3.客人の平穏【上】(著:布瑠部)
「お前は、我が友となれ」
この世界の『神』たる総統は、嬉しそうに、とても嬉しそうに宣言した。
――ああ、彼は寂しかったのだ。
彼はたったひとりで、この狂った世界を、色のない煉獄を彷徨さまよっていたのだ。
そんな彼の友人に、僕はなりたい。いや、ならなければならない。
強く、そう思った。
* * *
――あれ?
唐突に、意識が覚醒した。
いや焦点を結んだと言うべきか。
意識は連続しているのに、同時にとてつもなく長い時間をまどんでいたような気もする、奇妙な感覚。
この、脚本はおろか、自らの役さえも知らされずに突然ポンと舞台に放り出されたかのような、足元の覚束なさは何だろう。まるで白昼夢から覚めたような気分だ。
――僕は……何をしていた?
混乱する。おかしい。何も思い出せない。
得体の知れない不安にかられ、意味もなく辺りを見回す。
視界の内では、窓どころか僅かな凹凸さえない、全てが同じ材質で作られたと思しき廊下がのびていた。左右で白い壁が蒼ざめている。
――ここは……。
視線を上げる。天井には、変わった形の照明器具が、規則正しく一定間隔で並んでいた。
そして、それらのどれもに、全く見覚えがなかった。
――ここは、どこだ?
その一つの疑問は、認識したとたんに大きな混乱の波となって僕を襲った。
――何だ、何だ何だ? 何が起こった? 僕はどうして、こんな所に突っ立っている?
分からない。何も分からない。
改めて辺りを見回しても、何度見ても、何一つとして見覚えがない。僕の浮き足だった脳髄がひねり出すのは、まるでどこかの研究施設みたいだ……などという、能天気な感想ばかりだった。
――いや待て。
何かが心の隅に引っかかる。何だ、僕は何に引っかかりを感じた?
見るもの全てにゲシュタルト崩壊を起こしたようなもどかしさを感じながら、粘りつく記憶の海を探る。
研究施設みたいな……研究施設……研究。研究!
そうだ、確か僕は、シュヴァルツヴァルトの研究所で、理論上でしか存在しない粒子を――。
「貴様、どこから侵入した」
「うわあっ!」
背後からの唐突な声に、びくりと体を震わせて振り返る。どうやら頼りない記憶を手繰る作業に没入するあまり、彼らの接近に気付かなかったらしい。
「うわあ、だと。破廉恥な」
その先では、軍服に似た装いの男たちが、底冷えのする目で僕を見ていた。彼らについても、全く覚えがない。さらに悪いことには、どう見ても友好的な態度ではなかった。
厭な汗が背中を伝う。何か答えなければならないが、言うべき言葉が見つからない。どこから侵入したのかと問われても、僕にはここがどこかなのかも分からないのだ。
「破廉恥? あの、ここはどこですか? 僕はいったい」
ひきつった半笑いの表情で応じると、男が無感動に言った。
どこか違和感を覚える、妙に冷たい声で。
「発作者か。……取り押さえろ」
先頭に立つリーダー格と覚しき男の命令を受け、同じ装いの四人の男たちが瞬く間に僕をその場に押さえつけた。あっという間の出来事だ。抵抗する間もなく制圧される。
手馴れすぎていた。まさか本当に軍人か。ここは軍施設なのか。
「や、止めて下さい。僕は怪しい者ではありません。調べて頂ければ分かります。僕はウロボロス機関の研究員で、それで」
サルベージしたばかりの記憶を元に弁解するが、男たちは全く聞く耳を持ってくれない。
「ちょ、ちょっと本当にやめて下さい。痛い、痛いです。僕は単なる科学者で」
訓練された男たちによって冷たい廊下に這わされ、完全に身動きが取れなくなる。本当に、何かの間違いだ。僕は三十半ばのしがない研究者で、こんな風に捕えられる謂われもない。そう抗弁しようとし、視線だけを上げて男の顔を見る。
ゾッとした。
男の顔には、およそ表情と呼ばれるものが全くなかった。
いや違う。無感動なのは表情だけではない。声にも表情がない。そして目にあるのは軍人の厳しく律されたものとも違う、奈落の底に通じる虚ろな穴だった。
――こ、こいつら。何者なんだ。
その深淵を覗きこみ、僕は先程までの違和感の正体に気付く。冷たさを感じたのは男たちの態度ゆえではない。彼らから、何ら人間的な要素を感得できない僕の心の悲鳴――すなわち、得体の知れないモノへの恐怖がそう感じさせていたのだ。
「もう一度訊く。どこから侵入した」
「あ。あの。僕は。ああ、あ」
混乱が、僕から言葉を奪い取る。阿呆のように喘ぐことしか出来ない。
そんな僕を興味もなさそうに観察していた男が、やがて淡々と呟いた。
「かなり錯乱しているな。推定される年齢から、矯正も困難と判断。よし」
処分しろ。
無感動に発せられた死の宣告。すかさず頭上で動く気配。何が起きているのか、何をされようとしているのか、その理解が及ぶ前に、僕の中の冷たさが爆発した。
「しょ、処分って、処分。うわあああっ! やめて、やめて下さいっ。なんで。嫌だああっ」
必死にもがく。意味が分からない。訳が分からない。しかしもとより人並み以下の体力しか持たない僕に許されているのは、無様な命乞いだけだった。
「ころ、殺さないで! 殺さ……む。むうううっ!」
皮手袋の手に口を塞がれ、その命乞いすら封じられる。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。こんな。訳の分からないところで、訳も分からず殺されるのは嫌だ。
首筋に何かが当てられた。
僕はついに恐慌をきたして、声にならない叫びを上げてもがく。もがく。もがく。
「んっ。んんんん! んーっ! んーっ!」
涙が溢れる。完全な錯乱状態。抵抗を止めたら死ぬ。殺される。容赦ない確信に突き動かされ、必死に、持てる力で命に駄々をこねた。
……どれくらいそうしていたか。一瞬か、永遠か。しかしそれでも冷酷で決定的な一撃が落ちてこないことに、僕は違和感を覚えた。
――何だ、どういうことだ。
何かが起きていることを察した。ほんの少し落ち着きを取り戻した僕は、暴れるのを止めて周囲の音に耳をすます。耳を掠めたのは話し声。
「しかし総統――」
「聞こえなかったのか」
平坦な声の言い争いが聞こえる。リーダー格の男を遮った声には、わずかながらも確かな苛立ちが含まれていた。無感動ではない、その声。
「吾はその者を放せと言ったのだ」
これは、人だ。人間の声だ。
「……仰せのままに」
取り押さえられたときと同じ唐突さで解放される。僕は四つんばいで空気を貪りながら、ここで始めて出会った人間を――僕の救い主を仰ぎ見た。
そこにいたのは初老の男だった。この場にいる誰よりも無表情な男。しかしその目に滲むのは、他の男たちのような虚無ではなく、倦怠感。倦み疲れた者の絶望。
彼の名は『総統』。
この世界の中心で、永劫の孤独と戦う男だった。
* * *
総統に救われ、どうにか僕は命を繋いだ。
いくらかの落ち着きを得た後は、廊下を進んだ先にある広間へ連行される。
後で知ったことだが、そこは総統府と呼ばれる巨大な施設の最奥の部分に当たる箇所で、一握りの側近の他は近付くことも許されない、この世界の中心部だった。
僕はその回廊に、突如として出現したのである。
「改めて聞こう。お前は何者だ? なぜここにいる」
総統の問いに、僕は言葉を詰まらせた。
それは僕自身、ここに連れてこられる間にずっと考えていたことなのだ。
思い出すのは、『ウロボロス』。世界中からの協力を得て、中欧数か国を跨いで建造された、超巨大加速器である。
そしてその最初の実験は、光速以下になれない粒子を捕まえることであり、僕は至高にして最も馬鹿げた実験に従事していた筈なのだ。
喉の乾きを覚えた。僕の記憶は、そこから意識の連続性が保たれたまま、突如として今に繋がっている。旧式の映像フィルムを継ぎ接ぎしたかのように、場面だけが切り替わっているのだ。ならば。
考えられる仮説は、一つだった。
つまりその実験によって時空が歪められたか、あるいは裏返ったのではないか――。
そうだとしたら、僕の他にも大量のフライングダッチマンを生み出している筈である。我ながら自分の正気を疑う結論だが、今の僕は他の答えを持たない。
下手をすれば、またしても錯乱者の烙印を押されるかも知れない。そう思いながらも正直に考えを述べる。
すると、それまで暗い目をしていた総統の眼差しが、にわかに光を帯びた――ように見えた。
「ほう。ではお前はオランダから来たのか?」
僕は驚きを隠すことが出来なかった。これは、この反応は。詰め寄りかけた僕を、背後に立つ側近たちが腕を捕んで止めるが、構わずに訊ねる。
「い、いえ、それは『永遠に彷徨う者』の謂です。それより総統はオランダをご存知なのですかっ? ここはいったい、どこなのですか!」
「この世において吾の知識は無二だ。かつて旧世界にそのような名の国があったことは知っている」
「旧世界……それでは」
僕は、本当に。
「総統。このような戯れ言を信じられるおつもりですか」
物思いに沈んでいると、先ほど僕を処分せよと指示した男が、僕の腕を掴んだまま平坦な調子で咎めた。内容に反し、その声には何の感情も込められていない。
「馬鹿め」
対して総統の声には、嫌悪か怒りのようなものが含まれているように感じた。
何故か、彼らは極端に表情に乏しい。いや、乏しいというよりも、いっそのこと、ないと言った方が近いだろう。その中で総統と呼ばれる男にだけは、変化が少なく非常に判り難いにしても、わずかな感情の細波があった。
「真実かどうかなど問題ではないと分からんか。お前はつまらない。本当につまらないな。死になさい」
死になさい。あまりにもあっさりとした、僕のときよりもさらに現実味のない、死の宣告。
僕は反射的に背後の男の顔を見た。僕に死を告げた男が、今度は自らの死を告げられている。そんな男にどんな反応を期待していたのか、自分でも判然としない。
男は眉一つ動かすことなく、ただ事務的に「かしこまりました」と一礼して退出していった。入れ替わるようにして、別の男が僕の後ろに立つ。
――かしこまりました、だと? ……たった、それだけ?
そんな馬鹿な。死を命ぜられて、それでも平然としていられるのはどういう訳だ。まさか彼らは本当に人間ではないのだろうか。血の通わぬ機械だとでもいうのか。
しかし僕の腕を掴む手には、革手袋越しにでも確かに感じる体温があった。ではバイオロイドなのか。それともこの世界の死には、僕の知らない他の意味があるのだろうか。
「あ、あの、彼は」
「ふん。これだから人間どもは嫌いなのだ。面白そうな者がいればすぐに連れてこいと命じているのに、その面白さそのものを解さん。実につまらない」
僕の中途半端な質問は、総統によって違う意味で解釈される。
あまり動かないながらも拗ねたような顔をして、総統は男への不満を述べた。
そして言った。
「やはり『破廉恥な者』どもの方がよほど面白いわ」
破廉恥。さっきもそんなことを側近が言っていた。発作者、とも。
簡単な命令ひとつで僕を救い、いままた、ひとつの命を奪った男に、震えながら口を開く。
「さ、さっき僕も、破廉恥だと言われました。それは一体」
知らんと申すか、と総統が楽しげに言った。
「お前は本当に遠い世界からの客人なのかも知れんな。まあ、そんなことはどうでもよい。……説明せよ」
「感情は破廉恥である!」
総統の視線を受けた側近の一人が、正面を向いた不動の体勢のまま、声を張り上げた。繰り返し述べられる定型句だと、すぐに分かった。
男はここで初めて一礼し、現在にいたる人類の歴史と進化を語った。その内容は、にわかには信じられないものだった。
いくつかの大戦。人を分け隔てる諸悪の根元。神の悪戯。爆弾。真実の愛へ至る道。完全な世界、完全な人間。心の平穏。――無感情化。
一つの確信と無数の疑問を抱えて、僕は質問する。
「で、ではこの時代の、いえ、この世界の人間には、感情がないのですか」
いまは世界の代表者となった男が、無感情に応える。
「はい。ありません。まれに一般人の中に産まれながらの破廉恥な者がいる程度です。しかし彼らも教育され、そのほとんどが成人するまでには真実の愛へ至っています。矯正されなかった者や一定の年齢を経て感情発作を起こした者は、速やかに処分されます」
「そんな……」
感情が諸悪の根元だなんて、そんな馬鹿な。感情を無くして得られるものは、平穏ではない。無だ。そんなものが真実の愛であってたまるものか。
それに彼らは、いくつかの大きな矛盾を抱えている。破廉恥。それは恥という感情を意味する言葉だ。感情を持たない者が、感情は恥ずかしいと言っている。本来の意味を失って形骸化した言葉を御託宣のごとく唱えるとは、なんと滑稽なことか。
それに、何よりも。
僕は命の危険を省みず、総統に向かって言う。
「恐れながら申し上げます。……総統には、その、感情があるように見受けられますが」
勢いに任せてとは言え、よくもこの臆病な僕に言えたものだと思う。そんなものは認めないという気持ちが、僕を意地にしていた。
しかし総統は微塵の動揺も見せることなく、むしろ鷹揚に、楽しげに答えた。
「確かに吾は感情保有者だ。なぜならば、吾は神だからである」
「神……ですか?」
あまりにも唐突な『神』の登場に、二の句が継げない。
「お前は面白いので、特別に教えてやろう。これはごく限られた者しか知らぬ、神の最秘奥である。心して聞くがいい」
総統が両手を広げる。動作の割には声の抑揚と表情に乏しいが、僕には何故か、その姿が幼子と重なって見えた。
「吾は下々の前に現れる時は完全な人間、無感情者として振る舞っているが、それは人への慈悲ゆえである。そして吾の血族は必ず感情保有者として産まれる。それは神に連なる一族だからである。感情とは神の持ち物であり、神ゆえに感情を持っている。感情は破廉恥だという真の意味は、身の程知らずにも神に近付かんとして身を滅ぼす人間どもを戒めることなのだ」
この世界は吾のものである、と総統は言った。僕にはやっぱり、自分の家は金持ちなのだと自慢する子供と同じに見えた。
しかし続く総統の言葉が、僕を現実に引き戻す。
「しかし吾は、この世界に興味がない」
不意に無表情に戻った総統は、広げた両手を収め、さも気だるそうにそう言ったのだ。
「どいつもこいつも機械のようで、まるでつまらない。こやつらは完璧な人間らしいが、神の領域にはほど遠い。吾が破廉恥な者どもを愛でるのは、それゆえである。遠き世界からの客人よ、分かるか」
無感情な人びと。機械のような。完璧な人間。完璧な世界。愛。感情保有者。破廉恥な者ども。感情発作。歴史。神。神の一族。感情保有者。
それらが僕の脳髄をぐるぐると踊る。
口をついて出たのは、あまりにも正直な一言だった。
「わ、分かりません」
僕は考える。総統以外の人間に、人間らしい感情が見えないのは事実だ。そしてその総統にしても、僕が感じているのは年齢にそぐわない『幼さ』だ。いや、未熟な感情と言うべきか。
――何だ、この違和感は。
この世界はおかしい。こんなものが僕らの正常な未来の筈がない。あってはならない。人類が、科学が、こんな歪んだ結論を導き出すなんて。
「分からんか。まあよい。吾は神の愛を持つゆえに、不完全な者をも愛することができる。お前にも慈悲を与えよう」
総統が側近たちを見渡した。
「吾が命ずる。この者の矯正を禁ずる。処分を禁ずる。そして客人よ、面白き人よ」
それから僕を見て、言った。
「お前は、ここで吾を面白くするがいい」
――こうして僕は、総統に飼われる『特例感情保有者』となったのだった。
* * *
それから僕は、総統府で生活を始めた。
僕に与えられた役割は『総統のお相手をする』ことだ。外に出ることは許されていない。感情保有者である僕の存在は秩序の混乱を招く恐れがあるかららしい。
知識としてだけではなく、実際に外に出て、元の世界との変わりようを肌で知りたいのは山々だった。だが、総統ですら一般人の前に出るときは無感情者――完全な人間として振る舞っているというので、ここは素直に従うしかない。
「総統と同じことが出来るようになれば外出許可もおりるでしょう」とは、側近の言葉だ。
総統。この世界の神にして、感情を持つことを許された唯一の男。
「さあ、今日は何の話をしてくれるのだ?」
「恋とは何だ? 分け隔てることとは違うのか?」
「絵画の価値とは何だ? 撮影すればよいものを、なぜ無駄な労力をかける?」
総統は毎日のように話をせがみ、あらゆる質問を浴びせてくる。
そうしたやりとりで分かったのは、総統の知識はまるで虚ろだということだった。言葉の上っ面の意味を知っているだけで、中身がないのである。
僕とて研究一筋で生きてきた世間知らずの朴念仁なので、その全てに答えられるわけではない。それでも総統は乏しい表情ながらも、目だけは輝かせて、
「ほう。なぜそのように考えるのか、全く理解できん。無駄ばかりではないか。しかし、そこが良い。まこと旧世界は面白い」
と、僕らが動物園に行ったり百科事典を読むような感覚で楽しんでいるように思えた。無垢。そう言っていい純粋さが、彼の中にあった。
その一方で僕はと言えば、総統が「この世界に興味がない」「つまらない」と言っていた理由を、そして彼が感情保有者であるにもかかわらず感情表現に乏しい理由を、日々を重ねるごとに、嫌というほど実感として理解していった。
怒りもしない。笑いもしない。ただひたすらに、与えられた命令を淡々とこなす人々。命令する側にしても何かの判断をしているわけではなく、どうやら基本的には何かの規範に従っているだけらしい。管理する側さえも管理された世界。
あるとき、総統室に向かう途中で、経緯は知らないが頭から血を流して歩く女性を見たことがある。大丈夫か、痛くはないのかと尋ねると、彼女は平然と「はい、非常に痛いです」と答えた。ちっとも痛くなさそうだった。
そう、彼らは泣かない。痛がることすらしない。掛け値なしに全ての感情が抜け落ちている。なまじ人の姿をしているから、余計に不気味だ。
彼らは本当に人間なのかと、何度同じ疑問を抱いたことか。これなら元の世界にあった、擬似的な感情表現をする玩具のロボットの方がよほど親近感が持てる。
そんな彼らと接していると、こちらの感情まで摩耗してくる。僕が総統に感じていた幼さの原因はそれだったんだろう。情操の交流なしに人間性が育つものか。
そしてもう一つ、分かったことがある。
それは総統が、最高権力者ではあっても、支配者ではないということだ。
総統は何もしない。何かの判断をするわけでも、まして政治的な指示を下すわけでもない。そもそも本人が「この世界に興味がない」と断言している。
彼がするのは、そういったこととは全く無関係の、あえて言葉を選ばなければ『わがまま』を言うことだけだった。つまり彼の役割は『総統であること』、ただそれだけなのである。
かといって裏に本当の支配者がいる傀儡の王という訳でもなさそうだった。側近たちは総統を現人神として教育し、この世界の最高権力者として崇めている。
それが当たり前なのだ。彼らは、彼らの言う『完全な世界』を維持するために、当然のこととしてそれを行っている。
つまりこの世界を真に支配しているのは『完全な世界』『完全な人間』という思想そのものであり、これによって人々は思考停止させられている。
ではその思想を作り上げたのは誰だ? 総統という装置の、真の役割は?
そんな疑問を僕は次第に持ち始めた。どうして総統の血族だけが感情を持っているのか。誰がこんな狂った世界に総統を置き去りにしたのか。
考えられるのは、現在の総統に連なる一族だろう。人類の無感情化へ舵を切った者たち。しかしその目的が、唯一の感情保有者としてこの世を支配するためだったのか、あるいは、思い描いた理想の平穏な世界を外部から監視するためだったのか。そこが分からない。
歴史資料の限られた情報だけでは、真実への道のりは遠い。
それでもただ一つ、はっきりしていることがある。それは、この世界に所属している誰もが、欠片ほどの悪意もなく世界を歪め続け、また内部にいるがゆえに、その歪さに気付くことができていないということだ。
――ここは、地獄だ。色のない地獄だ。
総統はこんな地獄で、神という名の牢獄に押し込められて生きてきたのだ。
ずっと、ずっと、たった一人で。
彼を、彼の心を守らねばならない。
それが僕の願いになりつつあった。
そんなある日、近頃はずいぶんと表情豊かになってきていた総統が、いつになく深刻な顔をして、こんな質問をしてきた。
「友とは……何だ?」
僕は答えに窮した。友という言葉自体はこの時代にもまだ残っていて、いくつかの慣用表現として使われている。
だがこの世界の人間は『友』という言葉を知ってはいても、では友人とはどのような関係の者をさすのかを知らない。
友という言葉の脱け殻を便宜上使っているにすぎないのだ。無感情者には情操の交流がないので当然と言えば当然で、それは総統にしても同じことである。
何と説明すればいいのだろう。親愛の情を抱く者?
駄目だ、この世界の愛とは『分け隔てしないこと』だ。特定の誰かを感情ゆえに優遇することは破廉恥なのだ。総統にはその破廉恥さが許されているが、言葉の定義があまりにもかけ離れているので説明には向かない。
さて、どうしたものか。
しばし考える内、僕はあることを思い出した。
少し前のことだが、その日の僕は、調べものと世界への推察に夢中になるあまり、総統の所へ行くのを失念していた。
するとそろそろ日も暮れかけようかという時間になって、少数の側近を引き連れた総統自らが、僕にあてがわれた部屋へとやって来たことがあったのだ。
「今日はどうして来ないのだ。もしや体の具合でも悪いのか」
その時の総統は、湯浴みでもしてきたのか髪を濡らしていた。それでいて少し血の気のひいた顔色をしながらも眉をひそめるという、複雑な表情をしていた。
一言で言うなら「不安と不満が入り交じった顔」である。
「ああ総統、申し訳ありません。調べものに夢中になりすぎていました」
「では病を召したわけではないのだな」
「はい。身体のほうはすこぶる快調です」
実は寝不足が続いていたのだが、それは黙っていることにした。
「そうか、ならばよい。お前に死なれては困るので、身体には気を付けよ」
「ありがとうございます。しかし総統、使いを寄越していただければ取り急ぎ参上しましたものを」
「ふむ、少し部屋を汚してしまってな。清掃させる間にお前の様子を見に来ようと思ったのだ。……ああ、よい。今日はもう疲れた。帰って寝ることにする」
総統はそう言って去っていったのだった。
「……その時のことを覚えておいでですか」
僕はあの時の総統の迷子のような顔を思い出し、不敬だとは思いつつも口許が弛むのを止められなかった。総統は、よく覚えていると答えた。
「あの日は何をしても一向に気が紛れなくてな。ついにこちらから出向いたのだ」
「はい。あのとき総統は、僕のことを心配してくださいましたね」
「心配か。特に気にかけるということだな。しかしあれは、お前が居なくなると吾が困るからだ。心配とは違うのではないか」
「もしかしたら違うのかも知れません。でも僕は、とても嬉しかったのです」
「嬉しいか。それなら吾も覚えたぞ。吾も嬉しかった。今も嬉しいぞ」
総統はまだ『嬉しい』と『楽しい』が使い分けられない。
「ですから、誰かを気にかけるということは、決して悪いことではないのです」
「それは人間でもか? 破廉恥ではないのか」
「人間でも、破廉恥でもいいのです。少なくともその感情のせいで争いは起きません。そしてそういった気持ちをお互いに共有するのが、友、です」
「そうか。では吾とお前も友だな」
そう言う総統があんまり嬉しそうなので、僕は笑いを堪えるのに苦労した。
「なんだその顔は。神と人間は友にはなれぬのか」
「いいえ。色々と障害はありますが、なれないわけではありません」
「そうか。その障害とやらが何かは分からんが、そんなものは関係ない。吾が命ずる。お前は、我が友となれ」
僕はついに吹き出した。まさか命令されるとは思わなかったのだ。やはりまだちゃんと理解できていないのだろう。
「なんだ、なぜ笑う」
総統は子供のような仏頂面だ。
「すみません、嬉しかったのです。では総統、僕を友にしてくださいますか」
「うむ、吾らは友。友だ!」
……こうして僕らは、友人になった。
それからというもの、総統はことあるごとに僕を友と呼び、僕もそれに応えて、友情を深めていった。
言葉の真の意味が理解できない側近どもは『友』の中に『総統が飼っている破廉恥な者』という意味を暗に嵌め込んだようだったが、僕は何も気にしなかった。
この頃になると、僕は総統と同じようにこの世界を疎み、側近たち『完全な人間』たちへの興味を失くしていた。いつの間にか無表情に事務的なやり取りをするまでになっていたのである。
僕が僕らしくあれるのは、総統が傍にいるときだけ。いずれ総統と共にこの狂った世界を変えたいという思いはあったが、今はそれで充分だった。
* * *
この世界に来て、どれだけの日を過ごした頃だろう。
風の強い夜だった。
いつものように総統が眠るまでそばにいた僕は、その帰り道でふと風に触れたい衝動にかられ、広大な中庭に出た。
僕のいた時代とは何もかもが変わってしまった中で、変わらず吹く風の音に郷愁を覚えたのかも知れない。
ここで生活するようになってすぐの頃に一度だけ案内された中庭は、迷路のように配置された植え込みや巨石などによって、人工の森の様相を呈している。庭を観賞する者など誰一人としていないこの世界で、こんな庭が何のために存在しているのか不思議だった。
誰もいない中庭、昏い月。騒騒と風が泣く。
こうしていると、この世界にたった一人ぼっちでいるような、全てがどうでもいいような気分になる。どうやら感傷的になっているらしい。
このまま誰に知られることもなく、死ぬのもいいかも知れない。
そう考えかけて、僕は慌てて否定した。駄目だ。総統を、あの無垢な魂を、こんな所に置いては行けない。
軽く頭を振って、そろそろ帰ろうと思ったとき。
――宮に……の影……染まりゆく……
複雑に反響する風の音に混じって、人の声が聞こえたような気がした。
僕は耳を澄ませる。
――静寂を渡る絶えなき風は
久遠の調べを奏で そよ吹く
間違いない、人だ。女性の声だ。しかもこれは……歌だ。
僕は我知らず、駆け出していた。
――いまは遠き……ふたたびあなたに……願いは……
聞こえない。迷路に吹く強い風に乱され掻き消されて、うまく聴き取れない。
――誰そ彼の……水面……ゆらめいては消える……
僕は夢中で駆ける。早く見つけなければ。歌が、歌が終わってしまう。
――遥か灯し火は地平にありて
我が心に流る落日の歌
どのくらい走ったか、ふいに声が明瞭になった。
歌の主はすぐそばにいる。たぶん、そこの角を曲がれば……。
こっそりと覗く。凍えた月の下で、思ったよりも近くに女性の横顔が見えた。
華奢な身体に白い肌、長い黒髪に黒い瞳。声の抑揚から予想はしていたが、やはり彼女の顔にも、感情をうかがわせるものは何もない。
だけどどうしてだろう。無機質なその横顔が、僕には何故か泣いているように見えた。
――花の命の短きを知るが故に
かくも艶やかに映るがごとく
痛みを伴いながらも
想い出はなお美しさを増してゆく
ああ、終わってしまった。もっと聴きたかったのに。
「あ、あの」
恐る恐る声をかける。そのひとが、ゆっくりとこちらを見た。
目と目が合った瞬間、叫びにも似た痺れが僕を打った。
「破廉恥なところを見られてしまいましたね」
表情のない、凄絶な生き物が、そこにいた。
無表情なまま、破廉恥と、言った。
「通報なさいますか」
言葉を失って立ち尽くす僕には、彼女の言葉の意味も、すぐには浸透しなかった。
「い、いえいえいえ。そんな。僕は」
しどろもどろになって手を振る。彼女はああ、と言った。
「特例感情保有者の方ですね」
特例、感情保有者。僕のことだ。下唇を湿らせて応じる。
「そ、そうです、総統に飼われている者です。あの、いまの歌は」
「はい。古い資料にあった、遠い異国の『歌』というものらしいです。自分でもどうしてかは分かりませんが、再現してみたくなったのです」
彼女は静かに空を仰いだ。こちらを向く。
「あなたは歌をご存知なのですね」
「はい、知っています。その……悲しい、歌、ですね」
「悲しい……ですか」
彼女は無表情なまま、人形のように小首を傾げた。黒い髪がひと房、さらりと額にかかる。
「すみません、分かりません。かつての私なら分かったかも知れませんが、もう忘れてしまいました」
忘れて……。その言葉の意味を考える。では彼女はイレギュラーである感情保有者として生まれ、教育によって無感情者になった一人なのだろうか。
「そ、そうですか。すみません。あなた方は完全な人間なのでしたね」
「いえ、完全な人間などではありません。無感情者となった今でも、私は破廉恥なままなのです。げんに私はいま、あなたに不思議な懐かしさを感じています。それはきっと、私が破廉恥だからなのでしょう」
そう言って動かぬ表情のまま、彼女は僕を見つめた。それが何故かやっぱり泣いているように見えて、僕は彼女の笑っているところが見てみたいと思った。
そして彼女をこんなにしてしまった教育とやらに、この狂った世界に、改めて憤りを感じた。
「破廉恥なままでは、いけませんか」
思わず、尋ねていた。
ふいに陰った月の光が、彼女の無表情を隠す。
「分かりません。ただ、少なくともこの世界で生きてはいけないでしょう。でも私は……ああ、いけません。また破廉恥なことを言いかけてしまいました」
「え?」
「いえ。これで失礼いたします」
彼女がくるりと背を向けた。他の無感情者たちと同じ、唐突な別れの言葉。無感情者なのに、たったいま歌った詩と同じ、透明な悲しみをまとって。
僕は訳のわからない焦りに煽られて、考える前に口を開く。
「あ、あの! 名前を、名前を教えては下さいませんか」
気付けば、華奢な背中に尋ねていた。
彼女は顏だけを振り向かせて。
「……イヴと、申します」
そうして、囁くように告げて去って行った。
――イヴ。彼女は。
僕は思った。彼女は違う。根拠など何もないけれど、他の人とは違う。彼女はきっと、特別な人だ。
薄闇に消えた後ろ姿を思いながら、喉元まで出かかった、また会えますか、という言葉を呑み込む。
中庭にはもう、誰もいない。どうしようもなくざわつく気持ちを持て余し、とぼとぼと帰路につく。嬉しいような悲しいような、不思議な感覚だった。
それが、僕の生涯にたった一度だけ訪れた、まだ恋とすら呼べない感情だったと気付いたのは、ずいぶん後になってからだった。
だけど今のままの僕が彼女と再び出会うことは、それからもう、二度となかった。