創造者たちの小さな懸念
幻想技術惑星FINAGSTの首都フィッシュダンス。洗練された街並みに注ぐ威光の輝き。輝きの内から足が伸びて降り立つことには誰も気づかない。静かな日常。真更な中心地。巨大な自宅兼研究施設が並んでいる。広大な敷地の間に設けられた空白の中を天の川学園初等部創造課の二人の学生とN型アンドロイドが通ってゆく。輝きの穴が閉じて消えるのをヤナタは振り返って一瞥し、形見透の遠ざかってゆく背に向かってため息とともに足を動かす。流れるように過ぎ行く景色。複雑な形状の施設が幾棟も並ぶ巨大な敷地。こぢんまりとした半球形のドームが中心にぽつんと立てられた広大な敷地。運動施設が広がる上部空間の一部を占有する地下への扉。三つの影は様々な利用地を過ぎ去って中心中の中心に向かう。幻想技術惑星FINAGST首都フィッシュダンス。その中心地を目指していることはヤナタにもわかる。徐々に敷地が狭くなってゆくことで。サイクル自転車の乗り心地は悪くない。ヤナタはなぜこのようなものをとは思う。だが、中心地の移動はそれで十分な距離だった。幾重にも流れる景色の後、前を行く四つの車輪が停止する。形見透は飛び越すように自転車を降りると巨大な建物に向かって歩き出す。香奈元覆返が話したことはこうだ。
「首都フィッシュダンスのあの場所に天の川学園の生徒が来ていたらしいな。俺は、そのことを聞いていたんでね。それでお前たちのことを記憶の端から引っ張り出すことができたのさ。レベル0の廃人どもとの面会を予約していると聞いているが。どういうつてでもってそういうことが可能なのか、お前たちの友達なんだろ。どうやったか聞いたら、ま、暇なときにでも教えに来てくれ」
四重の扉を開く。一重目に身体検査。二重目に予約確認。三重目に書類記入と情報採取。四重目で書類による再確認。形見透はどれもすり抜けるように進む。N型アンドロイドと功永ヤナタは一つずつ手順に従って確認、また確認。記入、また記入。を繰り返して四つの扉をようやく超える。首都フィッシュダンスの0レベル研究者の保養施設にヤナタとホノカはようやく入り込む。規定を超えたものたちが暮らす場所。静かな場所だ。一人と一つは消えてしまった一人の背中を探して様々な場所を巡る。遊技場という名の電脳賭場。運動施設という名の運動競技場とフィットネスシステム。娯楽室という名を越える巨大なアミューズメントパーク。庭園という名の植物園。それからようやくたどり着いた広大な個人部屋のいくつか。そこまで巡った後になってヤナタは天の川学園の生徒が予約している面会者を教えてくれるように設置された端末に問いかけることを思いついたらしい。知らされた情報どおりの部屋に向かうとその部屋の前で形見透が立ち上がったまま足を前後にうろうろして待っている風景に出くわした。
「どうしたの」
「見てわからない。待っているの」
透が行ったり来たりをやっている部屋の中では先ほど別れた今先洋介が誰かと何かの難しい話をパクパクと交わしているところだった。覗き窓から確認したヤナタは透に尋ねるとそれからホノカに向かって今先洋介を指差して名前を告げる。
「入れば」
覗き窓から中を覗いている透に向き直ると、そう口にしてホノカが今先洋介を指しそして名前を繰り返すのにうなずいた。
「駄目。そんなはしたないこと」
形見透はそういうと覗き窓に顔を近づけて、近づけて、近づきすぎて眼鏡をぶつける。コツンという小さな音に今先洋介と会話していた三十過ぎの痩せ型の男が気づく。それから男に促されるようにして遅れて今先洋介も気づく。振り向く洋介にヤナタは手を振り、透はお辞儀する。今先洋介と会話していた相手が何かをしゃべる。今先洋介がうなずくと扉が開いて三つの影はお招きに預かることになった。
「どうした。透。こんなところに」
「あ、その。ヤナタがある人に会いに来て、その」
開扉一番、今先洋介が形見透に向かってそうたずねる。透のほうは口をまごつかせて言葉に詰まるとしどろもどろ。
「ヤナタ、何か問題でもあったのか」
「いいや。香奈元覆返に会って来たんだけど、その時に天の川学園の生徒がここにいるって話になって、それで、」
「そう。ヤナタがせっかくだから今先君にも会っていこうというの」
ヤナタはぱくぱくと言葉を噛むと不思議そうに首をひねった。それからホノカのほうを見る。ホノカは機械音とともに口を開こうとしたが、その前に発せられた声を感知して音声を控える。
「それで、そいつは」
「N型アンドロイドのホノカ。ヤナタがどうしてもって」
そこで現れた事実に対してはヤナタもうなずく。ホノカが機械音とともに口を開く。今榊洋介に向かって優雅に一礼する。
「C―404―5764―8977。ホノカはホノカと名づけていただいています。よろしく今先」
「ああ、よろしく」
今先の挨拶とともに黙っていた今先洋介の会話相手が口を開く。N型アンドロイドのホノカと功永ヤナタ、そして形見透を見比べて席を勧める。三人の天の川学園の生徒を前にホノカのことを頭からつま先まで眺める痩せ型の男。
「香奈元覆返へ会ったといっていたね。だとするとそのアンドロイドは彼が」
「いえ、違います。彼とともにあったNH未認証系の試作機のことをたずねただけで、ホノカは彼の造ったものでは」
ヤナタはまとまりのない返答を返しながら、椅子の足を不快な音とともに引いて腰掛ける。今先洋介が二人と一つが席を得たことを見計らって、痩せ型の男との間に端の橋をかけてくれる。先に紹介されたのは透だ。
「天の川学園初等部創造課Z―404、形見透。彼女は古き時代とともにあります。俺に話したように話してくださって構わないでしょう。それから」
椅子の上で小さなお辞儀が交わされる。透は静かにボールペンを胸ポケットに収めて両手はきちんとひざの上だ。ヤナタが紹介される番が回ってくる。今先洋介は伸ばした腕もそのままにヤナタの顔を見つめた。痩せ型の男に向き直ると静かに語る。
「功永ヤナタです。しばらくぶりの天の川学園初等部創造課の入学者です。彼には要点を簡潔に伝えてあげてもらうと助かります」
方向を変える。今先洋介が紹介しようとして痩せ型の男に押し止められる。痩せた顔が笑うとほほ骨が飛び出て少し不健康な印象が感じられる。片手を開いて止められた今先洋介は衣擦れの音ともに姿勢を直す。痩せ型の男は深くもたれた椅子の上でもってゆっくりと自己を名乗らせた。
「キウノ=象=ハイエログリフだ」
目礼とともに飛び出した声が消えると微笑が残る。二人の新たな来訪者を迎え入れた広大な部屋を見渡すとキウノはそれから二人の来訪者を交互に見つめ、今先洋介の紹介に従ったのだろう、形見透に声をかける。
「ところで、形見」
「何でしょう」
「天の川学園とはどこにあるのかな。洋介は答えてくれないのだ。私は洋介と会うまでその存在を知らなかったのだよ。この予知システムへの0レベル閲覧権を持つ私が、だ」
キウノはその痩せた顔で透のレンズにさえぎられたものの奥を覗き込もうと身を乗り出し、鋭くそして温和に笑う。今先洋介は苦笑しながら透に首を振ってみせる。透の同じく苦笑しながらの返答。
「私たちが思うところに」
「洋介は無限数の彼方にと確か答えたのだったかな。まあ、つまり答えたくはないわけだ。二人とも。君はどうだ。功永」
突然視線とともに声が飛ぶのでヤナタは慌てて姿勢を正した。ごそごそ。ホノカに向かって何かを呟いてみる。ぼそぼそ。それから思い込むようにうなる。うんうん。洋介をすがるように見るが笑うばかり。にやにや。
「わかりません。天の川に。遠く南十字星を越えたところにあると聞きました」
「そうなのか。どこかの星系から見て発見できる場所にあるのか。洋介」
「減光偏数の示すまま」
洋介はどこか陰鬱さを思わせる笑いとともにあった。キウノはしばらくの間は眉間に右手の親指を添えて考え込んでいたのだが、やがて両手をあげて首を振った。
「予知システムは何も答えないだろうな。よかろう。それで洋介、君の用事はまだ残っていたかな」
「いいえ、先ほどのお話だけで結構です」
「それでは、私は新しい客人としばし楽しい会話でも楽しもう。私がこのように時間を用いることは滅多にないのだ。例外に例外を重ねるのも我々の特権だ」
キウノは息を吸い椅子を引く。その視線の向かう先は洋介の酷く深刻に見える造られた笑顔から、静かに座ってキウノを観察していたヤナタの元へ。
「ところで功永。おっと。ヤナタと呼ばせてもらおう。君。香奈元覆返のことだ。彼はどうだ。私としては元気そうだったと答えてほしいものだ」
ヤナタの答え。キウノの社交辞令に従うままに香奈元覆返の一部を選び出して短く必要最低限に語る。
「NH未認証形と同等かそれ以上の新しいものをつくると。そう言っていました」
「やはり。だが可能性は低いところだ。皆、恐れている。協力がなければあのレベルのものは構築できまい」
キウノは渋面とともに、顔の前で手のひらを返してみせる。それから肘掛に両腕を預けると両手の指を交差させて手首の折り返しにより上下させる。静かな視線でしばらくその繰り返される手の動きを眺める。
「我々はかの惑星エコノスロロニーニの住人のように楽観的にはなれないのだ。それゆえ我々0レベルの研究者は必要なことを除き接触点を絞っている」
キウノは続けると静かに椅子を回転させて見せる。その痩せた顔が微笑むとえくぼが何重にも広がる。キウノは笑い、そこでは不健康ではあるのだがどこか人付きのする顔が広がった。
「そういうと我々が何かいかにもな感覚がするだろう。ある意味では我我の方が楽観的であるのかも知れない。要は厄介払いなのだ。口が悪いものは業績を上げすぎたものの業なのだとそういうが」
「そう、なの」
「何。悪いことばかりではない。0レベル研究者は予知システムへの0レベル閲覧権がある。おそらくは我々が真に死を迎えるまでは飽きない程度のものではあるのだろうし」
キウノはどこか未練がましく笑い、静かに椅子の回転を止めて一息を吐き出した。そうして天の川学園初等部創造課Z―404の三人を見回すと、おおように腕を広げて首を振る。そしてその痩せた顔に浮き上がる鋭い目が幾ばくか細められると、どこか酷薄な笑みに見えてしまうものを浮かべ続けている今先洋介に向かってたずねてみる。
「洋介。君たちがここをたずねることができるのはつまり幻想技術惑星FINAGSTの首都フィッシュダンスに住まうことが無いからだ。そうであることはわかっているのだ。洋介。私は天の川学園がどこにあるのかは知らない。だが、君が口にした言葉が気になるのだ。創造課と。そうだとするなら、なぜ私に会いに来る必要があるというのか。創造しようと、挑戦しようとするものは、私たち0レベル研究者のもとに援助の要請にはやってくる。しかし、」
「戦うものは見えていたほうがいい」
今先洋介はそういうと静かに席を立った。
「どうかしたのか、洋介」
「俺の用事は終わりましたから。外で待ちます」
そのときに浮かべられた今先洋介の笑みは皮相なものではありえなかった。晴れ晴れしいほどのにこやかなまま静かに席を治め部屋扉を開いた今先洋介は二人と一つを外で待つ。透は視線を数回、背後の扉に向けて洋介の背中を覗き窓越しに眺めたが、やがてボールペンのようなものを胸ポケットから取り出して、カチリと鳴らす。その姿をとらえているのは鋭い目だ。キウノの輝く二つの目が問いを投げかける。
「形見。君は洋介とは仲がいいのか」
「ええ。友達なの」
「彼は、無限数における仮説された群について私に尋ねた。なぜなのか。天の川学園の本当にある場所とは一体どこなのだ。まさか彼の言うように無限数の彼方などということはあるまい。星間移動管理登録には彼の名がない。どういうことか。私に答えてくれたりはしないかな」
形見透は背後の今先洋介の背中を窓越しに見た後、キウノに向かってボールペンのようなもので文字を書く。静かに現れたものはキウノの視線にとらえられていないかのように、その焦点の外を進む。功永ヤナタはその文字のことを見ていた。“N”あるいは“スタ@&8”と並びが読めない文字が漆黒に輝いてそれから消える。キウノの手がボールペンのようなものをつかむ。そしてキウノは突然にその空間における支配を取り戻す。
「これは、何だ。これは、このペン先にあるものは重力波の消失と物質精製を行うために私が香奈元覆返に提供したものだ。あれをどうやってここまで。ありえない」
キウノはつかみあげたボールペンのようなものを何度も透かしてみては首と手を傾けて視界の中を移動させた。もう片方の手で透の腕を捕まえながら。
「あなたにはそう見えるのね。どうしてなの。あなたは天の川学園がある場所を問う必要があるのかしら」
「ないだろうな」
キウノの側で漆黒に輝いていた文字が透けるように消えるのをヤナタは見た。透のつかまれていた腕が開放され、静かにうやうやしくもボールペンのようなものが返却される。キウノは静かに息を吸うと大きく深く吸い続け、それから同じように吐き出した。その後は透のことなど、ボールペンのことなど何も無かったかのようにその痩せた顔をヤナタに向けるキウノは、ゆったりと足を組み変えながらその鋭い視線を糸のように細める。問いかけを投げる。
「ヤナタ。君は洋介や形見のように私を驚かせたりはしないだろうね」
「そうですね」
「ところで君は何のために彼に会いに行ったのか。香奈元は既にこの首都フィッシュダンスでは忘れ去られた忌まわしき存在だ。何のために」
「NH未認証系のことをたずねに」
ヤナタは静かに短く事実だけを口にする。まるでキウノのことを避けるように。問い詰められることに慣れていないのか。ただその痩せた体から伸びる静かな色が、域が嫌いなのか。返事の後には、ヤナタの目は一度静かに閉じられる。瞬きが視界をさえぎる。手に入れた暗闇は苦手なものも隠してくれるのだろうか。
「NH未認証系。あれか。あれゆえに香奈元は同情とともに忌み嫌われているというのに。我々は持てる力を結集した。あのようなものを創るためではなかったのだ。あれがあるとするならば我々の存在は、」
「0レベル研究者というのは」
ヤナタは述べ続けようとするキウノの言葉をさえぎって聞く。求めるのは小さな問いへの小さな答え。静かに傾けられた頭の上でヤナタの短い髪が揺れる。透は静かにボールペンを見つめると何かを見ている。キウノは咳払いとともに一瞬浮かび上がった会話のゆがみに適応する。かみ合わない感じへの緩衝材を置くように笑顔が置かれて鋭い眼に浮かび上がっていた不快な感情を押し隠す。
「0レベルに達したものだよ。ただ単に研究の成果を十分すぎるほど挙げたものに与えられる小さな称号だ。意味はない。予知システムの0レベルを閲覧できること以外にはね。その名に大した意味はないだろう」
「経済惑星エコノスロロニーニでNEAR予知システムを使いました。あれのことを言っていると思っても」
「そう思っても大差は無いだろう。最も、あのような用途には我々は用いないが」
会話は流れるように意味もなく続く。キウノはヤナタにたずね、ヤナタはキウノに答える。0レベル研究者は本来の面会予定者との面会を終え、静かな昼下がりの時間帯を若い自らの住む組織とは無関係な者との会話を想定して口を開いていたのだろう。事実、透はその範囲に入らないわけでもなかったし、ヤナタはそのときまでは全くその通りだった。そのときから先も別段キウノを驚かせるつもりは無かったのかもしれない。
「たずねても」
「ああ、構わない」
「NH未認証系の、ハツルの何を恐れたの」
キウノは組んでいた両手の指を解き放つと開いて見せた。首が静かに振られる。身体表現も大げさに否定の意を返す。
「そういえば香奈元はそう呼んでいたな。答えよう。私は恐れない。大多数のものも。恐れるのは少数のものだけだ。君は知っているかな、香奈元のやったことを。やつは知られている全ての数式をNH未認証系の試作機、ハツルに埋め込んだ。ハツルは成果を出した。あまり重要なものとは言えないが埋め込まれた数式から新しい数式を導き出した。香奈元はハツルをパートナーとして扱った。それだけのことだ。そうして少数のものたちは苛立ち、そして恐怖したのだ」
「何に」
ヤナタはそう短く先を促すと、丁度瞬きの動作を作動させていたホノカの姿を一瞥した。キウノも同じように一瞥しては、そのほほが大きく引きつるように持ち上げられる。笑みが零れ落ちてゆく。
「違う。そういう面も否定はしないが。彼らは向き合うことに恐れたのだ。見せ付けられることに」
「何のこと」
「わかるわ」
形見透はそう呟いてボールペンを走らせる。空域に文字を記し、自身で抱きとめる。そうしてキウノを見る。
「私、いつかそうなることを憎むの。たぶんみんなそう」
「そうではないものも多いのだよ」
功永ヤナタは黙って形見透が静かに抱きとめたまま震えるのを横目にキウノが見つめる先を見つめる。壁際にある本棚の棚。本の表紙をさえぎるように小さな機械が置いてある。形から推測する。ヤナタにとって見たことは無いものだ。小箱の側面に円柱が横になって浮いている。
「オルゴールだ」
「そうなの。見たこと無かったから。言葉は知っていたけど」
「私もそうだ。だから、古いものをいくつか置いておくことにしている。この本棚がそうだ。さて話の続きだ」
キウノはひじ掛けに置いた手に力を込めると椅子から立ち上がって、部屋の隅に向かう。足音を響かせながらゆっくりと壁際に向かうと小箱を手に取る。凹凸の音符♪をじぃじぃと巻き上げる。
「NH未認証型は、ハツルは、既存の埋め込まれたものから新しいものを生み出した。その姿に何を思うか。しょせんは機械に過ぎないのだ。そう思うかな。私はそうは思わない。それゆえに恐れないのだ」
綺麗に巻き上がった円柱が巻き上げられていたばねの収縮が静かに戻ろうとする復元力で刻まれた時間を戻してゆく。♪。音がなる。よくわからない曲が静かに響く。ヤナタはオルゴールを指差しながら、
「この曲は」
とたずねキウノは首を振る。
「私も知らない。さて、話の続きだ。彼らは恐れたのだ。機械がその存在を見せ付けることに、だ。ハツルのことをこのぜんまい仕掛けのオルゴールのような機械と見ることによって、その結果、見せ付けられようとするものに恐れたのだ」
「あなたを恐れるように」
功永ヤナタがそういうと、キウノ=象=ハイエログリフは一瞬、酷い形相のまま勢いに任せて足を踏み出したが、一歩目の足が床を踏み抜くと勢いを無くし、二歩目の足が床に触れた時にはもう形相を崩して静かに音楽に聞き入っていた。その瞳はどこか遠くを見るような眼差しでヤナタに向けられていた。回り込むように椅子をつかむ手が一瞬だけ強く握られる。
「私は、そういったものの象形ではないと自らのことを考えているのだが。しかし、0レベル予知システムに人々が抱く感情はおおむねそのようなものだ」
「ごめんなさい」
「いい。このオルゴールの音色を聞くとなぜだか落ち着くのだ。君たちもこの音色を聞きたまえ」
静かな音色が響き渡る。
「そうします」
「喜んで。そうさせて頂いた後、私たちはお暇を」
二人は承諾し、背後の覗き窓にもたれかかる背中を何度も振り返っていた透の言葉にキウノはおおようにうなずいた。ド、ドシラ、シシラ、ミファ。音階は続き静かな昼下がりに音色を添えてゆく。
「ああ、そうしたまえ」
キウノはひじ掛けに手を添えると音階に合わせてリズムを何度も聞いたことのある人間特有の行動として音色に先行してリズムを取った。透はボールペンを音程に合わせるように振り、ヤナタはホノカに向かって曲を記録するように静かに告げた。ホノカの機械音。キウノは気づくと手を伸ばした。たしなめようとしたのだろう。それから口にしようとした言葉を飲み込むと、自身の世界に従って音程を取り、ヤナタの行動に非干渉を決め込んだ。静かな沈黙に流れる流麗とは言えない音楽。掘り込まれた少量の音符の荒い機械的な演奏に三人と一つは身を任せた。