水辺の昼下がりと恐怖
お辞儀の後、広大な部屋を辞する。今先洋介はスクロールパネルを取り出して複雑な式を描いていたが、二人と一つの姿が扉から現れると、静かにスクロールを丸めて後ろポケットに突っ込んだ。
「楽しいお話ができたかい」
「いいえ。今先君は何やっていたの」
「色々と」
「ね、今先君は何を創造しようとしているの」
形見透がたずね、今先洋介が答え、功永ヤナタが問う。会話の邪魔をされた形見透がその眼鏡の奥から鋭い目線を功永ヤナタに投げかけた。今先洋介は知っていてか知らずにか、屈託のない笑みを浮かべてヤナタを見る。透がその顔に少しだけ目を所在なさそうに動かして静かに紅潮する。
「俺が何をするのか興味あるの」
「そういうわけじゃないけど。形見さんは最初に今先君のところを進めてくれたわけだし、どういう感じで進めていくのかは教えてくれるのかなって」
「何、期待しているのかな、ヤナタ。俺は教えないし、誰に聞いても同じだな。たぶん。初等部で教える奴はいないだろう。普通はそう。わかってないよ。ヤナタは」
洋介は屈託なくそういうとヤナタの短い髪をくしゃくしゃにしながら、ひじ打ちする。そうして笑うと透に向き直った。
「透は教えてあげたのか」
「いいえ。たずねられなかったから」
幻想技術惑星FINAGSTの首都フィッシュダンスの0レベル研究者の保養施設を天の川学園初等部創造課Z―404の三人とN型アンドロイドのホノカは歩いてゆく。巨大な個人部屋の区画を抜けると植物園に入る。奇妙な形をした樹花の展示場を歩む。洋介は左右を見回しながら答える。
「ヤナタ、透は創造を探して描こうとしているのさ。で、俺は、そうだな。創造を証明しようとしているのさ」
「そうなの」
「ええ、おおむねそう」
透はうなずくと鮮やかな色をした赤の複葉が目にもまぶしい黄色の花を見つめボールペンを回転させる。巨大な樹木の下に巻きついた蔦にさらに巻きついた蔦とそこから伸びる花をヤナタは眺める。ホノカに植物園では来るときに一度記録した画像と重複しないものを記録するよう指示を出す。
「俺、これからここのフィットネスで泳ぐ予定だけど、どうする。透、ヤナタ」
洋介はスポットライトを浴びて静かに黄金色の輝きを反射する小さな実に彩られている野草を眺めつつそう口にする。そのまま、次に並ぶ椿のように生い茂るかきつばたを眺めて歩く。透は突然の提案に慌てた。慌ててつまずいて転びかける。ヤナタは静かに観察していたがその場でわずかではあるが硬直した。
「今先君。珍しい。どうして」
「えっとプール、泳ぐの。どうして」
「息抜き」
洋介はそのままかきつばたに咲くピンク色の花にそっと触れて、樹花に囲まれた植物園を散策していく。透はつまずいた足元を見つめながら少しうつむいて見せて、それから針葉樹そっくりの硬い葉をした生命力あふれる樹木を横手にスカートを音立てて払う。ヤナタは一瞬だけ硬直した。そして体を震わせると、思い出したように巨大花の奇妙な姿を眼前にとらえているホノカに向かい合う。洋介に向かって問いかける。
「ホノカはどうしよう。きっと泳げないだろうし」
「どう。ホノカ、お前泳げるか」
「ホノカの主要機器は防水加工が行われています。中核クランク部分を密閉すれば長時間の潜水も可能です」
洋介は肩をすくめたまま散策を続ける。透は洋介の後を追うと少し距離を置いて隣を歩む。ヤナタは困惑したまま足取りも鈍く歩幅は短く背を丸めてのそのそと後を追った。ホノカは周囲の緑の園と彩る華色を視界に納めつつ左右を見回しては機械音を立てる。ヤナタは思い出したように声を上げる。
「でもでも、今先君。透も忙しいかもしれないし」
「私、そんなことない」
透からは否定の言葉。ヤナタは透の眼鏡の奥に向かって一種の悲しそうな、悲哀を帯びた視線を向けていたのだが透からは気づいてもらえなかったようだ。今先洋介は皮相な笑みを浮かべて功永ヤナタに振り返る。
「嫌なら別にいいさ。ヤナタは。俺たちは後で帰るから、先に帰っとけよ」
「どうやって帰るのさ」
「それなら一緒にくればいい」
洋介は少し意地悪くそう口にして笑うと、植物園の出口付近に生い茂っている樹に沿うように細く幾重に延びている枝を先からなでると根元を二度叩いた。
「元々俺一人で泳ぐ気だったんだ。せっかくだからとそう思ったけどな。ヤナタが嫌なら仕方ないさ。透も無理なら断ってもいいぞ」
「別に嫌とは」
「私、丁度気分転換したかったとこだから」
口々に返したヤナタと透。植物園を抜けるとそこからは娯楽室。巨大なアミューズメント。ヤナタは周囲を見回して巨大な音声と遮断された無音とが入り混じった空間をゆっくりと歩む。前を歩む二人と一つの背が遠ざかって行くこともヤナタの目に映ってはいるのだが、その足元は遅々として進まない。巨大投影のMTVと機械仕掛けの古典的な反射プログラムの競い合いに興じる数人の0レベル研究者たちの姿を沈黙とともに眺めては、足をぶらつかせて歩き始めたかと思うと、背伸びして遠くに集まる人影を見つめてはまた止まってしまう。
「おい。ヤナタ、どうするんだ」
「え、はい。待って」
機械仕掛けのケーブル線が複雑に絡み合う模擬実体戦が行える宇宙航海プログラムを未練そうに眺めていたヤナタは言葉に足を踏み出して、足のつま先から甲までを押し付けるように音を立てて歩く。アミューズメント室は広い。様々なものがある。娯楽性にあふれていた。まばらな人影がその巨大な空間に仕掛けられた娯楽に興じている場所を静かに三人と一つは通り抜ける。
その後には運動施設が目に映りこむ。ドーム上のアクリル状のパネルが吸い込む陽光が照りかえる。巨大な競技トラックと競技コートの上を焦がすように照らし出す。トラックを走るもの。談笑しながら歩くもの。競技コートのほうでは何かの競技が数人で行われている。新たに生まれた四つの黒い影は静かに競技トラックのはしを進みパネルの外へと去ってゆく。そうして目的の場所。フィットネス。
静かな時間。水着を買い込むと外来者パスを提示して。別れると、静かなシャワー音。じゃー、しゃー。滴るしずくと水滴の飛び散る音。ぼたん、ぼた、ぼっ。ぶるるるるぶる。やがて静かに切れる水滴の名残。そうして静かな波の音に近づいていく。よるべきすべもなく、抱えるべき疑問もなく、巨大な水の楽園に踊りこむ。最初に飛び込んだのは今先洋介だった。飛び散る飛沫。水面が照り返す人工光。先客はプールの広さに比して驚くほど少ない。占有率はお鍋に浮かぶ一かけらのにんじんと同程度。飛び込む。しばらくは潜り込んだ後、大きく浮き上がって跳ねるように飛び上がる。髪から、顔から、その引き締まった体から水滴を弾き飛ばす。形見透はプールの側面、サイド際で、ゴーグルを頭に静かな水遊びを開始すると、それから滑り込むようにその細くすらりとした先端を浸透させてゆく。ほどよい大きさのふわりと膨らんだふくらはぎまでを水面に進入させると、その小ぶりなお尻が静かに沈み、水着の切れ端を濡らしていった。水の抗力に助けられるようゆっくりと着床した透はゴーグルを着装すると静かにその背中を水に浸した。やがて二つのふくらみを水に浮き沈みさせながらブールサイド付近から漂うように泳ぎ始める。そのスレンダーな肢体については語り始めると終わりがないだろうから割愛する。さて、功永ヤナタである。シャワーに浸された水滴が乾こうというのに、プールに入ろうともせず、はしの壁にもたれかかったまま動こうともしないのだ。ホノカが水着も誇らしげなそのある特定目的に用いられることもある豊満な肉体を揺らしプールサイドで足をばたつかせて水を弾くことにも、洋介と透が距離決めの競争を始めようとするのにも、まるで気がつかないように、下を向いたままプールはしの壁にもたれかかって動こうともしないのだ。足を足持ち無沙汰にぶらつかせて水面を漂う人影に視線を向けては足元に向かって視線を返す。二人の競技は200メートルほど続いただろうか。先に浮かび上がった今先洋介は形見透が浮き上がるのを待って両手にすくった水を放り投げる。分散する液体が飛沫となって形見透の体に、顔に、ゴーグルに飛び跳ねては、弾き返される。
「ひど―い。今先君」
口を開きながら首を振り、体を振って水滴を飛ばす形見透。笑いながら水に浸る手の指先を弾かせて今先洋介に向かって密やかな仕返しを行った。
「ヤナタぁ、お前どうして泳がないの」
今先洋介の叫ぶような呼び声に功永ヤナタは口を開きかけてやめてしまった。広いプールの水にちょっとした小さな自分。見下ろしてそれから足元をぶらつかせる。洋介はクロールで手足をばたつかせて、透は平泳ぎを小さく犬掻きのようにして顔だけを浮かび上がらせて泳ぐ。プールサイドのへりにつかまったのは洋介だ。髪にしみ込もうとする水を大げさに払って、ヤナタに向かって呼びかける。ホノカがばたつかせる足を止めて静かに視線を移す先にもヤナタがある。洋介は少し意地悪く皮相な笑みでヤナタを手招きしていたのだが、やがてその笑みを消した。犬掻きのような平泳ぎで小円を描き続けていた透も減りに近づいてくる。
「どうした。お前、真っ青じゃないか」
「どうかしたの」
洋介。透。声の先にあるヤナタは下を向いたままそのまま黙りこくっている。その腕をつかみ合う手が震えているのがわかる。洋介は眉をしかめた。へりに両手を置くと勢いよくプールの底を蹴って勢いよくプールからあがる。同じように透も続く。
「真っ青、だな。お前、泳げないだけじゃないのか」
「何。泳げないの、ヤナタ」
二人が近づいてくるとヤナタは壁に押し付けていた背中を折り曲げて首を振って、振って、それから絞るような声を発した。
「知らない。泳げた、はずだけど」
座り込むヤナタの声はおびえてもうどうしょうも無いものだ。うつむくヤナタはプール際の水のように揺らめく軟性ではない確かにある硬質なものを、敷き詰められた床を一心に見つめていた。
「駄目だ。早く言えば、俺も、いや、仕方ない。透、ホノカを呼んでくれ。ヤナタは水際がよくないらしい」
「わかった」
ホノカは水辺から足を引き上げるとヤナタに近づいて小さな水辺から運び出した。二人きりになった今先洋介と形見透。今先は水辺の水をすくうとそれから静かに手の中に映る人工光の姿を見つめた。
「何か、削がれちまったな」
「そうかも」
「もう一泳ぎしたら出るか」
今先洋介は腕をクロスさせてストレッチを行うと静かにへりについて足を屈伸させる。一度、水中に、そしてもう一度水の外へ。
「ヤナタ、どうしてこんなものが怖いのかな」
「さあな」
透は水辺のへりからその姿態を前屈させると勢いよく放物線を描いて飛び込んだ。五秒を過ぎるような永い潜水の後、ようやく顔を浮かび上がらせて泳ぎだす。少し遅れて洋介も飛び込んでゆく。二人が泳ぎ、水面に浮かぶ人影に混じるころ。ヤナタは真っ青になりながらシャワー室を出て着替えるところだった。ホノカに指図して外に出てもらった後、一人静かな更衣室で着替える。その短い髪の毛をかきむしると音が響いた。ロッカールームに弱弱しく突き出された手が静かに震えていた。ホノカは更衣室の外にいる。外で微動だにせず静かに不可視線でヤナタの周りを観察していたホノカの集音機は自然ヤナタの響かせた音をとらえていた。機械音とともに不思議そうに傾けられたホノカの首。ヤナタに向かって声が飛ぶ。
「ホノカ、いきましょうか。何か問題ですか」
「いい。いいから。来なくていいよ。そこで待ってて。何でもないから」
ホノカは待つ。言われたとおりに。1分。衣擦れの音をホノカの集音機がとらえる時間。2分。静かな衣擦れの音が終わると、ロッカーが音を立てて閉まる。足音。現れるヤナタの姿。
「ごめんね。有難う、ホノカ」
「ホノカ、構いません。ヤナタが無事でよかった」
蒼白さを幾分失わせ、赤みを幾分取り戻したヤナタの顔にホノカは安心の合図として笑みを返した。ヤナタは大きく伸びをしてみせると掛け声とともに大きく反らした体を落ち着ける。
「待つのも、退屈だね」
「ホノカ、エネルギーの無駄を感じます」
更衣室の外で壁に背を預けたヤナタと直立しているホノカの間には一瞬の沈黙が落ちる。片方が破らなければ決して破られることの無い沈黙。ヤナタはホノカのことを見ていた。それから天井に輝く人工灯の淡い色をしばらく見つめていたヤナタ。
「どうかな。あの陽の光いっぱいのトラックに行って走ろうよ」
「走るのはヤナタ大丈夫ですか」
「多分、ね。二人がここに出るときのことが分かれば、そうするのもいいかもね」
「ホノカ、分かります」
そうして二つの人工灯に映し出された影は更衣室前を去り、後には照らされる床と壁とドアだけが残った。ヤナタたちが向かったドームパネル下のトラック。ヤナタは静かに深呼吸すると走り出す。綺麗なフォームで足を直角近くまで折り曲げるとつま先をトラックの反発吸収素材に向かって叩きつける。抗力と推力が拮抗しヤナタの体は前にでる。足のサイクルが半分を超えないところでもう片方の足が伸ばされる。短距離を進む走り方でヤナタはかなりの距離を走った。ホノカはトラックわきで体育座りに座り込むと、いい速度で走るヤナタのことを視界に納める。
「うん。体の異常とは違うみたい」
「ホノカ、確認済みです。メディカルチェックは異常時に必須の機能です」
「そんなことまでできるんだね」
それからヤナタは軽く流すように両手に合わせて足を回す。しばらく悠々とトラックを回る。静かに流れる風を切って足がトラックを蹴り、蹴る、蹴れば、蹴るとき、蹴ろ、意識するでもなくそう動く体。陽光の下の心地よい時間。ヤナタが流れる汗を拭きとろうとトラック外の休息所に近づいたときのことだ。ホノカが更衣室を出る今先洋介を確認し、次いで形見透を確認したのは。
「そうだね。いこう」
「ホノカ、了解しました」
二つの陽光に照らされた影はトラックとドームパネルの元を去り、二つの影が歩み来る更衣室前の通路で三人と一つは鉢合わせ。
「どこ行っていたんだ。大丈夫か、ヤナタ」
「ヤナタ。大丈夫」
慌てるようにヤナタの肩をつかんでたずねる今先洋介と心配そうに寄り添う形見透。二人にうなずくヤナタは申し訳なさそうに笑う。
「水が多いと駄目みたい。予感はしていたんだけど。トラックを走ってたんだけどなんとも無かったから」
今先洋介は血色もいいヤナタの姿に安心したのか、先ほどの真剣な表情の慌てた姿を押し隠すように肩を小突きながら離すと皮相に笑う。透に向かって耳打ちするように言ってみる。
「かなづちの言い訳だろ。こいつ、泳げないんだぜ、きっと」
「ヤナタ、泳げないの」
「多分、そうだね」
ヤナタは一瞬だけ蒼白になる。泳ぐという言葉自体がまるで受け付けないかのように唇を噛むと、震え始めようとする腕を押さえる。洋介は顔を歪める。ヤナタの動揺に少なからず連鎖して動揺する。洋介は朗らかに見えるがどこか弱弱しい笑みをつくると、静かにヤナタの肩に手を置いた。
「残念だな。その調子なら大雲海のプールも駄目かもしれない」
「え、うん。あの雲の道だね」
「ああ、そうだ。空に浮かぶ綺麗な雲の海だ。雲の中を泳ぐのさ。落雷の波に乗って。かなづちだとしてもあそこは泳げるから」
「たくさんの水が駄目なの。きっとそう。だから大雲海は大丈夫。きっと。あそこ泳ぐと絶景なの」
形見透はそういうと今先洋介が静かに肩に置いていた腕を取り上げると、ヤナタの手をそっとつかむ。そうした上でもう片方の手を水平に回し125度の扇形を作ってみせる。どうやら雲間をかき分けるような仕草を現そうとしているようだ。ヤナタはおかしそうに笑う。透がつかんでいた腕を静かに離して回してみる。思い出すように額に手を置いてその短い髪をかきあげる。
「あの雲の道を、そうだね」
ヤナタはそう呟くと透に向かって静かに笑う。
「だから、帰らなきゃいけないね」
「ええ。そうね。それで。どうする今先君」
「お前に任すよ、透」
「いくわ」
形見透は気合一閃、胸ポケットからボールペンを取り出すと、そのようなものを用いて長い文字を書いた。ヤナタには時折見える文字を組み合わせて合間を埋めてみたのだけど意味が通じるほどには理解できなかった。『未相な*暦?=~HAD‘@&UNKNOW#$』そんな感覚だ。浮遊する文字が漂って触れる。轟音とともに更衣室の扉が綺麗に切り取られて新たな光の扉に置き換わる。透がボールペン先に口を近づかせて煙を吹き飛ばすように吹く。その間に今先洋介が光の扉に静かに近づこうとするとき功永ヤナタは呟いた。
「そこ、女子更衣室だよ。今先君」
「今先君、H」
「通り抜けるだけだろ」
姿を消す洋介の後を追うヤナタ。通り抜けるとどうしてなのかヤナタの目には洋介姿をとらえることができなかった。