい。まだ上手くできなくて」
女の子が顔を押さえた。
上手く出来ない? 表情を消すことだろうか。
「新しい先生ですか」
「ううん、違うよ。僕は……」
車の方を窺う。ここは上手く死角になっていて、彼らが車を降りる気配もない。僕は出来るだけ穏やかな笑みを浮かべた。
「僕は君たちに会いに来たんだ。先生じゃない」
女の子の頭を優しく撫でると、彼女も嬉しそうに笑ってくれた。
「あ、ごめんなさい。あたし、また」
「いいんだ。叱らないよ。……ここでは、笑うと叱られるの?」
「うん。感情ははれんちだって」
またその文言か。厭な言葉だ。
「そうか……そうだよね。僕はもう行くけど、また後で会えるといいね。でもその時は、ちゃんと顔を作るんだよ。叱られちゃうからね」
じゃあね、と言って立ち上がる。女の子はさようならと言った。
車の方に戻りながら、僕は嬉しさを噛みしめた。
ここには、普通に笑う子供がいる。あんなにも美しく笑う子供がいる。この世界は、まだ完全には死んでいない。
車から壮年の監視役が降りてきた。今のやりとりがバレていたのかと少し焦ったが、彼の視線は違う方向を向いている。
見ると、若い女性職員がこちらにやって来るところだった。
僕は表情を消して、壮年の監視役の隣に立った。
「予定にない訪問ですが、何用でしょうか」
女性職員は髪を短く切り揃え、黒い皮手袋を嵌めていた。スーツに似た着衣は、感情警察の制服だろうか。
「いいえ。このかたは総統府に勤める研究者なのですが、矯正施設を視察したいとのことで、急きょお連れしました」
壮年の監視役の紹介に、僕はおや、と思った。確かに僕は元の時代で研究者だったが、この世界に来てからは何もしていない。嘘とまではいかずとも、この言い方は正確ではない。
「そうですか」
女性職員は簡単に納得、いや了解した。
「事情は分かりました。案内は必要ですか」
「仕事に支障がなければ」
「問題ありません。ではこちらへどうぞ」
彼女がそのまま先導を始める。何の躊躇も戸惑いもないその態度は、かつての僕ならかえって不自然に感じただろう。しかし無感情者の思考形態を学習した今は違う。
彼らは悪意を持たず、損得勘定や好悪の基準もないので、嘘をつく必要性が理解できない。よほど明白な嘘でもない限り、そもそも疑うことすらしないだろう。無感情者にとって、嘘や悪意とは無駄で無意味なものなのだ。「だからそんなものは存在しない」と、彼らの思考はそこで止まる。
感情を無くし理性のみによって生きるからこその、愚かさ。『完全な世界』という呪いの影響は、ここにも及んでいる。ありとあらゆる悪意に、彼らは永遠に気付かない。
この世界を知るごとに、僕は確信を深める。こんなものが、人類の正常な未来のはずがない。僕はそこに欺瞞の影を見る。理想の影に潜む、今となってはもう誰のためのものでもなくなっているかも知れない、欺瞞を。
「当施設には、現在十余名の児童が収容されています。子供たちはここで学習し、仕事をし、矯正されて真の愛を得ると出所します」
女性職員に説明されながら、施設内の廊下を歩く。
僕の生活範囲にこの施設についての記録はなく、一体どんな所かと思っていたが、環境は悪いものではなかった。
生活設備に不足はなく、与えられる仕事も順当、学習内容にも欺瞞の影はあるものの、決定的な洗脳要素はない。
では何をもって子供らを無感情者にしているのか。質問しても良いが、まず他の子供らにも会ってみたいと思った。
「子供たちには会えますか」
「この時刻は自由時間なので探す必要がありますが、何人かの居場所に心当たりがあります」
外へ出ましょうと彼女が言ったとき、どこからか廊下を走る音が聞こえてきた。
音のする方向に目をやると、十才くらいの男の子が、勢いよく廊下の角を走り出てきた。
男の子は、曲がった先に女性職員がいるのを見て、驚愕を顔に貼り付けた。やはり子供たちは表情を持っている。
しかしその表情は、一瞬で人形じみた無表情に変わった。悔恨や恐怖ではなく、無表情に。
「――番」
立ち尽くす男の子に向かって歩を進めながら、女性職員が何桁かの数字を言った。それが何を意味するのか考える間もなく繰り広げられた光景に、僕は目を疑った。
「お前を殴るぞ」
パン。容赦のない平手打ち。皮手袋が大きく鳴る。
「感情は破廉恥だ。言え」
「感情は破廉恥です」
「お前を殴るぞ」
またしても皮手袋が鳴る。さっきよりも高く響いた。
「感情は破廉恥だ」
「感情は破廉恥です」
「よし」
「ありがとうございました」
男の子が深々と頭を下げ、無表情に去っていった。
「今のは……何ですか……」
僕は努めて冷静に訊ねた。感情をあらわにしてはならない。
「教育儀式です。子供たちが感情を出した時と、毎日の朝と晩に今のような処置をします」
女性職員が淡々と答えた。
――教育、だと?
僕はさっきまでの自分の浅はかさを呪った。一番重要な部分を見もせずに、何が悪くない環境か。甘かった。子供らを理不尽な暴力にさらすここは、監獄以下じゃないか。
「それが、ここで行われている矯正手段なのですか」
「いいえ、全ての施設共通の方法です。感情を無くすまで、繰り返し痛みを与え続ける。それが最も効率的なのです」
効率的。効率的と言うか。彼女の言葉がいちいち癇に障る。
「そんなことで感情が無くなりますか」
「はい。この方法で何人もの子供が本当の愛に目覚めています」
彼女は言った。
私もその一人です、と。
――なんてことだ。
僕は強く息を呑んで、呼吸を止めた。そうでもしなければ叫んでしまいそうだった。
これは、違う。何も感じないことと、何も感じさせなくすることは、違う。なのに、こんな。こんな方法で。
こんなものは教育ではない。矯正ですらない。彼女たちがやっているのは、ただの虐待だ。子供らの感情を麻痺させ、心を殺しているだけだ。
それを繰り返しているのか。それでも何の疑問も抱かないのか。誰も、誰一人として。それを施された本人ですら。
吐き気がした。
「帰ります」
思わず、吐き捨てるように言っていた。
「子供らに会わなくてもいいのですか」
「はい。もう分かりました」
無感情に答える。激しすぎる怒りが、演技をするまでもなく、僕から表情を奪っていた。
「ではお送りします」
くるりと背を向けた女性職員の背中を、ぐっと睨みつける。
許せない。許せない。許せない。同じ言葉が僕の思考を白く染める。しかし彼女を責めても無意味なのだ。やり場のない怒りに、指先が冷たくなっていくのを感じた。
建物の外に出たとき、どこかで笑い声が聞こえた。声のした方を向くと、回りを囲む塀の上に、三人の子供たちがいるのが見えた。
その中で一番小さな女の子が、塀から飛び降りてこちらへ駆け出した。駐車場で出会った、あの女の子だった。
胸が締めつけられるほどの、笑顔だった。
――駄目だ、笑うな!
喉まで出かかった叫びを、歯を食いしばってこらえる。
どこからか現れた男性職員が女の子に向かって一直線に走り寄り、手にした棒で横殴りに殴った。壊れたおもちゃのように女の子が吹き飛ぶ。
大声を上げて泣く女の子を、男性職員がさらに殴り付けた。
――もう、我慢ならない。
思わず足を踏み出しかけた僕の腕を、誰かが後ろから力強く握りしめて引き留めた。壮年の監視役だった。僕の無表情な殺気を、彼の無表情な虚無が呑み込む。施設のチャイムが鳴った。
濃密に引き延ばされた一瞬が、容易く緊張感の限界を超えようとしたとき、別の女の子の泣き声がした。
振り向くと、いつの間にか塀から落ちたらしい、もう少し年かさの少女が肩を押さえて泣いていた。お母さん、と言った。
僕らの案内をしていた女性職員がすかさず走り寄って、その少女を拳で殴った。隣にいた少年が無表情なまま少女を庇うように立ち、さらに強く殴られた。
僕は掴まれた腕に構わず、荒れ狂う怒りに任せて今度こそ一歩を踏み出した。
「感情発作を起こしてはいけません」
耳元で囁く声がする。
「あなたが感情発作を起こすと、私はあなたを処分しなければなりません」
処分。その一言に、体が硬直した。
いつかの恐怖が甦り、全身を冷や汗が伝う。まさか、総統の側近の中でも特に屈強な肉体を持つ彼が随伴員に選ばれたのは、こんな事態を想定していたからなのか。
僕が無感情者たちの思考行動パターンを読むように、彼らも感情保有者である僕の行動を読んでいたのか。
「……分かりました」
血を吐くような思いで、平坦な声を絞り出す。強く念じる。
ここで無駄に命を散らすのは得策ではない。いつかこの狂った世界を壊すために、僕は生きなければならない。
どれだけ自分に言い聞かせても、それが無様な言い訳に過ぎないのだと、小刻みに震える体が僕を責めた。
僕は、屈したのだ。
帰りの車中で、僕は壮年の監視役に尋ねた。
「教えてください。あなたは、あんな酷い光景を見ても、本当に何も感じなかったのですか」
下らない負け惜しみ、ただの八つ当たりだ。
感情保有者を感情があるという理由で盲目的に責める者と、無感情者に情け知らずだと責める僕に、いったいどれほどの差があるのか。
それでも言わずにはいられない、そんな屈折した気持ちも、彼には一切理解できないというのに。つくづく自分が嫌になる。
「私には、痛みや死を忌避するという感覚が分かりません」
予想通りの答えだった。しかし男の言葉は、それだけで終わらなかった。
「ですから、あの子供らが不幸だとは思えません。……いや、生きているからこそ不幸なのだろうか」
何だ? この男は何を言っている?
「それは……どういう意味ですか」
「いえ。やはり私には分かりません」
「もしかして、あなたは……あなたも」
僕の疑問が形になる前に、男がそれを否定した。
「いいえ。私は生まれながらの無感情者です。ただ、ときどき、頭と体が、とても重くなることがある。それだけです」
「……そう、ですか」
僕は二度目の「もしかして」を呑み込んだ。
* * *
総統府に戻った僕は、壮年の監視役と共に総統の私室へ報告に向かった。
嵐のような激情が過ぎ、努めて冷静になって思い出してみると、あの施設で見聞きした出来事は、僕にいくつかの仮説を与えていた。
まだはっきりとした形を取らない予感のようなそれを、一刻も早くすくい上げたい気持ちは強かったが、僕が姿を見せなければ総統にまた心配をさせてしまう。
「総統、ご友人をお連れしました」
「友よ、戻ったか」
壮年の監視役の報告を受けて柔らかい笑みを浮かべた総統は、しかしすぐに眉根を寄せた。
「どうした。面白くなかったのか」
しまった、顔を作るのを忘れていた。今さら「何でもありません」と言っても、総統は納得しないだろう。
……いや、総統の矯正施設と感情保有者への意識を変える最初一手としては、いいかも知れない。
「総統は、矯正施設で何が行われているか、知っていますか」
「何を見たのだ。話してみよ」
言われるままに話し出そうとして、気付いた。下がれと命令されていないので、僕の後ろにはまだ壮年の監視役が立っている。気持ちと考えの整理がついていないこの状態で話をすると、また彼を責めるようなもの言いになってしまうかも知れないのが、少し嫌だ。
しかしそんな気持ちも、痛いほどの笑顔を浮かべていたあの女の子を思い出すと、すぐに掻き消えた。
「顔中で笑う、女の子がいたんです。元気で、眩しい笑顔でした」
僕は話を続ける。破廉恥だという名目で、とても好い顔で笑う子供たちが、その笑顔を奪われている、と。
総統が感情表現の豊かな者を好むだろうという予想を元にした、卑怯で作為的なやり方なのは承知の上だ。
「そんなにたくさんの感情を持つ子供なのか。それでお前は、どうしようとしたのだ」
「はい。叶うなら、あの子供たちをここに連れてこようと思いました。せめて、一番小さな女の子だけでも」
「それをお前が止めたのだな」
総統の目が剣呑な光を帯びて、監視役だった壮年の男を捉えた。
まずい。やはりこの場で話すべきではなかった。止められはしたが、僕はこの男に悪い感情を抱いているわけではない。何より僕は、この男の中に、ある可能性を見出だしている。
「待ってください総統。この人は」
「はい、私が止めました。感情発作の兆候があったからです」
庇おうとする僕を無視して、男が口を開いた。
「そうか……お前が」
息が触れんばかりに顔を近付けて、総統が男を睨め回した。
壮年の男は、それでも無表情に真っ直ぐ前を向いていた。かつて僕も一度だけ聞いた、いまだにその真偽と意味を測りかねている一言を、全く怖れていない。それが僕にとって恐怖となった。
「笑ってみろ。笑え」
唐突な命令に、男が総統を見返した。
「聞こえなかったのか。吾は笑えと命じたのだ」
「ははは。ははははははは」
男は無表情に、はははと言った。
異様な雰囲気に呑まれて、僕は割り込むことができない。
総統が次なる命令を下す。
「泣け」
「う……あ」
「どうした、泣け」
「あーっ。あーっ。あーっ。あーっ。あー……」
男は、今度は感情のこもらない声で「あ」を連呼した。まるで下手な赤子の泣き真似だった。
「つまらない。お前は本当につまらないな」
うんざりした表情で男を眺めていた総統が、ついにその決定的な一言を口にした。
「お前は、死になさい」
「かしこまりました」
男は一礼して、退出していった。あの時と同じ、あまりに現実味のない光景だった。
「そ、総統。死になさいとはどういう。彼に、本当に死、死を」
なんとか自失から立ち直った僕は、震える声で、やっとそれだけ言った。
「あのような者、死ねばよい。代わりの人間など、いくらでもいる」
やはり総統は真に死ねと、生命を絶てと命じたのだ。
ふて腐れて吐き捨てるその姿は、「お前なんか死んじゃえ」と駄々をこねる子供と同じだった。
僕は後悔した。いまここで施設の話をしたことを。これまでに一度もあの時の言葉の意味を、死を命じられた彼がどうなったか訊かなかったことを。怖かったのだ。総統が簡単に人の死を決定する人格だと確認するのが、怖かったのだ。
僕は間違っていた。総統に色々な感情を教えるとともに、生命の大切さも教えるべきだった。人の尊厳を伝え、生命の大切さを諭すべきだったのだ。
痛みや死を忌避しないと言っていたあの男は、本当に自分を殺しに行くのだろう。
――僕が、臆病だったせいで。
止めなければ。総統と、彼を止めなければ。
「総統、彼を止めて――いや、彼と話をさせてください!」
僕は部屋を飛び出した。
男の歩みは早く、もうずいぶんと遠くまで行ってしまっていた。
「待ってください!」
大声を上げて、彼の注意を引く。
「……なんでしょうか」
平常時と変わらない平坦さで、男が振り向いた。
僕は息を切らせて駆け寄り、途切れ途切れに言った。
「あなたは、本当に死にに行くのですか」
「そのように命じられましたので」
「待ってください。あれは僕が悪かったのです。思い留まってはもらえませんか」
「しかし総統の命令は絶対です。この世界は、総統のものなのですから」
「僕が総統を説得します。必ず説得します。ですから」
男は無表情に僕を見つめた。
「あなたは……必死、と言うのですか、どうしてそんなに必死なのですか。あなたは、面白い人だ」
「え?」
何を言っているのか、分からない。
「使い方を誤りましたか。やはり感情保有者の言葉は難しい。しかし私はいま、生まれて初めて一つの感情を得たところです。恐らくこれは、安堵という気持ちです」
僕は混乱した。死に直面して、どうして安堵するのか。
「ですから、私はやはり死のうと思います。命令の撤回はさせないようお願いします。私は、安堵しているのです。……これで、もう……」
無数の泣き声が夢に出てくることもなくなる――。
男は確かにそう言った。そして、その顔に浮かんでいるように見えるのは。
僕の知っている感情の中でそれを表現するなら、悼み、だろうか。
分からない。何を悼んでいるのか。己れの死か。それとも、まだ僕が知らない、別の何かか。
一つだけはっきりしているのは、僕にはこの男を止められないということだった。
「さようなら」
男が去っていく。
僕は何も言えず、何も出来ずに、ただその背中を見送った。
* * *
それから二日間を、僕は部屋に籠って過ごした。
総統からのお呼びがかかっても、気分がすぐれないからと辞退した。「吾はお前を心配している」という伝言を聞いても、総統本人が僕を迎えに来なくて良かったと思うだけだった。
どんな顔と気持ちで総統に会えばいいのか、分からないのだ。
ともすれば鬱ぐ心を叱咤して、今までに見たもの、考えたことを反芻する。
この世界を歪めた誰か。完全な世界というシステム。人の尊厳が失われた、呪われた世界。破廉恥な者。矯正。無感情者。感情を得た無感情者。
……感情を、得た?
あの壮年の男は、本当に感情を得たのだろうか。
何かを見落としていないか。何か、致命的な齟齬が含まれている気がする。
たぶんこの世界には、何かが隠されている。人類の進化と歴史の変遷について、教科書に載せるようなごく限られた情報しかないことがその証拠だ。考古学や文化人類学の類いに相当する学問がないのは何故だ。
そんなことを考えながら過ごしていると、再度総統からのお呼びがかかった。
僕のために余興を用意したので、どうしても来いとのことだった。
僕は応じた。僕はまだ何も為していない。いつまでも立ち止まってはいられないのだ。少しでも早く、ほんの少しずつでも世界を変えていかねばならない。
そのためには、まず総統の意識を変える必要があるだろう。
役割の分からない囚われ人を、真の指導者にするのだ。
始めは、総統を一人ぼっちにしているこの世界を変えるつもりだった。総統を救いたかった。でも、それだけでは足らないのだ。救うべきは、この世に住まう全ての人だ。
いま思えば、あの風の強い夜から、そんなことを考え始めていたような気がする。
総統はいつもの私室ではなく、僕がこの世界に来たときにも通された広間にいるらしい。
僕を迎えに来た側近に案内されて到着すると、総統が椅子から立ち上がった。
「友よ、来たか。今日はお前のために用意したものがあるのだ。連れて来い」
別の側近に命じる。普段はあまり側近たちを側に置きたがらない総統にしては珍しく、今日は何人かの側近が控えている。
「総統、いったい何を……」
「お前と友になって、分かったことがある。気が鬱ぐというのは、気持ちがつまらないで一杯になることだな。吾はお前と友となるまで、ずっと気が鬱いでいたのだ」
総統が得意気に言った。
「だから吾はときどき、自分で面白くしていた。ずっと前に、お前が来なかった日も、そうした。見よ」
総統の視線を追って振り返る。そこには、見覚えのある小さな女の子が、側近に連れられて立っていた。
矯正施設で眩しく笑っていた、あの女の子だった。
「そ、総統! この子は」
総統が頷く。
「お前が言っていた子供に間違いないな? 吾が命じて連れて来させた」
「あ……ありがとうございます! ありがとうございます」
僕は総統の手を取って、何度も礼を言った。
やはり総統はこれまでにも破廉恥な者――僕のような感情保有者を保護したことがあるんだ。そう思った。
いや、もしかしたら総統は、僕を喜ばせようとしただけなのかも知れない。ただの気紛れ、戯れなのかも知れない。でもそれが結果的にこの子を救うことになったのだ。
一度連れ出したからには、もう二度とあんな所に返すつもりはない。僕はこの子を引き取る。この子の豊かな感情を健やかに育てる。そうやって毎日、総統と過ごすのだ。そうすれば総統の情操もいっそう成長するだろうし、僕はこの世界を変えるための算段を練る時間が増える。
未来に光が差した気がした。
「嬉しいか。吾も嬉しいぞ。さあ、面白くしよう」
総統は女の子の前まで近付くと、しゃがみこんでその顔をまじまじと覗きこんだ。殴られるとでも思ったのか、女の子に怯えの色が走る。
「確かに感情の強い子供だな。面白い」
総統が嬉しそうに女の子の頭を撫でた。左手で女の子の後頭部に手を添え、残った右手で頬をさする。女の子の表情が怯えから戸惑いに変わった。
その様子を隣で見ていた僕は苦笑した。これでは犬や猫を撫でているのと同じだ。総統には、もっと人との接し方を学んで貰わなければならない。
「子供よ、言葉は分かるな?」
「うん……あ、はい。総統様、ですか」
「そうだ、この世界の神だ。吾がお前をここに連れて来させた。お前は、吾のものだ」
総統はほほ笑みながら女の子の頬を撫で続ける。それでやっと安心したのか、女の子が安堵の笑顔を浮かべた。
「お前は本当に表情がよく動く。面白い。……さあ、吾をもっと面白くしてくれ」
総統はそう言って。
女の子の顔を、力任せに殴り付けた。
何かが割れる、鈍い音が聞こえた。
* * *
「あ、ああぁああぁぁあ! いあ、ああああいあああ」
広間に女の子の悲鳴が響く。顔を押さえて、床にうずくまっている。血溜りが広がっていく。
僕には、目の前で何が起きているのか、理解できなかった。
「あははははは! いいぞ、思った通りだ。実に良い声で泣く! 面白い、面白いぞ子供よ!」
総統の哄笑。
「な、何をするんですかっ!」
思わず僕は叫んでいた。訳もわからず総統に掴みかかろうとしたところを、女の子を連れて来た側近が体を割り込ませて止める。
付近にいた側近たちがすかさずやって来て、僕を力尽くで床に伏せさせた。
「さあ、もっと痛みを与えてやる。泣け、もっと泣け!」
総統がこちらを気にもせずに女の子に馬乗りになり、楽しげに笑いながら酷く殴り付けた。何度も、何度も。
その度に上がる、女の子の悲鳴や呻き声。総統の哄笑。僕は気も狂わんばかりに絶叫する。
「やめろーっ! やめるんだ、やめてくだ……む。むうううっ」
皮手袋に口を塞がれる。同じだ。あの時と同じだ。違うのは、あの時側近たちの凶行を止めてくれた総統が、今は自らそれを行っていることだ。
どうして。何故こんなことを。
必死にもがく。もがく。もがく。なおももがく。女の子の尊厳に、ほんのわずかでも近付こうとする。
しかし完全に制圧された僕には、頭を上げることすら許されなかった。
どうして僕は、こんなにも無力なのか。奥歯が鈍い音を立てて、口の中に血の味が広がった。
やがて女の子が呻き声すら上げなくなった頃、総統がようやくこちらを向いた。興奮に血走った目で、不思議そうに言った。
「どうした友よ。なぜそんなことになっている」
「感情発作を起こしかけたため、やむなく取り押さえました」
僕の代わりに、側近の一人が答えた。
「そうなのか。夢中で気が付かなかったぞ。しかしもう発作は治まっているのではないか。放せ」
解放された僕は、のろのろと立ち上がって女の子に近付き、息を呑んだ。
――これは……もう……助からない……。
力なく座り込む。血溜まりに両手をつく。声も出ない。呆然と、阿呆のように眺めるしかできない。悲しみが強すぎて、何も考えられない。涙も出ない。泣くことすら出来ない。
そんな僕を、女の子の瞳が虚ろに見ていた。
「どうした、この程度ではあまり面白くなかったか? ではさらに面白くしてやろう」
背中から聞こえた総統の声に、僕は反射的に女の子に覆い被さった。
「友よ。それでは子供の顔がよく見えぬではないか。吾にも表情を楽しませてくれ」
嫌だ。殺されても退くものか。
じっと動かずにいると、総統が溜め息をついた。
「なんだ、わがままなやつめ。しかし吾も夢中になりすぎて一人で面白くなってしまったからな。仕方ない、じっくりと眺めるのはお前に譲って、吾は覗きこむとしよう」
何だ、何を言っている?
顔だけを動かして後ろを見ると、総統の顔が僕の肩口にあった。
「子供よ、お前は母に会いたがっていたそうだな。お前に興味が出たので管理番号を調べさせてみると、面白いことが分かったぞ」
総統は優しげとさえ言える声で、囁いた。
「お前の母は、もういない。吾が殺した。何か月前だったか、心配事があってつまらない日があってな。久しぶりに側近どもに命じて、感情発作を起こした女を連れて来させた。それを、吾が殺した。いいか、もう一度言うぞ」
吾が、殺した。
総統はわざとゆっくりと言った。
僕は新たな衝撃に戦慄していた。総統が女を殺したことだけではない。その時期もだ。
心配事があってと総統は言った。僕はその日に、心当たりがあった。
そう、僕が調べものに夢中になって、総統を一人にしてしまった日だ。あの時の僕の様子を見に来た総統は、髪を濡らしていた。部屋を汚してしまったと言った。
まさか。あの日、僕がいないうちに。僕が行かなかったから。
体が震えた。まるで自分のものではないかのように痙攣する。
「おかあ……さん」
かすかな声が耳を打つ。見ると、虚ろだった女の子の目に、光が戻っていた。
総統の愉しげな声は続く。
「お前の母は次の子を孕んでいてな。お腹の子供だけはなどと言って泣いていた。感情の強い、面白い女だったぞ。……どうだ、悲しいか? お前たちはこんなとき、悲しくなるのだろう? 言え。お前はいま、どんな気持ちなのだ」
「かな……悲しい……です。お母さん、お母さん。ああ、あああ」
息も絶え絶えな女の子が、かすれた声を出して泣く。
総統が体をのけ反らせて笑った。
「友よ、見よ! もはや泣く体力も残っていないはずの子供が泣いた! 泣いたぞ! 吾は知っているのだ。こやつらは、痛いと泣くのだ。死にたくないと言って泣くのだ。よくも母をと言って泣くのだ。面白い。面白い。面白い。だから吾は破廉恥な者を愛でるのだ!」
狂っている。いや、始めから狂っているのか。唯一の感情保有者として生まれた時から、神として教育された時から、総統は狂わされていた。この狂った世界が、それに相応しい男を作り上げていたのだ。
彼はもう、救えない。始めから救えなどしなかったのだ。
激しく体を震わせる僕に、総統が怯えているのかと言った。
「安心せよ、お前は破廉恥でも痛くしない。お前は、友だからな」
友。友という言葉がこれほどまでに呪わしく響くなんて。
「はい、総統。僕は、あなたの……友です」
僕は総統を見て、それから女の子を見た。
かすかなすすり泣きを続けていた女の子の呼吸が、次第に弱くなってきている。
すまない。その言葉を口にする資格は、僕にはない。どんな言い訳も出来ない。僕は総統の、友なのだから。
「うむ。さてその子供は、もう死ぬな。……子供よ、母に会えるぞ。喜べ」
この期に及んで、まだ嬲ろうというのか。そう思ったが、もう、体が動かない。心が動かない。
女の子が、閉じかけた目をもう一度開いた。こふ、と血を吐く。
「あ……ありが、と……ござ」
こと切れた。
「う……うわああああああああああああーっ!」
誰かが叫んでいる。何度も何度も叫んでいる。喉が痛い。手が痛い。頭が痛い。視界が赤く染まっている。叫び声はまだ続いている。
でも、心は痛くない。痛いとはなんだろう。
それからすぐに、体の痛みも気にならなくなった。痛いとはなんだろう。
痛みを忘れてしまった。痛いとはなんだろう。
ふと気が付くと、無感動に子供の死体を眺める自分がいた。
どうして、と思う。
――どうして私は、叫んでいたのだろう。
* * *
近頃、総統が私を疎んじるようになった。
「お前、つまらなくなったな」と言って、私を遠ざけるのだ。
友とは、多くの同じ時間を過ごす者のことなのに。総統と私は、もう友ではないのだろうか。
だからといって、どうということはない。ただ、そうか、と思うだけである。
いまの私は、かつて総統と共に過ごしていた時間を、この世界の研究にあてて生きている。
お陰で、たくさんの事実を知った。その中には、昔の自分なら感情発作を起こしていたかも知れない事実もあった。
しかし、私の心は動かない。
この世界の理想を受け入れたからだ。
そこには、安らぎがあった。何も感じないということは、なんと平穏なのだろう。
――今日も、私の心は、平穏だ。